「誰かのために」が凶器に変わる。意志では到達できない「本当の利他」の境地
「利他」という言葉には、どこか美しくも胡散臭い響きがつきまといます。誰かのために行動することは素晴らしいはずなのに、なぜ私たちはそこに「偽善」の影を感じてしまうのでしょうか。
起業家のけんすう古川健介氏。アル株式会社代表。ハウツーサイト「nanapi」創業者。氏と、川地啓太アル株式会社のスタッフ。ポッドキャストの進行とリサーチを担当。氏が、歴史的な思想から落語、そして現代のノンフィクションまでを縦横無尽に横断しながら、「利他の暴力性」とその正体について深く切り込みました。
その内容をまとめます。
善意に宿る「暴力性」と「胡散臭さ」
川地氏は、利他という概念を勉強する前、そこに強い「胡散臭さ」を感じていたと振り返ります。社会貢献や誰かのためという言葉が、実は「いい人だと思われたい」という自己顕示欲の裏返しなのではないか、という疑念です。
さらに厄介なのが、利他的な行為が相手にとっての「暴力」になり得ることだといいます。
贈り物を受け取ると「お返ししなきゃ」という負債感恩義を感じ、心理的な借りがある状態。返済のプレッシャーを生む。を感じる。これが積み重なると、あげる側と貰う側の上下関係になってしまうんです。
格差がある中で施しを受けると、下に見られている感じがして逆に恨んじゃう、みたいな話もありますよね。
このように、意志を持って「してあげる」行為は、しばしば支配・被支配の構造を生んでしまいます。一方、けんすう氏が川地氏に不要になったガジェットを譲る際は、「捨てる手間が省けて楽」というスタンスを取ることで、この負債感をうまく打ち消しているという具体例も挙げられました。
「合理的利他主義」はただの交換か?
フランスの思想家、ジャック・アタリフランスの経済学者、思想家。ミッテラン大統領の顧問を務めた。氏が提唱した合理的利他主義他者の利益を追求することが、巡り巡って自分の利益になるという考え。についても議論が及びました。これは、たとえばコロナ禍において「他人の感染を防ぐことが、結果的に自分が感染しないことにつながる」という考え方です。
しかし、川地氏はこの考え方にも限界があるといいます。一見利他的に見えますが、その実態は「将来の自分の利益」を見越した時間のずれた交換今これを与える代わりに、後で何かを返してもらうという、市場経済的な取引。にすぎないからです。純粋な利他とは、損得勘定を超えた場所にあるはずだというのです。
立川談志が排除した「共感」という理由
本当の利他を考えるヒントとして、落語の名作『文七元結ぶんしちもっとい。江戸時代の左官職人と、身投げしようとする若者を巡る人情噺。』が紹介されました。博打で全財産を失った男が、娘が身を売って作った大事な五十両を、見知らぬ若者のために差し出す物語です。
名手・古今亭志ん朝1938-2001。昭和・平成を代表する落語家。華のある芸風で「名人」と称された。氏は、この行為を「若者への共感」や「江戸っ子の気質」として演じました。しかし、伝説の落語家・立川談志1936-2011。落語立川流家元。「落語は業の肯定」という独自の哲学を持っていた。氏は、あえて「共感」という要素を完全に削ぎ落としたといいます。
談志は、橋の上に霧がかかっていて、誰も見ていない状況を設定しました。美談にするのではなく、「たまたま通りがかっちゃったからには、やらずにいられない」という、理屈を超えた衝動として描いたんです。
「思いがけず」やっちゃった。意志とか善意を超えて、体が動いてしまう。それが利他の本質かもしれないですね。
「共感されやすい弱者」を演じる苦悩
「共感」を利他の条件にすることには、ある種の残酷さが伴うと川地氏は指摘します。もし私たちが「共感できる相手」にしか手を差し伸べないのだとしたら、助けが必要な側は「共感されるような人間」を演じ続けなければならなくなるからです。
ここで引用されたのが、進行性筋ジストロフィー全身の筋肉が徐々に衰えていく難病。の患者・鹿野靖明氏を描いたノンフィクション『こんな夜更けにバナナかよ渡辺一史著。わがままに生きる障害者とボランティアたちの交流を描いた名著。』です。
- 共感の選別 ── 助ける側が「かわいそうか、善良か」で相手を選別してしまう。
- 演技の強要 ── 助けられる側が、感謝や謙虚さを常に求められるプレッシャー。
- 権利の欠如 ── 「わがままを言う権利」が、弱者から奪われてしまう。
鹿野氏は深夜に「バナナが食べたい」とボランティアを困らせるほどわがままに振る舞いました。しかし、その「扱いにくさ」こそが、共感という枠を超えた、人間としての対等な関係を生み出していたのかもしれません。
利他を決めるのは「受け手」である
最後に、非常に重要な観点が提示されました。「ある行為が利他的だったかどうか」を決めるのは、行為者ではなく、常に受け手アクションを受け取った側の人。利他の価値を最終的に決定する主体。であるという話です。
自分が良かれと思ってしたことがありがた迷惑親切のつもりが、相手にとっては負担や迷惑になること。になることもあれば、無意識に放った一言が、数年後に誰かの人生を救っていることもあります。
けんすうさんに昔勧められた段ボールカッターの「ダンちゃん長谷川刃物の段ボールカッター。EC利用者に絶大な支持を得ている便利グッズ。」、あれのおかげで僕のQOLは爆上がりしました。けんすうさんは覚えてないかもしれませんが、僕にとっては最高の利他でしたよ。
(笑)。自覚的な利他は「自己犠牲」の感覚が強くなりがちですが、本当の利他はもっと軽やかで、後から気づくものなのかもしれません。
というわけで
「利他になろう」という強い意志を持つほど、私たちは偽善や支配の罠にはまってしまうのかもしれません。 本当の利他とは、特定の誰かへの共感ですらなく、その場の状況や衝動に突き動かされて「思いがけず」起きてしまう現象だという指摘は、現代のギスギスした人間関係に一石を投じるものです。
自己犠牲と利他を切り離し、もっと「たまたま手が動いてしまった」くらいの軽やかさで世界と接してみることが、結果的に誰かの救いになるのかもしれません。
