経済損失3.4兆円の正体──女性の健康課題を"休暇"だけで解決しない環境設計とは
聞く健康習慣 Hana博士の体調最高ラジオに、前回に引き続き産婦人科医の稲葉可奈子先生がゲスト出演。女性特有の健康課題による年間経済損失3.4兆円というデータを起点に、「生理休暇」の限界、職場の制度設計のあり方、そして性と生殖に関する権利を意味するSRHRSexual and Reproductive Health and Rights(性と生殖に関する健康と権利)の略。1994年のカイロ会議で国際的に提唱された基本理念。まで話が広がりました。その内容をまとめます。
女性の健康課題がもたらす年間3.4兆円の経済損失
経済産業省日本の中央省庁の一つ。産業政策や通商政策を所管し、近年はフェムテックや女性の健康経営にも施策を拡大している。が算出した「女性特有の健康課題による年間の経済損失」は、約3.4兆円にのぼります。生理やPMS、更年期症状、不妊治療、女性特有のがんなどが含まれるこの数字について、稲葉先生は「すっごい癪(しゃく)なんですよ」と率直に語りました。
なぜ癪なのか。「女性が働くことでこれだけ損失がある」という読み方ができてしまうからです。男性が働く場合にはこの規模の損失は発生しません。稲葉先生は「女性だって別にしんどい思いをしたくてしてるわけじゃないし、休みたくて休んでるわけじゃない」と指摘します。
女性が働くと3兆円も損失がある、みたいな認識になっている。すっごい癪なんですよ
しかもこの3.4兆円のうち、かなりの部分は保険診療で症状を軽減できるものだといいます。前回のエピソードで語られたように、生理痛やPMSは低用量ピルなどで治療可能であり、更年期症状にも保険適用の治療法があります。つまり、適切な医療につながれば失わずに済む損失が大きいのです。
「しんどいなら休め」だけでは解決しない
国の方針や企業の施策では、女性の健康課題への対策として「生理休暇の普及促進」が掲げられることが多いです。しかし稲葉先生はこのアプローチに疑問を呈します。
「しんどいなら休もう」という方向だけだと、結局は損失が積み重なっていく構造が変わりません。もちろん治療してもつらい方や、どの薬も合わない方はいるので、しんどいときに休める制度は大事です。ただ、それだけが解決策になってしまうと根本解決にはなりません。
しんどい → 休む → 損失が発生 → また繰り返す
しんどい → 受診 → 治療で症状軽減 → パフォーマンス維持(WIN-WIN)
稲葉先生がある企業で研修を行った際、「生理休暇」はしんどくて休むのには使えるが、婦人科の受診には使えないという制度設計だったそうです。せっかく制度があるなら、受診にも使えるようにすれば、その後のパフォーマンス維持につながるのに──というのが先生の問題意識です。
Hana博士(林英恵さん)も、前職で生理休暇の制度はあったが一度も使ったことがないと明かしました。上司に「生理です」と申告するハードルの高さ、男性上司に言いづらい雰囲気──制度があっても使えなければ意味がありません。
制度設計のヒント──メディカル休暇と心理的安全性
では、企業はどのような制度設計をすればよいのでしょうか。稲葉先生が好事例として挙げたのが、「メディカル休暇」という考え方です。
生理休暇のように女性だけを対象にするのではなく、体調不良での休養、心のしんどさ、通院、どれにでも使えるニュートラルな休暇制度にしている企業があるそうです。名前がニュートラルなので申請しやすく、男性も持病の定期受診に使えます。林さんも「更年期は男性にもあるし、メディカル休暇はいい」と賛同しました。
対象:女性のみ
用途:生理による体調不良時の休養
課題:申請しづらい、受診に使えないケースも
対象:全社員
用途:受診・体調不良・心のケアなど幅広く
利点:ニュートラルで申請しやすい
心理的安全性の確保が先
制度を整えるだけでは不十分です。稲葉先生が企業研修で必ず勧めているのは、日頃から一般論として全員に伝えておくこと。「しんどかったら受診したいと思ったらいつでも相談して。相談することで評価が下がったりは絶対しないよ」──これを個別にではなく、全体に向けて発信しておくことが心理的安全性を高めます。
林さんも「上司には言いにくくても、人事部には言える、産業医には言えるというように逃げ道があると、スタックしない」と補足。体のこと、プライベートなことだからこそ、窓口の選択肢が多いことが重要です。
女性の昇進を阻む構造的なハードル
経済損失は「休む」ことだけではありません。稲葉先生によると、更年期症状のために昇進を辞退するケースや、それをきっかけに退職するケースが相当数あるといいます。
入社時点の女性の割合を100%とすると、生理痛・PMS・妊娠出産などライフステージの各段階で約4割が離職・休職し、さらに更年期症状で管理職への昇進を辞退する方が約3割。結果として、管理職候補まで残る割合が大幅に目減りしてしまうというデータがあるそうです。
入社時点
女性の割合:100%
ライフステージによる離職・休職
生理痛・PMS・妊娠出産などで約4割が離脱
更年期症状による昇進辞退
管理職昇進を辞退する方が約3割
管理職候補
残る割合が大幅に縮小
「女性管理職の割合を上げましょう」と掲げても、そもそも候補者が残れない構造になっている。林さんも過去のエピソードで紹介した研究を引き合いに出し、「女性は責任ある立場になるほどストレスが健康を害しやすく、家庭とのバランスが崩れやすい構造的な問題がある」と補足しました。
SRHR──「体の自己決定権」という考え方
話題は、性教育の文脈で近年注目されているSRHR(Sexual and Reproductive Health and Rights)に移りました。日本語では「性と生殖に関する健康と権利」と訳されます。
性に関する自己決定。いわゆる性的なことだけでなく、自分の性別に関わる健康面(生理、更年期など)への対応も含む。
いつ・何人の子供を望むか、望まないかを自分で決められること。避妊や不妊治療へのアクセスも含む。
性と生殖に関して、身体的・精神的・社会的に良好な状態であること。
上記すべてが基本的人権として保障されること。「Rights」が入っていることが最も重要。
稲葉先生は「すっごいかみ砕いて言うと、体の自己決定権」と説明します。いつ何人の子供を望むか望まないかを自分で決めてよいこと、生理や更年期症状にどう対処するかの選択肢を知った上で自分で選ぶこと──これらがSRHRの核心です。
日本の避妊事情とSRHR
稲葉先生がSRHRの具体例として挙げたのが、日本の避妊事情です。日本では避妊法として最も多く使われているのがコンドームですが、避妊率は約70%程度と決して高くはありません。しかも男性側に使用の判断が委ねられるため、女性にとっては自分の人生に関わる重大な決定権を相手に渡している状態だと稲葉先生は指摘します。
低用量ピルに加え、2024年には血栓症血管の中に血の塊(血栓)ができる疾患。従来の低用量ピルでは、喫煙者や肥満傾向の方で血栓症リスクが高まるため処方を控えるケースがあった。のリスクがないタイプの避妊薬がようやく日本でも使えるようになりました。これまでピルを処方してもらえなかった方にも選択肢が広がったことになります。
女性が避妊をするっていうのは、SRHRの観点からいうと至極当たり前の権利で、何にも恥ずかしがることないし、むしろ偉い
性教育ではなく「ライフスキル教育」
林さんはインドでの経験を紹介しました。ユニセフ国連児童基金。子供の権利保護と発展のために活動する国連機関。途上国での教育・保健・栄養プログラムを展開している。を通じた教育プログラムでは「セックスエデュケーション」ではなく「ライフスキルエデュケーション」と呼んでいたそうです。望まない妊娠の防ぎ方だけでなく、パートナーとのコミュニケーションの取り方まで含めた「生きていくためのスキル」として教える──この枠組みは日本でも参考になりそうです。
番組では西山さんが「ずっと女性の話として聞いてしまっていた」と自らのバイアスに気づく場面もありました。SRHRは女性の課題が多いぶん、女性の文脈で語られがちですが、男性にとっても「いつ子供が欲しいか」「自分の健康をどう守るか」を自分で決める権利があるという点で、性別を問わない概念です。
稲葉先生が冒頭で触れた「性教育の不足」が、大人世代の理解が追いついていない根本原因でもあります。今の中高生はSNSなどを通じて正確な情報にアクセスできるようになりつつあり、自分で調べて婦人科を受診する若者も出てきているそうです。しかし「親に相談したけど、親自身が生理痛のない体質で取り合ってくれなかった」というケースもあり、世代間のギャップは依然として存在します。
まとめ
女性特有の健康課題による経済損失3.4兆円──この数字は「女性が働くことのコスト」ではなく、「適切な医療と制度設計が行き届いていないことのコスト」です。保険診療で症状を軽減できるケースが多いにもかかわらず、「休ませる」だけの対策に留まっている現状を、稲葉先生は変えたいと語りました。
生理休暇を「メディカル休暇」に転換すること、日頃から相談しやすい空気をつくること、複数の相談窓口を設けること。こうした地道な環境設計が、女性のパフォーマンス維持と組織の生産性向上の両方につながります。そしてその土台にあるのが、SRHRという「体の自己決定権」の考え方でした。
エピソードの最後には、更年期症状や不妊治療についても今後取り上げたいという話が出ていました。ライフステージごとに知っておきたい知識を、エビデンスベースで届けていくシリーズの今後にも注目です。
- 女性特有の健康課題による年間経済損失は約3.4兆円。その多くは保険診療で軽減可能なものが含まれる
- 生理休暇は「休む」ためだけでなく「受診する」ためにも使えるよう、制度設計の見直しが必要
- 「メディカル休暇」のようにニュートラルな名称にすると、性別を問わず申請しやすくなる
- 心理的安全性の確保には、日頃から一般論として「相談しても評価に影響しない」と全体に伝えておくことが有効
- 入社から管理職候補に至るまでに、健康課題やライフイベントで女性が大幅に減る構造がある
- SRHR(性と生殖に関する健康と権利)は「体の自己決定権」であり、女性だけでなく男性にも関わる基本的人権
