企業からの圧力は日常茶飯事?WHOガイドラインの独立性を守る舞台裏
聞く健康習慣 Hana博士の体調最高ラジオに、WHOWorld Health Organization(世界保健機関)。国連の専門機関で、国際的な公衆衛生の向上を目的とする。本部はスイス・ジュネーブ。栄養食品安全部サイエンティストの山本ライン先生がゲスト出演。WHOのガイドラインがどのように作られ、企業からの圧力にどう対抗しているのか、現場の生々しい話が語られました。その内容をまとめます。
WHOとは何をしている組織なのか
WHOは「世界の厚労省」とも呼ばれる国際機関です。山本ライン先生によると、その役割は大きく分けて以下のようになります。
コロナ禍ではテドロス事務局長テドロス・アダノム・ゲブレイェソス。エチオピア出身。2017年よりWHO事務局長を務める。アフリカ出身者として初の事務局長。が連日記者会見に登場し、WHOの名前を耳にした人も多いでしょう。しかしWHOの役割はパンデミック対応だけではなく、各国の健康政策の「土台」となるガイドラインを作り、そのフォローアップまで行うことも重要な使命なのです。
ガイドラインが完成するまでの長い道のり
WHOのガイドラインは、詳細なハンドブックに則った厳格なプロセスを経て作られます。山本先生が持参したハンドブックには、そのすべてが記されているとのこと。ガイドラインに関わる専門家は約20人前後で、専門性だけでなく、地域バランスや男女比といった多様性も考慮して招集されます。
① 専門家パネルの設置
候補者に厳格な利益相反の審査を実施し、通過した専門家を招集
② 問いの設定
ガイドラインで何を明らかにしたいのか、答えるべき問いを定義
③ システマティックレビュー
専門家パネルとは別の研究者がエビデンスを系統的に収集・分析
④ エビデンスの評価
健康影響に加え、実現可能性・費用対効果・公平性などの社会的要因も考慮
⑤ 推奨事項の策定
専門家パネルが推奨事項(レコメンデーション)を作成
⑥ パブリックコメント+外部ピアレビュー
一般からの意見募集と外部専門家による精査を同時に実施
⑦ 内部レビュー委員会の承認
WHO内部のガイドラインレビュー委員会がOKを出して初めて公表
林英恵先生は、システマティックレビューある研究テーマについて、事前に定めた基準に従って関連する研究を網羅的・系統的に収集・評価する手法。エビデンスのピラミッドの最上位に位置づけられる。を「個々の研究がご飯粒だとすると、それを集めて作ったお餅のようなもの」とたとえました。その「お餅」をさらに専門家がジャッジするわけですから、完成までに時間がかかるのは当然かもしれません。
これ何年ぐらいかけて作るもんなんですか?
最低でも二年、三年かかってしまう。もっと早くしないとダメだよねって言ってるんですけど。
さらに、山本先生はGLP-1受容体作動薬の例を挙げて説明しました。肥満に効果のある薬としてWHOもガイドラインを出しましたが、薬価が高く、全員がアクセスできるわけではないという公平性の問題も考慮に入れる必要があるとのこと。科学的エビデンスだけでなく、社会的・経済的な文脈も組み込む点がWHOガイドラインの特徴です。
なぜ「利益相反」がWHOの存在意義を揺るがすのか
利益相反Conflict of Interest(COI)。ある判断を行う人が、その判断に影響しうる私的な利益を持っている状態。金銭的なものに限らず、地位・人間関係なども含まれる。とは、専門家がWHOにアドバイスをする際に、その客観性や独立性に影響を与えうるつながりのことです。山本先生は「本当にバイアスがなくても、第三者から見て影響しているように見える場合も該当する」と説明しました。
わかりやすい例:砂糖のガイドライン
たとえば、砂糖の摂取に関するガイドラインを作る場合、候補の専門家がお菓子会社から研究資金の提供を受けていたり、講演料をもらっていたり、株式を保有していたりすれば「アウト」になります。ガイドラインの結論によって企業は大きな影響を受けるため、金銭的なつながりがあるかどうかは特に厳しくチェックされます。
林英恵先生も過去のエピソードで触れた「ハーバード大学の栄養学部長がアメリカの砂糖業界団体から資金を受け取っていた事件」は、まさにこの問題の象徴です。こうした事例があるからこそ、WHOは利益相反の審査を徹底しているのです。
WHOの価値は「独立性」「中立性」「透明性」に支えられています。もしガイドラインが特定の利益に結びついていれば、各国は政策の基盤として採用しなくなるでしょう。だからこそ、利益相反はWHOの存在意義そのものに関わる問題として、極めて厳格に対応されているのです。
企業からの圧力は「日常茶飯事」
西山さんが「企業がWHOに息のかかった人間を送り込もうとすることはないのか」と率直に質問したところ、山本先生の回答は驚くほどストレートでした。
企業がどうにかしてWHOに息のかかった人間を送り込んでやろうかって考えることはないんですか?
もう日常茶飯事ですね。
関連企業や団体からの圧力は、ガイドライン作成の「すべての過程」で発生するそうです。WHOが新しいガイドラインの策定を発表した段階から、完成・公表に至るまで、各段階で関係企業がリーチアウトしてくるとのこと。ガイドラインの結論が企業の事業に直接影響を及ぼすため、当然といえば当然の反応です。
超加工食品をめぐる攻防
林英恵先生が「超加工食品Ultra-Processed Foods(UPF)。工業的に大量生産され、添加物や化学物質を多く含む食品。即席麺、菓子パン、加工肉、清涼飲料水などが代表例。近年、健康への悪影響を示す研究が増えている。なんてめっちゃ大変じゃないですか」と心配すると、山本先生は「もう超大変」と率直に認めました。超加工食品は商品そのものだけでなく、流通やフードシステム全体、さらには社会システムにも直結する話題です。「かなり大きな相手を逆サイドに回した、そういうプロセスになっていく」と覚悟を語りました。
ちなみに接待についても「完全にアウト」とのこと。WHOの職員はこうした誘いを一切受けられない仕組みになっています。
独立性を守る仕組みと、その代償
WHOが利益相反を防ぐために設けている仕組みは、組織的かつ多層的です。
衝撃のデータ:企業資金で結論が歪む可能性
「業界からお金をもらっていても中立だから大丈夫」──そう主張する研究者もいるかもしれません。しかし山本先生は、それを覆すデータを紹介しました。
200本以上の飲料(牛乳・ジュース・清涼飲料水など)に関する論文を分析した研究で、業界が資金提供した論文はスポンサーに有利な結論を出す可能性が4倍から8倍高いという結果が出ています。「自分は大丈夫」では済まないことが、データによって示されているのです。
独立性の代償
一方で、独立性を守ることには大きな代償も伴います。パブリックヘルスの分野は研究資金の確保が非常に難しく、利益相反に配慮すると「自分で自分の首を絞めているのではないか」と思うほど苦しい状況になることもあるそうです。
現在WHOは財政的に厳しい状態にあり、専門家のミーティングはすべてオンラインで実施。以前は対面で行っていた会議も、予算を確保できず最低限の体制で運営しているとのことです。それでも独立性を守り続ける姿勢に、「体調最高ラジオ」のスポンサー選定にも通じるものがあると林英恵先生は共感を示しました。
ガイドラインを作るために涙と汗と、いろんな攻撃を受けながら献身的にやってるパブリックヘルスの人がいるっていうことを私は知ってほしいわけ。
山本ライン先生がこの道を選んだ理由
最後に、山本先生がこの道を歩むことになった原点が語られました。
小さい頃から「人間だけが幸せではなく、動物や木々、川や海、環境すべてが幸せにならないといけない」という思いがあったそうです。これはまさにプラネタリーヘルス人間の健康と地球環境の健全性を不可分のものとして捉える概念。気候変動、生物多様性の喪失、食料システムの持続可能性など、地球規模の課題と人間の健康を統合的に考える。の考え方そのもの。その大きなテーマの中で「食・栄養」という切り口を見つけ、農林水産省への入省、ハーバード大学での栄養疫学食事や栄養素の摂取と疾病リスクの関係を、集団レベルで統計的に研究する学問分野。の博士号取得を経て、今のWHOのポジションにたどり着きました。
興味深いのは、その道のりが決して一直線ではなかったこと。ハーバードで栄養を学んだ後、日本に帰国して担当したのは「家畜の分野での薬剤耐性AMR(Antimicrobial Resistance)。抗生物質などの薬剤に対して細菌などの微生物が耐性を獲得し、薬が効かなくなる現象。畜産での抗生物質の過剰使用もその一因とされる。」。獣医でも畜産の専門家でもない自分がなぜこの仕事を、と疑問に思ったそうですが、振り返ればそれもプラネタリーヘルスという大きな枠組みの中で重要な経験になっていたと語りました。
なお、「ライン」というお名前は、ドイツで生まれ育った際にご両親がつけたもの。ライン川ではなく、ドイツ語で「純粋な」「澄んだ」という意味の言葉が由来だそうです。漢字がなく、いまだに良い当て字が見つからないとのこと。
まとめ
WHOのガイドラインは、20人前後の専門家による厳格な利益相反審査、系統的レビュー、社会的要因の考慮、パブリックコメント、外部ピアレビューなど、最低でも2〜3年かかる長大なプロセスを経て作られています。その過程では企業からの圧力が日常的に存在し、独立性を守るための仕組みと覚悟が常に求められます。
業界の資金提供を受けた研究はスポンサーに有利な結論を出す可能性が4〜8倍高いというデータが示すように、利益相反の管理は科学的な信頼性の根幹を支えるものです。財政的に厳しい状況の中でも独立性を死守しているWHOの姿勢は、私たちが普段目にするガイドラインの裏にある「涙と汗」を物語っています。
普段何気なく参照している健康ガイドラインが、どれほどの努力と覚悟によって守られているのか。その舞台裏を知ることで、情報を受け取る側の私たちも、その情報の重みを感じられるのではないでしょうか。
- WHOの主な役割は、パンデミック対応・ガイドライン策定・加盟国への技術支援・疾病動向の監視の4つ
- ガイドライン策定には約20人の専門家が関わり、最低でも2〜3年かかる
- エビデンスを集める研究者と評価する専門家を分離する「ファイアウォール」で客観性を確保
- 利益相反の審査は極めて厳格で、金銭的なつながりだけでなく「第三者から影響があるように見える」場合も該当
- 企業からの圧力はガイドライン策定のすべての段階で日常的に発生する
- 業界が資金提供した飲料研究は、スポンサーに有利な結論を出す可能性が4〜8倍高い
- WHOは財政的に厳しい状況でも、すべての会議をオンライン化するなど最低限の体制で独立性を守り続けている
