東南アジア6カ国のECを束ねる現在地
浅沼さんは現在、ユニ・チャームシンガポールでパーソナルケアとペット製造・販売領域のASEAN ECリージョナルマネージャーを務めています。
担当はフィリピン、インドネシア、シンガポール、マレーシア、タイ、ベトナムの6カ国。各国のeコマースチームをサポートする立場だと説明されています。
扱う領域には、ShopeeやLazadaといったマーケットプレイスに加え、日本ではまだなじみの薄いTikTokショップTikTok上で商品を販売できるEC機能。動画やライブ配信と連動して購入につなげるライブコマースで東南アジアを中心に急拡大しているを使ったライブコマースまで含まれます。
聞き手の森下さんは、複数の国をまたいで働いてきた経歴は珍しいとし、その背景や生い立ちを掘り下げていきます。
神戸で育った、海外接点ゼロの幼少期
浅沼さんは兵庫県神戸市の生まれ。幼稚園から小学校に上がる1995年に、阪神・淡路大震災を経験したエリアでもあります。
地響きからで、ある程度目覚めましたね、やっぱさすがに。
同い年の森下さんは三重県で被災し、朝方に揺れで起きた記憶を語ります。神戸ではその揺れが「もろ」だったという距離感が共有されました。
一方で、家庭環境そのものは海外とほとんど接点がなかったといいます。小中高はずっと神戸の公立、大学も日本の大学でした。
割と海外と繋がったのは、大学に行ってから初めてパスポート作ったぐらいかな。
強いて海外との接点を挙げるなら、中高でTSUTAYAのDVDを借りてハリウッド映画を見ていたことくらい。しかも英語音声・日本語字幕で、普通に日本人として映画を楽しんでいただけだと振り返ります。
治安の悪いエリアで育った経験が、海外で生きる
森下さんは、言語以外で今のキャリアにつながる経験を尋ねます。海外では日本人ほど空気を読まず、期限どおりに動かない相手も多く、タフな場面が続くためです。
浅沼さんが挙げたのは、育ったエリアの環境でした。決して治安のいい地域ではなく、だんじり祭で酒に酔って喧嘩する人がいたり、小学校でも喧嘩が頻発したりしていたといいます。
そこの部分って意外に、海外来ていろんな国の人がいる中で結構生きるかなとは思ってます。
後から思うとですよ。
ただし東南アジアの人々は比較的穏やかで、仕事でそう簡単にはキレないとも話します。外国人同士では「これが常識だよね」が通じないぶん、喧嘩腰で来る人はいなかったといいます。
社内で喧嘩がなかったわけではなく、自分が巻き込まれるというより現地の人同士がやり合う場面はあったそうです。
父の海運と、映画から芽生えた海外への興味
同志社大学商学部を選んだ背景には、すでに芽生えていた海外への関心がありました。映画の影響に加え、父親の存在も大きかったといいます。
父親はかつて海運船で貨物などを運ぶ産業。外航船の乗組員は長期間の乗船が伴い、家族と離れて過ごすことも多い系の船に乗る乗組員で、海外の人と接する話を聞くうち「いつか行きたい」という思いが浮かんでいたそうです。
一方で、英語そのものを学ぶ学部はもったいないと感じたと話します。
英語勉強するってちょっとなんかもったいないなと思っちゃって。自分だけで勉強できそうだったから。
そこで、より広くビジネスやマーケティングを学べる商学部を選択しました。
父親は浅沼さんが生まれる頃に陸に上がりましたが、姉の世代には半年に一度しか帰ってこないこともあったといいます。1年のうち9カ月を船で過ごす年もあったそうです。
一人旅で見つけた、リアクションで生きる自信
大学入学時点では海外への思いは「興味あるな」という程度で、強い希望ではなかったといいます。転機は大学時代の夏休み、カナダ・バンクーバーへの1カ月の短期留学でした。
受験英語しか身につけていない状態で、単身での渡航。それでも現地では日本人以外の友達ができ、ほとんどをブラジル人と過ごしたそうです。
意外といけるわっていう感覚は持って帰ってこれた気がしますね。なんか、リアクションでいけんなみたいな。
リアクション取れれば友達できるなっていうのが、割と強い自信になりましたね。
この経験をきっかけに、海外の友達をつくることにのめり込みます。帰国後は各国へバックパックの一人旅に出て、現地で友達を調達するようになったといいます。
日本人と行かず一人で行くのは、ブラジルやインドといった「変な国」に行ってみたかったから。そうした国には一緒に行ける友達が見つからなかったのだと説明します。
「死ななければ結果オーライ」という父仕込みの構え
森下さんは、初めての海外がインドで、ニューデリー空港に深夜到着した翌朝の光景を「これがリアルバイオハザードか」と表現します。治安が保証できない国に単身で行く恐怖について問いかけます。
浅沼さんも恐怖はあったと認めつつ、独特の構えを持っていました。
最悪の場合死ぬんですが、死ななければ結果オーライだなっていう感覚で行ってたので。
このマインドの源泉として挙げられたのが、船に乗っていた父親の影響です。嵐が来る前には徹底的に準備をし、その後はもう手放すという感覚を、幼い頃から教わっていたといいます。
最低限、最悪の場合に備えて準備して、あとあんまり考えすぎても仕方ないなって。
父の話には、サハラ付近で野犬の群れに囲まれ、襲われたら何匹倒すかを考えていたというエピソードもあったそうです。準備と割り切りの姿勢が、南米やインドへ飛び込む後押しになっていたことがうかがえます。
一人旅では、南米をブラジルからアルゼンチン、ボリビア、ペルーへと回り、インドにも1カ月滞在。移動はバスや飛行機を使い、スーツケースを持っての旅だったといいます。
なんかおじさんたちが優しい。「スーツケース重たいか、持ってやるか」って階段持ってくれたりするので、世の中いい人多いなって思いながら生きてました。
リーマンショック期に選んだITベンチャー
大学卒業時、浅沼さんは不動産専門のクラウド型ソフトウェアを提供する株式会社いい生活に入社します。この会社に海外文脈はなかったといいます。
時期はリーマンショックの影響下。大企業より中小で早く成長したほうがいいという「時代はベンチャー」の流れがあったことを覚えているそうです。
森下さんも東京理科大学で研究職や大手SIerへ進む同期が多い中、あえてマクロミルを選んだ同じ系譜だと共感します。周囲から「あいつどうした」と驚かれたそうです。
浅沼さんの周囲は金融が多数派で、ゼミの友達には広告やITに進む人もいたといいます。
いい生活を選んだ軸は、成長できる中小の環境であること、営業を経験できること、そして専門性を持って対等に話せる商材であることでした。
ITとかおじさんとかと話す時に、比較的自分が専門性を持ってるから対等に喋れるものがいいなっていうので、多分その辺の軸で選んでますね。
営業で知った「このフィールドでは勝てない」
人と話すのが好きで、営業はそう苦手ではないと思って入社した浅沼さん。しかし現実は違いました。
いけるっしょって思って行ったら、ボコボコにやられました、この会社で。
厳しかったのはクライアントよりも上司のロープレでした。当時はなぜそこまで怒られるのかわからず、理不尽にも感じていたといいます。
後から振り返ると、上司は徹底的に準備をする人で、浅沼さんの甘さを見抜いていたのだと理解できたそうです。その準備こそが契約や信頼につながっていたと気づきます。
森下さんも同じ結論に至った経験を語り、二人の学びが重なります。
そう思えた背景には、体調を崩して入院したことがありました。仕事が100%の原因ではないとしつつ、これが大きなきっかけだったと振り返ります。
あのタイミングで倒れたから、次海外に行こうっていう決断ができたのはあるかもなとは思います。
「3年は続けるべき」という一般論とは別の道を選ぶ転機が、この時に生まれていたことがわかります。海外との接続については、後編で語られます。
まとめ
前編では、海外接点ゼロで育った浅沼さんが、映画と父親の話をきっかけに海外へ関心を寄せ、一人旅と新卒の営業経験を通じて自分の勝ち方を探っていく過程が語られました。
- 神戸の公立で育ち、海外との接点は大学で初めてパスポートを作ったほど薄かった
- カナダ短期留学で「リアクションが取れれば友達はできる」という自信を得て、一人旅にのめり込んだ
- 南米やインドの一人旅には、父仕込みの「準備したら、あとは割り切る」という構えが生きていた
- リーマンショック期に大手ではなくITベンチャーを選び、専門性と営業経験を軸に据えた
- 新卒の営業で「このフィールドでは勝てない」と見極めたことが、海外へ舵を切る学びになった
