10年越しの"サグラダ・ファミリア"──書籍『起業の戦略論』はなぜ完成しないのか
ぼくらの戦略論の番外編。グロービス・キャピタル・パートナーズ日本を代表するベンチャーキャピタルの一つ。略称GCP。国内スタートアップへの投資で知られ、メルカリやカヤックなど多くのIPO実績を持つ。代表パートナーの高宮慎一さんと、編集者の長谷川リョーさんが、二人の出会いの原点でもある書籍『起業の戦略論』について赤裸々に語りました。制作開始から10年、Amazonの発売日は2800年──なぜここまで完成しないのか、そして今年こそ仕上げるための決意表明まで、その内容をまとめます。
キャリアチェンジの「3つ全部変え」は地獄
冒頭は近況報告から。大阪に拠点を移した長谷川さんが「食べることしか楽しみがない」とこぼすと、高宮さんがキャリアの話に結び付けました。転職の世界では「働く地域・職種・業種」の3要素を同時に変えると極端にしんどくなると言われており、長谷川さんはまさにその3つすべてを変えてしまった状態だそうです。
長谷川さん今、3つ全部変えてるから。
地獄みたいになってます。
「今日の学びは以上です」と高宮さんが笑い、ここからは番外編の本題へ。プロデューサーの岡島さんから「二人の出会いの原点をおさらいしてほしい」と強く推され、のらりくらりと逃げていた二人がようやく重い腰を上げた、という経緯でした。
制作10年、"サグラダ・高宮"の現在地
書籍『起業の戦略論高宮慎一さんの著書(ダイヤモンド社刊予定)。スタートアップの戦略論を教科書的に網羅する内容で、制作開始から10年以上が経過している。Amazonでは予約受付中。』は制作開始から10年が経過。高宮さん自身「サグラダ・高宮」と呼ばれるほど完成が遅れており、Amazonでの仮の発売日は「2800年」に設定されています。
だって本家サグラダ・ファミリアがもう完成しちゃいますからね。
発売日が延長されるたびにAmazon予約者に通知が飛び、知人から「また延期ですか」といじられる日々。延期期間が長くなりすぎて予約が自動取り消しされた人もいたとのこと。「2800年には余裕でできる気がする。死んだあとにAI高宮がコツコツ100年かけて書いてくれるんじゃないか」と高宮さんは自虐的に笑います。
なぜ完成しないのか──こだわりと環境のダブルパンチ
長谷川さんによると、原稿はすでに20万字を超え、コンテンツとしては十分。残っているのは論理の整理や構造の調整だと言います。しかし高宮さんの「論理と構造への異常なこだわり」がボトルネックになっているのではないか、と指摘しました。
10年の間には様々なスタック(停滞)要因がありました。編集を担当するダイヤモンド社日本の大手出版社。ビジネス書に強く、『起業のファイナンス』など起業関連の書籍も多数刊行している。の横田さんが骨折したり、高宮さんのお子さんの受験があったり、長谷川さんがアフリカ(ケニア)でポーカー生活を送っていた時期があったり。三者三様の事情が入れ替わり立ち替わり進行を阻んできたそうです。
勢いで書き始める
モメンタムがある状態
誰かのライフイベントで中断
骨折・受験・海外移住…
再開時に全部読み直し
「この事例古くないか?」問題が発生
細部のこだわりで再び停滞
ロジックのつながりを一から確認
高宮さん自身も「完全にモメンタムを失った」と認めます。長谷川さんの会社名が「モメンタムホース長谷川リョーさんが代表を務める編集・ライティングの会社。「モメンタム(勢い)」を社名に冠しているが、本プロジェクトではモメンタムを失ってしまったという自虐ネタに。」であることを引き合いに出し、「モメンタムホースと一緒にやってるのにモメンタムを失った」と笑いを誘いました。
「正解のない教科書」という矛盾
遅筆の背景には、もう一つ本質的な難しさがあります。戦略論を教科書的にまとめようとしているのに、戦略論そのもののメッセージが「正解はない」であるという矛盾です。
高宮さんによると、セオリーと「べからず」は存在するものの、あえてセオリーに沿わなかったり、「べからず」のリスクを取ること自体が戦略になり得ます。セオリーと「べからず」はみんなの下敷きにすぎず、そこから先の「他と違い得る」部分こそが本当の戦略だと言います。
さらに上位のレイヤーを考えると、How(戦略)を規定するのはWhat(何をやるか)であり、そのWhatの理由となっているのがWhy(思い)です。「思いに整合性が取れていれば、正しい・正しくないはそこに準拠しているかどうかだけで決まる」という、ある意味元も子もない結論に行き着いてしまうのです。
日本の受験社会では「問題が定義されていて、答えがあることが前提で、最も効率的な解法を求める」思考に偏りがちです。しかし戦略の世界では、問題の定義そのものから自分で行い、自分ならではの答えを出すことが求められます。だからこそ、教科書に「これが正解です」とは言い切れない。その難しさが、高宮さんの過度なロジックへのこだわりと相まって、完成を遅らせてきたのかもしれません。
一方で、ChatGPT(二人は「チャッピー」と呼んでいます)にロジックチェックを任せる案も出ましたが、高宮さんは「専門分野の中でしっかり戦略観のつながりを説明するところにこそ、AIには出せない価値がある」と反論。AIを超えた深い専門知識で論理を練り上げることにこだわりを見せました。
書籍の全体像とターゲット
現在の構成は3部構成です。第1部が全体像、第2部が事業ステージ別の話、第3部がシステム(戦略・プロセス・仕組み・リソース・組織)の話となっています。
時間軸(事業ステージ)とシステム要素という2つの軸でパラメータを振ることで、網羅性を担保しているとのこと。シード期とレイター期では戦略もリソースも組織も全然違ってくるため、その変化のダイナミクスを捉えることを目指しています。
元々のコンセプトは、『起業のファイナンス磯崎哲也著。スタートアップのファイナンス(資金調達・株式設計など)を体系的にまとめた教科書的なベストセラー。』に並ぶ教科書をつくること。ファイナンスの決定版があるなら、戦略の決定版もあるべきだという発想です。このポッドキャスト「ぼくらの戦略論」自体も、書籍プロジェクトからオマージュして名付けられたとのこと。
ターゲットは起業家全般ですが、二人はそれにとどまらない汎用性を強調しています。「起業」を「新規事業」「人生」「キャリア」に置き換えても通用する内容で、学生が読んでも意味がある。2冊目以降には「スタートアップ的な生き方」や「オープンイノベーションの戦略論」も構想しており、すでに講演資料として50枚以上の素材があるそうです。
長谷川さんは出版業界全体のシュリンク(縮小)に触れつつも、教科書的な本──本棚に置いて何度も参照するタイプの書籍──にはまだ物理的な媒体としての意味があると語りました。フロー的なコンテンツのライティングには悲観的でも、ストック型のプロダクトとしての本にはモチベーションが残っているそうです。
時事ネタ・トレンド情報
→「もう本じゃなくてよくない?」
教科書・体系的な知識
→「本棚に置きたい」需要が残る
完成への決意と"罰ゲーム"宣言
エピソードの終盤、高宮さんが「制約と誓約」として具体的な宣言をしました。今年中に原稿を仕上げれば来年には書店に並ぶはず。もし来年中に出版できなかったら、高宮さん主催で「ぼく戦リスナー感謝イベント」を開催し、何十人かのリスナーに奢るというものです。
来年中に出版に漕ぎ着けなかったら、「ぼく戦リスナー感謝イベント Sponsored by 高宮」でやりましょう。
さらに、この回がバズらなかったらプロデューサーの岡島さんに焼肉を奢ってもらうという「逆罰ゲーム」も設定。「あんまりコメント評価とか今回はなくて大丈夫です。焼肉のレポートができるように頑張ります」と、最後まで自虐全開で締めくくりました。
まとめ
番外編らしい雑談回でしたが、その中にも学びがありました。キャリアチェンジで「3要素を同時に変えると地獄」という実体験。継ぎ足しで作ると完成しないという教訓。そして「正解のない領域で教科書を書く」ことの本質的な難しさ。10年間の試行錯誤があったからこそ、書籍の構成も、二人の戦略論への解像度も深まってきたのかもしれません。あとは──出すだけです。
- キャリアチェンジでは「地域・職種・業種」の3つを同時に変えると負荷が跳ね上がる
- 書籍『起業の戦略論』は制作開始から10年。関係者のライフイベントやこだわりで停滞を繰り返してきた
- 戦略論は「正解がない」のがメッセージなのに教科書を作る、という矛盾が執筆を難しくしている
- セオリーと「べからず」は下敷きにすぎず、そこから先で自分ならではの答えを出すのが本当の戦略
- 本は一気呵成に合宿的に作るべき。継ぎ足しではモメンタムが失われる
- 教科書的なストック型の本は、出版業界が縮小しても物理媒体としての価値が残る
- 来年中に出版できなければ、高宮さん主催のリスナー感謝イベント開催が"罰ゲーム"として宣言された
