人生やキャリアの転機をどう超える?ビジョン再構築の戦略論
ぼくらの戦略論第17回では、ベンチャーキャピタリストの高宮慎一さんと編集者の長谷川リョーさんが、元陸上選手・為末大さんが提唱する「FIND」という概念を出発点に、キャリアの転機=ミッドライフクライシス中年期に訪れる心理的危機。40代〜50代前後で「自分の人生はこれでよかったのか」と自問する現象を指す。心理学者エリオット・ジャックが1965年に提唱した概念。をどう乗り越えるかを議論しています。FIREの先にある「発見」の重要性、荷物を下ろす勇気、そして人生のビジョンを何度でも再調整する戦略について語られたその内容をまとめます。
FIREの先にある「FIND」という考え方
今回の議論の出発点は、為末大元陸上競技選手。400mハードルで世界陸上2度の銅メダルを獲得したオリンピアン。引退後はスポーツ・教育・哲学の領域で幅広く発信活動を行っている。さんがX(旧Twitter)に投稿した一つのポストです。「FIREFinancial Independence, Retire Early の略。経済的自立を達成し、早期リタイアを目指すライフスタイル・ムーブメント。特にミレニアル世代を中心に支持を集めた。」──経済的に自立して早期リタイアするという概念に対して、為末さんは疑問を投げかけています。
為末さんによれば、人付き合いの基準は年齢とともに変化していきます。30代までは「利得があるか」が軸になりやすいものの、40代に入ると「学びがあるか」、さらにその先では「居心地が良いか」が重要になっていく。FIREを達成して経済的に自由になったとしても、この居心地の変化には対応できず、むしろ窮屈になるのではないか──というのが為末さんの問題提起です。
そこで為末さんが提唱したのが「FIND」。Financial Independence, New Discoveryの頭文字を取ったもので、お金でリッチになることではなく、好奇心を満たす新しい発見=ワクワクするものを見つけることこそが大切なのではないか、という概念です。
Financial Independence, Retire Early
経済的自立+早期リタイア
ゴール=「お金から自由になる」
Financial Independence, New Discovery
経済的自立+新しい発見
ゴール=「好奇心で人生を豊かにする」
ミッドライフクライシスは規模を問わない
高宮さんは自身の世代──いわゆる76世代1976年前後に生まれた世代の通称。2000年前後に社会人となり、日本のネットベンチャー第1世代と重なる。グリーの田中良和氏、ミクシィの笠原健治氏、マネーフォワードの辻庸介氏らが代表的。──の体験を通して、ミッドライフクライシスが「成功の大小に関係なく訪れる」ことを語ります。時価総額数千億円の企業を作った経営者であっても、50歳を前にして「最後の1周で何をするか」「グローバルで勝ちきれていない」と悩んでいるそうです。
大きいちっちゃいって時価総額とかじゃなくて、みんなライフステージでぶち当たる壁なんじゃないか
高宮さん自身もVCとしてファンドを運用する中で、1本10年のコミットメントを抱えながら「最後までこれでいいのか」とふと立ち止まる瞬間があるといいます。しかし、その不安を定量的な目標──たとえば時価総額──だけで解消しようとすると、「孫正義ソフトバンクグループ創業者・会長兼社長。投資家として世界最大級のビジョン・ファンドを運営し、数兆円規模の投資を行う。を超えなきゃ」「その先にはイーロン・マスクがいる」と、相対主義のラットレースネズミが回し車の中で永遠に走り続ける様子から転じて、終わりのない競争を指す比喩。ロバート・キヨサキ著『金持ち父さん 貧乏父さん』で広まった表現。に巻き込まれてしまいます。
高宮さんはこうした立ち止まりの瞬間を、「ミッドライフクライシス」ではなく「第3思春期、第4思春期」と呼んでいます。本来の思春期、就職時、転職・MBA時……と人生の中で何度も訪れうるもので、第5、第6まであってもおかしくないという考え方です。
篠田真貴子氏に学ぶ「荷物を下ろす」勇気
高宮さんが具体的なロールモデルとして挙げたのが、篠田真貴子ほぼ日(旧・東京糸井重里事務所)の元CFO。同社の東証上場を主導した後に退任し、1on1の傾聴サービスを提供するエール株式会社の取締役に就任。さんです。篠田さんはほぼ日コピーライター糸井重里氏が代表を務める企業。「ほぼ日刊イトイ新聞」の運営や「ほぼ日手帳」の製造販売で知られる。2017年にジャスダック上場。のCFOとしてビジネス側を一手に担い、上場まで成し遂げた人物。世の中的な価値基準で言えば、地位・名誉・報酬のすべてを手にした状態です。
高宮さんは篠田さんに「どうやってほぼ日を辞めてエールに行く決断ができたのか」と尋ねたそうです。その際、高宮さんはこんなアナロジーを提示しました。──20代から40代は上り坂を勢いで駆け上がり、組織への責任、投資家への責任といった「荷物」をどんどん拾って背負ってきた。しかし、いつか体力や勢いが落ちて下り坂に差しかかった時、荷物を一つずつ下ろして自分のビジョンの純度を高めていく作業が必要なのではないか──と。
篠田さんの答えは意外なものでした。辞める時点で「次にやりたいこと」が決まっていたわけではなく、まず全部の荷物を捨てたのだといいます。「クリエイティブなビジネスのCFOをやりませんか」といった"焼き直し"のオファーは多数来たものの、すべて断っていた。そうした空白の期間に、たまたまエール1on1の傾聴サービスを提供するスタートアップ企業。社外の聴き手が社員の話を聴くことで、内省と行動変容を促すサービスを展開している。の代表退任に伴うポストの話が舞い込み、もともと「傾聴」に問題意識を持っていた自分の内なるパッションと合致したからこそ、それを拾い上げることができた──という経緯です。
駆け上がる期
勢いと馬力で上り坂を登り、組織・投資家への責任など「荷物」を背負い続ける
全部捨てる
ほぼ日CFOを退任。次の行き先を決めずに、いったんすべての荷物を下ろす
捨てたからこそ見える地平
焼き直しのオファーを断る中で、「傾聴」という内なるパッションに気づく。エールとの出会いへ
長谷川さんも、30代手前でバーンアウトした自身の経験と重ね合わせます。意図的ではなかったものの、結果的に立ち止まったことで思考の整理ができたと振り返ります。プーケットで読んだ『死ぬ瞬間の5つの後悔』ブロニー・ウェア著。ターミナルケア(終末期医療)に携わった著者が、数百人の患者から聞いた「死の間際の後悔」をまとめた書籍。世界的ベストセラー。に触れ、「自分に正直な人生を生きればよかった」「働きすぎなければよかった」といった後悔が普遍的なものであることを紹介しました。
Re-Discovery──過去の自分を「Digる」
立ち止まった時、どうやって次の方向性を見つけるのか。高宮さんは『起業の戦略論高宮慎一著。スタートアップ成功の40のセオリーを体系的にまとめた書籍。ビジョンの3要素(定性的ななりたい姿・定量的な目標・美学)など、戦略の基本フレームワークを提示している。』で紹介しているビジョンのフレームワークを個人にも当てはめます。
ビジョンは「定性的に成し遂げたいこと」「得意なこと」「社会的な要請」の3つの円の重なり(ベン図)で構成される。上り坂を駆け上がる過程で、人は社会的な要請に応え続けるうちに、ベン図の真ん中からどんどん「社会的要請」の円の方に寄ってしまう。だからこそ、立ち止まった時にリバランスが必要なのだと高宮さんは説きます。
キャリア初期:「やりたいこと」「得意なこと」「社会的要請」のベン図の真ん中にいる
駆け上がる過程で荷物を背負い、「社会的要請」の円に偏ってしまう → 立ち止まってリバランスが必要
為末さんは「New Discovery」と表現していましたが、高宮さん自身の実感としては、まっさらに新しいことを始めるというよりも「Re-Discovery(再発見)」に近いといいます。高宮さん自身、子供時代に好きだった釣りに今またハマっていたり、大学時代にやっていたDJイベントをFIREした親友と再開したり、料理好きが高じてピザ窯でピザを焼いたりアイスクリームメーカーを買ったりしているそうです。
New Discoveryというよりも「Re-Discovery」に近い。感覚的には「Digる(掘る)」に近いんですよね
そしてこの再発見のプロセスを、高宮さんは「カリブレーション(Calibration)」という言葉で表現します。直訳すると「再調整」ですが、単なる調整ではなく「最適化しながら調整する」というニュアンスを含む概念です。
戦略論的に言えば、戦略とはいきなり正解を出す力ではなく、正しいであろう方向に進み続ける力──PDCAそのものです。ただし「PDCA」はビジネスの現場言葉すぎる。人生全体の再調整を表す言葉としては「カリブレーション」のほうがしっくりくると高宮さんは語ります。
アスリートの引退が教える人生のカリブレーション
高宮さんは、為末さんがこうした人生哲学を持つ背景にアスリートならではの経験があると指摘します。アスリートは肉体的な限界が一般の人よりずっと早く訪れるため、「現役引退」という一種の「死」を若くして経験します。国を背負って戦うという強烈な社会的要請の中にいた人が、引退後にどうやって自分のビジョンを見つめ直し、人生を再構築していくか──それはまさに、すべての人がいずれ直面する課題の「先行モデル」だというわけです。
アスリートってある種、「死」を早く迎えるパイセンなんですよ
為末さん自身、メダルを取った時もコーチをつけずに自分でトレーニング方法を考えていたという逸話があります。引退後もアスリートのセカンドキャリア競技を引退した選手がその後のキャリアをどう築くかという問題。日本では近年、Jリーグや各種競技団体がキャリア支援プログラムを整備し始めているが、依然として大きな課題とされている。の問題に強い関心を持ち、世に役立つ活動を続けています。
長谷川さんは、日本では無宗教の人が多いため、アメリカで教会コミュニティが担っているような「自分の絶対軸に立ち戻らせてくれる機能」を何で補完するのかという問いも重要だと指摘します。高宮さんも米国留学時代の経験を振り返り、宗教がそうした機能の一部を担っていた可能性に触れました。
一方で、アメリカでもミッドライフクライシスは存在します。長谷川さんが挙げた『人生後半の戦略書』アーサー・C・ブルックス著。ハーバード・ビジネス・スクール教授が、人生後半に成功と幸福を維持するための戦略を論じたベストセラー。原題は "From Strength to Strength"。もまさにこの話で、ビジネス的に大成功した人がやりがいを失って廃人のようになるストーリーから始まる本です。その結論は「人のために役に立て」というものですが、高宮さんは「それも一つの価値軸にすぎない。最終的にはライフビジョンとして何をしたいのか、自分なりの軸を見つけなければならない」と補足します。
まとめ
長谷川さんは今回の議論を受けて、『起業の戦略論』で語られるビジョンの3要素──「定性的ななりたい姿」「定量的な目標」「美学(どういうスタイルでやるか)」──を、人生においても曖昧にせず、自分なりにカリブレーションし続けることが大切だと整理しました。
高宮さんも同意し、カリブレーションの過程でこそ「Discovery(発見)」──それが新しいものであれ、かつて好きだったものの再発見であれ──が起こり、自分の定性的に成し遂げたいことや美学を見つめ直す作業ができるのだと述べています。為末さんの「FIND」は、まさにそのプロセスを端的に表した言葉だったのかもしれません。
- 為末大さんが提唱する「FIND(Financial Independence, New Discovery)」は、FIREの先にある「発見」を重視する概念
- ミッドライフクライシスは成功の規模に関係なく訪れる。高宮さんはこれを「第3・第4思春期」と呼び、人生で何度も起こりうるものと捉えている
- 篠田真貴子氏の事例に見るように、次を決める前に「いったん全部の荷物を下ろす」ことで、捨てたものの隣にあった本当にやりたいことが見えてくる
- New Discoveryは必ずしもまったく新しいことではなく、過去の自分を掘り起こす「Re-Discovery(再発見)」に近い
- 人生のビジョンは「定性的ななりたい姿」「定量的な目標」「美学」の3軸で構成される。転機のたびにこれをカリブレーション(再調整)し続けることが、人生の戦略そのもの
