なぜ年末特別回にファッションと無縁のゲストが来たのか
この回は普段ファッションを語る番組ですが、年末特別編として明石ガクトさんが田中渓さんを急遽ゲストに迎えています。テーマも明かされないまま始まり、リスナーが困惑するだろうと明石さん自身が認めています。
理由は二人の共通点にあります。明石さんと田中さんは同じ1982年生まれで、しかも同じ大学の出身でした。明石さんがXでそれに気づき、一度話してみたいと思ったのがきっかけです。
同じ年、同じ大学にいて、こうも人生がずれてんのかと思ったら面白くて。俺一度話をしてみたいと思って。
企画は収録の2日前にXでのやり取りで決まったばかりで、ほぼ準備なしの状態です。田中さんは普段interfmでラジオパーソナリティを務めていますが、同級生と話すのは初めてだといいます。
今日はね、あのゼロ準備です、本当に。
明石さんは静岡出身で、電気グルーヴ ── 石野卓球さんとピエール瀧さんによる音楽ユニット。テクノやエレクトロを軸に、コミカルな活動でも知られますの石野卓球さんの実家近くで育ったといいます。卓球さんの実家である石野商店にまつわる子ども時代のエピソードを、笑いながら語ります。
出がらしの成城、崖に落ちるギリギリで滑り止まった男子校
田中さんは成城中学高校の出身です。ただし、小田急線沿線でお坊ちゃま校として知られる成城学園とは別の学校だと念を押します。
実はそうじゃない方ってやつがあって。しかもこっちが本家なんだけれども、そこから分家してった向こう側が有名になって、残された出がらしみたいな学校で、そこで中高を過ごしてる。
田中さんは、この学校に集まる生徒像を中学受験の日程から説明します。2月1日・2日で第一志望を受け、落ちた生徒が2月3日に滑り止めを受けるという流れの中で、多くが滑り止めとして受けに来ていたといいます。
もうみんな学校入った瞬間からもうなんかひねたやつばっかりっていう、そういう集団。
明石さんは、そこで一度大きな敗北感を味わった人が、最終的にゴールドマン・サックスへ至った人生の落差に興味を示します。田中さんは、これまでのメディアではビジネス寄りの部分だけを切り取って話してきたと答えます。
指定校推薦と吹奏楽。受験をせずに大学へ進んだ十代
田中さんは受験そのものをしていません。治安のあまり良くない環境で遊びながらも、親に小言を言われない免罪符として学校の勉強をこなし、指定校推薦を狙ったといいます。
遊び散らかして。で、まあ鉄道研究部行くか漫画研究会行くか、バンドマンになるか、女の子と遊ぶか、どれかしかない。
一方で、田中さんが一番熱中していたのは吹奏楽でした。トロンボーンを本格的に続け、高校2年頃までは音大進学まで覚悟していたといいます。
芸大の先生とかに習って、高二ぐらいまではそっちの道で行こうかなみたいな。真剣に。
明石さんは1浪して2002年に文学部へ入学したため、同い年ながら学年は田中さんが一つ上になります。田中さんは推薦で、明石さんは浪人を経てと、大学までの道のりも対照的でした。
受験をせず指定校推薦で進学。吹奏楽に熱中し、一時は音大も考えた
1浪を経て文学部へ。学年は田中さんが一つ上になった
青春18きっぷで裏原へ通った静岡の高校生
明石さんは静岡から東京へ服を買いに通っていました。始発で青春18きっぷを使って上京し、店が開くまでの時間は浅草でお寺を巡ってつぶしていたといいます。
仕方ないので浅草行って千手掃除行くかみたいな。で、原宿行って洋服買って、夜帰ってくるみたいな。
その資金はアルバイトで稼いでいました。明石さんは高校1年から静岡の呉服町のファミリーマートで働き、当時の時給は600円台だったといいます。
今から考えたら、時間をなんで680円で俺は売ってたんだとか思うけど。でもまあ当時そうするしかなかったから。
田中さんも東京のコンビニで高校2年からアルバイトをしていて、時給は730円ほどでした。地域格差はほとんどなかったのではないかと二人は振り返ります。
当時買っていたのは、A BATHING APE ── デザイナーのNIGOさんが立ち上げた裏原宿系ブランド。猿をモチーフにしたロゴで、1990年代のストリートファッションを象徴しましたやグッドイナフ、そしてポーターのバッグでした。塾通いに使われた定番のポーターのナイロンバッグが、いまは7万円台になっているという話に二人は驚きます。
渋谷・池袋・EVISUジーンズ。ストリート黄金期の東京
田中さんの学校は新宿と池袋の間にあり、定期券をわざと遠回りにして渋谷・新宿・池袋のどこへも行けるようにしていたといいます。池袋の女子校へのナンパ、渋谷や原宿での買い物やプリクラが遊びの中心でした。
当時流行っていたのは、EVISU ── 大きなペイントの入ったジーンズで知られる日本のデニムブランド。1990年代に人気を集め、近年は海外のラッパーを起点に再流行していますのジーンズでした。明石さんは、いまアメリカのラッパー経由で若い世代に逆輸入的に再流行していると話します。
話題は「池袋ウエストゲートパーク」の世代であることに移ります。静岡出身の明石さんは、立教大学の受験で池袋に降りるのすら怖かったと振り返ります。
普段東京遊び来た時も池袋は行かないようにしてた。怖え場所だなと思って。
田中さんは、サンシャイン通りですら理由なく殴られることがある「修羅の道」だったと語ります。立教大学そばの西口公園やその前の電話ボックスは、近づいてはいけない場所として頭の地図に刻まれていたといいます。
近づいちゃいけないからっていう、なんか地図がもうみんなあった頭の中に。本当にIWGPだから。
令和から見れば辻斬りの時代。昭和生まれの物騒な記憶
二人は、当時は道を歩いていて突然不良に絡まれることが珍しくなかったと振り返ります。カツアゲに遭った経験もあり、いまの令和の感覚では日本の話とは思えないほどだといいます。
今こうやって改めて大人になって、この令和の時代にこの話すると、マジそれ日本の話ですか?みたいな。
田中さんは、元号の距離感でこの落差を表現します。令和から見た平成が物騒に見えるように、昭和生まれの二人は令和世代から見れば明治時代のように遠い存在だと笑います。
昭和から元号二ついくと、もうなんか明治時代になっちゃうんで。人を斬ってたよね。
カラーギャング、カラパン、ローライダー。色とりどりの街
話題は池袋西口公園に集まっていたカラーギャングに移ります。田中さんは、赤や青などカラフルな人たちを見たら近づいてはいけなかったと、実際に目にした光景を語ります。
その前段には、新宿や六本木で流行した「カラパン」があったといいます。蛍光色のビビッドなパンツで、ユーロビート ── 1980〜90年代に流行した打ち込み中心のダンス音楽。日本ではパラパラと呼ばれるダンスとともに広まりましたのクラブに集まるギャル男たちが履いていました。
赤と青だけに収斂して、なんかギャング化してったっていう、なんかそんなような流れだったと思う。
渋谷では、サスペンションで車体を弾ませるローライダーが路上に止まり、代官山にSupremeができてからはスケーターも増えていきました。明石さんは、当時の東京を「人種のるつぼ」のような場所だったと表現します。
偽造テレカからマジックマッシュルームまで。渋谷の地層
明石さんは、当時イラン人が多くいたセンター街の話に踏み込みます。入り口から奥へ進むほど危険度が増す構造で、まず偽造テレホンカードが売られていたといいます。
当時は携帯電話が普及し始めたばかりで、公衆電話とテレホンカード ── 公衆電話で使うプリペイド式のカード。国際電話向けの高額なものは転売や偽造の対象になりましたがまだ生活の一部でした。偽造されたカードや、合法ドラッグとして出回り始めたマジックマッシュルームが、奥へ行くほど現れる街の地層になっていたといいます。
入り口から約15m
安全なエリア
そこから約10m
偽造テレホンカードが売られる
さらに奥
合法ドラッグやマジックマッシュルーム
渋谷にはチーマーがうろつき、ギャルたちは家に帰らず街に居続けました。田中さんは、当時のギャル文化では臭うことすらステータスだったと明かします。
一週間は帰ってないからみたいな。確かに臭うわみたいな。それがなんかかっこいいみたいな。
明石さんは、当時の援助交際が今のパパ活と違う点としてブルセラショップを挙げます。制服や靴下が高額で取引され、人気校のものには高値がつく世界だったといいます。
クリスタルケイが真ん中を歩く、東京のど真ん中の大学
話題は大学へ移ります。明石さんは入学早々、有名人が身近にいる環境に驚いたといいます。四谷のメインストリートを、クリスタル・ケイさんが留学生風の学生を左右に従えて堂々と歩いてくる姿が衝撃だったと語ります。
今にもステージ始まるのかなみたいな。あれはね、俺衝撃だったね。東京来たって感じした。
キャンパスがちいさく、東京のど真ん中に位置するため、オーラのある人がいると非常に目立ったといいます。明石さんは図書館で映画のヒロイン役の同学年の学生の隣になり、勉強どころではなかったとも振り返ります。
三重マイノリティ。上智の理工学部という立ち位置
田中さんは理工学部物理学科の出身です。明石さんは、この大学のヒエラルキーがはっきりしていて、全体では女子が多く男子がマイノリティだと説明します。
その少ない男子比率を支えているのが理工学部でした。田中さんは自身の立場を「三重マイノリティ」と表現します。
「上智なのに理系あるんですか」でマイノリティ、「英語喋れません」で第二マイノリティ、「男性がなんですか」で三重マイノリティ。
田中さんの同期は約80人で、うち女性は4人ほど。校舎も一番古い建物の奥に追いやられていたといいます。華やかな比較文化や英文学科と対照的な立ち位置でした。
外国カルチャーを象徴する華やかな学部。留学生や帰国子女が多い
約80人中女性は4人ほど。一番古い校舎の奥に追いやられた男子社会
この大学は4学年を合わせても1万人に満たず、早稲田の1学年分より少ないと明石さんは指摘します。そのため社会に出てから卒業生に会うことが少なく、希少な同窓生に出会うと親近感が湧くといいます。
Bプロとアナログレコード。分かれ始めた大学生活
大学で二人の道は分かれていきます。明石さんは映像制作のサークル「Bプロ」に入り、そのメンバーが後の会社のコアメンバーになりました。大学で始めた映像を、いまも大事にしていると話します。
田中さんはサークルには入らず、いわゆる大学デビューを避けたといいます。高校で吹奏楽をやめた後もアナログレコードのDJとして音楽を続け、渋谷や六本木のクラブに入り浸る生活を送りました。
大学とバイト以外は渋谷か六本木のクラブにいるっていう生活で。
田中さんは、上智のダンスサークル「Gスプラッシュ」やHIP HOPのサークルの人たちと絡み、イベントに呼んだりしていたといいます。明石さんは、これを「裏のスクールカースト」の最上位だと評します。
mixiよりGREE。就活を意識したSNS選び
大学時代はちょうど日本でインターネットが花開いた時期でした。二人はSNSの黎明期を振り返ります。田中さんはmixiよりGREEを使っていたといいます。
理由は、mixiが日記寄りだったのに対し、GREEは意識高い系で就活の情報交換やネットワーキングの場になっていたからでした。田中さんはその後Twitterには手を出さず、意図的にやらないと決めていたといいます。
Twitterはなんか不特定多数の人と絡む理由がその頃全然わかってなくて、カルチャーというものがわからず触らなかった人。
SONYへの憧れから金融へ。人生が大きく分岐した瞬間
田中さんは大学1年からSONYに強く憧れ、ウォークマンをつくる人になりたいと考えていました。理系の就活は研究室経由でメーカーに進むのが一般的で、田中さんも疑いなく大学院進学を選びます。
そのやっぱりデザインとかのスタイリッシュさと、ブランドメッセージみたいなのがかっこよすぎて、それの人になりたいっていうので。
転機は中高からの友人でした。東工大に進み留年してイギリスに留学した友人が、帰国後にコンサルや金融、グローバルといった言葉を語り出し、ゴールドマン・サックスなどから内定を取ったといいます。田中さんは、その友人に誘われてベンチャー企業を始めます。
その事業は、いまでいう大型のシェアハウスでした。50人や100人が共同生活し、ビリヤード台やシアタールームを備えたリビングを持つサービスで、当時としては珍しいものでした。
ただ不動産業ゆえに資金が乏しく、学生起業は世の中に受け入れられませんでした。肩書きとお金を得るために外資系を目指すことになり、経歴を整えるためアメリカで3か月ほどビジネスセミナーに通ったといいます。
ちょっとアメリカに行って、箔をつけに行ったっていう、そんな話があって。
当時は金融工学 ── 数学や統計を使って金融商品やリスクを扱う分野。理系人材が金融業界に進む一つの入り口になりましたという言葉が出始めた時代でした。理系のトップ層が研究からコンサルや外資金融へ移る流れの中で、田中さんもSONYへの憧れが急速に冷めていったといいます。
年収もこんなもんかっていう未来予想図がかなり先の方まで見えちゃったんで。
リーマンショックの鉄火場と、映画を見続けた日々
田中さんはゴールドマン・サックスに入社します。明石さんは、その頃に起きたリーマンショックの内側を尋ねます。田中さんは、まず毎日のように人がクビになっていったと語ります。
前の人と隣の人と、あと斜め前の人が同時にリストラに遭うっていうのが、そういうことがもう日頃からあって。
いつ誰が解雇されるか知らされず、社員たちの間で「Xデー」の噂が飛び交ったといいます。ポジティブな仕事もできず、田中さんは1年ほど本当にやることがない状態に置かれました。
当時六本木ヒルズにあった会社の映画館で、田中さんは毎日映画を見て過ごしたといいます。20代半ばで、生かされている限り月給は振り込まれるが、やることがない。切り取れば良さそうに見えても、精神的にはめちゃくちゃだったと振り返ります。
明石さんは、東京のカルチャーの中心が渋谷から六本木へ移っていった時代だったと補足します。その一丁目一番地にあったのがゴールドマン・サックスで、社内には「ゴールドマン・バックス」と呼ばれるスターバックスがありました。
材料を下からエレベーターで持ってくる量、富士山の上の水が高いような感じで。
そのスターバックスは社員割引どころか下の店より高い価格でしたが、下まで降りる時間を惜しんでみな利用したといいます。働くスタッフも、後にスタートアップ社長やミス・ユニバースになる人がいたほど選び抜かれていました。
中間管理職が消えた後に力がついた
リーマンショックは、田中さんに思わぬ形で力をつけさせました。中間管理職がいなくなり、一番上の人と下っ端だった田中さんだけが残されたからです。
これ以上はクビにできないし、自分なりにやらなきゃいけないっていうので、それはすっごい力付いた。
先輩たちの仕事を全部引き受けざるを得ず、当初は途方に暮れたものの、開き直って取り組んだことが経験になったといいます。この時期は2010年代半ばまで続きました。
一度は全部やった。残ったものはベルルッティ
外資金融マンとして活躍する中で、田中さんは物欲との付き合い方も一通り経験します。スーツ、カバン、時計、車、靴、家まで、行けるところまで行ってみたといいます。
車はポルシェ、時計はあえてパテックフィリップではなくジャガールクルトのレベルソとマスタークロノグラフ、スーツはアルマーニやドルチェ&ガッバーナ、住まいは青山一丁目という具合でした。
明石さんは近年のブランド品の高騰を挙げ、投資目線で買っておけばと思わないかと尋ねます。田中さんは、投資なら株や不動産を買えばよく、欲しいものは欲しいものとして買うという考えを示します。
投資家でプロとしてやってるので、それやりたいんだったら普通に株買えばいいじゃん、不動産買えばいいじゃんで。
だからこそ、田中さんは値上がりを期待できるモデルではなく、少しマイナーでも本当に欲しい時計を選んだといいます。いまも大事にしているのがベルルッティで、靴・カバン・財布・名刺入れまでフルコンプしていました。
当時は革を好きな色に染めてもらえたため、財布などを自分好みの色にして長く使ってきたといいます。財布を持たなくなったいまも、名刺入れやリュックはベルルッティのものを使い続けています。
外資金融の頂点から見た、スタートアップブーム
話題は、二人のキャリアがさらに分かれた時期に移ります。明石さんは2014年にワンメディアを創業しますが、初年度の売上は年間5万円で、思うように伸びなかったと明かします。
初年度の売り上げ年間五万円だから。
その頃、日本では最初のスタートアップブームが到来し、起業家がIPOやM&Aで資産を得ていきました。明石さんは、田中さんが友人と手掛けた大型シェアハウスが10年早かったと指摘します。
田中さんは、当時のブームを羨ましく感じつつも、自分は投資する側で留飲を下げていたといいます。かつては銀行や政策金融公庫からしか借りられなかったのに、10年後には言い値で資金調達できる時代になっていたからです。
自分は主人公じゃないけど、それでもまあいいかなみたいな感じで留飲を下げてたところはちょっとあって。
外資金融からCFOとしてスタートアップに移る動きもありましたが、田中さんは踏み込みませんでした。CEOになるわけではないなら、金融の会社にいるのと大きく変わらないと感じたからです。
なぜ音声メディアに夢中なのか。再生回数と時間の話
明石さんは、動画を仕事にしながらも、ショート動画がそこまで好きではないと打ち明けます。即物的にドーパミンを出すものではなく、人の人生を前向きにする気づきを届けたいという思いがありました。
その中で注目したのが、アメリカで流行していたポッドキャストです。明石さんは、日本でも必ず来ると考えて音声事業を始めたといいます。
明石さんは、動画における取引通貨が再生回数だと説明します。しかし2014年から2025年にかけて世の中の再生回数の総量が増え続け、ショート動画でさらに加速した結果、1再生あたりの価値は下落したといいます。
一方で価値が上がっているのは時間だと明石さんは考えます。24時間という時間は昔も今も変わらず、そのぶん時間を取ってもらうことが難しくなっているという見立てです。
ヒットした長尺映画の例を挙げつつ、明石さんは、いま定期的に時間を取ってもらえるメディアは音声だと語ります。コロナ禍を機にAirPodsが普及し、サウンドコンテンツの市場が広がったことも背景にあります。
音声は一対一に聞こえる。テキストは誤解を生む
田中さんも音声の強みに同意します。動画やテキストは視覚を奪うが、音声は視覚を奪わずに聞ける点が強みだといいます。さらに、音声は一対マスではなく一対一のように寄り添って聞こえるとも語ります。
音声はやっぱり一対マスじゃなくて、一対一にすごく聞こえる、なぜかこう隣に寄り添ってくれるコンテンツだっていうのがあって。
田中さんは、YouTubeの再生が序盤で脱落しやすい一方、音声コンテンツは最後まで聞かれる割合が高いとデータを挙げます。アメリカで先行し、日本が10年遅れで追いかけている状況だといいます。
明石さんは、伝えたいことがちゃんと伝わるには音声でないと難しいと感じていると話します。例として、モンベルの色に関するある投稿が、テキストゆえに「単色」という言葉を誤解され、的外れなコメントを呼んだ件を挙げます。
これは地獄だなみたいな。こういうことがXの短文投稿で一日何万件も起きまくってるのが今のインターネットメディアみたいな。そこに僕は絶望してる。
田中さんは、メラビアンの法則 ── 人が受け取る情報のうち見た目や口調が大きな割合を占めるとされる説。話す内容そのものの割合は小さいと説明されますを引き、音声は余計なノイズが取り除かれ、話す内容と語り口が正確に伝わりやすいと補足します。
喋る側の心理的安全と、耳だけに届くもの
田中さんは、喋る側の心理的安全も動画とは違うと語ります。カメラが回っていると座り方や所作に気を使うが、音声ならリラックスして、多少踏み込んだ内容も話せるといいます。
さらに、五感の一部を失った人が他の感覚を研ぎ澄ますように、耳だけに集中することで届くものがあると田中さんは話します。音声は可能性の塊なのではないかと二人は語り合います。
明石さんは、コロナを経て人々が移動や生活を大事にするようになり、目と手はふさがっても耳だけは空いている状況に音声が寄り添うと語ります。そのうえで、田中さんのラジオの淡々とした語り口を高く評価します。
淡々としてるということが、自分の生活の中の基準点を作ってくれるというか。月曜の朝、憂鬱な気持ちを整えてますみたいな。
田中さんは、抑揚をつけた方がいいと言われることも多いと苦笑しつつ、低い声でBGMのように流れることが早朝や深夜には合っている、という評価もあると受け止めます。
44歳になる82年生まれで、新番組を始めたい
明石さんは、二人が2026年に44歳になることに触れ、1982年生まれの世代について語り始めます。同い年で最も有名な人物として、少年犯罪の当事者となった人物の名を挙げます。
小6の年に阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件が起き、14歳の年にはエヴァンゲリオンが放映された世代でもあります。キラキラした有名人が代表しないこの世代に、明石さんは独特の関心を寄せます。
同じような業界の人とよく飲むんだけど、これなんでなんだろうねって。
明石さんは、同い年の人と語り合う番組をつくりたいと提案し、田中さんも二つ返事で応じます。昭和の最後の世代が平成の青春を経て令和で生き方を見つけた過程を話したいという構想です。
令和は昭和のパロディー。すごいいい言葉だなと思って。
田中さんは、1982年という世代についたイメージを解き明かし、ポジティブなメッセージを音声で届けたいと語ります。二人は、この企画を新年に進めることで意気投合します。
寝不足の理由と、吐いた唾は飲まない収録
話は二人の生活リズムに及びます。明石さんは、田中さんが起きる頃に自分は就寝すると表現しつつ、この収録のやり取りで田中さんが深夜に返信してきたことに気づいたと明かします。
田中さんは、普段は会食を1件で切り上げて9時頃に寝るが、忘年会シーズンで会食を2件立てにしていたためだと説明します。前日は9時スタートのディナーで、この日は寝不足で収録に臨んだといいます。
明石さんは、田中さんが喋ったものをすべて出してよいという姿勢を称えます。田中さんは、他のラジオやYouTubeでも同じで、喋る側でコントロールすると話します。
この日の収録は1時間40分の長尺となりました。明石さんは年内にすぐ公開すると約束し、この後は新宿での講演会と投資家イベントに向かう田中さんを送り出して回を締めます。
まとめ
同じ1982年生まれで同じ大学に通った二人が、思春期の東京カルチャーからキャリアの分岐、そして音声メディアへの思いまでを一気に振り返った年末特別回です。ずれてきた人生の中に、同じ時代を生きた実感が浮かび上がります。
- 明石ガクトさんと田中渓さんは同じ1982年生まれで同じ大学の出身。学年は田中さんが一つ上
- 裏原宿、EVISU、池袋ウエストゲートパークなど、二人が共有する平成のストリートカルチャーが具体的に語られた
- 田中さんはSONYへの憧れから金融へ転じ、ゴールドマン・サックスでリーマンショックの内側を経験した
- 物欲を一通り経た田中さんに残ったのはベルルッティで、投資目線ではなく本当に欲しいものを選ぶ姿勢を貫く
- 明石さんは再生回数の価値の下落と時間の価値の上昇から音声メディアに注目し、二人は同い年で語る新番組の構想で意気投合した





