なぜ『善の研究』は「純粋経験と実在」になれなかったのか
今回から第二部に入り、いよいよ『善の研究』の解説が始まります。前回までで、西田が40歳ごろまで石川県で教師をしながら研究を重ね、論文を通じて縁がつながり、学習院を経て京都大学の教授に赴任するまでが語られてきました。
しながわは、この『善の研究』が2006年に京都で一人暮らしを始めたころ、京大の書店で買った最初の本かもしれないと振り返ります。
本の成り立ちにも触れられます。京大に赴任した直後の西田はまだ有名でもなく、出版にはかなり苦労したそうです。それでも周囲の口添えで出版社を口説き落とし、ようやく世に出せることになりました。
そこで西田もものすごく、出版できるんだ、やった!ってことで喜んだっていう、すごい人間的なエピソードも残っていて。
注目したいのはタイトルです。元々つけたかったのは「純粋経験と実在」でした。本のテーマ自体、善とは何かを論じる本というより、純粋経験を説明する本だからです。
しかしこのタイトルでは硬く、売れないという判断もあったのか、出版社側の意見で『善の研究』に変わったのではないかと、しながわは推測します。本を出す人間として、しながわ自身もタイトルには悩んだ経験があると共感を示しました。
『善の研究』はどこから読むと分かりやすいのか
本の構成は4編からなります。第一編が純粋経験、第二編が実在、第三編で善、第四編が宗教です。前半の純粋経験と実在が骨子で、後半はそれを応用してどう生きるか、宗教をどう考えるかを論じる構成だと整理されます。
第一編 純粋経験
この本の一番キャッチーな概念を最初に置いた部分
第二編 実在
世界の本当のあり方を問う、内容上の出発点
第三編 善
良いとは何かを論じる応用編
第四編 宗教
生き方や宗教を論じる応用編
ただし、しながわはこの本を初めて読んだとき、いきなり第一編の純粋経験から始まって面食らったと言います。本来の問いは「実在とは何か」で、その答えが純粋経験だという順番のほうが分かりやすいからです。
西田自身も「一編は読み飛ばして二編から読むのがいい」と述べていたそうです。それでも一番キャッチーな純粋経験がトップに置かれています。
なので、皆さんこれ興味を持って読む方は、ぜひ二編から、実在から読んだ方が分かりやすいと思います。
この解説も、実在の話から進めていくことになりました。
西田がずっと言いたかった3つの直感
本編に入る前に、しながわは西田がさまざまな言葉で繰り返し語ろうとした共通の考えを、3つの直感として先に示します。見通しをよくするためです。
1つ目は、本当の自分や世界は、科学的な記述だけでは捉えられないという感覚です。たとえば「食べる」を1日に必要なカロリーの摂取だと科学的に理解しても、それだけでは食べることの本質はわからない、という例で説明されます。
つまり、対象を分析して認識するだけでは本当のものは捉えられず、体験や瞬間的に感じたことが欠かせないという直感を、西田はずっと持っていたと言います。
2つ目は、本当の自分を掘り下げていくと、一番底には神秘的なものがあり、それが世界とつながっているという感覚です。自分と世界は別物に見えても、実は一体だという東洋思想に近い発想です。
要は言いたいのは、自分を掘り下げていくと、何かもっと偉大なものとか、根本となるものみたいなものと繋がってるっていう感覚を持ってるんだろうなっていう。
3つ目は、本当の世界や本当の自分は、言葉では言い尽くせず、一見論理的に矛盾するところにこそ真理が宿るという感覚です。タッシーは、禅など身体で得た経験を持つ人にしかわからない領域ではないかと反応します。
しながわはまさにそこだと応じ、西田が深く親しんだ禅の「不立文字」や、般若心経の「色即是空、空即是色」を例に挙げます。
これを言葉で伝えることの矛盾。これが出てきます。これから西田哲学で。
興味深いのは、西田がこうした東洋的な直感を、いきなり仏教から語るのではなく、西洋哲学の論理に則って説明していく点だと、しながわは指摘します。
デカルトと同じ出発点、真逆の答え
いよいよ第二編の実在に入ります。冒頭の一節では、真の実在を理解するには、疑い得るだけ疑い、すべての人工的な仮定を取り去り、疑いようのない直接の知識から出発せよと述べられています。
タッシーはすぐに、これはデカルトと同じ流れではないかと気づきます。常識を一度取り払い、後から作られた仮定を全部取り除いたとき何が残るかを問う、その出発点は共通しています。
デカルトは「主客二分」の立場でした。認識する私と、認識される対象を2つに分けます。そこから科学が発達していきます。
一方、西田の立場は「主客未分」です。私と対象が分かれていません。ここが直感的に理解しづらいところですが、冒頭の一節にある「直接の知識」「直接の経験」こそが答えで、これを西田は純粋経験と呼びます。
つまり西田は、デカルトを学んだうえで、あえて同じ出発点に立ちながら、真逆の答えを高らかに宣言します。主体と客体が分かれていないこの瞬間こそが純粋経験であり、実在そのものだというのです。
タッシーは、デカルトが疑い抜いた末に「考えている自分」だけは疑えないとしたのに対し、西田は自分と対象さえも曖昧に一体のものとして出発する、と整理し直しました。
夕日、演奏、絵画に見る「純粋経験」
ここから純粋経験の具体例が語られます。たとえば夕日を見て「私は綺麗だと思った」と言葉にした時点で、私と夕日が分かれ、もう主客二分になっているとしながわは言います。
そうなると、太陽は何でできているか、なぜ赤いのかといった科学的な知見へと入っていきます。しかし西田が問題にするのは、まだ言葉になる前の瞬間です。
夕日を見て私と夕日が一体になってハッとする、その刹那の瞬間こそが純粋な経験だと説明されます。見ている私や、私とは違う太陽があると思った時点で、それは加工された仮定のものだというわけです。
さらに、熟練した音楽家が曲を演奏し没頭している瞬間、芸術家がインスピレーションを受けて時間を忘れて絵を描く瞬間も、純粋経験の例として挙げられます。私と道具があるのではなく、すべてが一体の中に没入している状態です。
西田自身の言葉として、純粋経験とは主体も客体もなく、知識と対象が全く合一している瞬間だと引用されます。好むものに熱中するとき、人はほとんど無意識で、自己を忘れ、自己以上の不思議な力が働いているだけだ、とも述べられています。
タッシーは、これこそ前回まで自分が話していたフロー状態ではないかと反応し、一気に腑に落ちていきます。
ライブでね、音楽演奏してる時、確かに主体と客体がなくなるんですよね、感覚的に。
プレイヤーとお客さん、曲を演じるドラマーと曲とかじゃなくて、それが全部溶け込んで一つになっていう感覚になるんですよ。本当にいいライブやってる時って。
しながわは、この「わかった感覚」こそが大事だと強調します。純粋経験は理屈で証明するものではなく、直感的にそういうことかと感じ取ることが核心だからです。
言葉にした瞬間、なぜ純粋さは失われるのか
西田は、同じ問いに対しデカルトとは全く違う答えを出しました。デカルトが実在するものを「精神としての私」と「物体」としたのに対し、西田はただ純粋経験が実在すると答えます。
主客二分。精神としての私と、物体としてのものが実在する
主客未分。純粋経験だけが実在する
西田の言葉では、純粋経験とは少しも思慮分別を加えない、真に経験そのままの状態です。色を見、音を聞く刹那、それが外物の作用だとか、私が感じているといった考えのない状態を指します。
さらに、色や音が何であるかという判断すら加わる前の状態こそが純粋経験だと述べられます。タッシーは、これはスポーツでいうゾーンと極めて近い表現だと確認します。
しながわは論理的な説明も加えます。デカルトの「我思う、故に我あり」は、考えている以上、主体としての私があるという論証でした。しかし、音を聞いているその瞬間、聞いている音の向こう側に私を勝手に作ってはいないか、と西田は問います。
その瞬間だけをスパッと切り取れば、ただ高揚感や演奏している空間があるだけで、「私が」というのは二次的なもの、根拠のない人工的な化合物だというのです。
もう1つの言い換えとして、ゾーンに入った状態を5分でも10分でも言葉で説明したとして、それは純粋経験のありのままの姿を何パーセント言い表せているか、という問いが投げかけられます。
タッシーは、フロー状態では時間や空間の認識もなくなり、測量するような科学的な観点も消え、すべての音が溶け込んで一つに混ざり合う感覚だと言葉にします。しながわは、これほど言語化できていても、あの瞬間そのものではない、そこがミソだと応じます。
西田は、言葉にすれば判断はできても、その瞬間の豊かさは失われ、抽象的な抜け殻になってしまうと考えます。これはゾーンに入った瞬間を思い出せば実感できるはずだと語られました。
残された問い 「純粋経験の前に、自分はいないのか」
今回の最大のミッションは、この純粋経験の感覚を伝えることでした。タッシーが早くに感じ取った一方で、まだ繋がっていない疑問も残ります。
1つは、その純粋経験がなぜ実在なのかという点です。もう1つは、普段しゃべっているときには物質も心もあるように感じられるのに、その扱いをどう考えるのかという点です。
タッシーからは、さらに2つの疑問が出されます。1つは、フローに近い経験ができたとしても、その出発点には「ドラムを叩き始めた自分」がいたのではないか、という点です。
主体の自分がやり始めたから、その経験に味わえたみたいな。どうしてもまだ分けて考えちゃうんですよね。
もう1つは、西田自身がどんな経験を通してこの考えにたどり着いたのか、それは禅の中でのことなのか、という疑問でした。
しながわは、西田がどうたどり着いたかは第二部の後半で語られると答えます。そして「ゾーンに入る前に主体がいるのではないか」という問いこそ、自身が学生時代に禅の研究を読んで最初につまずいた点だったと明かします。
この問いには、西田の考えに沿って答えられそうだとして、次回はそこから始めることになりました。今回は言葉ではなく感覚で共感できたことが、次への手がかりになりそうです。
まとめ
西田幾多郎の『善の研究』は、デカルトと同じく常識を疑うところから出発しながら、主客未分の「純粋経験」こそが実在だという真逆の答えにたどり着きます。今回は、フロー状態やライブ演奏という身近な体験を通して、その感覚を直感的につかむ回となりました。
- 『善の研究』は本来「純粋経験と実在」というタイトルで、純粋経験を説明する本だった
- 西田には「科学だけでは捉えられない」「すべては繋がっている」「言葉を超えたところに真理がある」という3つの直感があった
- 純粋経験とは、主体と客体が分かれる前の、経験そのままの刹那の状態を指す
- 夕日に見入る瞬間や、演奏に没頭するフロー状態が、その具体例として語られた
- 言葉にすると純粋経験の豊かさは失われるため、伝えることそのものに矛盾がある
- 「純粋経験の前に自分はいないのか」という問いが、次回への宿題として残された



