腰を据えた金沢時代、また作ってしまうサークル
今回は西田幾多郎編の第3話です。前回までで、10代でエリート学校に通いながらも維新政府の影響で反発し、退学に至った経緯や、東京大学の選科生として学んだこと、地元の学校を追われたことなどが語られてきました。
プライベートでも、父に妻と勝手に離縁させられながら、すでに子どもが2人いるという状況で30歳を迎えます。ここから31歳以降の10年弱を追うのが今回です。
西田は山口高等学校で教諭に昇進した後、恩師である北條時敬の尽力で、金沢の第四高等学校に戻ります。
ここで西田は、空いた時間を使って10年ほど哲学の研究を続けながら、論理やドイツ語、心理学、倫理学、英語などを教える教師にもなります。ある意味では腰を据えて、落ち着いた時期に入りました。
そして西田は、1900年(明治33年)にできたことにちなんで「三々塾」と名づけたサークルを作ります。生徒と先生が共同生活もしつつ、廃寺になったお寺に月に1回集まって勉強し、切磋琢磨する会でした。これも北條時敬の提案だったといいます。
また開いちゃいますね、そこはね。でも、開けるちょっとゆとりが出てきたってことですよね。
品川さんによれば、北條時敬は西田より12歳ほど年上でした。西田が30歳のとき47歳前後で、やる気があればその年齢でも十分にフレッシュに動けるのだと話されています。
「頭がいいかどうか」より人格を説いた熱血教師
三々塾では人生の問題も語り合われました。西田は生徒に親鸞の『歎異抄』を薦め、一緒に人生を語ろうと呼びかけたといいます。
頭脳が明晰でないことを嘆く生徒に対して、西田は次のような言葉で指導したと紹介されました。
頭脳の明不明、つまり頭がいいかどうかと人格の問題とは無関係と存じ候。人格修養は頭脳の明不明に関せず、すべての根本に御座候。
人格の修養は、猛烈なる意志を養うとともに、人生に対する高尚なる見識を養うことを怠るべからずと存じ候。
つまり、頭がいいだけではだめで、人格の修養こそが根本だという指導です。品川さんは、この頃の西田を結構熱いんですよ、西田先生と評しています。
タッシーは、エリートから脱落したという悲壮感がこの10年で消えていることに注目します。品川さんも、本領が少しずつ発揮されてきた感じがあると応じました。
熱血ぶりから、生徒たちは西田にあだ名をつけていました。ドイツ語で「考える」を意味するデンケン、「恐れを抱かせる」を意味するシュレッケンから、デンケン先生やシュレッケン先生と呼ばれたといいます。
さらに、服装に無頓着だったことから、樽の中で犬のように暮らしたとされる古代ギリシャの哲人にちなんで、ディオゲネスというあだ名も付けられました。
品川さんによれば、COTENの歴史調査チームの名前「ディオゲネス」も、まさにここから来ているそうです。
禅に打ち込みながらも「やっぱり哲学だ」と腹を決める
この頃、西田は後に代表作となる『善の研究』へとつながる研究をずっと続けていました。当時から、生と死をめぐる問いを最大のテーマに据えていたといいます。
人は何のために生き、何のために働き、何のために死するのであるか。これは最大深遠なる人心の疑惑である。
この問いにどう答えればいいかを研究しつつ、哲学だけでは答えられないと考え、金沢時代には禅にも打ち込みました。一日中座禅をするような日々を送っていたといいます。
西田は禅の公案の試験にも合格します。しかし、それで悟れると思ったものの、まったく嬉しくなかったといいます。試験に受かっても、30年間悩み続けてきたテーマがすべて解決するわけではなかったのです。
1901年、西田32歳のときに次男が誕生し、翌年には次女が生まれます。家族が増えていく生活の中で、禅を極めるというより、やっぱり哲学だという思いへと腹が決まっていったのがこの時代だと品川さんは見ています。
人生の意味を問い、禅やキリスト教にも向かったうえで、それでも哲学だという結論に至る。授業で倫理の話をしながら、後の『善の研究』につながる思想がこの3話目の時期に熟成されていったと語られています。
体の弱りとテニス。子を失う悲しみと「深き意味」への問い
この生活は良いものでしたが、西田はそれで満足したわけではありませんでした。もっと先に行きたいという思いから、自ら論文を書いて北條時敬に送ります。すると北條は東京大学に赴き、西田を教授にした方がいいと総長に働きかけてくれたといいます。
品川さんによれば、北條は三輪田について学んでおり、人脈があったと考えられます。もともと哲学に反対していた北條が、西田の論文を読んで「これはいい」と応援に転じたのです。
一方で西田自身は体が弱くなってきており、高等学校で教え続けるのは大変だと感じ、早く教授になりたいと願っていました。研究をメインにできる立場を求めていたのです。
ただ、この頃の西田を振り返って、本人はこう述べています。
私が四高の一教官であった時は、三十から四十までの人間の一生において最も元気旺盛の時代であった。
体を悪くしつつも元気で、座禅もすればテニスもする日々でした。テニスについては、弟子が次のような談話を残しています。
時々先生はテニスをしていたが、そのテニスたるや、先生の打った球よりも先生の履いていた靴が先に飛んでいくという類いのものであった。
子どもも増え続け、1905年には三女、その2年後には四女と五女、さらに2年後には六女が生まれます。西田が40歳になるまでに、8人ほどの子をもうけたことになります。
しかし、現代のように医療が整っていない時代です。1907年には四歳の次女が亡くなり、五女の愛子も生まれてすぐに亡くなってしまいます。
子を失う悲しみは、西田の文章にも残されています。友人の著書に序文を頼まれた際、その著者も長女を亡くしていたことから、西田は作品には触れず、子を失う悲しみについて書きました。
今まで愛らしく話したり、歌ったり、遊んだりしていたものがたちまち消えて、壺の中の白骨となるというのはいかなるわけであろうか。
もし人生はこれまでのものであるというならば、人生ほどつまらぬものはない。ここには深き意味がなくてはならない。
日露戦争で弟を亡くしたのもこの時期でした。喜びも悲しみも近くで経験した10年だったといえます。
やっと東京へ。学習院での「この無礼者めが」
東京大学へという最初の話は実現しませんでしたが、北條時敬の力添えもあって、西田はついに学習院の教授として東京に赴任します。30歳から40歳までの約10年を経て、ようやくたどり着いた場所でした。
タッシーは、この10年の経験そのものが大きかったのではないかと振り返ります。一教員としてさまざまな生徒と関わり、お寺で語り合い、プライベートでも悲哀を経験したことが、思想のベースを作ったのではないかという見方です。
学習院には当時から皇族や貴族が通っており、教授たちも生徒に丁寧に接していたといいます。しかし、父の気性を受け継いだ西田には、こんなエピソードがありました。
選んだドイツ語の教科書が面白くないので別のものに変えてほしいと生徒たちが申し出たところ、西田は大声で怒鳴ったといいます。
この無礼者めが。
生徒たちは震え上がったといいます。その中には皇族や貴族もいたと考えられ、タッシーは「完全にお父さんと同じ」と反応しました。
品川さんは、学問に厳しい西田の一面だと補足しつつ、嫌だと思う親の気質ほど引き継いでしまうものだという話に展開しています。
1年で京都帝国大学へ。人に恵まれた哲学者の出発点
学習院での期間は1年ほどと短いものでした。その後、いろいろな人の世話を受けて、西田は京都帝国大学に赴任します。品川さんは、西田が人に恵まれていた点を強調しています。
教授のポストがちょうど空き、西田自身も「なんたる風の吹き回しにや」と驚きを書き残しています。専門とは少し違うものの、ドイツ語を教えるよりは倫理学や宗教の方がよく、研究の時間もできるため、喜んで京都へ向かいました。
そして西田が京大に移った少し後に、『善の研究』が発表されます。ここからいよいよ、世界の哲学者として頭角を現していくことになります。
無口でボソボソ話すタイプでありながら、西田の周りには人が集まりました。品川さんは、その理由を次のように推測しています。
世界はこうなのではないかという直感を言葉にするのは難しく、西田はそのテーマになると学生や教授たちと猛烈に語り合い、脳内のイメージをクリアにしていったといいます。弟子たちは、それがインスピレーションを受けるもの、モチベートされるものだったと語っているそうです。
無口でありながら人が寄ってくる。やがて京都学派という学派が生まれる背景にも、そうした姿があったと考えられます。
次回への頭出し。西田哲学の3つのモチベーション
次回からは、ようやく『善の研究』の哲学に入っていきます。西田哲学は難しいとよく言われるため、品川さんはあらかじめ、西田がなぜそんな話をするのかという動機を押さえておいてほしいと語ります。
品川さんは、これは自身の完全な想像だと断ったうえで、西田のモチベーションを3点に整理しました。
いかに生きるべきか
本当の自分とは何か、いかに生き、いかに死ぬべきかという問いが、西田がずっと取り組んだ究極のテーマ
世界とは何か
その問いに答えるには、この世界とは何かを理解し納得する必要がある。その答えは常識の感覚と大きく異なる
直感を言葉にする
世界はこうだという直感がまずあり、それを伝え、反対意見も含めたレスポンスを受けて思想が発展していく
品川さんは、時代背景・人生・思想という3つの観点から哲学書を見ていくことを大切にしています。西田の場合、人生の経験が思想に直結しているといいます。
本当の自分とは何かを問い、そのために世界を知り、その直感を言葉にしていく。この根本のモチベーションを覚えたうえで、次回から『善の研究』という本丸に入っていくことになります。
まとめ
山口や金沢での10年間、西田幾多郎は熱血教師として教壇に立ちながら哲学の研究を続け、子を失う悲しみも経験しました。北條時敬らの力添えと自ら書いた論文を武器に、学習院を経て京都帝国大学の教授へとたどり着き、『善の研究』を世に問う出発点に立ちます。
- エリート街道から外れた西田は、金沢の第四高等学校で腰を据え、三々塾を作って生徒と人生を語り合った
- 頭がよいかどうかより人格の修養を根本と説き、生徒からデンケンやディオゲネスといったあだ名で呼ばれた
- 禅の公案に合格しても満足できず、やがて「やっぱり哲学だ」と腹を決めていった
- 子や弟を失う悲しみの中で、人生には「深き意味」がなくてはならないと問い続けた
- 北條時敬の力添えと自らの論文により、学習院を経て京都帝国大学の教授となり、哲学者への道を開いた





