宗教から経済へ、労働の見方はどう移ったか
前回までは、労働を苦役とみなす古代の価値観が、宗教改革によって「働くことは尊い」へと転換していく流れが語られました。
今回はその続きとして、宗教ではなく現実の世俗的な世界、特に経済学の観点から労働がどう意味づけられたかがテーマになります。
近代、資本主義において労働ってものはすごくポジティブな意味合いを付与されたというところで、3つの側面があるよねという話でした。
一つは宗教の話。今回は少し後の時代として、経済学的な側面でどういうふうに労働に積極的な意味が付与されていったかを話します。
時代は宗教改革が起きた16世紀の少し後、17世紀から18世紀です。大航海時代を経て、世界中がつながり、ヨーロッパにも各地の富が入ってきた時代でした。
この流れの中心に立つのが、スコットランド生まれの経済学者アダム・スミスです。ただしその前に、当時の経済思想がどう労働を捉えていたかを押さえておきます。
重商主義が生んだ「労働者を働かせる3つの方策」
アダム・スミスより100年ほど前、17世紀には重商主義と自由主義という2つの大きな考え方がありました。どちらも国家の富をいかに大きくするかがテーマです。
重商主義は文字どおり商業を重視する考え方です。外国と貿易するとき、たくさん輸出して貿易黒字を出し、国内に富を入れることが大事だとされました。
この考え方が国全体に広がると、国内の労働者にとにかく働かせることが重要になります。輸出する商品を、次々に作ってもらう必要があるからです。
ところが当時のイギリスでは、労働はまだ古代のような苦役のイメージでした。肉体労働者は軽蔑され、できるだけ働きたくないと考える人々を、いかに働かせるかが課題だったのです。
そこで考え出されたのが、労働者を働かせるための3つの方策でした。しながわさんは、現代の視点からは理解しがたいが、労働を考える題材として面白いと紹介します。
2つ目の慈善を減らすという発想は、福祉が手厚いと人は怠けるという理由から来ています。タッシーさんは、生活保護やベーシックインカムでみんな働かなくなるという考え方に近いと重ねます。
3つ目の教育を与えないという方策は、知識が欲望を生み、工場労働以外のことをしてしまうと働かせられないという理屈でした。低い賃金、慈善の抑制、教育の制限を組み合わせ、生きるために勤勉に働かせようとしたのです。
つらい。つらい。3つともつらい。方針が。
しながわさんは、これを今の感覚で笑い飛ばせるものではないと補足します。福祉を手厚くすると人はサボる、といった考え方は現代でもあり得るからです。
一方でフランスには重農主義もありました。社会の富の基礎は農業にあるとし、農業に従事する生産者を重視する立場です。ただし農業以外の労働の価値は、やはり低く見積もられていました。
アダム・スミスは労働に何を見出したのか
重商主義でも重農主義でも、労働そのものがあらゆる形で尊いとは見られていませんでした。ここが前回の宗教的な転換と大きく違う点です。
宗教の側から見れば、働いて富を得ることは素晴らしいという転換がありました。しかし経済の側から見ると、一気に悲壮感が漂う世界になります。
時代としては宗教の話と経済の話は重なっています。同じ16〜18世紀でも、見方によって労働の姿はまったく違って見えるのです。
そこに登場するのが、近代経済学の父と呼ばれるアダム・スミスです。『国富論』や『道徳感情論』で知られる18世紀の人物で、古典経済学を作ったとされます。
スミスは、人間の社会がそもそも形成されるのは労働によってだと考えました。各人が得意な分野で力を発揮すれば、たくさん生産でき、余りが出ます。その余剰を交換するところに経済が生まれるという発想です。
得意な労働
各人が得意なことに専念する
余剰の発生
たくさん生産でき、余りが出る
交換・市場
余剰を交換することで市場が生まれる
社会の形成
交換の連なりが商業社会と国家を作る
この社会的な分業という発想自体は、実はプラトンも語っていました。しながわさんは、農業する人、大工、織物を作る人、生活必需品を作る人の4人ほどで一旦は国家ができる、とプラトンが言っていたと脱線します。
ただしスミスが重要だったのは、4人がひと塊になれば国家ができるのではなく、交換という市場がなければ社会は成り立たないとした点です。
そして交換の根っこをたどると、社会の価値の源泉は労働にあるという結論に至ります。さらに遡れば、もっと便利なものが欲しいという人間の欲望、エゴイズムが起点にあるとスミスは考えました。
テオリアは無価値?スミスが変えた労働の位置づけ
タッシーさんは、古代ギリシャやアリストテレスが低いとみなしたカテゴリーが、スミスではそれこそが高いという状態になっていると指摘します。
その延長で、観想を意味するテオリアはどうなるのかという問いが出ます。市場に何も出していないものは、スミス的には価値がないことになるのではないか、というわけです。
ただ単にテオリアして自分で完結してる人とか、神と祈りを捧げて完結してる人だけだと、市場に何も出してないので、アダム・スミス的には無価値になっちゃうってことですよね。
一気になんかこの資本主義っぽくなってきましたよね。まさに。本当にそうだと思いますね。
スミスは、重商主義の賃金を低くしろという発想とは正反対のことを言いました。賃金を引き上げれば、消費意欲や勤労意欲が高まり、市場が拡大するという考え方です。
これは今の日本で言われる賃上げやベースアップの議論と同じ論理の延長線上にあります。賃金を上げることで欲望が刺激され、経済が良くなっていくという世界観の根本を、スミスが築いたのです。
ただししながわさんは、これはすべてがうまくいくという楽天的な面も持っていると付け加えます。実際その後、見えざる手だけではうまくいかず、国家の介入が必要だという議論も出てきました。
それでもスミスは、労働全般にお墨付きを与えた点で決定的でした。社会は聖職者でも王でもなく、市民たちの労働によってできている、という見方です。
フーコーが暴いた資本主義の「裏の顔」
ここまではアダム・スミスのポジティブな側面でした。しかし物事には表裏があります。しながわさんは、資本主義の恐ろしい裏面を語り始めます。
ここで取り上げるのは、フランスの哲学者ミシェル・フーコーです。資本家と労働者の階級闘争とは別の次元で、資本主義の怖さを指摘した人物です。
フーコーの指摘は、資本主義の労働が確立するにつれて、一人一人の人間が労働する主体として形作られていった、というものです。
『労働の思想史』では、これが身体的な側面と精神的な側面の2つから触れられています。富を蓄積するのにふさわしい体と精神へと、人が形にはめられていくというのです。
決まった時間に工場へ来て、決められたスケジュールと指示どおりに体を動かし、常に監視される
個人の考えや個性を抑え、言われたことをミスなくこなし、均一な質の商品を作ることが求められる
工場で働く人を思い浮かべると分かりやすいと、しながわさんは説明します。決まった時間に来て、決められた指示どおりに手を動かし、休憩も帰る時間も決まっています。
就業時間中はサボらないよう常に監視され、ルールに違反すれば懲戒や解雇の対象になります。抜けた穴には別の誰かが入り、また労働してお金をもらっていくのです。
しながわさんは、これは以前語った修道院の構造とよく似ていると指摘します。決められた時間に規則正しく体を動かすことが素晴らしいとされた、あの世界の延長です。
ここでは個性とかいらないわけですよ。なんか僕はこう考えるんでとか、僕ちょっと朝弱いんすよって、デカルトさんみたいな人とかいらないんすよ。
違いは奉仕の対象です。修道院では神でしたが、資本主義社会では工場や会社が奉仕の対象になります。それに合わせて身体が規格化され、画一的になっていくのです。
これは精神にも及びます。ブツブツ言わず、言われたことをミスなくこなし、均一なクオリティの商品を作ることが求められます。タッシーさんはこれを「ロボット」「機械」だと言い表します。
スミスは各人が得意なことをしようと語りました。しかし実際には、個性を殺して規格化された身体と精神を持つ労働者が大量生産される時代に突入していった、というのがフーコーの見立てです。
タッシーさんは、奉仕する対象が神から資本家に変わったことで、支配しやすい画一的なマネジメントになり、決められた時間に文句も言わず働き続ける存在になってしまうと整理します。
しかも産業革命も相まって、その画一化のブーストは修道院の時代とは桁違いだったと2人は確認します。
20個に増えた労働観と、次回の哲学的な側面
最後に、これまでのシリーズで紹介してきた労働観の復習が行われます。全体でおよそ20個の労働の意味づけが積み上がりました。
3話目の中世修道院では、労働は神への救済の道であり、就いている職業がアイデンティティになるとされました。金貸しのようにキリスト教的に卑しいとされる職業もありました。
4話目の宗教改革では、今就いている職業こそが天職だとルターが説き、カルヴァンの予定説からは、救われている確信を得るために勤勉に働くという意味合いが生まれました。
さらに資本主義に近づくと宗教的な意味は薄れ、労働は富をもたらす道徳的な行為だとシンプルに捉えられるようになります。そしてスミスによって、労働は社会における価値の源泉だと肯定されました。
一方フーコーの視点では、労働は国や資本家の富のために体と心を画一化し、規則的に自動的に働くもの、とも言えます。同じ労働が、これほど違って意味づけられてきたのです。
次回はシリーズの3つ目の側面として、哲学の観点が扱われます。ホッブズ、ロック、ルソー、カントといった哲学者が労働をどう捉えたかが語られる予定です。
まとめ
今回は、労働の思想史を経済学の側面からたどりました。アダム・スミスが労働を社会の価値の源泉として称賛した一方、フーコーはその裏で人間の身体と精神が画一化されていく構造を暴きました。同じ労働が、称賛と支配という両面を持つことが浮かび上がる回でした。
- 17世紀の重商主義では、賃金を低くし、慈善と教育を抑えて労働者を働かせようとした
- アダム・スミスは、得意な労働と余剰の交換が市場と社会を作るとし、労働を価値の源泉として肯定した
- スミスは賃金を上げて欲望を刺激することが経済を活性化させると考え、資本主義駆動の労働観を築いた
- フーコーは、労働者が工場や会社に従順な身体と精神へ規格化されていく点に資本主義の恐ろしさを見た
- この5話までで労働観は約20個に増え、次回は哲学者の視点から労働が論じられる





