資本主義との関係にいよいよ踏み込む回
前回までのおさらいとして、古代の労働はしんどく卑しいものとされていた、とタッシーは整理します。
ところが中世のキリスト教的世界観の中で、修道院の修道士たちが労働に携わることになり、勤労が素晴らしいものだという発想への転換が起きたと振り返ります。
さらに、一生懸命働くことで富がどんどん蓄積され、それが腐敗につながるという逆転現象も起きた、というのが前回までの流れです。
これを踏まえて、今回はいよいよ避けて通れないテーマである資本主義との関係に入っていく、としながわは切り出します。
この労働、働くこと、個人が労働することと、避けて通ることができない資本主義との関係に入っていきたいと思ってるんですね。
しながわは、このシリーズのサブタイトルを改めて読み上げます。人類にとっての労働の意味と、資本主義との関係が明らかになる、という宣言でした。
なぜ「修道院の労働」だけでは資本主義に届かないのか
現代や近代の資本主義社会では、勤勉に働くことに強くポジティブな意味があります。なんなら、働かないことは人間性として良くない、とまで見なされる価値観があるとしながわは指摘します。
一方で、中世の修道院で労働に神への奉仕という積極的な意味が付いただけでは、まだ資本主義のような労働観には程遠い、とも言います。
まだ全然足りない、積極性が足りない、肯定的な意味が全然足りないっていうところで、ここからどうひっくり返っていくかっていうのが今日の話なんですね。
当時はまだ、お金を稼ぐこと自体が職種によっては卑しいとされる価値観だった、とタッシーも補足します。
時代としては中世と近代の間の近世、とりわけ16世紀のルターとカルヴァンによる宗教改革を通して、この転換を見ていくことになります。
しながわは、この本では古代・中世の労働観が資本主義のポジティブな労働観へ変わる過程を、3つの側面から説明していると整理します。
宗教
宗教改革を通じて、世俗の職業に宗教的な意味が付与される
経済学
資本主義の中で労働がどう使われたかという経済学的な意味づけ
哲学
ホッブズ・ロック・ルソー・ヘーゲルらによる哲学的な意味づけ
同じ「ポジティブ」でも、3つの側面ではそれぞれ違う意味づけがされているといい、その違いも楽しんでほしい、としながわは前置きします。今回はそのうち宗教の側面がテーマです。
ルターが変えた「召命」の意味
しながわは、宗教改革の中身自体はできるだけさらっと、として概要を説明します。それまでのカトリックでは、個人が救われるためには教会という組織の序列や上下関係の中で救われることが大事だった、というものです。
しかしそこに免罪符に代表される腐敗があり、これは本当の教えではないと批判が起きます。教会を挟まず、一人の人間と神が直接つながればいい、として教会の権威や身分制度を全否定して現れたのがルターやカルヴァンだと整理します。
その上でしながわは、宗教改革を貫くキーワードは「禁欲」だと指摘します。前回の修道院の話と同じく、大きくなり腐敗した組織に対して、そうじゃないだろうと立ち上がった人たちにとって、禁欲は重要なテーマでした。
ここで登場するのが、プロテスタントの禁欲の精神と資本主義が実はつながっていると指摘した社会学者マックス・ウェーバーです。
ウェーバーによれば、ルターは「召命」という言葉の意味を変えた、といいます。もともと神に召され神のために奉仕することは聖職者の仕事を指していました。
この神に召されること、召命っていうことが、天職としての職業を意味するようになったんだっていう風にマックス・ウェーバーは指摘するわけですよ。
つまり、靴を作る、パンを焼くといった世俗的な職業に励むこと自体が、神に召されるという宗教的な意味を帯びる。これをルターが初めて言った、というのがウェーバーの指摘です。
それまで神への奉仕としての労働は、あくまで修道院の中の修道士に限られたものでした。ルターはそれを拡大解釈し、街のパン屋や靴職人、農民が世俗の職業に励むこともそのまま宗教的な意味を持つ、としたのです。
タッシーは、聖職者だけが神に召されるのはおかしい、という誰もが抱きそうな疑問をルターがはっきり口にした点に注目します。
聖職者だけじゃなくて、教会の人だけじゃなくて、どんな人でも神に召されるってイエス様は言ってたよっていう、至極当たり前のことを、スパーンと言ったって感じですよね。
しながわは、そこにルター独自の観点が加わると付け加えます。今就いている職業を頑張ることによって神に救済される、という発想は、イエス自身が語ったものではなく、ルターの新しさだといいます。
ここで、古代ギリシャやアリストテレス的な価値観が覆されたことになる、とタッシーは指摘します。観想=テオリアだけが尊いのではなく、目の前の仕事を頑張ることこそ尊い、という反転です。
これによって救済の対象が一気に市民にまで広がり、個人が神とつながるために目の前の仕事を頑張ればいいという、強力なモチベーションが生まれたことになります。
カルヴァンが取り払った「秩序」という古い枠
続いてしながわは、ルターの数十年後に登場するカルヴァンへ話を進めます。この人物によって、さらに直接的に資本主義につながる観点が提唱される、といいます。
革命的に見えたルターの思想にも、カルヴァンから見ると古臭い保守的な側面が残っていた、というのがポイントです。
ルターの考えは、あくまで「今あなたが就いている職業において頑張ること」が神への道だ、というものでした。中世の身分社会では靴職人の息子は靴職人であり、その秩序の中で邁進せよ、という発想です。
転職するなと。天職で働けと。そういうことですよ、ルターが言ってのは。
しかし、これでは資本主義がダイナミックには動きません。しながわは、得意な人が得意な仕事に就いたほうが良いはずだ、と例を挙げます。
農家の息子でもパン作りがうまければパン屋になったほうが良い。それが後に登場するアダム・スミスの思想にもつながる、と説明します。
ルターの保守的な思想では職業に流動性がなく、資本主義は本当の意味では駆動しない。この枠を打破したのがカルヴァンだ、というのがこの本の位置づけです。
しながわは、カルヴァンが職業の秩序にとどまることを重視せず、ひたすら禁欲的な生活を送れという一点を主張した、と整理します。既存の秩序に縛られないその姿勢が、アダム・スミス的な世界への架け橋になったといいます。
救われるかは決まっている——予定説という賭け
カルヴァンといえば「予定説」で有名だ、としながわは切り出します。誰が救われるかは神によってすでに決まっている、という説です。
もうこの人が神によって救われるかどうかはもうすでに決まってますと。運命によって決まってるんで。
だから、どんなに熱心に働いても、それによって救われるわけではない。これがカルヴァンの元々の思想です。
すると当然、なぜそれが「頑張るほど儲かる」資本主義につながるのか、という疑問が湧きます。普通は結びつかない、とタッシーも応じます。
ここでしながわは、予定説が信徒に与えた影響を、本に沿って説明します。第一に、信徒たちは深い内面的な孤独を感じるようになった、という点です。
それまでカトリックでは、教会という目に見える存在が神との間に立ち、これをすれば救われると導いてくれました。良くも悪くも、それは一定の安心感でもありました。
ところがプロテスタントの教えでは、仲介してくれるエージェントがいません。神と自分しかいない世界で、しかも神は見えず語らないため、圧倒的な孤独と迷いが生まれた、というのです。
この孤独ゆえに、信徒たちは「自分は救われている」という確証を求めるようになります。
代償者的な人から、とにかく誰かからあなた救われるから大丈夫よって、そういう確証が欲しいですよね。
そして彼らは、禁欲を死ぬまで固く守り続けることで、自分は選ばれた人間だという確信を得ようとした、としながわは指摘します。
因果としては、禁欲すれば救われるというロジックはカルヴァンに否定されています。しかし逆向きなら成り立つ、としながわは推測します。救われる人間なら、悪魔に惑わされず禁欲生活を貫けるはずだ、という論理です。
私は救われてるんだったら、悪魔とかに惑わされずに自分は禁欲生活を送れるはずだっていう論は成り立ちますよね。だから頑張って禁欲するみたいな。
「居酒屋のトイレ」で解けた、禁欲と労働の逆説
さらに信徒たちは、自分の中で確信を持つだけでなく、外から見ても禁欲的に頑張っていると認められることで、その確信を強め、不安を払拭しようとした、としながわは続けます。
その最もわかりやすい形が、自分の仕事を頑張ることでした。外から見てもわかる禁欲として、勤勉な労働が選ばれたのです。
このロジックにタッシーは強く共感し、意外な比喩を持ち出します。居酒屋のトイレと同じだ、というのです。
昔は汚さないでくださいとか一歩前みたいなのもあったけど、最近はいつも綺麗にお使いいただいてありがとうございますってすると、余計に綺麗になるみたいな。
人は役割=ロールをあらかじめ与えられると、そのロールをこなそうと振る舞う。組織でも、役職を与えられるとその役職にふさわしい行動を取るようになる、とタッシーは説明します。
予定説も同じで、自分は救われる人だと定義すれば、その役割を演じるために禁欲を頑張り、結果として仕事に精を出す。なぜなら自分は選ばれた人だから、という振る舞いだったのではないか、というのです。
しながわは、高貴な神の話と卑近な居酒屋のトイレの話を融合させて新しいインサイトを引き出した、とこの比喩を高く評価します。ロジックとして正しいかは別として、人間にはそういう心の動きがある、と二人は納得します。
禁欲がまた富を生む——世俗に広がった逆転現象
結論として、カルヴァンの思想を信じるプロテスタントたちは、かつての修道院のように時間やルールに従った禁欲的な生活を送るようになった、としながわはまとめます。
大きな違いは、それが修道院の中の宗教的行為ではなく、一般の市民が世俗の中で行う生活になった点です。禁欲的で、時間通りに、道具を使って勤勉に働く。それがカルヴァンの教えの大きな影響でした。
ここまで来れば、次に何が起きるかは明らかです。しながわの問いに、タッシーは即座に答えます。
禁欲的に頑張って仕事に励むと、その次に何が起きるか
富の蓄積です。使わず節約するため、頑張れば頑張るほどお金が貯まっていく。
以前は修道院に蓄積された富が、今度は世俗の普通の人々のもとに貯まっていく。前回と同じ矛盾が、修道士ですらない一般信徒のもとで、全ヨーロッパ的に再び起きたのです。
同じ矛盾がね、また起きてきたっていうね、これはね、なんとも面白いなと僕は思いましたね。
そして富が貯まるにつれ、初めは神のためだった宗教心が薄れていきます。労働がポジティブだという点は変わらないまま、その宗教的な意味だけが忘れられていくのです。
こうして労働は、単純に人間に富をもたらす好ましい行為へと変わっていきます。ここまで来ると、キリスト教徒でなくてもこのロジックは使える、としながわは言います。
「神の意思」が現代の価値観に化けるまで
この漠然とした感覚を、後からロジックとして説明する人物も現れます。17世紀イギリスの神学者リチャード・バクスターです。
バクスターは、神がキリスト教徒に利益を得る機会を示したのなら、それを活用しないのは神の意図に反する、と説きました。お金儲けの機会を活かすこと自体が神の意思にかなう、という論理です。
タッシーは、これはもはや後付けに見えると率直に感想を述べます。しながわも、神を抜けば現代でも普通に言われることだ、と受けます。
恵まれた環境なんだったら、ちゃんといい会社に行って働きなさいみたいな。まさにそんなロジックを神バージョンって感じですね。
しながわは、この価値観が現代の私たちにも地続きだと指摘します。真面目に働く人は道徳的で良い人、働かずぶらぶらしている人は道徳的に劣っている、という一般観念です。
さらに、同じ年齢で年収1億円の経営者と年収の低い人が並んだとき、通常は前者のほうが社会的に尊敬されやすい。これは資本主義社会に生きる私たちの感覚であり、その起点が宗教改革にある、というのです。
その裏返しとして、働かない人々、病人、失業者、障害があって働けない人々が、近代以降どんどん一か所に閉じ込められていったことにも触れます。哲学者フーコーが指摘した「大いなる閉じ込め」です。
彼らが劣った存在とされた理由は、働いていないから。労働することは道徳的に意味があることという通念が広がった、まさにその裏返しでした。
古代の卑しい労働から、アリストテレスが理想とした観想的な生き方とは真逆の世界へ。二人は、今や働きぶりや年収で社会的評価が決まる時代になったことを確認し合います。
今は働かずにプラプラしてても、本当は実はテオリアやってる人こそ、当時はね、尊かったっていう。
まとめ
宗教改革は、聖職者だけのものだった「神への奉仕」を世俗の職業へと開き、やがて禁欲の精神が富の蓄積を通じて資本主義の勤勉な労働観へと反転していきました。今回はその宗教の側面をたどる回でした。
- ルターは召命の意味を変え、世俗の職業に励むこと自体に宗教的価値を認め、労働に貴賤はないと説いた
- カルヴァンは職業の秩序にとどまる縛りを取り払い、予定説と禁欲を軸に流動的な労働への道を開いた
- 予定説による孤独と「救われる確証」への欲求が、外から見える禁欲=勤勉な労働へと人々を向かわせた
- 禁欲的な労働が世俗で富を蓄積させ、宗教的意味が薄れる中で、働くこと自体が道徳的とされる価値観が広がった
- この転換は、真面目に働く人を尊び働かない人を劣位に置く現代の労働観の起点にもなっている




