古代の3つの区分を、もう一度おさらいする
前回まで、労働にはさまざまな種類や考え方があると紹介されてきました。今回はその整理から入ります。
しながわさんはまず、古代ギリシャのアリストテレスが人間の行為を3つに分けた点を振り返ります。
それが観想(テーオリア)、実践(プラクシス)、制作(ポイエシス)の3つです。観想(テーオリア) ── 物事の真理や法則を探求し、知識として獲得する行為。アリストテレスはこれを最も尊いものと考えました
この区分は、前回登場したハンナ・アレントの分類とも重なります。アレントの言う「労働」と「仕事」はアリストテレスの制作にあたり、政治的な「活動」は実践にあたる、という整理です。
そしてアリストテレス特有のものとして、真理を探求する観想があり、これが最も尊いものとされました。
観想(テーオリア)
思索や理論を考える。聖職者につながる
実践(プラクシス)
権力や武力で社会を作る。戦士や政治家につながる
制作(ポイエシス)
食物を作り家事をする。農民や平民につながる
この3つの行為は、そのまま人々を分ける3つの身分にもつながっていきます。この身分の話が、今回の中世の議論の土台になります。
中世の不思議その1、修道院で3つの身分が混ざる
ここから話は中世に入ります。しながわさんは、参考文献が指摘する「中世で起きた2つの不思議」を軸に紹介していくと切り出します。
1つ目の不思議は、3つに分かれていたはずの行為と身分が、なぜか混ざっていくという現象です。
しかもそれは、ある特定の場所で起きました。中世といえば、の修道院です。
この展開を、タッシーさんは先回りして言い当てます。
修道院ビールも作ってるから、その時点で混ざってる。だから混ざってるじゃんと思ったもん
古代ギリシャでは、労働や仕事に携わる人の身分は低いものとされていました。奴隷や当時の女性がそこに含まれ、観想や政治に携わる人が高く尊敬される、という差別的な感覚があったといいます。
ところが中世の修道院では、最上位の観想に従事すべき聖職者たちが、最も身分が低いとされた労働にめちゃめちゃ頑張って従事するという逆転が起きます。
さらに、彼らは戦うことまで担いました。本来の修道士は、祈りや読書といった観想的な仕事がメインだったはずです。
しかし布教のために、彼らは未開の地とされた森林を開拓し、異教の人々に教えを広めていきました。その際に組織されたのが騎士団で、半分は軍隊のように戦っていたといいます。騎士団 ── 中世に組織された、宗教的な使命と軍事的な役割をあわせ持つ集団。テンプル騎士団などが知られます
こうして、聖職者・戦士という2つの身分がまず混ざりました。
なぜ聖職者が、卑しいはずの労働に励んだのか
もう1つ、より重要なのが労働です。本来イエス・キリスト自身は労働をしておらず、修道士はそのイエスの生涯や精神をなぞる存在でした。
だから本来、修道士は自分で働いて稼ぐ人たちではなかったといいます。ところが、ある時から聖職者たちが農業などにめちゃめちゃ励むようになりました。
彼らはあえて荒れ果てた地に開墾に入り、厳しい環境で土を耕すところから始めます。その苦しい労働自体が、修道士の修行であり精神鍛錬でした。
しながわさんは、この労働の意味づけをこう整理します。
心を洗い清めて救済に近づいていくための手段として、この労働というものを選びました
タッシーさんは、この変化を組織としての事情から読み解きます。イエスの死後、キリスト教はカトリックという組織になり、布教や開拓という現実の課題に直面したという見立てです。
現実の労働もしていかないと、いわゆる布教が広がっていかない、キリスト教が
これに対してしながわさんは、単に「やらざるを得なかった」だけではないと補足します。つらい労働をすること自体に、神に近づく積極的な意味を見出した点が重要だといいます。
辛い労働が「尊いもの」へ、労働観の転換点
古代において、労働は辛く苦しいものとして位置づけられていました。
その労働に、人類史上はじめて大々的にポジティブな意味が与えられた場所が、中世の修道院だとしながわさんは指摘します。
近代以降の資本主義では、働くことは良いことだとされています。「働かざる者食うべからず」のような感覚もそうです。
しかし古代はそうではありませんでした。その転換点として中世の修道院があり、神のために働くことが尊いという肯定的な意味づけがここで生まれた、というのがこの本の主張です。
タッシーさんは、これを旧約聖書との関係で確認します。労働はもともと神から与えられた罰でしたが、それと「神のために働く」ことは矛盾しないという整理です。
罰だよねという話と、神のために働くって別に矛盾する話ではない
規則正しい生活と道具、修道院に眠る資本主義の種
近代がいきなり始まったわけではなく、中世で準備が進んでいた、というのがこのシリーズの見方です。労働についても同じことが言えます。
たとえば修道士たちは、自分の好きな時ではなく、時間通りに動く規則正しい生活を送っていました。前回のトマス・アクィナスの回で触れた、2時に起きるといった話です。トマス・アクィナス ── 13世紀の神学者・哲学者。アリストテレス哲学とキリスト教神学を結びつけたことで知られます
この規則正しさを支えたのが時計でした。時間で人間の行動を管理する仕組みが、就業時間や昼休みといった資本主義の働き方につながっていきます。
さらに修道院では、粉を挽く水車などさまざまな道具が発明されました。それらも近代以降の資本主義へとつながっていったといいます。
タッシーさんは、規則正しさには2つのメリットがあると整理します。
- 個人にとっては、規則正しいほうが神に仕えている実感を得やすい
- マネジメントする側にとっては、大人数を束ね生産性を上げやすい
しながわさんは、むしろ後者、つまりマネジメントの観点が強いかもしれないと応じます。自分を殺して神のために尽くすには、時刻通りに動くことが大事だったという見立てです。
こうして観想・実践・制作の3つが、意図せず修道士のうちで一つになりました。
また、この頃のキリスト教社会では、職業が身分や序列と強く結びついていました。名乗るときに職業が先に来て、その職業によって地位の高低が示される文化だったといいます。
たとえば両替屋や税を取り立てる人、商業に携わる人は、キリスト教の価値観のなかで卑下されました。金貸しが蔑まれる、というのはその典型です。
中世の不思議その2、禁欲がなぜ富を生むのか
ここから2つ目の不思議に入ります。しながわさんは今回、クイズ形式にするか迷いながらタッシーさんに問いを投げます。
修道士たちが頑張って禁欲してきた。それに関する不思議なこと、起きたことは何だと思いますか
しながわ さんからの質問
タッシーさんは、聖職者が禁欲ではなく金儲けに走り、宗教改革につながる腐敗が起きた、と答えます。免罪符のような商売に走った、という見立てです。
しながわさんの採点は50点でした。結論の方向は合っているものの、理由が違うといいます。
面白いのはその逆転の仕組みです。修道士たちが禁欲すればするほど、そこに富が蓄積されてしまうという現象が、何度も起きたのです。
確かに、禁欲してるから、そうか、散財しないからか
そもそも修道院は、権威主義的で世俗に走り堕落したカトリック教会へのアンチテーゼとして生まれました。あえて荒れ地に入り、禁欲的で規則正しい生活を送り、本当のイエスの道を行こうとしたのです。
新しい修道院ができては儲かるループと資本主義
ところが、まじめに禁欲し、怠惰を避け、みんなのために祈る修道院ほど、信徒からの寄付が集まっていきます。
俗世から離れて頑張れば頑張るほど、皮肉にも富がどんどん蓄積されていったのです。
既存の教会が堕落
権威主義や世俗化への反発が起きる
新しい修道院を作る
荒れ地で禁欲的に働き、祈る
富が蓄積する
寄付が集まり、逆に豊かになる
組織が腐敗する
もっと蓄積したい人が現れ、また反発が生まれる
ドミニコ会やフランシスコ会も、この繰り返しのなかで生まれました。堕落を批判して新しい修道院を作り、儲かって腐敗し、また新しい修道院ができる、という循環です。
しながわさんは、この矛盾こそが資本主義を生み出したという理解を紹介します。次回以降で触れる宗教改革やプロテスタントの禁欲精神が、資本主義の誕生につながったというマックス・ウェーバーの考え方の、いわば一歩手前の現象だといいます。マックス・ウェーバー ── 19〜20世紀の社会学者。プロテスタントの禁欲的な倫理が資本主義の精神を生んだと論じたことで知られます
タッシーさんは、富を貧しい人々に還元すれば問題なかったのでは、と疑問を投げます。
しながわさんは、その活動もあっただろうとしつつ、富が蓄積すると組織はもっと蓄えたいと考え腐敗していくのが世の常だと応じます。
いくら高い志のビジョンを持ってやっても、それが最初のビジョン通りにずっと動くって、やっぱ世の常ですよね
この腐敗がカトリックの枠を飛び出し、まったく違うものになったのが宗教改革ですが、この時点ではまだそこまで至っていません。
最後にタッシーさんは、この回を通じて人間の心の動きに目を向けます。本来やるべきでないことに、人は意味を求めずにいられないのではないか、という感想です。
何をするにしても意味が欲しい、意味付けをしてほしいみたいな、心の動きがすごく関係してるんじゃないかな
しながわさんは、その意味づけがこの先さらに肥大化していくと応じ、話は次回へと続きます。
まとめ
中世の修道院では、観想・実践・制作という3つの身分が一つに混ざり、卑しいとされた労働に尊い意味が与えられました。そして禁欲すればするほど富が蓄積されるという逆転が、資本主義の準備を静かに進めていきました。
- 古代の3区分(観想・実践・制作)は身分にもつながっていた
- 中世の修道院で、聖職者が労働と戦いも担い、3つの身分が混ざった
- 辛い労働に「神のために働く」という肯定的な意味が与えられた
- 規則正しい生活や道具の発明が、後の資本主義の種になった
- 禁欲が富を生み、腐敗し、新しい修道院ができるループが繰り返された





