保護猫とジブリから考える「純粋経験の濃さ」
本編に入る前に、しながわが最近の出来事を語ります。1ヶ月ほど家に保護猫がいて、この日ちょうど貰い手が見つかり送り出したところでした。
送り出したあと、小一の息子に「猫ちゃんいなくなって寂しいね」と声をかけたところ、返ってきた言葉が印象的だったといいます。
でもなんかテレビ見てるとそのことも忘れちゃうな
息子はそのときジブリ作品を見ていました。しながわは、没入している瞬間こそ純粋経験 ── 西田幾多郎が『善の研究』で提示した概念。主観と客観が分かれる前の、直接的な経験そのものを指すだと感じたと話します。
ここでタッシーが、オープンワールドのゲームに没頭するのも純粋経験なのか、それは人生にとって良いのか悪いのか、と問いを投げます。
しながわは、それは西田の理論で説明できると答えます。ゲームもテレビも純粋経験ではあるものの、その「濃さ」が違うのだと言います。
自分が本当に大好きな音楽を演奏してる瞬間の純粋経験の濃さと、その誰かが作ったゲームに熱中してそれをやってる時の純粋経験の濃さは結構違うんじゃないかな
純粋経験とは、単に主客が分かれていないだけでなく、自分の人生を実現し、本来の自己を明らかにしていく場だと、しながわは前回の内容を踏まえて整理します。
さらに、それが本当の純粋経験かは人によって違うとも付け加えます。誰かに乗せられてやらされているだけなら濃さは薄く、その人の個性を最大限に生かしているなら濃い純粋経験になるという見方です。
タッシーは格闘ゲームのプロゲーマー、ウメハラを例に出します。道を極めた人の言動が哲学的に見えるのは、濃い純粋経験をしているからではないか、という話に落ち着きました。
京大に来てよかった理由と「貧民窟の伝建先生」
雑談を終え、話は人生編に入ります。時代の背景として、1910年前後は前年に伊藤博文が暗殺され、1911年に『善の研究』が出版され、中国では辛亥革命が起きた時期だと確認されます。
西田にとって京大赴任の何より大きな利点は、海外の文献が手に取りやすくなったことでした。当時の帝国大学には情報も文献も集まってきたためです。
西田は本当は留学もしたかったものの、もう留学している場合ではないと考え、日本で邁進していったといいます。
ある人物は、京大に来た後の西田をこう表現しました。
魚の鯉が古池から洋々たる江河に放たれ、銀の鱗をひらめかして急な流れを遡っていく、そういう躍動的な光景を眼前にするような印象を受ける
一方で、暮らし向きは華やかではありませんでした。最初の住まいは京都市吉田の近衛の貸家で、新聞には「貧民窟の中に住む伝建先生」というタイトルで取り上げられたそうです。
教授に就任してもなお、質素な住まいだったことがうかがえます。西田自身は手紙で、東京は恋しいが仕事はこれまでと違って非常に面白い、と綴っていました。
十年かけて手に入れた書斎と、抜けなかった貧しさ
その後、西田は自分が京都にいた頃に住んでいた辺りをうろうろしていた、としながわは親しみを込めて語ります。鴨川デルタのある一帯です。
当時の弟子は、大学への往復で西田の家を見かけたときの様子を書き残しています。
廊下を往復する先生の姿は正装というようなものではなく悲惨な感じで、私は檻の中を歩くライオンを連想した
威圧感がありつつも、歩きながら深く考え込んでいる姿だったと解釈されます。
そこに十年住んだ後、1922年に左京区田中門前町へ移り、一軒家を買えたそうです。ここでようやく落ち着いて暮らせるようになりました。
タッシーは、なぜ京都帝国大学の教授ともあろう人が家を持つのに十年もかかったのか、と疑問を口にします。
しながわは、西田は他の人に奉仕したりしてお金がなかったようだと答えます。家族も多く、給料が低いわけではなくても余裕はなかったと考えられます。
この家でようやく西田は、写真でも見られる12畳ほどの洋間の書斎を持ちました。京大の教授になったのは40歳ごろで、時の人になってもなお金銭的には苦労が続いていたのです。
一緒に探究へ連れていく講義と「霊感を与える」時間
大学での講義はどうだったのでしょうか。禅の研究が出版される前に赴任した西田を見た学生は、その第一印象を書き残しています。
ひどく陰鬱に見える哲学者で、直ちに尋常ならざる域を感じた、というものでした。
哲学概論の初回では、立ったまま少し前かがみになり、ノートを顔に触れるほど近づけていたといいます。目が悪かったためと考えられます。
ただし、その印象は暗さだけではありませんでした。
今まで聞いたどの講義とも不思議に違った、人間味というか温かさも段違いだったような深さがあると感じられた
沈鬱ではあったが決して陰鬱ではなく、力強く内にこもった力に満ちていた、とも書かれています。
しながわは、証言を総合すると、西田は興味のない世間話には無愛想だが、自分のテーマになると饒舌になる人だったと整理します。
乗ってくると、足を力強く踏みしめ、壇上を左端から右端へ絶えず往復し、近眼の眼鏡の奥から鋭い眼光を投げかけながら話したそうです。
その語り口は、あらかじめ整理して説明するというより、考えながら話すものでした。だからこそ人を巻き込む力があったといいます。
説明するんじゃなく、一緒に探究するみたいな感じ
講義はまとまっておらず普通にノートを取るのは無理でしたが、聞いている者は知らないうちにインスパイアされたといいます。
後にノーベル賞を受けた湯川秀樹も西田の講義を熱心に聞き、西田哲学に最も惹かれたと語っているそうです。
むっつり黙る先生に、なぜ弟子が集まったのか
授業の外での西田は、懇切丁寧に何でも教えてくれるタイプではありませんでした。質問しても「もう少し考えてみたまえ」と突き放すこともあったといいます。
ある弟子は、火鉢を挟んで座っても西田はむっつりと黙っていた、と書き残しています。何かを聞くとポツポツ答えるが、すぐにまた沈黙してしまうのです。
この弟子はこれに懲りて、卒業するまで一度も質問しなかったそうです。それでも西田のもとには、多くの弟子が集まり、こうした思い出を嬉しげに書き残しました。
タッシーは、饒舌でも社交的でもないのに、ポツポツ語る言葉に説得力があって惹きつけられる人はいる、と共感を示します。
しながわは、西田を中心とした京都学派 ── 西田幾多郎を中心に、京都帝国大学の哲学者たちが形づくった学派。西田哲学に賛同する者だけでなく、批判的な立場の者も含まれていたも、西田が手取り足取り教えた集団ではなかったと説明します。
専門はさまざまで、必ずしも西田的な哲学を素晴らしいと思う人ばかりではありませんでした。最も有名な弟子の一人である田辺元は、西田を厳しく批判していたのです。
教えるというよりかは一緒に考えるとか、相互に批判し合って、自分たちの思想を考えていくみたいな、そういう熱気と緊張がある人たちが京都学派って呼ばれてる
つまり京都学派とは、西田の意見に賛成か反対かで区切られた集団ではなく、互いに批判し合いながら思想を練り上げる場だったと考えられます。
賛否で評価しない師と、欠点ごと才を愛する目
タッシーは、高校教師時代の熱血なイメージとは違う人物像だと指摘します。年齢を重ね、自分の思索が中心になっていたのではないか、という見立てです。
しながわは、静かな闘志や情熱は伝わりつつも、弟子を自由にさせていたと応じます。まったく違う思想に進む弟子もいましたが、西田はそれを笑って受け止めていたそうです。
つまり、自分の意見に賛成か反対かで弟子を評価しなかったのです。その人なりの統一性やみなぎる力を出せば、それでよいという姿勢でした。
そのうえで、しながわはこんな弟子の証言も紹介します。
先生は学才の不足をもって人間の真実を捨てなかった。また、人間の欠陥に関わらず、その学才を愛することができた
どこか欠けていても、その学才を見出す力に長けていた、という証言です。しながわは、この点で西田に及ぶ人は少ないだろうと弟子が書いていることに触れます。
二人は、この姿に吉田松陰的なところもあると話しますが、松陰のようにずっと熱く行動し続けるタイプではない、とも付け加えました。
「日本の京都大学」——田辺元を口説いた手紙
当時の教授には、優秀な人材をいかに大学へ招くかという仕事もありました。しながわは、これを現代の採用活動になぞらえます。
象徴的なのが、田辺元を招へいするときのやり取りです。田辺は京大出身ではなく、自分が赴任すると京大出身者の席が埋まってしまうのでは、と遠慮を示しました。
これに対し、西田は手紙で次のように返したといいます。
小生は常に京都大学は京都の京都大学にあらずして、日本の京都大学なることを考えていたいと存じおり候
出身にこだわる小さな話ではなく、日本の将来のためにあなたが必要だ、と伝える口説き文句でした。しながわは、まるで社長が採用で人を口説くようだと語ります。
弟子への愛情がうかがえる話は他にもあります。後に有名になる三木清が『善の研究』に感動して訪ねてきたとき、西田は優秀な若者がわざわざ哲学の道に来ることを嬉しそうに語っていたそうです。
寡黙で無愛想でありながら、弟子への深い愛情を持っていた。この一見矛盾する姿こそが、多くの人を惹きつけたと考えられます。
「多くではなく、しかし深く」西田の読書論
最後に、西田が中学生向けに書いた「読書のしおり」という文章から、読書観が紹介されます。
多くの人は読書は単に知識を得るに過ぎぬとのみ思うが、真摯なる読書は、読書そのことが意志を鍛錬し、人物を作るに益がある
西田は、多くの本をたくさん読むことを戒めました。むしろ、険しい坂をよじ登るように、少し難解な良書を繰り返し精読することが大事だと説きます。
本物の哲学者には必ず独自の考え方があり、それはその哲学者の「背骨」をつかむようなものだといいます。背骨のない本はくだらないからやめておけ、とまで言い切っています。
逆に背骨さえつかめば、その人の本をすべて読む必要はないとも断言していました。実際、新しい家にはアウグスティヌスやプラトンの全集くらいしかなく、哲学者の全集を揃えて読み尽くすようなことはしていなかったそうです。
しながわは、この姿勢に強く共感すると話します。西田の読書の標語は次の一言でした。
いじられ、慕われた哲学者と、次回への頭出し
タッシーは、時の人になった西田の描写が意外にも貧乏くさく、陰湿だと書かれている一方で、広い書斎のある家に引っ越し、講義には不思議な魅力があった、と今回を振り返ります。
しながわは、弟子たちの後日談を読むと西田はかなり「いじられている」と話します。貧相で、たまにキレて、ポツポツ話すのに愛される人物だったのです。
その愛されキャラみたいなとこもあって、ここタシさんに通じるかもなと思いました
これだけ多くの弟子が手紙や後日談を残していること自体が、西田がいかに慕われていたかを物語っています。
最後に、次回への頭出しがされます。純粋経験は言葉にできないのに、哲学するとは言葉で語ることです。しながわは、この矛盾にどう向き合うかから、西田哲学がさらに深まっていくと予告します。
まとめ
今回は、京都帝国大学に赴任した後の西田幾多郎の暮らしと講義を、弟子たちの証言を中心にたどりました。質素な生活と、寡黙でありながら人を惹きつける人物像が浮かび上がりました。
- 京大赴任の最大の利点は海外文献の入手しやすさで、西田は留学よりも日本での研究に邁進した
- 時の人となってもなお生活は質素で、落ち着いた書斎を持つまでに十年を要した
- 講義は考えながら語る「一緒に探究する」スタイルで、湯川秀樹ら多くの人を惹きつけた
- 京都学派は賛否で括られた集団ではなく、互いに批判し合いながら思想を練り上げる場だった
- 西田の読書観は「多くではなくともしかし深く」で、良書の背骨をつかむ精読を重んじた



