塩尻生まれ、7人家族で育った少年時代
安達さんは塩尻市の出身で、生まれたのは松本市の国立病院でした。
松本ローカルを名乗ると、松本出身の知人から「お前ローカルじゃないだろ、塩尻だし」と冗談半分に言われるそうです。
インスタとかで松本ローカルとか言うと、お前ローカルじゃないだろって。塩尻だしって結構厳しめに真顔で言われるという。まあ冗談半分だと思うんだけど。
家族はお父さん、お母さん、弟2人、それに祖父と祖母を加えた7人暮らしでした。両親はともにエプソンに勤めていたそうです。
父方は名古屋の出身で、伊勢湾台風で家が流されたことをきっかけに、祖父の代でこちらへ移り住んできたと話されています。
3歳下の弟は現在「安達工業」を営む一人親方で、現場業務を請け負っています。6つ下の弟は学校の先生をしているそうです。
俺と弟がまあ本当にね、喧嘩しまくってたから、それ見ていつも泣いてたんで、まあ大人しくなっちゃったのかなという気は。
女子に守られた、勉強はできるが運動音痴な子ども
安達さんは自分を「塩尻の神童と呼ばれてないけど」勉強はよくできたと振り返ります。ただし運動はまるでダメで、スクールカーストの下の方だったそうです。
背が小さく病弱だったものの、いじめられることはなく、なぜか女子が守ってくれたと言います。
象徴的なのが、小学校低学年でのある一件です。古くて怖いトイレを我慢していたところ、さようならの起立の瞬間におしっこを漏らしてしまいました。
男子がさ、うわぁ、真子がおしっこ漏らしてる、うわぁみたいになるじゃん。そしたら女子がバッて来て、やめなさいよ、真子大丈夫とかつって、なんかこう庇ってくれて。
藤原さんはこの話を「漫画じゃん」と評します。母性本能をくすぐる、ナチュラルにモテる子だったのかもしれません。
中学に上がると、運動ができないとモテない空気の中で、勉強と絵を居場所にしていきます。ドラゴンボールの模写をGペンで描くようなインドア少年だったそうです。
百メートルで骨折、スキー合宿のトラウマ
運動音痴を物語るエピソードが、中学一年の冬に友達と行ったスキー合宿です。
初めてのスキーなのに一番上まで連れて行かれ、ハの字で降りればいいと言われるも止まれず、滑り出してすぐに転倒。すねの骨を折ってしまいました。
リフト一本目の多分百メーターも滑ってないね。もう滑り始めてすぐにボキッと折れたから。ほんでもう一番下までね、ワーンでこうね、寝そべって後ろで連れてかれて。
麓の病院ではなかなかレントゲンも撮ってもらえず、両親の車で塩尻まで戻り、近所の病院でやっと骨折が確認されたそうです。
高校一年のスキー合宿でも一番下のグレードにいながらついていけず、一人だけ板を脱いで走って追いかけたと言います。これがトラウマになったそうです。
なお、現在はスノーボードに毎週行くほど克服しているものの、スキーは今もできないだろうと話されています。
ケミカルジーンズからの脱却、目覚めたおしゃれ
ファッションに目覚めたのも高校からでした。私服校の蟻ヶ崎高校に入学しますが、当時の服装はかなりのものだったと自ら振り返ります。
ケミカルジーンズにアトムのTシャツ、緑のバドワイザーのショルダーバッグ、プロケッズという出で立ちで登校し、おしゃれな同級生にバカにされたそうです。
これならいけるだろみたいな。いけてるかなみたいな感じで行ったら、まあやっぱみんな蟻高の子ってオシャレな子が多くて、すっげえバカにされて。
当時はウエストがゴム入りのケミカルがさらにダサいとされ、ゴム入りでない自分に少しほっとしたという話もありました。
転機はバレー部です。同じくらいの身長のセッターの先輩から服を買い、雑誌を見てパルコで買い物をするようになります。
70年代ファッションが特集された雑誌を見て、ラッパズボンに襟を立てた一式を揃えて登校したこともあったそうです。
俺的にはバシッみたいな。決まってるっしょみたいな感じなんだけど、みんな変わりすぎてって。
音楽もボン・ジョヴィやデフ・レパードといった洋楽を好むようになります。ヒップホップやストリートは、まだこの時期には入っていませんでした。
一方で部活に打ち込みすぎて勉強からは離れます。合わない眼鏡で黒板の字が見えず、授業についていけなくなったことがきっかけだったと話されています。
最初でつまずいちゃったもんだから、もういいやってなって。勉強しない理由を部活に打ち込んでるということにして。
教師を目指した大学時代とカメラ屋のバイト
高校卒業後は一浪して、東京の大学の教育学部を選びます。目指していたのは意外にも教師でした。
中学時代の先生への憧れや、部活の顧問をやりたいという思いがあったそうです。今も中高社会科の教員免許を持っています。
大学は八王子付近を志望していた彼女に合わせ、多摩地区の明星大学へ進学。高幡不動に一人暮らしをしていました。
大学時代もバレーボールを続けつつ、途中から高幡不動のカメラ屋でアルバイトを始めます。フィルムの現像やプリントを安くできるのが動機でした。
一方で合コンや飲み会にお金を使い込み、仕送りや家賃も滞納。結局、大家の事情でアパートを出ることになり、滞納分がチャラになる幸運もあったそうです。
バイトしてるけど使い込んじゃうわけ。仕送りも使い込んじゃうわけ。だから家賃が滞納されるわけ。
ここでホストたちの学生時代の話も挟まれます。百瀬さんは浅草のお好み焼き屋「染太郎」でバイトし、藤原さんはジョナサンで働いていたそうです。
藤原さんは、コーヒー一杯で長時間居座る大学生を追い出そうと、冬に冷房を18度に設定した「南極大作戦」を明かし、笑いを誘いました。
ニューヨーク行きへ、飲食店を志すきっかけ
普通の文系大学生だった安達さんが、なぜニューヨークへ向かうのか。きっかけはカメラ屋の若社長夫妻でした。
10歳ほど上のおしゃれな夫妻に可愛がられ、店をカフェのようにしたいという話が出ます。当時は第一次カフェブームの真っ只中でした。
大学の仲間とも「自分たちの場所を作りたいよね」という機運が高まっていたと話されています。
そんな中、カメラ屋の向かいのケーキ屋を通じて、ニューヨークでカフェを営む人物とつながります。日本に帰国したその人に会いに行き、学生ビザで来るよう誘われました。
もともとはハリウッドランチマーケットが好きでアパレルを志し、BEAMSやユナイテッドアローズを受けていたものの落ちてしまった経緯もあったそうです。
なんでかっていうと、あの、まあ中学の時の先生が良くて。でもアパレルは全然おしゃれでも何でもなかったから、好きなだけで落とされてどうしようかなっていう時に、まあカフェかみたいな、飲食店やろうみたいな。
こうしてニューヨーク行きが決まりますが、語学学校を調べてアプライするところから、また一年ほどかかったと話されています。詳細は次回に持ち越しとなりました。
最後に安達さんは、ソースダイナーはおしゃれな人だけの店ではないと語ります。作業着で仕事帰りに来てくれる人がむしろ嬉しいそうです。
この人にこう、安くないバーガーをさ、でもうまいんだよみたいな。ビールちょっと高いけど、これ飲んでみようぜみたいな。で、パクって食べてうめえみたいな。たまんないの。
まとめ
クールなダイナー店主というイメージとは裏腹に、安達さんの原点は勉強と漫画が好きなインドア少年でした。女子に守られた小学校時代、骨折したスキー合宿、ケミカルジーンズからの脱却、そして教師志望からカフェ修行へ。次回はいよいよニューヨーク編に入ります。
- 塩尻生まれ、7人家族で育った運動音痴で勉強のできる少年だった
- 女子に守られた小学生時代や、スキー合宿での骨折など意外なエピソードが語られた
- 高校でファッションに目覚め、部活と洋楽を通じておしゃれの階段を上っていった
- 大学では教師を目指しつつカメラ屋でバイト、飲食店への関心が芽生えた
- カメラ屋夫妻とカフェブームを背景に、ニューヨーク修行へと道が開けていく
