人間の体の耐用年数は何歳まで?
この回は、おぐりんが投げかけた素朴な問いから始まります。
人間の体の耐用年数って、どっちなんだろうね。
もともと平均寿命が四十歳ほどだった時代から、今は八十歳ほどまで延びています。これは本来の耐用年数を医療や食で無理に延ばした結果なのか、それとも本来八十年もつ体が当時は栄養不足で四十年しか発揮できていなかったのか、という問いです。
四十ぐらいなんじゃない。一応、生物の寿命としては。
目などの部品を考えると、体そのものの耐用年数は四十年ほどではないか、というのがえばちゃんの見立てです。
それを聞いたおぐりんは「じゃあ四十でよくない?」と返します。ただし、えばちゃんは社会の側の事情を挙げます。
四十で亡くなると子供が路頭に迷う年齢じゃない。働き始めるのも二十二ぐらいだし。
体の耐用年数と社会の制度設計がずれていて、体のメンテナンスを制度側に合わせている、という整理になりました。
主体性と自主性は違う
ここから、この回の本題である「主体性と自主性の違い」に入ります。
おぐりんは、この二つの言葉を次のように区別して考えていると話します。
目的や計画から自分で考え、自分の判断と責任で行動すること
決められたルールや課題の範囲内で、指示される前に率先して行動すること
そのうえで、おぐりんは自分について一つの気づきを語ります。職場でも、決められた範囲で率先して動く自主性は発揮してきた。けれど、所属する組織に対して主体性を発揮している場所がないのではないか、というものです。
あ、僕、主体性がないんだなあっていうことが、まあ一個気づきとしてあって。
えばちゃんも、自分を振り返って同じような発見をします。
今思ったら、決められたルールや課題の範囲内で率先して行動するっていうことしかしてなかったなって思う。
ただし、えばちゃんはルールを決められること自体があまり好きではないかもしれない、とも話します。「私は私、あなたはあなた」が先にある感覚だと、おぐりんは受け止めていました。
人間に増えて欲しくない、という無力感
話は、おぐりんがよく口にするという「毒饅頭」の話へ移ります。冷房をつけ、ハンバーグを食べる。何かを循環させる側ではなく、消費する側でしかない、という感覚です。
何か一種の諦めのようなものが働いているのかもしれない。
一人の行動からしか変わらないので、植林や土壌を豊かにする活動に取り組む選択肢もある。それでも「自分だけがやっても変わらない」という諦めがある、とおぐりんは言います。
これに対してえばちゃんは、自分は木を植えていないしエアコンも二十四度でつけている、と前置きしたうえで、別の分野で社会活動をしていると話します。
社会が良くなれと思って別にやってないけど、循環の中にはいる気がするんだよね。
このラジオもその一つで、誰かの元に届くと面白い、おぐりんの面白さが届くと面白い、という気持ちでやっていると言います。
ここでおぐりんは、届く対象が人間しかいないことに引っかかります。人間の活動に寄りすぎていないか、という問いです。えばちゃんは、人間を含む全体があり、そのなかで自分が興味を持って直接関わっているのが人間という分野なだけだ、と答えます。
おぐりんは、人間は速くて強くて数が多い、と続けます。ワシが増えれば捕食される動植物が減り、やがてワシの個体数も自然に制御される。けれど人間はその循環が起きない。だから考えるのをやめて無気力になってしまう、という流れです。
えばちゃんは、この因果を逆に読み解きます。
もともと無力感というものがあって。それを持ったまま人間社会を見ていて、自分の無力感をそこに持ってきてるような感じがする。
おぐりんも「それはあると思う」と認めます。主体性、自己肯定感、無力感は根っこが同じで、絡み合っているのではないか、というのがえばちゃんの見立てです。
びっくり箱は自分で作りたい
えばちゃんは、主体性をこんなたとえで表現します。
びっくり箱はさ、自分で作りたいんだよ。パーティーは行くより開いた方が楽しいんだよ。
これを受けて、おぐりんは自分の過去を振り返り始めます。一貫校で育ち、同じコミュニティの人としか会ってこなかった。大学生のとき、横浜の政治家の事務所に集う不思議な先輩たちと出会い、自分が「レールの上だけ歩いてきたつまらない人間」だと感じたと言います。
そのころヒッチハイクの旅に出たおぐりんは、当時のmixiの日記に「幽偏旅行」「優しく変わる旅行」というタイトルを付けていました。その時点で、自分は優しい存在ではない、真っ当な生き物ではないという感覚があったのではないか、と振り返ります。
ベトナムで孤児院を訪ねるボランティアに行くかどうかも、おぐりんは悩みました。その悩みどころが、えばちゃんとはっきり違っていました。
もし孤児院に行くとしたら、何に悩む?
えばちゃんは、愛情に飢えた子たちを前にして、自分が過剰に期待をさせてしまうかもしれないことが怖い、と答えます。自分はそんなに情に深いタイプではないから、という理由です。一方おぐりんは、いいことをしている自分を確認するために行こうとしているのではないか、という偽善への引っかかりに悩んでいました。
現地では、施設の子どもたちに厳しく接する職員の姿が印象に残ったと言います。子どもたちは中学三年になると施設を出て、もっと厳しい社会に出ていく。だから甘えさせない。代わりに、一緒に遊んでくれる外からの人が「楽しい相手」という役割を担う、と説明されたそうです。
点で終わる感覚と、リンゴの木のたとえ
これだけ鮮明に覚えているのに、おぐりんはそれらの経験が「点で終わってしまう」と感じています。今の自分の人生の周りに、何もつながっていない気がする、と。
ヒッチハイクの途中で乗せてもらった夫婦や、若い先輩たちからかけられた言葉も同じでした。
あなたのように育つことができなかった人たちのために何ができるのか、そういう仕事に就いてくれたら嬉しい、みたいなことを言ってもらった経験もあるんだよね。
受け取った記憶はたくさんあるのに、受け取ったまま終わってしまっている。どの階層に対して自分がそれに取り組むのかを決めていないから、漠然と「人間がたくさんうざい」となって無気力に陥るのではないか、とおぐりんは分析します。
これにえばちゃんは、はっきり異を唱えます。
あんまり点になってるって思わない、その話を聞いて。
インプットの後、少しずつ発露する人もいれば、後からまとめて出る人もいる。専門学校で学んだ技術をその職業に使わなかったとしても、そこで培った人間性や経験は無駄ではなく、いろんな形で他の人に渡る、という考え方です。
さらにえばちゃんは、受け取ったものを返さなきゃという感覚は「呪いっぽい」と指摘し、リンゴの木のたとえを持ち出します。
土から吸った栄養が、そのままの形で出てくるわけではありません。リンゴの木はもともとリンゴの木だから、リンゴの実しか作れない。栄養は、自分の実を作る力に使えばいい、という話です。
土の栄養を吸う
他者から受け取ったエネルギーや経験を得る段階
リンゴの木として育つ
受け取ったものを、もともとの自分らしさを育てる力に変える
リンゴの実を作る
土の栄養そのままではなく、自分にしか作れない形で返す
おぐりんは、その実が「毒リンゴ」だと思っている、と返します。自分は何の木で、何の実なのか。その問いに答えを置けないこと自体が、主体性のなさなのではないか、とえばちゃんは受け止めます。
さなぎの中から出てこない
話は、さなぎと蝶のたとえへ移ります。さなぎの中では、細胞が一度ぐちゃぐちゃになり、再配置されるとえばちゃんは言います。だから生き物は、同じ連続したものではいられない、と。
なんか、自分で繭の中から、さなぎの中から出てこないようにしてる感じがする。もう出てもいいのに、さなぎの中の方が安全だなにゅって。
おぐりんは、主体性がないから誰かが殻を取ってくれないと羽ばたけないかもしれない、と返します。えばちゃんの答えははっきりしています。
自分の人生の選択肢を自分で決めるんだよ。もう大人なんだから。
「教えてもらってない」「受け取ってない」と繰り返すおぐりんに、えばちゃんは、育てられ方は大人になれば関係なくなるのに、自分でなんとかしなければいけない状態はずっと続く、と話します。
俺が降らせた雨、俺が連れてきた太陽
最後に、二人の世界の見え方の違いがはっきり現れます。
おぐりんは、自分が目黒に「申し訳ないけど降り立ってしまった」という感覚で街を見ています。しかも自分が行くと東京に雨が降る、雨を連れて行ってしまう、とも言います。
えばちゃんは、その言い方に潜む矛盾を鮮やかに言い当てます。
自分が目黒に来てしまった、お邪魔させてもらってるなのにも関わらず、雨が降ってるのは自分のせいなんだね。降らせてるのは自分なんだよね。
自分を申し訳ない存在だと感じる自己否定と、雨まで自分が降らせていると考える傲慢さ。この二つが同居していることに、おぐりんは戸惑います。えばちゃんは、片方があるからもう片方がある、罪悪感とも言える、と整理します。
えばちゃんは最後に、雨で死んだ蟻もいるかもしれないが、雨で芽吹いた芽もあるかもしれない、と添えます。
もうちょっと主人公なら、主人公っぽくいきたかったんだけどな。
まとめ
この回は、主体性のなさに悩むおぐりんの言葉を、えばちゃんが別の角度から一つずつほどいていく対話でした。答えを出すというより、悩みの輪郭を二人で確かめていく時間だったと言えます。
- 主体性は自分の判断と責任で行動すること、自主性は決められた範囲で率先して動くことだと区別された
- 人間が増えるのを止められないという無力感の背景に、もともとある無力感があるのではないかとえばちゃんは見た
- 受け取ったものを返さなきゃという感覚は呪いに近く、リンゴの木は自分にしか作れない実を作ればいいとたとえられた
- さなぎの中から自分で出てこないようにしているだけで、選択肢は自分で決めるものだと投げかけられた
- 自分を申し訳ない存在と感じる自己否定と、雨まで自分が降らせたと考える傲慢さは、根が同じものとして語られた
