犬はずっと「ワンワン」だったのか?
この回は、水野さんの「動物の鳴き声には、当時の人々の世相や雰囲気が反映される」という主張から始まります。堀元さんは「コケコッコーはコケコッコーでしょう」と、鳴き声に人間の認識は入らないという立場で応じます。
ワンワンは、ずっとワンワンでしょ。
全然違いますね。
水野さんによると、犬の鳴き声は昔の文学では別の音で書かれていました。平安時代後期の歴史物語である大鏡 ── 平安時代後期に成立したとされる歴史物語。大宅世継と夏山繁樹という長寿の老人二人が、昔の出来事を語り合う形式で書かれていますでは、犬の鳴き声が「ひよ」と記されています。
当時は濁点を必ずしも付けなかったため、この「ひよ」は実際には「びよ」に近い音だったと考えられるそうです。堀元さんは最初「ひよこと間違えてない?」と疑いますが、江戸時代の「びょう」という表記を聞くと、英語の「わうわう」に近いと納得します。
水野さんの説明では、江戸時代に「ワン」が登場し、それまでの「びょう」を駆逐していきました。いまでも島根県の松江市や高知県、長崎県長崎市などでは、犬の鳴き声として「びょう」という語形が残っているといいます。
地方に昔の擬音語が残る例は、犬だけではありません。牛の鳴き声は今は「モー」が一般的ですが、秋田県の旧下浜村や石川県の旧美川町、奄美の一部地域では「む」「むうむう」と表すそうです。堀元さんは、酪農家が雑誌『ムー』を牛の雑誌と勘違いするのでは、と冗談で返しています。
「びよ」が「ワン」に変わった理由を推理する
水野さんは、犬の鳴き声がなぜ江戸時代に「ワン」へ変わったのかという問いを、クイズとして堀元さんに出します。もともと番組内の企画で使おうとしていたものの、事実ではなく仮説なので出しにくかった、という前置き付きです。
この仮説は、オノマトペ研究で知られる山口仲美先生が本の中で挙げているものです。水野さんは、確定的には言えないけれど魅力的な説として紹介しています。
堀元さんの最初の推理は、影響力のある描き手が広めたという説です。手塚治虫が新しい表現を広めた話を例に、葛飾北斎のような人物が「ワンワン」と描いたことで定着したのでは、と考えます。
水野さんはこの例に反応し、手塚治虫が「シーン」を発明したという話は正確ではないと補足します。それより前に用例があり、手塚治虫は漫画に導入して有名にした、というのが正確だそうです。
イライラするのやめてもらっていいですか。漫画オノマトペについて詳しいから、ちょっと俗説にイライラしてる感じがすごいあります。
堀元さんはこの流れで「漫画オノマトペの回をやるべきだ」と提案しますが、水野さんは「引きがない」とはぐらかし続けます。このやりとりは回の後半まで続くお約束になります。
次に堀元さんは、開国期にアメリカ人が「ワン・ドッグ」と言ったのを聞いて広まったという、本人も「絶対違う」と認める説を披露します。水野さんは「時間の無駄です」と切り捨てつつ、エプロンの語源のような異分析 ── 単語の切れ目を誤って解釈し、新しい語形が生まれる現象。英語の「a napron」が「an apron」と受け取られ、エプロンという語が生まれたのが代表例ですの実例もあると紹介します。
野犬が飼い犬になって、吠え方が変わった?
山口先生の仮説の核心は、江戸時代に人間の認識ではなく、犬そのものの性質が変わったのではないか、というものです。堀元さんは「犬が一瞬で変わることはない。変わるなら人間の認識の方でしょ」と反論します。
そこで水野さんが持ち出すのが野犬です。山口先生の説では、野生の犬は逃亡はするもののワンワンとは吠えず、ワンワンと吠えるのは生活が安定して縄張りができることと関係があるらしいといいます。
捉えて飼ってくると吠え方がちょっと変わる。
江戸時代には実際に野犬がいて、捨て子を襲ったり、人間の死体の肉を食べたりしていたという記述もあるそうです。その犬たちが飼われるようになれば、鳴き声の質も変わりうる、という見立てです。
水野さんは家畜化の例として、ロシアの生物学者ドミトリー・ベリャーエフ ── 旧ソ連の遺伝学者。ギンギツネのうち人に友好的な個体だけを選んで交配させ、家畜化による体や行動の変化を調べた長期実験で知られますのキツネの実験を挙げます。人間に友好的な個体だけを交配させると、数世代で警戒心が薄れ、目が垂れる、尻尾が巻くといった犬に似た特徴が現れたといいます。
野犬が多い
江戸時代初期には野犬がいて、ワンワンとは吠えなかったとされる
家畜化が進む
飼われる犬が増え、生活が安定して縄張りができる
吠え方が変わる
ワンワンと吠える犬が増える
写す言葉も変わる
「びよ」「びょう」から「ワン」へ
ただし水野さんは、江戸時代に実際に家畜化が進んだのかは自分では裏取りしていない、と断ったうえで話しています。そのうえで、もしそうなら、鳴き声の表記は雰囲気で変わったのではなく、社会の変化を反映していると言える、とまとめます。
一人の漫画家が流行らせたとかじゃなくて、もうそもそも犬というものの性質が変わったっていう世界の変化、日本の変化をちゃんと捉えている。
奈良時代の鳥たちは何を語りかけていたか
ここから話は、前回扱った鵺(トラツグミ)の回を踏まえた、奈良時代と平安時代の聞きなしの比較に移ります。堀元さんは平安時代について、疫病が流行して死者があふれ、道端に遺体が転がるほど大変な時代だったという知識を持ち出します。
水野さんもこれに同意し、平安時代は閉鎖的で不安感が漂う時代、奈良時代はそこまで閉鎖的ではなかったと整理します。その違いが鳴き声の聞きなしに表れている、というのがここからの話です。
聞きなしとは、鳴き声を文字にしたもののうち、人間の言葉に聞こえるように語呂合わせ的に写したものを指します。奈良時代のカラスは「いざわいざわ」と聞きなされ、これは「さあさあ」と人を促す意味だったそうです。
堀元さんはここで、クイズノックの伊沢拓司さんの台頭を予言していたのかとボケて、水野さんに「そんなにバカなんですか?」と返されています。
奈良時代の聞きなしは他にもあります。カラスの「ころく」は「自分から来るよ」、キツネの「来む」は「来るであろう」、ホトトギスの「時過ぎにけり」は「時期が過ぎてしまった」という意味でした。カジカガエルの「かくしもがも」は「ずっとこうしていたい」という意味だといいます。
水野さんは、奈良時代の聞きなしには、相手に何かを教えたり訴えかけたりする言葉に聞く傾向があると指摘します。鳴き声をうるさいと感じるのではなく、思う人の気持ちに重ねて歌を詠むような感性があった、という見方です。
カエルがでー鳴いてさ、うるせえとかって思うような感じじゃなくて、なんかそれを例えば自分が思ってる人の気持ちみたいに当てはめて、歌を詠んだりとか。
平安の鳥はなぜ悲しげに鳴くのか
平安時代になると、聞きなしの雰囲気は大きく変わります。前回の回で扱ったトラツグミは「死」や「火」と鳴くように聞かれるようになりました。
キジの「ほろほろ」「ほろろ」、スズメの「しうしう」は、人が涙を流して泣く様子を表していたそうです。雁の「かり」という鳴き声も、「この世はかりそめのものだ」という意味に聞きなされていました。
ニヒリズムがすごいな。
水野さんは、原因不明の疫病で人々がばたばた死んでいくのを見れば、鳴き声自体は奈良時代と変わらなくても、そう聞こえたのだろうと説明します。
奈良時代に「時過ぎにけり」と聞かれたホトトギスも、平安時代には「たひらはちよ(太平は千代)」と聞きなされました。平安な世が永遠に続いてほしいという願いの言葉です。「ともに千代に」と、互いに永遠にいられるよう願う聞きなしもあったそうです。
「さあさあ」「来るよ」「ずっとこうしていたい」など、相手に語りかけ訴える言葉
「死」「ほろほろ(涙)」「この世はかりそめ」「太平は千代」など、不安や無常、永続への願い
堀元さんは「ともに千代に」に対して、コブクロの曲がホトトギスに着想を得たのではとボケ、ホトトギスが著作権訴訟を起こすという話にまで膨らませています。
鳴き声は時代の空気を映す鏡になる
水野さんは平安時代の例をまとめ、涙や無常、平和の永続を願う聞きなしは、明日死ぬかもしれないという貴族たちの不安が和歌などの文学に反映されたものだと説明します。
動物の鳴き声っていうのは、人間の心を反映させて聞きなしていると言える。
当初は「犬の鳴き声が変わった話は地味では」と思っていた堀元さんも、ここで「面白いぞ」と認めます。水野さんは、聞きなしは動物の声を人間が写すものなので、そこに当時の世相が驚くほど反映されている、と強調します。
堀元さんは、忌野清志郎さんが「ポップソングだけが時代の空気をそのまま表現している」という趣旨のことを言っていたと思い出し、聞きなしも時代の空気を映していると反論できる、と冗談めかして話します。水野さんは、それなら広告コピーや雑誌も、と反論がいくらでも来ると返しています。
このあと水野さんがまた「漫画オノマトペは伸びない」と言い出し、堀元さんは『ジョジョの奇妙な冒険』のカエルを殴る音「メメタァ」などを例に、やってほしいと食い下がります。
写実の中世、笑いの江戸へ
奈良・平安以降の流れについて、水野さんは駆け足で説明します。山口先生の説では、鎌倉・室町時代には聞きなしが写実的になり、その理由に狂言 ── 能と並んで演じられる日本の伝統芸能。台詞中心の喜劇で、庶民的な題材や笑いを特徴としますの存在が挙げられています。
堀元さんは芝公園で能を観た際、間に挟まった狂言の演目『附子』が笑いながら観られて面白かったと振り返ります。毒だと言われた壺の中身を食べてしまう話で、一休さんの話の元ネタにあたるものです。
狂言は音声で伝える芸能なので、「時過ぎにけり」と鳴いたと言うより、ホトトギスの鳴き声をリアルに真似たほうが芸として映えます。水野さんは、落語で蕎麦をすする音を写実的に演じるのと同じ感覚ではないか、と話しています。
江戸時代になると雰囲気がまた変わり、笑いを誘う聞きなしが増えるといいます。代表例が雁です。平安時代に「この世はかりそめ」と聞かれた雁の「かり」は、江戸の狂歌では「借り(借金)」として詠まれました。
平安時代:「この世はかりそめのものだ」という無常の響き
江戸時代:「借金、借金、借金」と請求書が飛んでくる声
狂歌「大空にかりかりかりの声するは誰がかき出しやかけて来ぬらん」は、大空から借金の声がするのは誰の請求書が飛んできたのか、という意味だそうです。カラスの「かかあかかあ」を、人の女房を大声で呼んでいるとからかう歌も紹介されます。
さらに、魚の腸を食べるトビにカラスが「こうたかこうたか(買ったか)」と鳴き、トビが「ひろうたひろうた(拾った)」と返す、という笑い話もあるそうです。堀元さんは「コントとして聞いてるんだ」と驚きます。
堀元さんは、動物の鳴き声と狩人のやりとりで笑わせるバンビーノの「ダンソン」は、江戸の聞きなし文化を平成風に進化させたインテリコントなのでは、と持ち上げます。水野さんは「お笑い評論家の階段を駆け上がっている」と茶化しています。
明治の文学者とツイッタラーの共通点
明治以降の近代になると、聞きなしは再び写実的になります。ただし水野さんによると、鎌倉・室町の写実とは質が違い、西洋思想の影響で近代的自我に目覚めたことが関わっているといいます。
近代の聞きなしは、写実的でありながら、他の人が使っていない独創的な擬音語を作る方向へ進みました。例として挙がるのが、蛙の詩で知られる草野心平 ── 昭和期の詩人。蛙を題材にした詩を数多く残し、独特の擬音や記号を用いた表現で知られますで、蛙の声を「ルルルルル……」と長く連ねて表した作品があります。室生犀星らも独創的な擬音語を作っていたそうです。
堀元さんは、明治の聞きなしの作り手はツイッタラーに似ていると言います。Xをやっている人の呼び方で一瞬迷ったあと、「ツイッタラー世代なので」とそのまま話を続けます。
みんな思ってることを言うんだけど、みんなが思ってない言い方で言うっていう、2つが必要で、「大変だな、ツイッタラー」って思ってたんですけど、明治期に聞きなしを考える人も全く同じ挑戦をしていたってことですね。
「へー」で終わらない雑学としての聞きなし
水野さんは改めて、冒頭で堀元さんが言った「犬はワンワン、鶏はコケコッコー」という考えに戻ります。どんな動物の鳴き声にも変遷があり、それをたどることは、単なる雑学ではなく人々の心を捉える格好の題材になる、と話します。
堀元さんは小学生の頃、雑学本で「鶏は英語でクックドゥードゥルドゥー」と読み、「だから何?」と吐き捨てたことを思い出します。今回の話を聞いて、その表現が明るいか悲しいかに、その文化の精神性が表れているかもしれないと考えると、楽しい雑学に変わったといいます。
これさ、水野さん、小学生の時の僕に聞かせてやりたいわ、このラジオ。
水野さんは、動物の捉え方自体が文化によって違うと付け加えます。西洋ではタコが悪魔の生物とされる一方、日本では親しみのある生き物です。そうした違いを比べることは人間を理解する題材になりうるのに、擬音語は幼稚なイメージから顧みられてこなかったとし、その分野を切り開いた研究者として山口先生を称えます。
堀元さんはここでついに「聞きなしの方が引きがあります」と言い直し、漫画オノマトペをめぐるやりとりに一応の決着がつきます。
締めくくりに水野さんは、前回と今回の2回を通して、鳴き声の聞き方には当時の人々の心情や世相が反映されるという一見トンデモな主張を、実証的な研究をもとに述べてきたとまとめます。
堀元さんの前向きな妄想に、水野さんは「なんで英語で鳴くんだろう」とツッコみ、堀元さんは「ペリーが全ての犬を入れ替えたから」と序盤のボケを回収して回を締めています。
まとめ
犬の鳴き声が「びよ」から「ワン」へ変わった背景には、江戸時代の家畜化という仮説がありました。鳥の聞きなしも、奈良の語りかけ、平安の無常、江戸の笑い、明治の独創と、時代ごとに人々の心を映して変化してきたことが語られています。
- 平安時代の犬は「びよ」に近い音で記され、江戸時代に「ワン」へ置き換わった
- 山口仲美先生の仮説では、野犬が飼い犬になり吠え方が変わったことが鳴き声の表記の変化につながった
- 奈良時代は語りかける言葉、平安時代は不安や無常の言葉として鳴き声が聞きなされた
- 江戸時代には雁の「かり」が「借金」になるなど、笑いを誘う聞きなしが増えた
- 明治以降は写実的かつ独創的な擬音語が模索され、聞きなしは時代の空気を映す題材になる

