「日本語は婉曲的」は3割しか合っていない?
冒頭で水野さんは、日本語はよく「すごい婉曲的な言語」と言われると切り出します。堀元さんも「私としてはこのようにしていただけると」のように、日本語では「してくれ」とはっきり言わない感じがすると応じます。
水野さんはさらに、主語を言わないことや敬語の形式が発達していることも、日本語の婉曲さの例として挙げます。一方の英語について、堀元さんは「それはノーだ」「君はそうすべきでない」とはっきり言う言語だというイメージを語り、丁寧さでは日本語のほうが上だと答えました。
この「日本語は間接的、英語は直接的」という通説について意見を求められた井上先生の答えは、意外なものでした。
3割ぐらい合ってます。
3割ぐらいです。むしろ全く逆ですね。
堀元さんが「YouTuberとして売れたいならもっとはっきり言ってください」と迫ると、井上先生は「大間違いです」と言い直し、今回のテーマである日英のポライトネス比較が始まります。
堀元さんはポライトネスを「敬意」や「礼儀」のことだと理解していましたが、井上先生はこれを否定します。井上先生によれば、ポライトネスとは言葉を使って人間関係をどう作っているかという現象全般を指し、会話だけでなく街の看板やアナウンス、論文までもが関わってきます。
水野さんが考えていた「言葉で距離感を表示して調節すること」も、ポライトネスの一部です。井上先生は、距離感だけでなく「私はこんな人間です」という態度を示すインデクシカリティ ── 言葉づかいが、話し手の属性や立場、相手への態度などを指し示す働きのこと。指標性とも訳され、社会言語学で重視される概念ですもポライトネスに含まれると説明します。
日本語の敬語は形式として敬意を保証する仕組みで、「分かりましたよ」でも「分かりました」でも、形式上は敬語を使っている態度になります。堀元さんはこれを受けて、「ちっ、反省してまーす」も一応は敬語で、謝るポーズを取りながら屈していないことを示すポライトネスなのではと整理しました。
英語の丁寧さは「言い方」で決まる
水野さんが日英のポライトネスの違いを端的に尋ねると、井上先生はまず敬意の表し方の違いを挙げます。日本語は敬語の形式で丁寧さが保証されるのに対し、英語では丁寧さが音声に大きく依存するといいます。
英語が丁寧に振る舞おうと思う場合に、大体音に依存するんですよ。音声に依存して、完全に言い方なんですよ。
英語の丁寧さが言い方で表されるため、教科書の文字にはしづらく、学校の授業では「Can youよりCould youのほうが丁寧」といった文字で示せる部分が中心になる、と井上先生は話します。
井上先生によれば、英語で丁寧に聞こえるのは、比較的ゆっくり、そしてアーティキュレーション ── 発音の明瞭さ、一音一音の区切り方のこと。はっきり発音するほど丁寧で改まった印象を与えやすくなりますをはっきりさせた言い方です。ただし、ゆっくりすぎると子どもに話すような、相手をばかにした感じになるため、そのバランスが外国語として身につけるうえで難しいといいます。
敬語という形式で丁寧さが保証される。言い方がぞんざいでも、形式上は敬語になる
形式よりも音声に依存する。ゆっくり、はっきりした言い方が丁寧に聞こえる
実際に井上先生が「Could you do that for me?」を2通りに言い分けてみせると、堀元さんは「全然違う」と反応します。水野さんは、後者は語尾が上がっていたと指摘し、井上先生も相手の意向を尊重することは距離感の問題でもあると応じました。
ここから水野さんは、英語話者の知人から聞いた話として、アメリカではイエス・ノー疑問文でも語尾を上げない、低い声で話す、といった「モテテク」が広まっているらしいと紹介します。堀元さんは、中学の教科書どおり「Is this a pen?」と語尾を上げる真面目な人がモテない世の中でいいのか、と冗談交じりに問いかけました。
英語は相手の領域に踏み込まない
話を戻して示された英語のもう1つの特徴は、相手の領域への強い配慮です。井上先生の説明では、日本語は自分の言うことを緩く間接的に言う特徴がある一方、英語は相手の領域に入りすぎないようにする優しさがあるといいます。
水野さんが持ち出したのは感情形容詞の人称制限 ── 日本語で「悲しい」「嬉しい」などの感情形容詞を、話し手以外が主語のときにそのまま使いにくい現象。「彼は悲しそうだ」のように推量の形にするのが自然になりますです。日本語では「彼は悲しい」とは言いにくく「悲しそうだ」と言うのに、英語では「He is sad」と言えるので、英語のほうが他人の感情にズケズケ入るのでは、という問いでした。
これに対して井上先生は、文法上は「He is sad」と言えても、実際の英語話者は他人の感情を断定的に言うことはなかなかしないと説明します。代わりに、I think、I guess、sort ofといったヘッジ ── 断定を和らげるためのぼかし表現。自分の主張を控えめにしたり、相手に押し付けないようにしたりする働きがありますが多用されるといいます。
たとえば何かをしたいとき、「I want to do this」は子どもっぽく聞こえ、「I'd like to do this」はまだまし、「I'm just wondering if I could…」のほうがより英語らしい言い方だそうです。堀元さんと水野さんは、そのクネクネした言い回しに驚きます。
ただし、自分の希望や考えを言うこと自体は構いません。配慮が強く働くのは、その言い方が相手に影響を与える場合で、相手に「ああしろ、こうしろ」と言うことはかなり控えられるといいます。
例外は命令形で、「Join us」のように相手の利益になる場合にはよく使われるそうです。井上先生は映画の字幕を観察していて、日本語の「お前ああしろよ」「〜したほうがいいよ」というセリフが、英訳ではほとんど「I would(私だったらこうする)」に変えられていると話します。
日本語のセリフ
お前、あの子に告白しちゃえよ
英語的な発想
相手の領域に踏み込む命令を避ける
英訳の形
私だったら、あの子に告白するけどな(I would)
水野さんは、英語は相手の領域に入らない方向で間接的な言語だという話に、ガサツだと思っていたのに違ったと率直に驚いていました。
英語は間接表現だらけの言語だった
井上先生がこの研究の出発点として挙げるのが、ポーランド出身でオーストラリアで活動した言語学者、アンナ・ヴェジビツカです。スラヴ系の言語を母語とするこの研究者は、英語に触れたとき、英語はなんと間接表現だらけの言語だろうと感じたといいます。
堀元さんは、ヨーロッパの言語同士なら感覚は近いと思っていたので意外だと話します。井上先生によれば、スラヴ系の話者には「Would you like…」のような言い方がまどろっこしく、デートの誘い方としても「〜行かない?」と尋ねるより「行くだろ」と言うほうが良いとされるそうです。
とくにイギリスでは、家族の間でも「Would you like…」が使われるほど定着していて、もはや丁寧という意識もない決まり文句になっているといいます。堀元さんは、日本語でいえば家の中で「すみませんが、しょうゆを取っていただけませんでしょうか」が普通になっているような状態だとたとえました。
井上先生はさらに、Isn't it? や Don't you? のような付加疑問文 ── 文末に「〜ですよね?」にあたる短い疑問を付け加える形。英語は主語や助動詞に合わせて形が変わり、バリエーションが豊富ですのバリエーションも他の言語にはないと言われるとし、英語は間接的にする言語的な装置が山ほどある言語だと話します。水野さんも、英語話者の知人がポッドキャストを聞くと「I mean」ばかり聞こえると言っていたと紹介しました。
一見関係なさそうな例として挙がったのが「one of the best」です。最上級なのに「その中の1つ」と言うのは変だと堀元さんも感じていたそうで、井上先生はこれも断言したがらない感覚の表れだと考えています。
我々だったらこれ最高じゃんって言いたくなるんですけど、最高の1つだっていうなんかまどろっこしい言い方を。
美しい景色を見て「ベストシーナリーだ」と言ったら「Yeah, one of the best.」と返されたという井上先生の体験に、水野さんは「風景にまで配慮しちゃってる」と笑います。
では、日本人ははっきり言わないからビジネスでは欧米を見習うべきだ、という主張は見当違いなのか。井上先生は、イエス・ノーが求められる場面ではその慣習があるので状況によって使い分けているとし、ここから番組を通じた「状況による」というやり取りが始まりました。
同じ「個人主義」でも動機が違う
堀元さんは、相手に深入りしない英語のマインドは、相談されても「お前の人生なんだから好きに生きろ」と思ってしまう自分や水野さんと相性がいい気がすると話します。
井上先生は、ここ数年の日本は個人主義的になったと言われるものの、日本と英語圏では個人主義の動機が違うと指摘します。
相手の領域にズカズカ入っていくことに抑制がかかっている
自分のことをなるべく柔らかく、そのまま出さないように言う
堀元さんが「日本人は自分の言いたいことをズバッと言うのに抵抗があるのか」と確認すると、井上先生は「それも状況によりますけど」と返し、水野さんの「状況によるかどうかは状況による」という言葉遊びに発展しました。
井上先生は、日本が「集団主義」と言われることにも疑問を示します。西洋は個人主義的で、それとは違う日本を集団主義と呼んだという経緯があり、何を指しているのか分からないという議論が続いてきたといいます。
その例として井上先生は、相撲のように日本の伝統的なスポーツは1対1が多く、西洋のスポーツには集団競技が多いことを挙げ、日本にも個人主義的なところはたくさんあると話しました。
言わずに推論する日本、言語化させる英米
井上先生は、日本社会を説明する枠組みとして、木村敏の名前とともに「間人主義」という考え方を紹介します。日本人は集団ではなく、人と人との関係で動いているという見方です。
井上先生によれば、思いやりとは言葉にしない部分から相手の考えを推論することで、日本ではその感覚が子育ての段階からあるといいます。「そんなことしたら〇〇ちゃんがかわいそうでしょ」と言い聞かせたり、校則に「思いやりを大切に」と書いたりするのがその例です。
一方で、言語人類学の研究では、英米圏の多くは子どもに「思っていることを言葉にしなさい」と繰り返す子育てが基本だとされます。日本は「言わなくても分かりなさい」と育てるのに、学校に入った途端に言葉にするよう求められる点が違うといいます。
幼い頃から言葉にするよう求められ、学校まで一貫している
家庭では言わずに分かることを求められ、学校で急に言語化を求められる
このギャップの話に、堀元さんは最近の実感を重ねます。Claude Code ── AI企業Anthropicが提供する、対話しながらプログラミング作業を進められるAIツール。作業の要件をユーザーに確認しながら進めますを1日中操作していると、要件の確認を次々に求められ、やりたいことを言語化し続けるのがストレスになってきたそうです。
自分の中のふわっとしていたものを全部言語化するってこんなストレスなんだって最近めちゃめちゃなってて。
井上先生は、言わずに分かる訓練を受けてきた日本人は、国際的な交渉で「ルールにのっとっているから言わなくても大丈夫だろう」と考えて負けることが多いと指摘します。ただ、言わなくても分かるのも日本のコミュニケーション文化の良さなので迷うところだとも話しました。
さらに、2000年代以降、アメリカのビジネスパーソンがこれからは共感(エンパシー)が重要だと言い出したことも紹介されます。水野さんは、渡辺雅子先生の新刊『共感の論理』も、共感をベースにした日本の教育が実は先を行っていたのではと主張していると補足しました。
堀元さんは、ここ数年の言語化ブームの揺り戻しとして、水野さんが「何でも言語化できるのが偉いのか」と語る論客として呼ばれていると茶化します。水野さんは、誤解なく文脈を共有するための言語化は大事だが、本当に大事な感情まで言語化していいのかは別だと答えました。
見えなくなるまで見送るのは失礼?
話はポライトネスのモデルを言語以外に応用する方向へ移ります。井上先生が例に挙げたのは、ガソリンスタンドやディーラーの店員が、車が見えなくなるまで客を見送る日本の習慣です。
日本では気を使った丁寧な振る舞いですが、井上先生によれば、英米の多くの人は「見張られている」と解釈するだろうといいます。堀元さんは「違法駐車で居座らないか確認されている」と受け取られるのかと驚きました。
英米では、家に招いた客を玄関で見送った後、すぐ家の中に入るのが一般的だそうです。井上先生自身、振り返ったら相手がもう家に入っていて戸惑った経験があるといいます。
いろいろ調べてみて、研究した上でわかったことは、それが1つの礼儀なんですよ。
ですから、あれは1つのポライトな態度なんですよね。
車や客が見えなくなるまで見送り、頭を下げることが気づかいになる
すぐに家に入り、もう見送らないことで相手を自由にするのが礼儀になる
水野さんは、東京に来て気づいたこととして駅での別れ方を挙げます。愛知では友達の乗った電車を見送ってから個人に戻るのに、東京では相手が乗った瞬間にスマホをいじり始めるので、自分が何か悪いことをしたかと思ったそうです。
堀元さんは、乗る側もあえてホームに背を向けて座ることがあると話し、その理由を相手の側から説明します。
俺が目上の場合って見送らなきゃってプレッシャーを相手に与えちゃうから。加害だからそれ。
水野さんは、社会学者ゴフマン ── アメリカの社会学者アーヴィング・ゴフマン。日常の対面的なやり取りを分析し、「儀礼的無関心」など多くの概念を提示しましたの「儀礼的無関心」という概念を持ち出し、都市ほど他者に無関心になっていく現象につなげます。井上先生も、エレベーターでみんなが階数表示を見るのは目の前の人を見ると失礼だからだと続けました。
井上先生は見送りの違いを、会話や関係がどこで終わるかの違いとして整理します。日本では見えなくなるまで関係が続きますが、アメリカでは商談や給油が終わった時点で閉じるのかもしれないといいます。ただし、教会のような信仰コミュニティでは関係が続く感覚が強く、見送ることもあるかもしれないと補足しました。
地域による、人による、状況による
井上先生は、都市の人間関係が密かどうかという違いは日本国内にもあるのではと問いかけます。堀元さんが愛知と東京の違いは地域によるものかとまとめかけると、井上先生は愛知にも見送らない人がいて、東京にも見送る人がいると付け加えました。
井上先生自身も、学生時代に地方から東京へ出てきて驚いた経験を語ります。同じ授業を取っている間は挨拶していた同級生が、授業が終わった途端に避けるようになり、「友達じゃなかったんだ」と感じたそうです。
堀元さんと水野さんも、大学1年生のときに一度隣になっただけの相手を遠くで見かけて、挨拶するほどの関係ではないと目をそらした記憶があると共感します。井上先生は、子どもの幼稚園が終わると挨拶しなくなる親御さんもいたと話しました。
堀元さんはさらに、東京の人は会話の終わりが急に来るという印象を語ります。大学1年生のとき、会話が2秒ほど途切れたら相手がスマホを見始めたことがあり、スマホを見ることが会話の終わりの合図になっているのでは、と考えています。
水野さんが、作家の三宅香帆さんはランチの席で自分の入る話ではないと思うと本を読み出すと紹介すると、堀元さんは「それは三宅さんによります」と返し、「〜による」の応酬で笑いが起きました。
敬語がない英語にも、敬意を表す術はある
締めくくりに水野さんは、英語はズバズバ物を言うどころか相手の領域に入らず「私だったらこうする」と言い、日本語は逆に相手の領域にも直接的に言うことがあり、このモデルでお見送り文化まで説明できると振り返ります。
では「英語には敬語がない」という言説にどう答えればいいのか。井上先生の答えは、形式と手段を分けて考えるものでした。
井上先生によれば、英語の敬意は音に表れ、顔の表情なども含めたマルチモーダル ── 音声・表情・身振りなど、複数の伝達手段を組み合わせて意味を伝えることなやり方で表されることが多いといいます。つまり英語の丁寧さは、文字ではなく音と表情に宿るということです。
堀元さんは、顔や言い方まで気にしないと敬意を表しきれない英語は難しく、日本語のほうが気楽かもしれないと感想を述べます。水野さんは、表情があまり変わらず形式をいじる必要がある日本語は、英語話者から見れば逆に難しいはずだと応じ、お互いにそれぞれの難しさがあると話しました。
最後に堀元さんが、形式は敬語で言い方はひどい「ちっ、反省してまーす」は英語ではできない高度な技だと持ち出すと、井上先生は「ちは丁寧じゃないですよね」と返し、笑いのうちに回が締めくくられました。
まとめ
この回では、「日本語は遠回し、英語はズケズケ」という通説が、ポライトネスの視点から見るとかなりの部分で逆だとわかります。英語は相手の領域に踏み込まない方向で間接表現を豊富に持ち、敬意は形式ではなく言い方や表情で示されます。その考え方は、お見送りや駅での別れ方といった日常の振る舞いにもつながっていました。
- ポライトネスは敬意だけでなく、言葉で人間関係や距離感、自分の態度を調整する現象全般を指す
- 日本語は敬語の形式で丁寧さを保証し、英語はゆっくりはっきりした言い方など音声で丁寧さを表す
- 英語はヘッジや「I would」などで、相手の領域に踏み込む言い方を強く避ける
- 日本では見えなくなるまで見送るのが気づかいだが、英米ではすぐに見送りをやめることが礼儀になる場合がある
- どちらが直接的かは一概に言えず、地域・人・状況によって使い分けられている




