なぜ今更、全集を買ったのか
筑摩文庫から出ている宮沢賢治全集を、今更購入しました。
きっかけはですね、この間、友人のお坊さんたちと『銀河鉄道の夜』の話になったことなんです。
その中で、とある先生の法華経の講義の話が出まして。半分ぐらいが宮沢賢治と法華経の話だったらしいんですね。
『銀河鉄道の夜』の最後の方で、十字架のある駅ですごくたくさんの人が降りる描写がありますよね。
その十字架のところで降りた人たちは、キリスト教の信仰に行った人たちだという解釈があるそうなんです。
でも、そのまだ先に線路が続いているわけです。その先にあるのが仏の教えの肝要である法華経である、という解釈が、宗教的には一般的なんだそうで。
正直、私はもう『銀河鉄道の夜』の内容をほとんど忘れていて、カムパネルラとジョバンニの名前ぐらいしか覚えていなかったんです。
そういう話を聞いて、改めて読み返してみたいと思って買った訳です。
この全集がまたすごくてですね。『銀河鉄道の夜』なんかも第一次稿、第二次稿、第三次稿まであったりして、稿の違いを比較する読み方も楽しそうなんです。
まあこれは生涯をかけて、ゆるゆる読んでいこうかなというところです。
浄土真宗の家に生まれた賢治が、法華の信仰に進むまで
宮沢賢治が熱心な仏教信者だったことは、知っている人は知っているかもしれません。
特に法華経、日蓮の信者だったというのは、突っ込んで賢治を見ていくと語らずにはいられないことなんです。
日蓮宗が作っている日蓮宗辞典で、賢治がどう紹介されているかを紹介してみたいと思います。
賢治は明治29年、岩手県の現在の花巻市で、宮沢家の長男として生まれました。父は質屋や古着商を営んでいたそうです。
20歳で盛岡高等農林学校農学科に入学し、23歳の時に信仰上の問題で父と対立します。
というのも、宮沢家は浄土真宗の熱心な檀家さんだったんですね。
賢治はきっかけがあって、『島地大等』という人の本を読み、そこから法華経の信仰を起こしていったんです。
ここで、宮沢家の信仰と自分の信仰がぶつかってしまった訳です。日蓮という人は、念仏信仰を批判している人ですから。
それでも彼の法華経への信仰は、父と対立してもますます高まっていきます。
大正9年、25歳の時には、日蓮主義を説く『田中智学』の『国柱会』に入会し、賢治の法華信仰は揺るがないものとなっていきました。
翌年には、父に法華経への帰依を勧める手紙を書いたりもしていて、何度となく熱心に説いたそうです。しかし、いくら言っても聞き入れられなかった。
そしてついに上京して本郷に住み、筆耕の仕事で自活しながら、智学の教えを受け、国柱会の活動に参加していったんです。
作品の底に流れる法華経の精神
東京に出た夏の終わり頃、妹が病気を発病します。賢治は、それをきっかけに帰郷して、看病しながら岩手の郷土色豊かな童話を作っていきます。
『注文の多い料理店』なんかは、読んだ方も多いかもしれません。この時期に代表的な作品を次々に作っていきました。
戻った年の暮れには地元の農学校の教諭になり、翌年には有名な『春と修羅』の第一集を書いています。
東北農民の生活をうたいながら、その作品の底には法華経の精神が流れている。だから賢治は当時、異色の宗教詩人と言われるようになっていたんだそうです。
つまり、賢治が生きている頃は、彼は宗教詩人として世間に認識されていたということなんですね。
妹のトシさんは、看病むなしく25歳の若さで亡くなってしまいます。
そんな悲しみの中でも制作を続けて、臨終詩篇と呼ばれる作品を作っていきました。正直この辺は、私も読んだことがないものばかりでした。
29歳で『春と修羅』の第一集を自費出版し、これが評価されて、同人誌を通じて詩人との交わりも盛んになっていったそうです。
賢治自身も、病床にありながらも常に思索を続け、法華経の信仰を怠らなかった。
日蓮の不惜身命 ── 身命を惜しまない、身も命も惜しまないという生き方のあり方に、賢治は深く感化されていったということなんですね。
『雨ニモマケズ』は、発表するつもりの詩ではなかった
昭和6年に再び発病して、帰郷したあと、代表作の『雨ニモマケズ』ができたと辞典には書いてあります。
でも、これは本人が作品として書いたのかは、甚だ疑問なんです。
というのも『雨ニモマケズ』は、賢治がいつも持っていた手帳に書かれていた詩なんですね。
「雨ニモマケズ風ニモマケズ」という出だし、皆さんも触れたことがあるでしょう。
この詩は、法華経の中に説かれている菩薩の道、菩薩というあり方をうたったものとして高く評価されています。
でも、それが菩薩の道をうたったものだということは、世間のほとんどの人は知らないんじゃないでしょうか。
賢治は昭和8年9月21日に、国訳法華経の印刷と知人への配布を願いつつ、38歳で亡くなりました。
『雨ニモマケズ』は、彼が発表したものではありません。賢治が亡くなった後、弟が遺品を整理している時に、手帳の中に書かれていたものを見つけて発表したものなんですね。
今風に言うと、自分の思いを精一杯スマホのメモ帳に書いてあったものが、亡くなった後に発表されるようなものです。
もし私だったら、恥ずかしくて成仏するにも成仏できないんじゃないか。個人的にはそんなふうに思ったりもします笑
教科書では届かない、賢治の深い部分
ちなみに、この『雨ニモマケズ』の詩のすぐ後のページには、賢治が鉛筆のようなペンで書き写した、日蓮聖人のお題目、曼荼羅本尊が書かれています。
これは、宮沢賢治を知っている人でも、ほとんど知らないことなんじゃないかと思います。
賢治が宗教詩人であること、その物語の中に法華経の思想が通底していることは、もう疑いようのない事実です。
でも、なかなか学校の教科書にそんなことを書いて教えるわけにはいかない。だから賢治の詩や作品を紹介されても、そういったことは紹介されないわけです。
結局、表面的な理解しか日本の国語の授業では教えられていないんですね。
やはりその深い部分を理解しようと思うと、法華経を理解すること、日蓮の思想を理解することは避けて通れないんです。田中智学を通した日蓮論のようなことも、学ぶ必要があると思います。
そういった法華経の教えが学べるのが、東京別院でやっている連続の法華経講座です。次は2月ぐらいになって少し間が空いてしまうんですけども、別院情報をチェックしていただきたいなと思います。
今日は、宮沢賢治全集を買ったよという話と、宮沢賢治の話をしてみました。知ってるようで知らない宮沢賢治でございます。
それでは皆さん、良い一日をお過ごしください。ではまた。
まとめ
浄土真宗の家に生まれながら法華経の信仰に進み、父とも対立した賢治。その作品の底には法華経の精神が流れていて、生前は宗教詩人と呼ばれていました。深い部分を理解するには、法華経と日蓮の思想が欠かせないと感じています。
- 賢治は浄土真宗の家に生まれ、島地大等の本をきっかけに法華経の信仰へ進み、田中智学の国柱会に入会した
- 作品の底に流れる法華経の精神ゆえに、生前は「異色の宗教詩人」と呼ばれていた
- 『雨ニモマケズ』は発表用ではなく、死後に弟が手帳から見つけたもので、すぐ後のページには曼荼羅本尊が書き写されている
- 学校の授業では表面的な理解にとどまり、賢治を深く読むには法華経と日蓮の思想が欠かせない







