情報学と仏教が重なる「繋がりを見る」視点
春木先生の講演会の資料を見ながら、話を振り返っていました。情報学で物事を見るというのが、聞きながらすごく仏教的だなと思ったんです。
我田引水な話になってしまうんですけども、やっぱり繋がりを見るという点で重なってくるんですよね。
情報そのもの、つまり点だけに注目するんじゃなくて、その間の繋がりの質だとか数だとか種類だとか、そういうことに注目する。それがすごく親近感を持てる、ものの見方だなと思って、とても面白かったです。
この繋がりというのは、世の中を正しく見るにあたって目を逸らすべきではないことだと思うんです。点を見ていても全体は見えないし、点と点が線で繋がって面になっていくことで世界ができている。そんなことを、聞きながらすごく思いました。
見えていないものが、見えていない
物事をありのままに見る。私たちは都合よく物事を見てしまっている、と仏教でもよく言います。
先生の話でいうと、私たちは自分が強い紐帯の中だけにいるような気がして勘違いをしてしまう。でも実は、そのすぐ外側には他の強い紐帯があって、弱い紐帯があって、という構造になっているんですね。
そのことがなかなか実感できていない、見えていない。これが僕らの人間の愚かなところで、その愚かさゆえに苦しみを生んでしまう。
この間の話でいうと、一つ象徴的なものが炎上を生んでしまうということでした。
だから、見えているものだけが全てじゃない。それを謙虚な気持ちとして持てばいいのかもしれない、と思うんです。
「分からない」を引き受けるということ
自分が全部わかるわけがない。全部を全部理解できるわけではない、ということなんですよね。
世の中のいろんなものは、複雑な繋がりや関係の中で生きています。「これをすればああなる」という単純なものだけでできているわけではなくて、条件とか環境とか、タイミングとか、本当に偶然のようなことがたくさん絡み合っている。
だから、わからないということを引き受けるのが、すごく大事なことだなと思っています。特に、いまはそう感じています。
自分が全部理解できない、わからないという前提に立って、物事を見て、立ち振る舞う。それが大事だなと。
何でもかんでも紋切り型に「これはこう」「あれはもう知っている、このパターンは何回もやってるからわかってる」と言う。いい年になって「大体のことは、どうすればこうなるってわかっている」なんて言うおじさんもいますけども、そんなことはないわけです。わかった気になっちゃいけないですね。
本当にいろんなものが目まぐるしく変わっていくし、自分の知っていることなんて、ひとつまみぐらいのものなんです。だから、わからないという前提を謙虚に謙虚に引き受けることが大事だなと思います。
成長のためでなく、知る喜びのために学ぶ
そういう中で、真摯に学び続けることが大事なのかなと思いました。
ただ、これは別に成長しなくてもいいと思っているんです。学びと成長はイコールではないというか。
やっぱり、新しいことを知ったり、知らなかったことを知れるというのは、それ自体が楽しいことだなと思うんですね。それによって成長しようとか、成長のためだけに学ぼうとか思うから、おかしくなるんでしょうね。
多少学んだからって、そんなに大きく変わることはないわけで、知らないことのほうがまだまだ多い。でも、知らないより知っていることのほうがいいことも、世の中にはたくさんあります。
全部を知りきることはできない。だからこそ、わからない自分がいるということ、わからないことがあるということを引き受けながら、それを前提に立ち居振る舞いをする。これが大事だなと、先生の講演会から副次的に、また改めて学んだ気がしています。
年度の後半も始まりましたね。雨も心配ですけども、まあまあ頑張ってやっていきましょう。皆さん、良い1週間をお過ごしください。ではまた明日。
まとめ
世の中は複雑な繋がりの中にあって、単純な因果では語れません。だからこそ「大体わかっている」という思い上がりを手放し、わからないことを謙虚に引き受けながら立ち居振る舞うことが、いまいちばん誠実な在り方だと思っています。
- 情報学の「繋がりを見る」視点は、物事をつながりの中で見る仏教の見方と重なる
- 自分のいる場所の外側が見えていないことに気づけないのが、人間の愚かさであり炎上の根になる
- わからないを前提に立ち振る舞うことが、いまいちばん大事で誠実な姿勢
- 学びは成長のためではなく、知らなかったことを知れる楽しさそのものにある



