「私、地獄に落ちますか」と聞かれたら
法事などで、横山さんは時々こんな質問を受けるそうです。「地獄ってありますか」「私、地獄に落ちますかね」といった問いです。
細木数子占い師・タレント。「地獄に落ちるわよ」という決め台詞で知られた。ここではその言葉を使ったネット配信ドラマが少し前に流行したことに触れている。の「地獄に落ちるわよ」という言葉のように、地獄に落ちるとはよく言うものだ、と横山さんは振り返ります。
では実際に聞かれたとき、横山さんはどう答えるのでしょうか。もちろん「地獄に落ちるわよ」とは言いません。
どうでしょうかね。地獄って案外もうこの世にあるかもしれないですよ。
すると「え、そうなんですか」と驚かれるそうです。
横山さんは、「地獄に落ちるわよ」という細木数子の言葉も、あの世ではなくこの世の地獄を想定しているのではないか、その点では自分の話とも通じるかもしれないと語ります。
キリスト教の「罪」は「的を外す」という意味
この日横山さんは、ある記事から思ったことを話します。それはClaudeのエージェントに収集させている世界の宗教ニュースの中で見つけた、キリスト教でいう「罪」についての話でした。
聖書に出てくるギリシャ語の「罪」という言葉の意味が、日本語に訳すと大変意外なものだったといいます。
聖書ギリシャ語で罪を意味するhamartia新約聖書の原語であるギリシャ語で「罪」を指す語。的を外す・的から逸れるという意味合いを持つとされる。や、ヘブライ語で罪を意味するchet旧約聖書の原語であるヘブライ語で「罪」を指す語。同じく「的を外す」という語感を持つとされる。という言葉は、「的を外す」と訳されるというのです。
的外れであることが罪であるっていうことなんだそうですね。元々は的を外すっていう意味だったという意味なんですね。
つまり罪とは、悪を行うことによって成すものではなく、的を外すことだと横山さんは受け止めます。
作為不作為とかじゃないってことですよね、罪がね。これめちゃくちゃ面白くて。
仏教の「苦」は車軸から外れた車輪
記事を書いた人は、仏教の苦、dukkha仏教でいう「苦」を指すパーリ語。一般に「思い通りにならないこと」と説明される。も例に挙げていたそうです。
横山さんは、これまでも配信で仏教的な苦を「思い通りにならないこと」と説明してきました。
記事では、このdukkhaという言葉を分解して理解すると「車軸から外れた車輪」と訳せるとされていたといいます。
横山さんは、これは伝統的な仏教理解に論拠がある解釈ではないようだと断りつつも、言い得て妙だと語ります。
まさに車軸から外れた車輪っていうのは思い通りにならないものですよね。
車軸からズレたまま回る車輪は、思い通りに進みません。これが「苦」のイメージだというわけです。
的を外すこと。的は神であり、外れたら神に懺悔する。
車軸から外れた車輪。真理という軸から外れて思い通りにならない状態。
外れる先が「神」か「真理」かの違い
的が外れるということは、そもそも的があるということです。では、その的とは何でしょうか。
キリスト教の的は神です。神が決めたこと、神の言う通りであることが的であり、的を外したときには神に懺悔します。
一方、仏教で「思い通りにならないこと」は何から外れているのか。それは真理、法則からだと横山さんは説明します。
すべてのものは移り変わり生々流転する諸行無常、固定的な我はないという教えです。そうした真理から外れていることが、仏教でいう外れなのです。
横山さんは、これは大乗仏教ではなく、そもそものテーラワーダ上座部仏教。スリランカや東南アジアに伝わる、初期仏教の教えに近いとされる仏教の系統。的な仏教の話になると補足します。
誰も罰しない。業は自分に返ってくる
仏教では、不善を行ったときにどうなるのでしょうか。横山さんによれば、自分自身が苦しみを受けるといいます。
仏教っていうのは自分が苦しみを受けるんですね。自分自身の心の中に苦を生じるわけなんですね。
誰も罰してくれず、誰も代わりに許してもくれません。良い業も悪い業も、なしたものは自分の中に返ってきます。
だから地獄とは、あの世や死後だけにあるものではないと横山さんは語ります。今ここで生きている自分たちの言動の延長線上にあるというのです。
真理という的を外し続け、ズレたまま生き続けることで、私たちは苦しみを受け続けます。
気づけば直せる。正しい軸に戻す
ただし、ここに救いがあります。気づけば直せるのです。的や正しい軸を知ることができれば、自ずから苦はなくなっていくと横山さんは話します。
すべてのものは変わり、我はない。これが真理です。それなのに、変わらず自分の思い通りになると思い込むから、苦しみが生じ続けます。
そうした見解を離れ、正しい車軸の位置で正しい的に向かって行動していくことで、自分の行き先は自分で直せるといいます。
皆さん大丈夫ですか?的外れてないですか?作為でも不作為でも、意図でも意図せずでも、的を外したり、車軸を外れていれば、うまくいかないのは当たり前なんですね。
キリスト教の罪も、知らず知らずのうちに重ねてしまうものがあります。私たちも知らず知らずのうちに悪行を行うことがあるでしょう。
だからこそ、しっかりとした的や軸を知っておくことが大事だと横山さんは改めて感じているそうです。
最後に横山さんは、お盆をきちんと過ごすよう呼びかけます。お盆飾りやお施餓鬼、仏壇がない家もあるでしょうが、少し思いを馳せる期間として過ごしてほしいと語りました。
まとめ
キリスト教の「罪」も仏教の「苦」も、その言葉の根には「的を外す」「軸から外れる」という意味があります。地獄は死後だけでなく、ズレたまま生き続ける今この世にもある。けれど気づいて正しい軸に戻せば、苦は自分で直せるという話でした。
- 聖書の「罪」はギリシャ語hamartia・ヘブライ語chetで「的を外す」という意味とされる。
- 仏教の「苦」dukkhaは「車軸から外れた車輪」と訳せるという解釈が紹介された。
- キリスト教は神という的から外れ神に懺悔し、仏教は真理という軸から外れて自分が業を受ける。
- 地獄はあの世だけでなく、ズレたまま回り続ける今の生き方の延長線上にもある。
- 正しい的や軸に気づけば、自分の行き先は自分で直せる。
