「地獄に落ちますか」と聞かれたら
明日からいよいよお盆の入りです。ご先祖さんも生きてる人に合わせて帰ってくるんだなと、地域ごとのお盆の時期を思いながら感じていました。
さて、法事などで時々聞かれる質問があります。「地獄ってありますか」「私、地獄に落ちますかね」といったものです。
少し前に『地獄に落ちるわよ』という細木数子さんのドラマも流行りましたよね。まあ、そういうことを言われて喜びを感じている面もあったんじゃないかと思いますけども。
もちろん私は「地獄に落ちるわよ」なんて言いません。大体「どうでしょうかね」と一度考えて、「地獄って案外もうこの世にあるかもしれないですよ」とお話しするんです。
そう言うと「え、そうなんですか」と聞かれます。でも、地獄ってこの世にあるかもしれないというのは、私自身、結構そうだよなと思っているんです。
罪の語源は「的を外す」だった
今朝、いつも私が「Claude」のエージェントに収集してもらっている世界の宗教ニュースを読んでいて、面白い記事に出会いました。キリスト教でいう「罪」についての話です。
聖書のギリシャ語で罪を意味する「hamartia」、ヘブライ語で罪を意味する「chet」という言葉。これがね、面白いんです。
日本語に訳すと、大変意外な意味なんですけども。これらは「的を外す」と訳されるんだそうです。
的外れであることが、罪であるということなんですね。悪いことを積極的に行うというより、的を外すこと。だから作為でも不作為でもない、というのがめちゃくちゃ面白くて。
仏教の「苦」は車軸から外れた車輪
この記事を書いた人は、仏教の「苦」、つまり「dukkha」も例に挙げていました。
私はこの苦を説明するとき、いつも「思い通りにならないこと」とお話ししています。この配信でもそう伝えてきました。
記事では、このdukkhaという言葉を分解すると「車軸から外れた車輪」と訳せると書かれていました。これは伝統的な仏教理解やメインストリームの解釈ではないみたいなんですけども。
でも言い得て妙で、車軸から外れた車輪というのは、まさに思い通りにならないものですよね。
何から外れているのか
的が外れるということは、的があるということです。キリスト教の的とは何かというと、これは神ですよね。
神が決めたこと、神の言う通りであることが的なんです。だから的を外したとき、キリスト教では神に懺悔する。
では仏教で「思い通りにならないこと」は何から外れているのか。これは真理、法則から外れているんです。
諸行無常。全てのものは移り変わり、変わり続ける。固定的な我はない。そういった真理から抜けているということですね。
これは大乗仏教というより、そもそものテーラワーダ的な仏教の話になるかなと思います。
気づけば、直せる
仏教では、不善を行ったとき、自分自身が苦しみを受けます。誰も罰してくれないし、代わりの許しもない。自分の業を受けるんです。
いい業も悪い業も、なしたものは自分の中に返ってくる。不善をなして苦を受けるのは、結局自分であるということなんですね。
だから地獄というのは、必ずしも死後のあの世にあるものだけじゃない。今生きながらも、車輪がずれたまま回り続けることなんです。
真理という的を外し続け、そのままズレたまま生き続けることで、私たちは苦しみを受け続ける。
でも、気づけば直せるわけなんですね。全てのものは変わる、我はない。この真理に反して、変わらず自分の思い通りになると思っているから、苦しみが生じ続けるんです。
その見解を離れて、正しい車軸の位置で正しい的に向かって行動していく。そうすれば、自分自身で自分の行き先を直せるということでございますね。
まとめ
皆さん、的外れてないですか。作為でも不作為でも、意図してもしなくても、的や車軸を外れていれば、うまくいかないのは当たり前なんです。知らず知らずのうちに重ねてしまうものだからこそ、ちゃんとした軸を知っておくことは大事だなと、改めて思っています。お盆は、そういったことに少し思いを馳せる期間にできたらいいですね。
- 罪の語源「hamartia」「chet」は「的を外す」を意味する
- 仏教の苦「dukkha」は「車軸から外れた車輪」とも訳せる
- 仏教では不善の苦を受けるのは、罰でも他者の許しでもなく自分自身
- 地獄は死後だけでなく、ズレたまま生き続ける今ここにもある



