古代日本は月経をタブー視していなかった?
前回までの中国編に続き、今回から日本の性の歴史が始まります。楊さんがまず挙げたのは、日本は性に関するタブーが少ないという特徴です。
先史社会の回では、多くの文明で月経がタブー視されていたと紹介されていました。ところが日本最古の歴史書である『古事記』には、月経がさほど禁忌ではなかったと読める記述が多いといいます。
例として挙がったのが、ヤマトタケルノミコト ── 『古事記』『日本書紀』に登場する伝説上の皇子。各地の平定に遣わされた英雄として描かれますとミヤズヒメの場面です。ヤマトタケルノミコトが「月のものが来ちゃったね」という内容の歌を詠んでいて、平気で言い合う様子から、強いタブーではなかったと考えられています。
(月経も)武家社会が始まるぐらいからはタブー視されていく。ただ、古代日本にはタブーと言えるほど厳しいものはあまりなかったんじゃないかって言われてます。
樋口さんは、古代日本にはモラルのレベルでのルールはあったかもしれないと補足します。ただし穢れが生じても終わりではなく、お祓いで神様に清めてもらえば済むという感覚だったといいます。
日本の良さはね、緩さなんだと思うんですよね。教育の歴史の時も緩かったですよね。
楊さんはさらに、女性史研究家の山崎智子山崎智子さんの説も紹介します。月経にともなう精神の不安定さが、古代の人々には神が降りているように見え、それが卑弥呼のようなシャーマン的な指導者の存在理由になったのではないか、という仮説です。
楊さん自身、この説は「マジでただの仮説」だと何度も念を押しています。先史社会についての本はこうした推測の記述が多いので、絶対にそうだと思わずに面白がって読めばいい、という姿勢です。
目が合えばセックス?平安貴族の「みやびな性欲」
話は一気に平安時代へ移ります。樋口さんによれば、「まぐわう」という言葉は漢字で書くと「目が交わる」と書きます。会う・見るという行為に、すでにセックスが含まれていたのではないかという話です。
身分の高い貴族の娘は家の中にいて、家族以外の男性と顔を合わせることがほとんどありませんでした。そのため、平安貴族の間では顔を合わせること自体が性交の合意に近い意味を持っていたと考えられています。
樋口さんは『源氏物語』の光源氏を例に挙げます。光源氏は女性の寝床に勝手に忍び込むことがあり、会ってしまった女性はほぼ断れなかったといいます。
目が合った瞬間からセックスしてるのと一緒だから、セックスしても一緒だっていう話。
こうした状況については、平安時代の女性は性に開放的だったとする言説がある一方で、今の常識から見れば女性の意思が無視されていたのは事実だという解釈もあります。楊さんは、清少納言や紫式部のように女性の本名が残らない時代なので、基本的に意思は尊重されていなかっただろうと述べています。
では、顔を合わせられない貴族の男性はどうやって恋に落ちたのか。答えは噂です。顔の見えない女性の噂を聞き、和歌を交わし、妄想を膨らませて恋に落ちるのが当時の恋愛スタイルでした。
噂を聞く
顔の見えない女性について、評判を耳にする
和歌を交わす
歌を送り、返ってきた和歌や字を見る
妄想を膨らませる
教養や感性から、高貴な姫君を思い描く
恋に落ちる
視覚ではなく教養をきっかけに恋が始まる
楊さんによれば、平安貴族は体つきのような視覚的な特徴ではなく、和歌の美しさや字のきれいさ、感性の素晴らしさに興奮していたといいます。
番組では、「目が合うとセックスする」という感覚が比較的最近まで盆踊りに残っていたという話も出ました。地域によっては、踊りの最中に目が合った相手とその後に関係を持つことがあったそうです。女性が笠をかぶると視線が隠れるため、女性側が気に入った男性にだけ目を合わせられた、という仕組みも紹介されています。
なぜ「目」にそれほどの力があったのか
楊さんは、ここからは本で読んだものではなく自分の仮説だと断ったうえで、平安時代の日本は呪術的な世界に生きていたと話します。目や言霊 ── 言葉そのものに霊的な力が宿り、口にしたことが現実に影響するという古代日本の考え方には強い呪力があると考えられていました。
和歌とか目が合うとかいうことは、我々の想定とは全く別の意味を常に持ってるわけですね。
楊さんによれば、目に力があるという考え方はもともと古代中国にありました。戦争のときに最前列に巫女を並べ、まず目で敵を殺すようにして進軍したといいます。
楊さんは「望」という漢字も例に挙げます。この字はもともと、王が高台に登って敵国を目の呪力で呪い殺すという意味だったそうです。目を向けること自体に力があり、攻撃にも防御にも使えると考えられていました。
目で呪うという観念は、邪眼や邪視と呼ばれて南米やヨーロッパにもあるという指摘も出ます。楊さんは、目には神聖な意味もあるとまとめ、平安貴族の「目が合う」の重さを説明しています。
仲人と売春はどこから生まれた?穢れを祓う遊女
古代の売春については、男女の出会い方の変化が鍵になるといいます。楊さんが紹介した研究では、この変化から結婚の仲人や、商売としての売春が成立したとされています。
農村では農作業やお祭りなど、男女が同じ場所で過ごす機会が多く、年齢に応じた出会いも自然にありました。ところが都市ができると、地縁も人脈もない人が仕事を求めて集まってきます。
農村
作業や祭りを通じて男女の出会いが多い
都市の誕生
地縁や人脈のない人が各地から集まる
マッチング役の登場
男女を引き合わせる人が現れ、仲人や[[媒酌人]]の原型になる
売春の専門化
セックスまで世話する仕事が営利目的になり専門化する
上の図のとおり、楊さんは、男女を引き合わせる役割が仲人や媒酌人の原型になり、さらに性の世話までする仕事が営利化・専門化したものが売春だと説明しています。聞き手からは「婚活サービス」という反応も出ました。
さらに楊さんは、日本の売春には独特の観念が結びついていたと話します。日本はタブーが少ない一方で穢れの思想があり、普通に生活しているだけで罪が穢れとして蓄積していくという感覚がありました。
その穢れは、移動すること、つまり「さすらう」ことで祓われると考えられていました。そして日本の遊女は定住せず、さすらいながら歌や踊りを披露し、売春をする移動民でした。穢れを祓う機能を持つ人たちが売春を担っていたという関係です。
楊さんは、売春が神聖視されていた古代ギリシャにも通じるところがあると指摘します。樋口さんは、遊女は共同体に属さない根無し草のような存在だったからこそ、さまざまな穢れを押し付けられる役割を担った面もあったのではないかと補足しています。
楊さんによれば、源義経の恋人として知られる静御前 ── 平安末期の白拍子。源義経の愛妾として知られ、義経の没落後も鎌倉で義経を慕う舞を披露した逸話が有名ですも、こうしたさすらいの遊女でした。樋口さんは、遊女は歌や踊り、音楽を提供するエンターテイナーであり、その中にごく当たり前にセックスも含まれていたと捉えるとよいと話しています。
寺院から武士へ。男色は出世の手段だった?
古代から男性同士の性行動はあったようですが、日本では他の時代や中国と比べると記述が乏しいといいます。楊さんによれば、日本で男性間の性愛が最初に発展したのは仏教寺院でした。
寺院は女性が入れない空間で、そこでは僧侶と稚児と呼ばれる少年が愛し合うことが普通でした。この文化が許容される中で発展し、のちに武士へと受け継がれ、江戸時代には庶民の間でも一般的に行われるようになったと楊さんは説明します。
樋口さんは、男同士の肉体関係には政治的な立場を強くする役割もあったと話します。貴族社会の人間関係は主従関係か身分関係でがちがちに決まっていて、肉体関係は唯一、自分が主体となって結べる個人的な関係だったといいます。
そこで起きたのが、平安時代末期の院政 ── 天皇が位を譲って上皇となり、上皇の立場から政治の実権を握る統治のかたち。白河上皇から本格的に始まりましたです。藤原氏が実権を握っていた摂関政治 ── 藤原氏が天皇の外戚として摂政・関白の地位につき、政治を主導した平安中期の体制から天皇家へ権力が戻り、藤原氏を頂点とする秩序が崩れていきました。
摂関政治
藤原氏を頂点とする政治秩序がある
院政の開始
上皇に権力が戻り、従来の秩序が崩れる
人脈開拓の必要
貴族たちが自力で立場を強める必要に迫られる
男色の政治利用
肉体関係による個人的なつながりが政治活動に使われる
樋口さんによれば、男色が本格的に始まった時期は院政の開始と重なっているという研究があるそうです。
生まれた時からもう自分の人間関係の在り方って決められてるんです。
生まれで人間関係が決まる社会だからこそ、肉体関係は何も持たずに生まれた人にとって強固なつながりを作るチャンスだった、という見方が番組では共有されています。
一夫多妻から通い婚へ。財産は娘が継いでいた
結婚制度について、楊さんはまず3世紀の倭国から話を始めます。『魏志倭人伝』には、しかるべき身分の者は4〜5人、それほど身分が高くない者でも2〜3人の妻を持ち、妻たちは嫉妬しなかったと書かれているそうです。
楊さんによれば、そこから大和朝廷の時代を経て、10世紀ぐらい、つまり律令制が本格的に運用されたり武士政権に移行したりする直前までは、多夫多妻制だったといいます。
結婚という概念が多分今と全く違ってて、一生誓い合うみたいな感覚じゃないんですね。
樋口さんによれば、当時の結婚はとても流動的で、夫も妻も相手以外に複数の恋人を持ち得ました。好きになれば結婚し、嫌になれば別れる、割と気分次第の関係だったといいます。結婚式のような儀式もありませんでした。
平安時代の結婚のかたちが通い婚です。夫が妻のもとに通い続けると結婚が成立するとされ、樋口さんは「三晩」、楊さんは「七日連続」と説明しています。
樋口さんは、通い婚は娘を守る仕組みでもあったと話します。平安貴族の娘は自分名義の土地や建物を持ち、財産は父から息子ではなく娘に相続されていました。そのため貴族の息子は、住む家が欲しければ女性のもとに転がり込むしかなかったのです。
上流階級の女性は顔を隠して暮らし、仕事の口も女官などに限られていたため、自活は難しい状況でした。だから生活や財産を管理する後見人として夫に娘の家へ来てもらう必要があり、婿取り婚になったという説明です。
ところが、唐から律令制を輸入したことで変化が起きます。楊さんによれば、中国の律令制は父から息子へ相続する父系の仕組みで、日本も律令制以降、父から息子へと相続される社会へ変わっていきました。
樋口さんは、平安時代の男性は生まれで出世の限界がほぼ決まっていたとも話します。自分の立場を上げるには、自分より身分の高い男性を娘の婿に取るしかなく、娘の結婚によって父の立場も上がる仕組みでした。
処女性に価値はなかった?夜這いと今様の遊女
話は中世に移ります。楊さんによれば、中世の村社会での性の慣習として有名なのが夜這いです。夜這いは高度経済成長期まで続いたといわれ、祖父母や親の世代まで残っていたことになります。
夜這いは、夜中に男性が意中の女性のもとへ忍び込んで関係を持つ慣習です。楊さんによれば、女性には一応拒否権があり、嫌な相手には嫌と言えたといいます。
一方で、娘のもとに誰も夜這いに来ないと、親が心配して村の若い男たちに来てくれるよう頼むこともあったそうです。楊さんは、こうした世界なので処女性はまったく価値がなかったと話します。
実は日本はもともとは処女性に全く価値を置かない文化だったと。
もう1つの特筆すべきエピソードが今様 ── 平安時代中期から鎌倉時代にかけて流行した歌謡。「当世風の歌」という意味で、後白河法皇が編んだ『梁塵秘抄』に多くが収められていますです。楊さんによれば、今様の担い手は遊女や傀儡女と呼ばれる、芸能と売春を担う人たちでした。
後白河法皇は今様に傾倒し、遊女を先生として招いて学んでいました。遊女は昇殿し、位の高い人々に歌謡を伝授していたのです。最高位の人と普通に交流できたことから、遊女の地位は決して低くなかったことがうかがえる、と番組では話されています。
楊さんは、ここまでオムニバス的に話してきた内容が、平安時代ぐらいまでの日本の性の観念だとまとめます。次回以降は中世や江戸時代の話に進む予定です。
まとめ
古代から平安時代の日本では、性にまつわるタブーが少なく、視線や和歌、穢れ、相続のあり方などが現代とはまったく違う意味で性と結びついていました。番組では、多くが仮説であることを断りながら、その独特の感覚を面白がって読み解いています。
- 古代日本は月経などのタブーが少なく、穢れもお祓いで清めればよいという緩い感覚があったとされる
- 平安貴族は「目が合う」ことを性交に近いものと捉え、噂と和歌を通じて教養に惹かれる「みやびな性欲」で恋をしていた
- さすらう遊女は穢れを祓う存在とされ、今様を教えるために昇殿するなど地位は低くなかった
- 男色は寺院から武士へ広がり、院政期には人脈を作る「政略男色」として政治にも使われたという説がある
- 通い婚と父から娘への相続が律令制以降に父系へ変わり、中世の村では処女性に価値を置かない夜這いの慣習が続いた





