貨幣はなぜ「商品世界のキング」なのか
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この回は、コテンラジオのマルクス・エンゲルス編の第11回で、前回から続く『資本論』解説の後編にあたります。深井さん、楊さん、樋口さんが議論を進めていきます。
楊さんはまず、商品の中には特殊なものが2つあると整理します。1つは労働、もう1つが貨幣です。
労働が特殊なのは、すべての商品の価値を規定する根っこに労働があるからだと説明されます。深井さんが「価値を規定している性質があるから」と答え、楊さんが正解だと応じます。
一方で貨幣について、楊さんは一般的な理解とマルクスの理解は全く違うと指摘します。私たちは普段、貨幣を商品交換をなめらかにする「潤滑油」のようなものと捉えています。
しかしマルクスは、貨幣を商品世界の中のキング、王様のような商品だと考えます。
マルクスが考えている貨幣というのは、商品世界の中のキングみたいな感じなんですよ。
なぜそう言えるのか。楊さんは、商品交換の前には必ず値付け、つまり価格を決める作業があると説明します。
商品は価値を持っていて、その価値は使用価値とただの価値に分かれます。ただし価値は価格そのものとは違うと、前回に確認されています。
それでも商品は、交換されるために価値を重心点として価格を決めなければならない運命を背負っています。楊さんは、この運命こそが貨幣をキングにするとマルクスは言うのだと語ります。
すべての人が欲しがる「一般的等価物」
ここで新しい概念が登場します。楊さんは貨幣を一般的等価物 ── 他のあらゆる商品と一定の割合で交換できる、共通のものさしのような商品。マルクスはこの性質を持つ商品が貨幣になると考えましたとして説明します。
一般的等価物とは、他の商品と定量的に交換できる商品のことです。楊さんは、貨幣がなければ米がそれになりうると例を挙げます。米10キロや米30キロと交換する、といった形です。
法定通貨は一般的等価物の中の一個ということだから、貝っていう時代もあったし、米っていう時代もあったし。
楊さんは、こうしたものをすべて一度「一般的等価物」という抽象的な概念にまで昇華させてから、現代社会でどうなっているかを見ていくのがマルクスの特徴だと説明します。深井さんは「とても哲学者らしいね」と応じます。
では歴史的に何が選ばれたのか。楊さんは、一般的には金が選ばれたと述べます。任意の重量で分割でき、分割してもクオリティが変わらず、さらにくっつけることもできるからです。
深井さんは「たい焼きだと頭と尻尾で価値が違ってしまう」とたとえ、金がいかに一般的等価物に向いていたかを確認します。
貨幣は商品交換をなめらかにする潤滑油。流通の媒介物として経済を回す
貨幣は商品世界のキング。すべての人が欲しがり、社会を動かす力を持つ
楊さんは、この一般的等価物としての属性が、商品自体の価値とは別に存在している点が重要だと強調します。商品の価値は労働量で決まりますが、いろいろなものと交換できるという属性は、それとは別物だという指摘です。
商品が人間を支配する「物象化」
楊さんは、貨幣がすべての人に欲しがられる理由をこう説明します。他の商品は、それを欲しい人にしか意味がありません。しかし貨幣はあらゆるものと交換できるため、すべての人間がこの商品を欲しがるのです。
貨幣だけがすべての人が欲しがる商品なんですよ。その他の商品は使用価値があるから、それに基づいた欲望を持っている人にしか意味がないんですよね。
樋口さんは、貨幣は不動資産と流動資産でいえば最も流動的で、価値を交換させやすいものだと言い換えます。楊さんは、使用価値の汎用性がすこぶる高いのだと応じます。
さらにマルクスは、商品を通じて人々が結びつく資本主義社会では、人間ではなく商品のほうが社会的な力を持つと指摘します。その商品のキングである貨幣が、大きな力を握ることになります。
楊さんは、封建制の社会と対比します。仮に商品のキングであるお金があっても、王様のほうが偉く、最終的には人間がコントロールできる状態にありました。
ところが資本主義社会では、そうやってコントロールできる人間がいない前提で市場が作られています。私的利益に基づく個々人の活動の中で商品が生み出され、私たちの意思決定や生活は、私たち自身ではなく商品に支配されていると楊さんは語ります。
要は人間がもう(資本主義を)これやめたって言えない社会だから、支配されてるってことですよね。
楊さんは、もし貨幣がただの潤滑油であれば世界恐慌のようなことは起こらないはずだと述べます。恐慌が起きるのは、経済が人間の力の及ばない、自立したシステムとして動いているからだという説明です。
樋口さんは、人間がお札を刷っているからコントロールできていると思いがちだが、実態は全然違うのだと受け止めます。楊さんは、環境問題も同じだと補足します。商品に支配されているために、環境を破壊しないという意思決定がなかなかできないのだと語ります。
なぜ「高いものほど良い」と錯覚するのか
楊さんは、こうして商品に振り回される現象を物象化 ── 人々の生活や自然環境といった具体的なものが、抽象的な価値の運動によって編成され、振り回され、しばしば破壊されていくことを指すマルクスの概念と呼びます。
そのうえで楊さんは、もう一つマルクスが指摘したことを紹介します。価値は本来、労働量によって商品に与えられた属性なのに、あたかも商品自体が持つ自然な性質だと錯覚してしまう、という点です。
佐々木先生はこれを、使用価値と価値を取り違えることだと説明したといいます。市場での交換力と、それがどう役に立つかを勘違いする、ということです。
楊さんは味噌を例に出します。高い味噌と安い味噌があるとき、高い味噌のほうが使用価値も高いと思い込んでしまう。これが自然属性だと錯覚することに近い、と説明します。
高いものを役に立ってると思うってことですか。
まあすげえ簡単に言うと、高いからいいものだと思うってことです。
楊さんは、価格が高いということは価値の重心点が高いところにありそうだということだが、その重心点は抽象的人間労働量で決まっているため、使用価値とは関係がないと整理します。
物神崇拝と「社長と部下」のたとえ
樋口さんは、こうした勘違いこそが商品に振り回される原因であり、それをマルクスは物神崇拝 ── 本来は人間がものを生み出しているのに、生み出されたものの方に力があると錯覚し、ものを神のように崇めてしまう転倒した状態を指す言葉と呼んだと説明します。
本当はもの自体には何の力もないんですよ。僕たちがものを生み出しているにも関わらず、その生み出されたものの方に力があって、僕たちはその力を手に入れたいがために、そのものを手に入れようとしているっていう、転倒した理解をしてるんですよね。
楊さんは、佐々木先生が論文の中で使っていたたとえを紹介します。それが「社長と部下」の例です。
樋口さんが社長で、青柳さんが部下だとします。樋口さんが社長として指令を下せるのは、青柳さんが樋口さんを社長だと認めて従っている場合だけです。認めなければ、社長と部下の関係は成り立ちません。
つまり社長という属性は、青柳さんの振る舞いによって与えられたものであり、樋口さんという生命体そのものに価値が備わっているわけではない、という結論になります。
俺、友達っていう価値あると思って(いた)。
楊さんは、価値は社会が規定しているのに、私たちはそれを自然属性だと錯覚するのだと強調します。だからこそ転倒が起き、物の方が私たちを支配する物神崇拝が起こる、というわけです。
価値の発生
人間が労働を投入し、社会的な振る舞いによって商品に価値を与える
錯覚
その価値を、商品自体が生まれつき持つ自然な性質だと勘違いする
転倒
人間が生み出したはずの商品の方が力を持つように見える
物神崇拝
ものを神のように崇め、その力を得るためにものを手に入れようとする
剰余価値と「搾取」の本当の意味
楊さんは、次に剰余価値 ── 商品を売って得た金額から、労働者に支払った労働力の対価を引いた差額。ざっくり言えば利益にあたり、マルクスは資本家がこれを搾取していると論じましたという概念を紹介します。簡単に言えば利益のことです。
たとえば、ある労働者が日給1万円で、1万6000円で売れるものを作るとします。資本家は労働者に1万円を支払い、生産物が1万6000円で売れると、差額の6000円が剰余価値です。マルクスは、この6000円を資本家が労働者から搾取していると言います。
深井さんも楊さんも経営者の立場から、それを搾取と言われると違和感があると率直に語ります。しかし楊さんは、マルクスの論理はもっと精密だと続けます。
楊さんは、労働者が生み出す労働力の使用価値は、常に労働力そのものの価値を上回ると説明します。つまり、労働力を使って作った生産物は、必ず労働力の価格よりも高くなる、ということです。
つまり、その労働力を用いて作った生産物は必ず労働力の価値よりも高くなるんですよ。だから誰も騙してないんですよ。システムとしてこうなるっていう話をしてる。
楊さんは、労働力という商品の価値がどう決まるのかも整理します。それは基本的に、労働者が次の日も働けるように生活していくための生活費、いわば労働の再生産にかかるコストで決まります。
労働力を買う
資本家は合意のもと、労働力を日給1万円で買う。これが労働力の価値
生産する
その労働力を使って商品を作る。これが労働力の使用価値
高く売る
作った商品は必ず労働力の価値より高い1万6000円で売れる
剰余価値
差額の6000円が剰余価値として資本家の手に残る
現代に「搾取構造」はまだ残っているのか
楊さんは、なぜ現代の私たちが「それなら全部搾取ではないか」と感じるのかは、当時と今の状況の違いだと説明します。
当時は労働運動が起こる前で、体を壊したり死んだりしながら劣悪な環境で労働者が働かされていました。マネジメント業務もほとんどなく、資本家がやることは機械を買って置いておく程度だった時代です。マルクスはこうした時代の搾取構造を指摘したのです。
そのため、もしマルクスが現代を見れば、必ずしもすべてが搾取だとは言えないだろうと楊さんは述べます。今は一部の人が資本家から剰余価値の配分を受けている状態だと言えるからです。
樋口さんは、前回に出た「同じ時間働いても給料が違う人がいるのはなぜか」という問いの答えの一部がここにあると説明します。労働力の対価だけを受け取る人と、そこに剰余価値の分配を受ける人がいるのです。
だから営業でいっぱい本数取ってきた人は、お前がいっぱい売り上げ立ててきたからちょっと給料プラスするよっていうのは、配分を受けている状態ですね。
一方で楊さんは、現代でも搾取構造は残っていると指摘します。長時間労働で低賃金で、給料を上げるための勉強や資格取得の時間も取れず、頑張っても給料が上がらない人がその例です。
楊さんは、これは日本にもいるし、発展途上国にはより多いと語ります。特に、先進国が発展途上国に対して、階層移動が起こらないような形で安い賃金で働かせていることが社会問題になっていると指摘します。
いい資本家ほど競争に負ける構造
さらにマルクスは、剰余価値をより多く搾取した資本家のほうが、資本家同士の競争の中で生き残ると論じます。
楊さんは、仮にいい資本家がいて剰余価値を労働者に分配すると、その分だけ商品の価格が上がり、市場の競争で利益が下がって勝てなくなると説明します。結果として、より搾取した資本家が市場で生き残っていくのです。
だから結果的に構造として搾取が先行するように資本主義はなってるよねっていう話をしてるんですね。
深井さんは、この論理の前提には「同じレベルの商品が2つ並んだら安い方を買う」という法則があると読み解きます。剰余価値を分配しない方が安く出せるため、そちらが生き残る、という理解です。
同じやつだったら安い方を買う。価値は抽象的人間労働で決まるのだから、剰余価値分を分配しない方が安く市場に出せる。だからそっちが生き残るよね。
楊さんは、これはあくまでマルクスが示したモデルの話だと補足します。ただし、環境に配慮して高い商品を売っても、同じ機能なら買う人はまだ少ないという現実を挙げ、市場原理が働く社会では、搾取する資本家が生き残り、人のために動く人たちが淘汰されていく特性があると述べます。
楊さんは、この特性が外れる現象も現代にはあると付け加えます。たとえばコテンに法人サポーターとしてお金を払う活動は、このマルクスの論では説明できないと語ります。
革命は起きず、格差は広がった
マルクスは、少数の大資本家と多数の労働者への二極化が進むと予想しました。楊さんは、この傾向は今のところ当たっていると述べ、トマ・ピケティの指摘や中間層の消失を例に挙げます。
さらにマルクスは、搾取される労働者たちがいずれ革命を起こすと考えました。フランス革命を見てそう思ったのだろうと楊さんは推測しますが、それは今のところ起きていません。
樋口さんは、資本論の中でマルクスが暴力的な革命が絶対に起きるとは言っていないと補足します。マルクスが言うのは、少数の資本家が生産手段を独占しているなら、それをみんなで共同所有すればいいのではないか、というものでした。
だったらこの生産手段をみんなで共同所有すりゃいいんじゃね?みたいな話になってくるわけですよね。このために労働者同士で助け合っていくアソシエーションを作っていったらいい。
これが共産主義社会につながる考えだと楊さんは説明します。マルクスが理想としたのは、川の水をみんなで使うような、共有財産の社会でした。個人の私的所有をなくしていく社会です。
歴史的には、この考察は一時期「外れていた、嘘だった」とされたと楊さんは語ります。資本主義が繁栄し、みんなの生活が豊かになり、マルクスの言う状態にならなかったからです。
しかしリーマンショックなどが起こり、彼の言うことに近い状況が現れたことで、今マルクスが見直されている、と楊さんは述べます。
樋口さんは、この中間層の存在も、資本家が市場を維持するため一時的に分配していただけかもしれない、という見方も成り立つと述べます。ただし、どちらが正しいかはよくわからないとも語ります。
一思想家としてマルクスを読む
楊さんは、マルクスは政治的イデオロギーと結びついてしまったため、激しく批判されるか激しく賞賛されるかのどちらかになりがちだと指摘します。
そのうえで楊さんは、カントやヘーゲルと同じく、彼を一人の思想家としてフラットに捉えるべきだと提案します。役に立ちそうなところは活かし、違うと思ったところは違うと考えればよい、という姿勢です。
彼が考えていることの僕たちに役に立ちそうなところとか、活かせそうなことは活かせばいいし、まあ冷静に見て、やっぱ違うんじゃないかなって思ったことは違うんじゃないかなと思って。
楊さんは、自分はコミュニストではなく、どちらかというと資本主義が好きだと明言します。深井さんも「財産の私的所有が大好き」と応じます。
楊さんは、前回のポスト資本主義の話と今回のマルクスの話を受けて、あらためて強調します。自分はポスト資本主義に移行させたい人ではなく、コテンのデータベースを作る手段として、今の資本主義より少し進んだ形が良いのではないかと思っているだけだと語ります。
楊さんは、資本主義の中で資金調達もしてきた経営者として、いいところも悪いところも見てきたと述べ、誤解を避けるために強く言葉にしておくと繰り返します。
自分たち自身を資本論で解釈してみると
楊さんは、佐々木隆治先生への感謝をあらためて述べます。取材の中で質問に的確に答えてもらい、まるで先生に学ぶ生徒のようだったと振り返ります。
楊さんは、今回話した内容は先生の話を聞いて自分たちが咀嚼したものなので、理解が足りず間違っている部分は自分たちの責任だと断ります。佐々木先生の著作、特に入門書として『カール・マルクス』を勧めます。
後半は、自分たちの働き方を資本論で解釈してみる雑談になります。剰余価値をすべて搾取と見るなら、みんなで勉強していると「深井さんが搾取している」ことになる、という話です。
ところが視点を変えると、深井さんがいないと収入の大半を失うのだから、社員の方が深井さんを搾取しているとも言えます。さらにコテンの剰余価値がマイナスなら、話はもっとややこしくなります。
僕は自ら会社を立ち上げ、自らと他の誘った奴ら全員を搾取しながら生きてるんだな。ごめんね、マルクスとか。
楊さんは、もし自分が搾取していなければ、資本家の競争の中でコテンは淘汰される、とも語ります。どう解釈しても面白い、と一同は笑います。
楊さんは、マルクスはこうした悲壮感の中で資本主義社会を見ていたのだろうと述べます。自分たちはそこまで悲壮に感じていないから、彼から見れば違って見えるのかもしれない、と語ります。
最後に楊さんは、次回がマルクス・エンゲルス編の最終回で、マルクスが亡くなるまでの話をすると予告します。
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まとめ
今回は『資本論』の後編として、貨幣が商品世界のキングになる仕組み、商品が人間を支配する物象化、そして剰余価値と搾取の構造が語られました。マルクスをイデオロギーではなく一人の思想家として捉え直す視点が示された回です。
- 貨幣は潤滑油ではなく、すべての人が欲しがる一般的等価物として商品世界の王様になる
- 人間が価値を与えたはずの商品に逆に支配される現象を物象化、高いものを良いと錯覚することを物神崇拝と呼ぶ
- 剰余価値は利益にあたり、労働力の使用価値が労働力の価値を上回るために構造的に生まれる
- より搾取した資本家が競争に生き残るため、格差の拡大や二極化は構造として起こりうる
- マルクスの予測は一度外れたと見なされたが、格差社会の進行で再び見直されている






