過酷すぎた医者修行 〜隻眼の新米女医が掴むプロフェッショナリズム〜
深井龍之介さんと樋口聖典さんが届けるコテンラジオのエリザベス・ブラックウェル編、第9話。卒業後の世論、パリでの過酷な産科修行、そして左目失明という絶望。ナイチンゲールとの邂逅を経て独立を決意するまでの軌跡を、その内容をまとめます。
女性医師誕生に揺れた世論
感動の卒業式を終えたエリザベスは、いきなり時の人になります。彼女が書いた発疹チフスシラミなどが媒介する細菌感染症。19世紀には貧困層の間で大流行し、社会衛生の象徴的な疾病でもあった。に関する卒論は学術雑誌の冒頭に掲載され、これはジェネバ医科大学アメリカ・ニューヨーク州にあった医科大学。1849年にエリザベス・ブラックウェルに医学博士号を授与し、米国で初めて女性医師を誕生させた。側の宣伝の打算もあったとのこと。アメリカだけでなくイギリスにも報道は伝わり、医学界からは賞賛と批判の両方が押し寄せました。
「論文の完成度は平均をはるかに上回る」「忍耐と賞賛に値する努力」と、卒論そのものへの高評価。
「女性が自らの性にふさわしい領域を離れた」「神の摂理に逆らう」「男女の区別の崩壊を示す前兆」と、社会秩序を揺るがすものとして拒絶された。
批判の中には、エリザベスが解剖室で男性の遺体を扱う姿を揶揄するものもあり、単なる嫉妬や敵意以上に「女性が人体や専門職の領域に入ること自体が想像の限界を超えていた」状況だったと考えられます。
批判の矛先はジェネバ医科大学自体にも向かい、結局大学は耐え切れず、エリザベス以降は女性学生の入学を受け入れませんでした。在学中に味方になってくれたチャールズ・リー学部長も「エリザベスはあくまで例外であり、前例にしてはならない」とコメントを出します。
そうか、屈しちゃったか。
それでも「そう遠くない将来、女性の入学を好意的に受け入れる医学機関が現れるだろう」と未来を見据えた医師もいました。結果的にはこの予言の方が現実になっていきます。
エリザベスの医学観 ── 道徳・精神・肉体の三位一体
エリザベスの卒論には、彼女の独特な医学観が表れています。当時はまだ病原菌説病気は微生物(細菌など)によって引き起こされるという理論。19世紀後半にパスツールやコッホらによって確立された。エリザベスの時代にはまだ広く受け入れられていなかった。が成立する前。彼女は「正しい道徳的な生き方こそが肉体の健康を得る最も確かな道」と捉えていました。
健全な生活習慣(新鮮な空気・冷たい水・軽い運動・栄養のある食事)
肉体の健康が保たれる
精神の健康が生まれる
高い道徳性が担保される
逆に、不潔や不摂生は肉体を蝕み、精神を荒れさせ、道徳の崩壊を招く。この悪循環から人々を救うのが医者の役割であり、医療行為そのものが道徳の実践になる ── というのが彼女の発想でした。
樋口さんは「コロナ禍の手洗いうがいも、衛生の側面と『正しい行い』という側面の両方があった」と現代との接点を指摘。深井さんも、字が汚いと「心がひん曲がってる」と言われた経験を挙げ、現実の事象を道徳というフィルターで解釈する捉え方は今でも残っていると話しました。
医学先進地パリでの過酷な産科修行
卒業後、エリザベスは医学の先進地パリに渡ります。当時のパリは国家主導で臨床・教育・研究を集中させ、解剖や臨床のサイクルを高速で回す、世界最先端の医学拠点でした。
外科医を志していたエリザベスでしたが、「女にできるのは助産師の分野だけだ」と大物の医師に諭され、意に反して産科病院ラ・マテルニテパリにあったフランス最大の公立産科病院。国家主導で助産師を体系的に育成するモデル病院だった。にしか入れません。しかも医師ではなく、あくまで学生扱いでした。
意外なエピソードとして、夜中に若い女子学生たちが鬼ごっこやベッドのドミノ倒しで「修学旅行的なノリ」で騒ぎ、エリザベスは眠れなかったとのこと。樋口さんは「ちょうど小学校一年生二年生ぐらいの長男もそんな感じ」とコメントしました。
エリザベスは意地でも頭を枕から上げなかったんだって。十分ほどわざと寝たふりをして、自分の中には独立心があるんだよっていうことを示したかったみたい。
それでもこの病院での経験は決定的でした。通っていた医科大学では生きた患者と接する機会がほとんどなかったため、ここで初めて大量の臨床経験を積めたのです。後に独立開業する自信は、この過酷なラ・マテルニテでの日々があってこそでした。
左目失明 ── 外科医への夢が砕かれた日
順調に経験を積んでいたエリザベスを、突然の悲劇が襲います。ある日の夜明け前、新生児を回診していた時、化膿性眼炎細菌感染による目の化膿性炎症。新生児の場合、出産時の産道感染が原因となることが多い。抗生物質のない時代には失明や死につながる重篤な疾患だった。を患った赤ちゃんの目を洗っていて、その液体が自分の顔にかかってしまったのです。
彼女の目も腫れて膿が出始めます。当時の治療法は今から見れば効果のなさそうなものばかりでした。
- まぶたを焼く
- 薬剤入りの液体で目を洗う
- こめかみにヒルを当てて血を吸わせる
- 額に水銀を塗る
- 下剤を飲ませる
- 阿片入りの軟膏を塗る
結果、左目は失明。義眼を入れることになりました。右目の視力もある程度落ちてしまいます。
まず片目見れないので、立体感が難しいですよね。片方も見れないってことは手術とかがかなりむずいですよね。
もう無理ですね。
これで外科医への道は完全に断たれました。日記には「一晩中自分はヒステリックに笑っていた」と記されており、両目失明の可能性すらあった絶望感が伝わってきます。それでもエリザベスは「このトラウマを過去にするには前に進み続けるしかない」と、次のチャンスを模索し始めます。
ロンドンでの再起とナイチンゲールとの邂逅
次にエリザベスが向かったのは母国イギリスのロンドン。セント・バーソロミュー病院1123年創設のロンドン最古の病院。現在も同地で運営が続いている由緒ある総合病院。にインターンとして入り、ここで1年間働きました。
ロンドン最古の病院は600床がすべて貧しい患者で埋まり、待合室にも何百人もがひしめく激務の現場でした。しかし有名人だった彼女には、いろいろな便宜が図られます。病棟内を自由に歩け、解剖もでき、教授からは「無制限に授業に来ていい」という許可までもらえました。
そしてここで彼女は、運命の人物と出会います ── フローレンス・ナイチンゲール1820-1910年。イギリスの看護師・社会改革者。クリミア戦争での活動で知られ、近代看護教育の母とされる。です。
女性が堂々と医療に入れる「ほぼ唯一の風穴」が看護婦。まずは看護婦をプロフェッショナルのステージに引き上げるべき。質を伴わない女性医師を育てても意味がない。
女性が医師という専門職に就くこと自体に意義がある。困難でも医師の道を切り拓きたい。
お互いを最後までリスペクトしながらも、立場の違いから事業パートナーになることはありませんでした。樋口さんは「両方いるからこそ社会は動く」と整理しています。
独立への決意 ── 二重のハードモードに挑む
ロンドンで働きながら、エリザベスは課題感を募らせます。水銀を含む薬剤、瀉血しかしない治療方針 ── 既存の医学への疑念は強まる一方でした。患者には新鮮な空気を、と提案しても誰も耳を貸そうとしません。
ここで彼女は難しいジレンマに直面します。
→「女詐欺師」と見なされ社会的に抹殺
→ジェンダー突破は進むが医療の質は改善されない
新しい医療を試す
エリザベスが出した結論はこうでした。「女性医師に対する社会的信用を守るため、正統派医学の権威は捨てるにはリスクが大きすぎる。一旦は利用しつつ、自分の病院を持ち、そこで新しい医療を試したい」。
これだから一個難しいゲームになってるんですね。医学のアプデと、ジェンダーギャップの課題。この二つをエリザベス同時期に同時にやらないといけないっていう、超ハードモードやってるんですね。
まさにそうですね。しかも常に世論を睨みながらやっていかないといけないんですよね。
こうして彼女は再びアメリカへ。自分の診療所と病院を立ち上げる独立の道へと歩み出します。
まとめ
エリザベス・ブラックウェルの卒業後の数年間は、栄光と挫折が同居する濃密な時期でした。世論の賞賛と猛批判を一身に受け、医学先進地パリで過酷な産科修行に耐え、左目失明という外科医の夢を奪う事故にも見舞われます。ロンドンではナイチンゲールと出会い、互いをリスペクトしながらも別々の道を選びました。
そして彼女は、ジェンダーギャップの突破と医療のアップデートという二重の課題を抱えながら、「まずは正統派医学の権威を利用し、自分の病院で理想の医療を試す」という現実的な戦略を選び取ります。次回はいよいよ独立開業編。彼女がどのように自分の医療機関を立ち上げ、女性医師の地位を切り拓いていったのかが語られます。
- エリザベスの卒業は時の人ニュースとなり、賞賛と「神の摂理に逆らう」という宗教的批判が同時に押し寄せた
- 彼女は「肉体・精神・道徳」を不可分の三位一体と捉え、新鮮な空気・水・運動・食事を重視する予防医学観を持っていた
- パリのラ・マテルニテ産科病院で千件単位の臨床経験を積み、本物の医師としての自覚と自信を獲得
- 新生児の化膿性眼炎が感染して左目を失明、外科医の夢は断たれる
- ロンドンでナイチンゲールと出会うが、女性医師(ビジョナリー)vs 看護婦育成(リアリスト)で立場が分かれた
- ジェンダーギャップ突破と医療アップデートの二重課題に対し、「正統派医学の権威を一旦利用しつつ独立する」戦略を選択

