宇喜多秀家は誰?岡山市とのコラボで始まる特別編
今回のコテンラジオは、岡山市とのコラボ企画として、戦国武将の宇喜多秀家を取り上げる特別編です。テーマは「戦国の貴公子 宇喜多秀家 ~夢託されし秀吉チルドレンの生き様~」と発表されました。
宇喜多秀家という名前を知っているかと楊さんに聞かれた樋口さんは、知ったかぶりをせず「今から勉強していこうかな」と答えます。深井さんもこの反応に同意し、宇喜多秀家はあまり知られていない人物だと話します。
宇喜多秀家知ってる人少ないよね。
これ(宇喜多秀家)は少ないと思いますよ。やっぱ戦国時代好きとかじゃない限りは。
楊さんによると、宇喜多秀家は岡山の基礎を作った戦国大名です。岡山の城下町の造成を進め、岡山城の修築にも関わりました。修築といっても、ほぼ新築に近いものだったようです。
岡山城は2021年から大改修に入り、2022年11月にリニューアルオープンする予定だと紹介されます。それに合わせたコラボが今回の企画です。
宇喜多秀家は16世紀後半から17世紀半ばにかけて、当時の備前や備中、今の岡山周辺を拠点に活躍しました。この時代には、室町幕府の滅亡、本能寺の変 ── 1582年、織田信長が家臣の明智光秀に京都の本能寺で襲われ、自害した事件です。信長による天下統一事業はここで途切れます、豊臣秀吉の天下統一と朝鮮出兵、関ヶ原の戦いが次々に起きています。
関ヶ原で途中から寝返った小早川秀秋は、戦後に岡山藩の藩主になります。小早川秀秋が亡くなった後は、東軍として参戦した池田家の池田忠継が藩主を継ぎました。
研究が進んで光が当たり始めた武将、宇喜多秀家の面白さ
楊さんが挙げる宇喜多秀家の面白さの1つ目は、近年になって質の高い研究が出始めた「フレッシュな」人物だという点です。以前は史料が少なく、あまり注目されてこなかったため、歴史的に正しく評価される機会に恵まれませんでした。
宇喜多家を扱った小説として、垣根涼介さんの『涅槃』も紹介されます。楊さんは、宇喜多秀家はこれから注目される可能性を秘めた人物だと見ています。
なんか死後何百年も経って、こう今売れるとか売れないとか、そういうなんか芸能人みたいなことがあるんですね。
でもそうか、資料が出てくる時が売れる時ですね。
宇喜多秀家の経歴で楊さんが特に面白いと感じたのは、秀家が豊臣秀吉の娘婿だったことです。天下統一を果たして関白になった秀吉の娘婿なので、秀家は秀吉の家臣の序列の中でもトップクラスにいました。短い期間ですが、日本の国政の中枢にも関わっています。
宇喜多秀家は、秀吉による2回の朝鮮出兵で総大将を務め、関ヶ原の戦いでは西軍の大将の一人でした。研究者の中には、秀家を実質的な西軍の総大将と評価し、西軍で一番仕事をしたと考察する人もいるそうです。
西軍が負けると、石田三成のように処刑されるのが普通です。しかし宇喜多秀家は逃げ延びて生き残り、最後は天寿を全うしました。関ヶ原を戦った大名の中で、誰よりも長く生きたといいます。
宇喜多秀家の人生のもう1つの特徴は、偉大な親の後を継いだ息子の物語でもあることです。宇喜多家は名門ではなく、秀家の曾祖父と父が一代で起こした、新興ベンチャーのような一地方領主でした。織田、今川、毛利、武田、上杉といったビッグネームとは、実力も規模も知名度も離れていたと楊さんは説明します。
宇喜多秀家は20代になるころには、秀吉の娘婿として武家の最高クラスの地位にいました。楊さんによれば、戦の経験も家をまとめる力もないまま、父のおかげで一気に引き上げられたことが、のちに秀家を苦しめます。
宇喜多秀家は高い身分になっても調子に乗らず、当主として、また豊臣政権を支える一人として真面目に努力しました。それでも、世の中の変化のスピードに自分の成長が追いつけなかったことで歪みが生まれ、失脚して死にかけます。楊さんはこの人生をジェットコースターのようだと表現します。
なるほど。なんかこう、二代目的なとこもあるんですね、なんか。
宇喜多秀家シリーズは3話構成です。前編は宇喜多家の起こり、中編は秀家の生い立ちと城下町造成や戦での活躍、豊臣政権の中枢に入った経緯、後編は秀家の没落を扱います。武士や幕府、戦国時代の基本は、以前の織田信長シリーズで解説されています。
謎の一族・宇喜多家は、瀬戸内の港から生まれた?
宇喜多家がどこから来たのかは、結論から言うとよく分かっていません。根拠になる史料は後世の編纂物や伝承レベルのものばかりで、いろいろな説があり、定説はないそうです。
楊さんが本を読んだ中で確からしいと考える説では、宇喜多家は児島というエリアを足がかりに成長しました。児島は、今の岡山県の玉野市、倉敷市、小豆島にまたがるエリアです。
児島は瀬戸内海に面した湾岸で、港を持ち、交易で栄えた土地でした。日明貿易 ── 室町時代に日本と明(中国)の間で行われた公式の貿易です。勘合という証明書を使ったため、勘合貿易とも呼ばれますの寄港地でもあり、アジアに開かれた国際貿易港の性格を持っていたようです。漁業や塩も特産品として取引されていました。
宇喜多家の祖先は、この児島の海の流通経路と海産物を押さえ、地道に経済的な基盤を築いたと言われています。楊さんは、農地だけでなく港や市場といった交通・経済の要所を押さえるやり方は、各地の大名や領主にも見られる武士の発展の王道だと話します。
ただし宇喜多家が押さえた土地は、軍事的にも経済的にも価値の高い要衝で、そのぶん紛争の地でもありました。宇喜多家は領地を経営するボスとして成り上がりますが、あくまで数多いローカル勢力の1つにすぎません。
宇喜多家がのちに押さえた備前や美作 ── 現在の岡山県北東部にあたる旧国名です。備前・備中と並び、岡山県を構成する地域の一つですには、多数の中小領主がひしめいて争っていました。さらにその外側では、西の毛利家と東の織田家という、楊さんいわく「サイヤ人クラス」の武家が勢力を競っていました。
なんかもうちょうど(毛利と織田に)挟まれたところで、しかも重要だから何が起こってもおかしくないみたいなところで、いっぱいちっちゃいところがバーッといるって感じですかね。
宇喜多家は商売を続けながら、領地を守るために武士としての性格を強めていきます。人・武器・馬・食料といった軍事力を持ち、自分たちより強い上級領主の誰と組み、誰を裏切るかを見極める政治力を身につけました。
裏切りが当たり前の戦国時代では、リスク回避を一つ間違えるだけで命を落とします。楊さんは、宇喜多家も一領主として生き残ることに精一杯の家だったと説明します。
曾祖父・義家の没落から、父・直家のお家再興へ
宇喜多家の基盤をかなり固めたのが、宇喜多秀家の曾祖父にあたる宇喜多義家です。宇喜多義家は知勇に優れた人物として知られ、宇喜多家は軍事拠点を持てるまでになりました。
しかし宇喜多家は、義家の代に一度没落します。宇喜多義家はかつて裏切った相手から報復を受け、すでに老人だった義家は城の中で自殺に追い込まれました。宇喜多家は領地も家臣も失い、生き残った人々は商人の人脈を頼って支援を受けながら放浪したと伝えられています。
このとき落ち延びた一人が、まだ子どもだった宇喜多直家、つまり秀家の父です。楊さんは、この宇喜多直家こそが秀家と並んで宇喜多家を大きくした重要人物だと話します。
宇喜多直家はまず、有力な戦国大名の浦上宗景と同盟を結びます。当時の宇喜多家は他の領主と組まなければ勢力を保てない状態でした。ただし完全な主従関係ではなく、独立性を保ったまま軍事協力をする関係だったと言われています。
宇喜多直家は、わずかな手勢を率いて戦に加わることもありました。ほぼゼロの状態から、もう一度宇喜多家を立て直していったのです。
宇喜多直家は戦闘力も政治センスも高く、次第に結果を出していきます。交通の要所を押さえている領主とは政略結婚で同盟を結び、娘のうち7人全員を有力な領主や大名クラスの武家に嫁がせたといいます。
宇喜多直家の成長には、一定のサイクルがありました。楊さんはこれも、武士が台頭していく王道のステップだと説明します。
敵を滅ぼす
戦上手を生かして敵対勢力を倒す
領地に組み込む
相手の領地を自分の支配領域に加える
分け与える
得た領地を家臣や同盟者に与え、家臣を増やす
連携と対立を重ねる
他の領主と組んだり敵対したりしながら、さらに強くなる
宇喜多直家が成長して浦上宗景に迫る勢力になると、浦上宗景は警戒して抑えにかかります。浦上の家臣の中には直家のほうが勢いがあると見て寝返る者も出て、押さえた経済エリアの利害もぶつかり、両者は激しい抗争に入っていきました。
なんかね、仲良くすればいいのに。
楊さんは、かつての友が敵になるのが戦国時代の常だと応じます。
東の織田、西の毛利。宇喜多直家はどちらにつくのか
宇喜多直家や浦上宗景たちローカル領主が争う土地に、東から織田信長が迫ってきます。楊さんによれば、多くの戦国大名は自分の国を守ることが目的で、天下統一にはあまり関心がありませんでした。その中で統一政権を目指した織田信長は、突然変異のような存在です。
このころの織田信長は、桶狭間の戦い ── 1560年、織田信長が今川義元の大軍を少数の兵で破った戦いです。信長の名を一躍高めた出来事として知られますで今川義元を討ち、将軍足利義昭を奉じて京都に入り、京都周辺の畿内を掌握していました。まさに勢いに乗っていた時期です。
一方、宇喜多直家たちの西側には、戦国大名の名門である毛利家の毛利輝元がいました。毛利輝元は浦上宗景と同盟していたものの決別されて対立しており、信長とは一応協調しつつも警戒していました。
楊さんは、この状況を会社にたとえます。地元のベンチャー同士で競争していたら、大企業2社に挟まれ、頭の上でその2社がバチバチにやり合おうとしている、という構図です。
今川義元を討ち、足利義昭を奉じて畿内を掌握。統一政権を目指して西へ進撃する
戦国大名の名門。浦上宗景と対立し、進撃してくる織田信長を警戒する
備前などの中小領主は、織田と毛利のどちらにつくかという究極の判断を迫られました。ついたと思えば裏切るという動きが繰り返される、ドロドロの状況だったといいます。宇喜多直家も毛利側に立ったり織田に服従を示したりと、服従と離反を繰り返しながら絶妙なバランスで動きました。
繰り返せるんですね、やっぱ。
俺やったら一回裏切られたら嫌ですけどね。
まあでもそういう時代なんですね。
宇喜多直家が滅ぼされずに隙間を生き抜いたことは、優れたバランス感覚と時勢を読む力の表れとして評価されています。やがて直家は浦上宗景から本格的に離反して勝利し、備前一帯を領有する大名クラスになりました。
その後、織田信長と対立した足利義昭を毛利輝元が受け入れたことで、織田と毛利は全面戦争に入ります。毛利側にいた宇喜多直家は、織田が西へ進むための生命線だった播磨(現在の兵庫県)に攻め込み、織田勢を相手に膠着状態に持ち込みました。
秀吉と黒田官兵衛が登場、宇喜多家は秀吉軍のエースに
播磨で宇喜多直家に手こずった織田信長は、ジョーカーとして豊臣秀吉を送り込みます。すでに信長の重臣だった秀吉は、軍師の黒田官兵衛 ── 豊臣秀吉を支えた軍師として知られる武将です。のちに豊前中津の大名となり、息子の長政は福岡藩の初代藩主になりましたと組んで宇喜多直家と激突しました。
最強のカードを前に、宇喜多直家は劣勢に立たされます。ところが豊臣秀吉は、正面から戦うより、直家を寝返らせて自陣営に引き込むほうを選びました。優秀で勢いがあり、この地域を押さえている直家とは戦わないほうがよいと判断したのだろう、と楊さんは推測します。
豊臣秀吉は宇喜多直家を取り込むために、勝手に和睦交渉を進めたり、直家に土地の保有を認めるよう信長に願い出たりしました。勝手な動きで信長に怒られたようですが、それほど秀吉は直家を味方にしたかったのです。
宇喜多直家の側も、毛利の勢いよりも織田の勢いが強まっていくのを見て、毛利からの離脱を考えていました。秀吉の仲介で直家は信長に謝罪し、織田陣営に入ります。楊さんは、この判断が宇喜多家の命運を決めたと強調します。
毛利側で播磨に出陣
織田勢を相手に膠着状態に持ち込む
秀吉と黒田官兵衛が登場
宇喜多直家は劣勢に立たされる
秀吉の寝返り工作
和睦交渉や土地保有の口添えで直家を取り込もうとする
織田陣営に帰順
秀吉の仲介で信長に謝罪し、天下統一事業に参画する
織田陣営に入った宇喜多直家の直属の上司は、豊臣秀吉でした。宇喜多勢は秀吉軍のエースとなり、かつての同盟相手である毛利家と、ほぼ自力で戦い抜いて拠点を次々に落としていきます。
豊臣秀吉は信長から中国地方の攻略を任され、大きな責任とプレッシャーを抱えていました。そのため、自力で毛利と張り合える宇喜多直家に大いに助けられます。形の上では主従関係でも、現場ではお互いを補い合うパートナーだったようです。
楊さんは、豊臣秀吉が自分の基盤を築く過程で宇喜多家が絶大な貢献をしたことが、この先の物語にとって非常に重要だと話します。
10歳の当主・宇喜多秀家と、秀吉が支えたガバナンスの落とし穴
宇喜多直家は、秀吉に従って遠征している途中で病死します。ここで家督を継いだのが、10歳前後の息子、宇喜多秀家でした。
宇喜多秀家はまだ幼いため、実際の意思決定は叔父や重臣たちが担いました。エースである宇喜多家の事業承継を、豊臣秀吉も手厚くフォローします。
当主の宇喜多秀家には家臣たちを抑える力がなかったため、秀吉が後見人として宇喜多家を代理で指揮しました。秀吉と宇喜多家の重臣による集団指導体制で、直家の死という危機を乗り切ったのです。
当主の宇喜多直家が、自らの戦闘力と政治センスで家を率いる
10歳前後の秀家が当主となり、秀吉と叔父・重臣の集団指導体制で家を動かす
楊さんは、宇喜多家のガバナンスが秀吉によって担保されていたことが構造的な欠陥となり、のちに秀家を苦しめると予告します。今はプラスに働いている秀吉の後見が、後々大きなマイナス要因になるというのです。
継ぎたくね、十歳で。
人は追い込まれるとここまで裏切る?前編の締めくくり
前編の最後は、戦国時代の裏切りの多さをめぐる雑談になります。深井さんは宇喜多家を取り巻く裏切りの連続に驚き、中国の戦国時代も同じレベルで裏切り合っていたと話します。
人間追い込まれるとこれぐらい裏切るんでしょうね、やっぱ。
樋口さんに「裏切られないって思ってます?」と聞かれた深井さんは、人間である以上、可能性はあると認めます。そして、歴史の見方をそのまま自分たちの関係に当てはめてみせます。
樋口さんに裏切られたことがないからといって、裏切られないとは限らないですから。
樋口さんが「室越さん、今度二人きりで会いましょうか」と裏切りを演じてみせ、場は笑いに包まれます。前編は、宇喜多秀家がついに当主として登場したところで幕を閉じ、次回へ続きます。
まとめ
前編では、宇喜多秀家本人が活躍する前に、宇喜多家がどう成り上がったかがたどられました。瀬戸内の港を押さえた謎の一族が、曾祖父・義家の没落を経て、父・直家の手で再興されます。直家は織田と毛利の間で生き残り、秀吉軍のエースとなりました。その一方で、秀吉に支えられた承継が、のちの秀家の苦しみの種になることも示されています。
- 宇喜多秀家は岡山の基礎を作った戦国大名で、近年の研究で評価が進み始めた人物
- 宇喜多家は児島の港と流通を押さえて力をつけた、名門ではない新興の地方領主だった
- 父・宇喜多直家は政略結婚と戦を重ね、織田と毛利の間で服従と離反を繰り返しながら生き残った
- 秀吉の寝返り工作で織田陣営に入った宇喜多家は、秀吉の中国攻略を支えるエースになった
- 10歳前後で家督を継いだ秀家のもとで、宇喜多家のガバナンスは秀吉に担保される構造になった





