本能寺の変で「上司が勝ち馬に」なった宇喜多家
前編の続きとして、中編は宇喜多秀家の父・宇喜多直家が病死し、10歳の秀家が宇喜多家を継いだ場面から始まります。幼い当主に代わって家臣団を抑えるため、羽柴秀吉が後見人として宇喜多家にガバナンスを効かせていました。
宇喜多家が押さえていた地域は要衝の地で、秀吉にとっても落とせない場所でした。その直家が亡くなった同じ年に、本能寺の変 ── 1582年、織田信長が家臣の明智光秀に京都の本能寺で襲われ自害した事件。これを機に秀吉が急速に台頭しますが起きます。
秀吉は戦っていた毛利とすぐに和睦し、明智光秀を倒し、さらに柴田勝家も破って、天下取りの第一歩を踏み出します。楊さんは、宇喜多家から見れば「自分たちの直属の上司が勝ち馬になった」状況だったと説明します。
これ(秀吉が勝ち馬になったのは)ラッキーですよね。
ここから秀吉は、少年の秀家と宇喜多家を異例の形で取り立てていきます。理由として楊さんは、直家が尽くしてくれた恩義への返礼、信長の死後も宇喜多家が天下統一事業に一貫して協力した実績、そして毛利家や四国の長宗我部への抑えという軍事的な価値を挙げています。
樋口さんは「取り立て」を借金の取り立ての意味だと勘違いしていたと笑い、楊さんに「最近そういう経験あったんですか?」と返される一幕もありました。
秀吉の娘婿、そして10代で貴族の官位へ
宇喜多秀家が大きく出世したきっかけは、秀吉の娘婿になったことでした。秀吉には血のつながらない養女・豪姫 ── 前田利家の娘で、子のいなかった秀吉の養女となった女性。秀吉に溺愛され、宇喜多秀家に嫁ぎましたがいて、秀家はこの人と結婚します。
豪姫の実父は、加賀百万石で知られ、今の金沢の基礎を築いた大大名・前田利家です。秀吉は豪姫を溺愛しており、その夫となった秀家は秀吉の家族の一員になりました。
秀家という名前の「秀」の字も秀吉から与えられたもので、もとは家氏と名乗っていました。こうして秀家は権力の中枢に取り込まれ、秀吉直下の重臣の立場に収まります。
さらに秀家は10代のうちに貴族の官位を受けます。背景には、元百姓で名門出身ではない秀吉が、武家社会の頂点にいることを見える形で示したかった事情がありました。
秀吉は公家社会のヒエラルキーを権威付けに利用し、自分だけでなく家族や重臣にも官位を与えて上下関係をはっきりさせました。樋口さんはこれを「名刺に書ける役職をつけたかった」とたとえています。
秀吉が関白 ── 天皇を補佐して政務を行う朝廷の最高職。秀吉は武家出身として初めてこの地位に就きましたになったことで、秀家は日本の最高権力者の重臣であり身内でもある、少年大名としての栄華を極める立場になりました。
日本トップの義父を持っても調子に乗らない少年
楊さんは、自分が宇喜多秀家の立場なら「義理の父は日本のトップだ」と調子に乗ると思う、と語ります。ところが秀家は、実戦の場に出てきちんと努力を重ねました。
秀家は秀吉の戦にもれなく参加し、先陣を務めています。実質的に軍を動かしたのは周囲の重臣たちだったと考えられ、秀家本人に際立った武功の記録はありませんが、特段の失敗の記録もありません。
そのため秀家は、武家として一通りの器量を備えていたと評価されています。秀吉も甘やかさず、家臣たちに「秀家に武功をあげさせよ」と指示し、武士として踏むべきステップを踏ませて鍛えようとしました。
楊さんは、秀吉に余裕がなかったこともあり、秀家も愚かな人物ではなかったからこそ、秀吉が目をかけて育てようとしたのではないかと見ています。
朝鮮出兵の総大将と「前線に出たい」若さ
秀吉は、中国の明の征服を目指し、その最初の軍事行動として朝鮮半島に2回出兵します。文禄の役 ── 1592年に始まった秀吉による1回目の朝鮮出兵。1597年からの2回目は慶長の役と呼ばれます、慶長の役です。この朝鮮出兵で、宇喜多秀家は総大将に任命されました。
秀家に与えられた役割は、ソウルに駐留して守る後ろ備えで、秀吉の指令を3万人の軍勢に伝える司令官代理のような立場でした。秀吉は、秀家の若さゆえの勇ましさや経験不足を気にして、前線に出したくなかったといわれます。
秀吉は、朝鮮出兵が成功した後の人事計画で、秀家を日本の関白か、朝鮮を支配する最高責任者に据える構想まで持っていました。それだけ期待していたからこそ、死なせたくもなく、経歴に傷もつけたくなかったわけです。
ところが秀家は、後方支援の役割に不満だったようで、他の武将と同じく軍勢を率いて前線に行かせてほしいと秀吉に願い出て、許されます。お飾りの総大将ではなく立場に見合った働きをしたかったこと、目立った手柄がないことへの焦りがあったのではないかといわれています。
ありそう。
前線に出た秀家はあまり活躍できませんでしたが、別の戦いでは家臣とともに敵将を討ち、戦果を上げています。それでも秀吉は心配し、有力な武将を補佐につけて「秀家が意見を聞かなければ私に報告せよ」と指示を出しました。
失敗されたくないし、単純に親心的な、若い子を助けないといけないみたいなのもあったかもしれないし。わかんないですけど。
茶の湯、能、鷹。身分にふさわしい教養と交際費
宇喜多家はもともと一介の中小領主でした。宇喜多秀家は身分の上昇に合わせて、茶の湯・能・和歌など、武士の社交界で必須とされた教養を身につけていきます。
これらは秀吉自身が好んだものでもあり、秀家にとっては秀吉との信頼関係を強め、社交界での政治的立場を保つ手段でした。秀家は秀吉の茶会や歌会に参加し、鷹狩り好きの秀吉のために、領内から鷹やその餌となる犬を大規模に調達して献上した形跡もあります。
秀家は特に能にのめり込み、多彩な演目を演じられたといいます。催しで自ら演じた役は楊貴妃で、評判もそこそこ良かったそうです。
楊さんがこの話を紹介したのは、地位が上がるほど交際費が膨大になっていく点を示すためでした。茶器や鷹などを秀吉や他の大名に贈り、秀吉が訪問するたびに贅を尽くした宴を開き、お膳が出るごとに刀や馬、衣服を献上する決まりがありました。
いや、面白いな。これ、時代が変わってもここだけ人間ほんと変わらないよね。とにかく権威をどうやって示すかっていうのが、こういうことでしか示せないの。
団子より花。領土は増えず出費だけが増える構造
宴や能の催しに加え、土木工事に動員されたときにも出費がかかりました。宇喜多家は、身分上昇に伴う出費の増加という構造にはめ込まれていったと楊さんは説明します。
特に重かったのが朝鮮出兵の負担で、宇喜多家は領内から男手を引き抜き、農民から食糧を収奪しました。その結果、田畑が荒れ、農民が逃げるという、他の大名でも起きた事態が宇喜多領でも起きています。
一方で秀吉は、宇喜多家の領国を備前・備中の周辺に固定し、新しい領土を与えませんでした。楊さんはこれを「花より団子の逆」、つまり団子(土地や財産)よりも花(身分や位)を与えたと表現しています。
身分の上昇
秀吉の身内として高い官位を得る
出費の増加
交際費、宴、献上品、朝鮮出兵の負担がかさむ
領土は固定
備前・備中周辺から広がらず、年貢収入が増えない
財政ひっ迫
農民の逃散や田畑の荒廃も起きる
領土が増えないことの意味について、樋口さんと深井さんは、農耕中心の当時は年貢が収入の柱だったと確認します。楊さんは、秀吉が「若い秀家に大きな領土は早い」とドライに判断した可能性を挙げました。
というか、(領土を)与える先がいないんじゃない?敵がいないから、もうあんまり。
一回統一してるから新しく獲得できないから朝鮮行ってるぐらい。
いやーなんか秀吉も刀とか馬とか俺いらないっすよって言えばいいのに。
何百年、何千年経っても人間がどんだけこんな偉そうな顔してロジカルシンキングしてるような顔しといて、やってることをさ、子供と一緒じゃん。
馬鹿にしてるわけじゃないですよ。興味深いなと思って。僕もそれに絡め取られてるってことですからね、人間だから。
岡山城の大改修と城下町づくり
膨らむ出費をまかなうためにも、宇喜多秀家は領国経営に力を注ぎます。秀吉の指示もあり、舞台となったのは今の岡山でした。
岡山城は父・直家の代からありましたが、周りには家臣の家がある程度で、町らしい町並みはなかったと推測されています。合戦に明け暮れた直家は城にいる期間も短く、本格的な城下町整備はできていませんでした。
秀家は岡山城をほぼ新築に近い形で大改修し、天守閣を建てます。天守台は北に大きく突き出した不等辺五角形という、全国に例のない形だといいます。他国の大名が家臣への手紙で、岡山城は京都にも劣らないほど見事だと書いた記録も残っています。
城下町では、領内各地から有力な商人を呼び寄せて町人町をつくり、経済圏を形成しました。これが今の岡山市内の繁華街につながっています。商人の家は2階建てにする、新しい土地に家を建ててよいが1軒ごとに税を取る、といった方針も立てられました。
秀家は家臣を城下町に集めて住まわせ、ガバナンスの強化も図りました。農業では用水路や農地開発などのインフラ整備で収穫高の改善を目指し、用水路の細かい運用制度まで作り込んだ記録が残っています。
検地が生んだ権力強化と家臣団の分裂
宇喜多秀家の内政で最も大きかったのが検地 ── 土地の面積や収穫高を調べて台帳にまとめる政策。年貢の基準を定め、土地の権利関係を整理する目的がありましたです。土地と石高(収穫高)を把握することで、年貢のかけ方、家臣への褒美の与え方、軍事負担の基準となるデータが得られます。
楊さんによれば、検地の最も大きな目的は、戦国時代の土地に重なっていた複雑な権利関係を整理して一元化することでした。同じ土地にいろいろな人が所有権を主張している状態を整理すれば、大名の権力が強まり、家臣との主従関係を絶対的なものに変えられます。
現代やったら全ての土地の所有者がほぼ分かってる状態ってことですけど、それがいかに難しかったかっていうことですよね。
やっぱ統一権力がないから、シンプルに行政がちゃんとできてなかったってことだと思うんですよね。
ただし検地は難しく、大名が直接実効支配できていない土地では、その土地を押さえる領主や家臣の協力がなければ進められません。秀家は検地を断行しましたが、反発が起き、得をする家臣と得をしない家臣が対立しました。
こうした対立はどの大名家でも起きていたことです。それでも、家臣たちの分裂と不満を抑えきれなかったことが、のちに宇喜多家へ大きなダメージを与えることになると楊さんは予告します。
地位に就いて、でも出費が増えて、でも頑張ろうと思って、領国経営の方に力入れてたっていうところですよね。
後ろ盾・秀吉の死。なぜ秀家は厚遇されたのか
そして、宇喜多秀家と宇喜多家の出世を押し上げてきた秀吉が亡くなります。楊さんは改めて、秀吉が秀家を厚遇した理由を整理しました。
| 観点 | 内容 | 具体例 |
|---|---|---|
| 恩義 | 直家の代から受けた恩への返礼 | 後見人として家督相続を支える |
| 家族 | 溺愛する娘の夫で、身内 | 豪姫との結婚、「秀」の字を与える |
| 仕事上の期待 | 豊臣政権の運営者の一人 | 大名同士の調整役、朝鮮出兵の総大将 |
| 戦略的価値 | 備前などの要衝を押さえる勢力 | 毛利や長宗我部への抑え |
| 人としての相性 | 気まぐれな秀吉と最後まで良好 | 体調を崩した秀家を手紙で気遣う |
楊さんが特に強調するのは相性です。気まぐれで怒りやすかった秀吉の逆鱗に多くの人が触れた一方、秀家は一度も触れず、良好な関係を最後まで保ちました。
楊さんが本を読んで抱いた秀家像は、際立った才能はないが目立った失敗もない、誠実で調子に乗らず努力する若者です。少し短気で我慢強さはまだ足りず、成り上がりの野望は薄め。岡山の方からは、イケメンだったとも教わったそうです。
秀吉の死後、政権の中枢にいた戦国大名たちは敵味方に分かれ、関ヶ原でぶつかります。激変する政治状況の中で秀家と宇喜多家がどうなるかは、次回に語られます。
いや、これはだから強烈な後ろ盾がいきなりバーンって亡くなったっていう状態に(なった)。
まとめ
宇喜多秀家は秀吉の娘婿・重臣として少年のうちに栄華を極めましたが、その地位は領土の増えない中での出費増と、検地による家臣団の分裂という火種を抱えたものでした。秀吉という後ろ盾を失ったところで、中編は幕を閉じます。
- 本能寺の変後、直属の上司である秀吉が天下人となり、宇喜多家は大きく取り立てられた
- 秀家は豪姫との結婚と高い官位で権力の中枢に入りつつ、調子に乗らず実戦で経験を積んだ
- 秀吉は身分は与えても領土は与えず、交際費や朝鮮出兵の負担で宇喜多家の財政はひっ迫した
- 岡山城と城下町の整備、検地などの内政に力を注いだが、検地は家臣団の対立を生んだ
- 秀家を厚遇した秀吉の死により、宇喜多家は関ヶ原へ向かう激動期に入る





