プロイセンはどこまで大きくなったのか
壮絶な七年戦争を語った前回に続き、今回のコテンラジオは、七年戦争後のフリードリヒ大王の人生と、戦争と並行して進めていた内政を扱います。
深井さんはまず、フリードリヒ大王の治世でプロイセンがどれだけ大きくなったかを数字で示します。領土は1.6倍、人口は250万人から540万人に増えました。
国家の支出も700万ターレルから2000万ターレルへとおよそ3倍になり、陸軍の総数も19万まで増強されたといいます。深井さんは、父である軍人王が生きていたら驚き、褒めていただろうと話しています。
フリードリヒは啓蒙専制君主 ── 啓蒙思想の影響を受けながら、強い君主権で上から近代化を進めた君主のこと。啓蒙絶対君主とも呼ばれ、18世紀のプロイセンやロシア、オーストリアに代表例がいますとも呼ばれ、統治のやり方は徹底したトップダウンでした。大臣がいても協議は行わず、意見を求めることさえ危険だと考え、自分でどんどん決めていくスタイルだったと紹介されています。
バラバラの法をまとめた司法改革
フリードリヒが内政で手がけた大きな仕事の一つが、司法改革です。プロイセンはもともと飛び地をあちこちに持ち、土地ごとに別々の行政法がありました。
深井さんによれば、このような統治では法体系が一つにまとまらず、近代国家になれません。同じ国の人間なのに、ある土地では死刑になり、別の土地では死刑にならないのはおかしい、というのが啓蒙君主としてのフリードリヒの感覚でした。
フリードリヒは、軍人王の時代から改革部門を担っていた法律学者コックツェイを側近にし、法整備を進めます。その過程で、プロイセンの一部に及んでいた神聖ローマ帝国 ── 中世から1806年まで続いた、ドイツを中心とする諸邦の緩やかな連合体。皇帝はいたものの、各領邦の独立性が強い体制でしたの裁判権からも外れていきました。
深井さんはこれを、帝国裁判権からの事実上の独立だと説明します。皇帝もそれを許し、プロイセンは帝国からごちゃごちゃ言われることがほぼない状態になりました。
へー。(皇帝には)止める力もなかったんだろうね。
深井さんは世界史の大きな流れにも触れます。フリードリヒの改革によって、プロイセンはヨーロッパ諸国に先駆けて近代的な素地を持つ国になりました。ところが最も遅れていたフランスでフランス革命が起こり、フランスがいきなり最先進国になるという逆転が起こります。
司法改革では、刑法の改革や拷問の禁止も進められました。フリードリヒは、20人の罪ある者を見逃しても、1人の冤罪を作らないほうがはるかに良いという考え方を持っていたといいます。
深井さんは、この発想が厳罰主義ではなく人道の概念に立ったもので、啓蒙主義の影響だと話しています。死刑の全廃までは考えられなかったものの、なるべく減らす努力はしていたそうです。
水車粉屋アルノルトの訴訟に王が介入した理由
フリードリヒの時代の裁判は、近代的な裁判とは違い、最終的に王様が介入できる仕組みでした。その有名な例が、水車粉屋クリスティアン・アルノルトの訴訟です。
アルノルトは水車で麦をひいて粉を作っていましたが、隣人が魚の養殖池を作ったことで水量が不足し、収入が激減しました。そこで領主に賃料の減免を求めたところ、逆に賃料の不払いを理由に訴えられてしまいます。
水量不足
隣人の養殖池で水車の回りが弱まり、収入が激減する
領主が提訴
賃料減免を求めたアルノルトを、領主が不払いで訴える
敗訴と競売
第一審・第二審とも領主が勝ち、水車が競売にかけられる
王への直訴
アルノルトが「請願の菩提樹」を通じて大王に直訴する
王の介入
フリードリヒが判事を詰問し、力技で水車を取り戻させる
現地調査の報告を聞いたフリードリヒは激怒し、大法官フィルストと3人の判事を呼びつけて詰問しました。水も流れず、粉ひきができず、稼ぎも得られない水車粉屋から、賃料を払わないからといって水車を奪うことが許されるのか、という問いです。
フリードリヒはフィルストをその場で解任し、判事たちの逮捕・拘禁を命じます。国務大臣ツェードリッツが判決の指示を拒否すると、王の権利をさらに使って判決を出させました。水車がアルノルトの手に戻ると、判事たちには恩赦を与えて釈放しています。
なんかね、国からするとたった1個の水車小屋の話ですよね、これ。
この判決で、フリードリヒは民衆からとても人気が出ました。深井さんは、民衆の味方をしたい思いもあったはずだが、合理的に考えてそうはならないだろうという判断が大きかったと見ています。
楊さんは、この訴訟の背景にある国家観を説明します。父の代までは王家の収入と国の収入が分けられておらず、王家を富ませることがそのまま国を富ませることだと考えられていました。
王家の財産と国の財産は別物で、国をちゃんと富ませたいのであれば、国を構成している人たちをまず富ませないといけない
王家の収入と国の収入が同一で、王家が富めば国も富むと考える
王家と国の財産は別物。貴族・市民・農民が没落すれば国が滅びるので、彼らを保護する
楊さんによれば、アルノルトのような農民を保護したのは、国を構成する人々を富ませるという新しい考え方に基づくものでした。
後継者ハインリヒにかけた思いと突然の死
子どものいないフリードリヒにとって、後継者は大きな課題でした。候補は甥の兄弟で、長男フリードリヒ・ヴィルヘルムがもともと王位継承者でしたが、怠惰で浪費家だったため、啓蒙専制君主は務まらないと考えられていました。
同じ名前がまた出てきたことに、樋口さんが思わず大声を出しそうになる場面もあります。長男には男の子が生まれなかったこともあり、フリードリヒは可能性を感じさせる次男ハインリヒを王位継承者として育てることにしました。
フリードリヒは国内の巡察旅行に常にハインリヒを同伴させ、理想的な人間に育っていく姿を喜んで見守っていたといいます。
一方で楊さんは、フリードリヒが後継者教育の基準を理性的に書き残していたことを紹介します。目標は「芝居をする王様」ではなく、国のための「プロイセンの王」を育てることでした。
- 軍隊で若い時からキャリアを積む
- 学問や国政全般を学ぶ
- 詰め込みを避け、独学と実践で判断力を育てる
- 留学より国内を回り、官僚・将校・貴族とつながる
勤勉で理性的で、軍隊を指揮し、自ら交渉できる君主という基準に、深井さんは「めちゃくちゃ基準高えぞ」と驚いています。
ところがハインリヒは、軍の演習の帰り道に天然痘にかかり、数日後に若くして亡くなります。深井さんは、その年頃がかつてフリードリヒが逃亡を図って捕らえられた時期と重なると指摘しています。
フリードリヒはハインリヒを悼む一文を発表し、墓に葬ったときは自分も一緒に死んでしまいたい気持ちをどうすることもできなかったと記しました。結局、王位は兄のフリードリヒ・ヴィルヘルムが継ぐことになり、深井さんは「ダメでした、この人は」と話しています。
しかもこの人がまさに今から自分の愛情を注いであげようとする人に先立たれる。
かつての敵と組んだポーランド分割、ライバルの死
七年戦争後のポーランドは、かつてプロイセンの宗主国だった頃の力を失い、ロシアの属国のような状態でした。ポーランド王位がザクセン選帝侯に世襲されるのを防ぐため、ロシアのエカチェリーナ2世 ── 18世紀後半のロシア女帝。領土を大きく広げ、啓蒙専制君主の一人にも数えられますがフリードリヒに同盟を持ちかけます。
かつての敵と手を結んだ結果、ポーランドはオーストリア、ロシア、プロイセンの3国に分割されました。楊さんによれば、フリードリヒの死後にも第2次、第3次の分割が行われ、ポーランドは一度地図上から消えています。
深井さんは、第3次分割を終えたプロイセンの領土が軍人王時代の2.7倍ほどまで広がり、その入り口をフリードリヒが作ったと話します。1778年、60代のフリードリヒはバイエルン継承戦争で武力衝突しかけますが、睨み合いで終わり、大きな戦争にはなりませんでした。
そして1780年、究極のライバルだったマリア・テレジアが先に亡くなります。このときマリア・テレジアは63歳、フリードリヒは68歳でした。
深井さんは、男子が生まれず嘆いた父カール6世が教育も授けなかった娘こそが、ハプスブルク家の歴史で最も優秀な君主だったのは皮肉だと語ります。
マリア・テレジアの死に際し、フリードリヒは「私は彼女と戦いましたが、一度たりとも彼女の敵ではありませんでした」と述べたといいます。深井さんは「絶対敵だったよ」と笑い、かつては彼女らを「3人の娼婦」と呼んでいたことにも触れています。
悪魔の植物ジャガイモをドイツの主食に
フリードリヒがドイツに与えた重要な影響として、深井さんはジャガイモの普及を挙げます。ブランデンブルク地方は寒冷で、「砂場」と蔑称されるほど土地がやせていました。
ジャガイモはもともとヨーロッパには自生しておらず、深井さんによれば、インカ帝国を滅ぼしたコンキスタドール ── 16世紀に中南米を征服したスペイン人の征服者たち。ピサロはインカ帝国を征服した人物として知られますのピサロが1600年頃に南米から持ち帰ったものです。当時は主に花が観賞用に栽培されていました。
凶作を経験したこともあり、フリードリヒは食べればいいのではと考えます。すべての休耕地にジャガイモを植えさせる「ジャガイモ栽培令」を出し、自ら食べて見せたりもしたそうです。
最初は「悪魔の根」と恐れられていたジャガイモが、この政策によってドイツの主食になっていきました。こうした細やかな政策について、民のためにちゃんと仕事をしていると評価する声も上がっています。
愛犬に毛布を。孤独な哲人王の最期
フリードリヒは七年戦争中から痛風を患い、喘息なども併発して高熱や呼吸困難に苦しんでいました。最期は痛風とリウマチの悪化で、椅子に座ることもベッドに横たわることもできなかったといいます。
晩年のフリードリヒは、ハインリヒを失うなど心から信頼できる人が周りに少なくなり、人間よりも犬に愛情を注ぐようになりました。常に数匹の犬を飼っていたそうです。
最後の言葉は、弱ったフリードリヒに心配そうに寄り添う愛犬ズペルベに、毛布をかけてやってくれという頼みでした。亡くなった時の顔を型に取ったデスマスクも残っています。
楊さんによれば、愛犬と同じ墓に入りたいという遺言は、すぐには守られませんでした。棺はその後各地を転々とすることになります。
なんか休まらん人生ですね。死んだ後も。
次回はシリーズ最終回で、フリードリヒ大王の死後の影響とその後のプロイセンが語られる予定です。深井さんは、苦しみも多い人生だったとしながらも、楽しみもあったと思うと締めくくっています。
まとめ
七年戦争後のフリードリヒ大王は、司法改革や農民保護、ジャガイモ普及など理性的な内政でプロイセンを大国へ押し上げる一方、後継者やライバルを失い、愛犬に寄り添われる孤独な最期を迎えました。
- 治世中にプロイセンは領土1.6倍、人口は250万人から540万人へと大きく成長した
- 司法改革で法体系を統一し、拷問禁止や冤罪防止など人道的な考えを取り入れた
- アルノルト訴訟の背景には、王家と国の財産は別物という新しい国家観があった
- 後継者ハインリヒの急逝やマリア・テレジアの死を経て、晩年は犬に愛情を注いだ
- ジャガイモ栽培令によって、ジャガイモはドイツの主食になっていった





