四面楚歌のプロイセンが倍の敵に3連勝?
前回までに七年戦争 ── 1756〜1763年、シュレジエンをめぐるプロイセンとオーストリアの対立を軸に、ヨーロッパの列強が二陣営に分かれて戦った戦争。英仏の植民地戦争とも連動しましたが始まり、プロイセンのフリードリヒ大王はオーストリア、フランス、ロシアなどに囲まれる四面楚歌の状態に陥っていました。
収録そのものも大ピンチで、冒頭の時点で時刻はすでに24時です。出演者たちは翌日に全員出張を控えていて、何時間寝られるかの戦いが始まると笑っています。
まだ何話か残っているのに、今24時です。そして我々は明日全員、出張に行かないといけないんですけれども。
七年戦争の大ピンチからプロイセンが見せたのは、楊さんいわく「謎の踏ん張り」でした。ロスバッハの会戦、翌月のロイテンの会戦、翌年8月のツォルンドルフの会戦で、プロイセン軍は数で勝る敵を立て続けに撃破します。
| 会戦 | プロイセン軍 | 相手の兵力 |
|---|---|---|
| ロスバッハの会戦 | 2万2000 | フランス・神聖ローマ連合軍4万1000 |
| ロイテンの会戦(翌月) | 3万3000 | オーストリア軍6万6000 |
| ツォルンドルフの会戦(翌年8月) | 3万6000 | ロシア軍4万3500 |
ロスバッハもロイテンも、相手はプロイセン軍のほぼ倍の兵力です。深井さんは3連勝の話を聞いて「いきなり強」と驚いています。
馬上の台風ザイドリッツと、父・軍人王の遺産
ロスバッハの会戦で、プロイセン軍は行軍中の敵をロスバッハで捕捉しました。この頃のプロイセンには、「馬上の台風」と呼ばれたザイドリッツ将軍というめちゃくちゃ強い将軍がいたといいます。
びっくり。二の腕に錨のタトゥー入ってます。
ロスバッハでのザイドリッツ将軍の軍は三方面から攻撃を加え、2時間後には敵を退却させます。逃げる敵が道すがら捨てていった大砲、銃、靴、兜、弾丸を、プロイセン側は集めていったそうです。
ザイドリッツ将軍率いる突撃による敵の損害は3万、プロイセン軍の損害は500でした。深井さんは「強すぎでしょ」と声を上げています。
やっぱその軍隊の中にもちゃんと人材を育ててたっていうのが結構でかい。
樋口さんの指摘に、楊さんも同意します。ザイドリッツが一兵卒ではなく将軍の地位にいたこと、そしてザイドリッツの命令を実行できる兵士が育っていたことが大事で、そこには軍人王と、その功績を引き継いだフリードリヒの訓練の成果があったといいます。
楊さんはここで補足を入れます。父である軍人王を嫌っていたフリードリヒは、王の立場で各地を視察し、整えられた行政や練兵された軍隊を見て、父がどれだけ優秀だったかに気づいていったそうです。
そうね、自分が経営者の立場になって初めて(理解したんだろうね)。
好きにはなってないと思う。ただ尊敬をし始めて、好きじゃないけどリスペクトはできるっていう風に多分なってたと思うんですよね。
楊さんは、フリードリヒがフルートを禁止されてまで勉強を強いられた背景も、この頃にわかってきたのだろうと話します。フリードリヒは、父が残した軍の力を使って勝利を挙げていきました。
ロスバッハの勝利後、フリードリヒは姉ヴィルヘルミーネに手紙を書いています。「我が国民の威信と名誉が救われた今、自分は安んじて墓に入ることができよう。我々は未だ真に幸福ではないが、汚名はもはや雪がれたと言っても良い」という内容です。
フリードリヒとかつて文通し、宮殿に招いて雇ってもいたヴォルテール ── 18世紀フランスを代表する啓蒙思想家・作家。フリードリヒと長く交流しましたが、宮廷滞在中に関係がこじれたことでも知られますは、お金をめぐって喧嘩別れしていました。そのヴォルテールはフランス軍の敗北を、百年戦争のアザンクール、クレシー、ポワティエの敗戦よりも屈辱的だと評したといいます。
ロスバッハの勝利はフリードリヒの名声を高め、ヨーロッパ全体に称賛が広がりました。楊さんは「いや、死んだやろってみんな思ってた」と、その衝撃の大きさを表現しています。
ロイテンの会戦、少数で勝つ斜行戦法とは?
ロイテンの会戦は、フリードリヒの作戦の中で最も成功を収めたものとされています。フリードリヒはロスバッハの勝利に調子に乗らず、そのままオーストリア軍の攻撃へ向かいました。
楊さんによると、フリードリヒの狙いは各国の個別撃破でした。フランスを倒し、次にオーストリア、その後ツォルンドルフでロシアを倒すというように、1国ずつなら勝てるという作戦を立て、実際に勝っていきます。
ロイテンの会戦でのフリードリヒは、ロスバッハで勝った軍隊を率いてライプツィヒを出発し、シュレジエン方面の敗残兵と合わせて3万3000の軍を形成しました。これで6万6000のオーストリア軍を迎え撃ちます。
ロイテンの会戦で功を奏したのが、平時から研究と訓練を重ねていた斜行戦法 ── 戦列の一部を斜めに前進させ、敵の片翼に兵力を集中して崩す戦術。フリードリヒの代名詞として知られますです。楊さんは、当時の一般的な戦い方と比べて説明しています。
兵士が横一列に並び、それが何列にも重なった軍同士が正面衝突して潰し合う
一部が斜めや横に動きながら敵の右翼に集中砲火し、局地的に包囲して有利な状況を作り、そこから全体を崩す
斜行戦法の難しさは、兵士が敵を撃ちながら斜めや横に動き、しかも正面の部隊と同じ速さで進まなければならない点にありました。プロイセン軍はそれをこなせるほど訓練されていたうえ、1分間に7発の銃弾を撃てる訓練も受けていたといいます。
すげえ作戦勝ちよ。
最初の会戦で逃げたフリードリヒも、この頃には命を顧みず自ら陣頭に立っていました。ロイテンでは砲兵も活躍し、16頭の馬で引く巨大な要塞砲は、後のツォルンドルフの会戦で一発で42人を殺したそうです。
楊さんは要塞砲を、オスマン帝国のメフメト2世の時代に登場したウルバンの巨砲 ── 1453年のコンスタンティノープル攻略でオスマン軍が用いた巨大な大砲。技師ウルバンの名にちなんで呼ばれますになぞらえ、深井さんは「設備投資もね、ここで効いてる」と応じています。
ロイテンの会戦でのオーストリア軍の捕虜は1万2000、プロイセン軍の死傷者は将校223人、兵6000でした。ここでもザイドリッツが大活躍します。
楊さんによると、ザイドリッツは背が高く敏捷で力に秀で、若い頃から乱暴者で鳴らした人物でした。胸甲騎兵、軽騎兵、竜騎兵を経て軍功を重ね、フリードリヒは弱冠36歳の彼を騎兵指揮官に大抜擢していたといいます。
ロイテンの勝利でフリードリヒの名声はヨーロッパで不動のものになり、結果としてイギリスから多額の財政支援を引き出すことにも成功しました。
ツォルンドルフの会戦、首を賭けたザイドリッツの判断
ツォルンドルフの会戦は、ロシア軍とオーストリア軍の合流を防ぐための戦いでした。フリードリヒは部隊を急いで北へ向かわせ、10日で230キロ、1日23キロを行軍したといいます。
ちなみにスパルタ軍は1日70キロ進むけどね。
ツォルンドルフで、フリードリヒは初めてロシア軍と戦います。かつてロシア軍に仕えていたスコットランド生まれのヤーコプ・カイト将軍は、ロシア兵はどんな砲火にもひるまず後から後から立ち向かってくる唯一の軍隊だと警告していました。
実際にロシア軍は強く、コサック騎兵がプロイセン軍を敗走させるほどでした。負けそうになった場面で、またしてもザイドリッツが登場します。
絶対出てくるこいつ。
8000騎の先頭に立つザイドリッツは、フリードリヒから何度も動けと命じられ、判断を誤れば死刑だとまで言われても動きませんでした。戦闘が終われば首は王に差し上げるが、今は首が必要だとして、要求を拒んだといいます。
ザイドリッツはしかるべきタイミングで突撃し、戦況を覆しました。楊さんは『キングダム』で突撃する王騎将軍のような人物だと例え、「漫画みたいな人いるんですよ」と話しています。
ただしツォルンドルフの損害は大きく、プロイセンは兵員の3割を失いました。死傷者はプロイセンが1万2000、ロシア軍が1万8000ほどで、これまでの500や900とは違う規模です。
それでもプロイセンは、ロシア軍とオーストリア軍の合流を防ぐという作戦目的は果たしました。深井さんは「目的達成って感じ」とまとめています。
訓練兵の消耗と姉ヴィルヘルミーネの死、哲学でも癒えない悲しみ
ツォルンドルフの後、プロイセンは約2年間、守勢に立たされます。理由の1つは、軍人王が訓練した兵士の多くがすでに戦死していたことでした。
楊さんによると、15万いたプロイセン兵が何回か総入れ替えになるほどの戦死者が七年戦争で出たといいます。訓練されていない新兵が補充され、軍の質は落ちていき、ザイドリッツも怪我か病気で戦線を離脱しました。
訓練兵の戦死
軍人王が育てた兵士がほぼ全員失われる
新兵の補充
訓練されていない兵士で穴を埋め、質が落ちる
ザイドリッツの離脱
最強の騎兵指揮官が怪我か病気で戦線を離れる
連合軍に敗北
ダウン将軍の連合軍にホッホキルヒの戦いで大敗する
楊さんは、プロイセンは1国ずつなら勝てても、倍を超えるような連合軍が来れば勝てないという「当たり前のこと」が起きたと説明します。ホッホキルヒの戦いで大敗し、敗戦色が再び濃くなりました。
ホッホキルヒで敗れたまさにその当日、フリードリヒの最愛の姉ヴィルヘルミーネが亡くなります。ヴィルヘルミーネは父からの虐待をともに受け、同じ趣味を持ち、ずっと唯一の理解者として支え合ってきた存在でした。
フリードリヒはヴォルテールに宛て、運命の打撃の多くは毅然とした勇気で克服できるが、どんな哲学者の教えも助けにならないものもあり、今回の打撃はまさにそれだという手紙を書いています。喧嘩別れした後も、2人のやりとりは続いていたそうです。
友人である著述家アルジャンスにも、フリードリヒは「自分は世界において愛し、また尊敬していたものをすべて失った」と書き送りました。多くの忠誠な人々を失い、兵を不幸に陥れ、国土を荒廃させ、都市を焼いてしまったという内容です。
46歳のフリードリヒは冬の休戦期、僧侶のように一人で食事をし、読書と著作に没頭しました。働いている間は嫌な考えが追い払われるが、終わると前より強く出てくる、と後に書いています。
お姉さんが亡くなった時は哲学も自分を救えないって言ってる。
楊さんは、母が亡くなった時には哲学で悲しみを癒すと書いていたフリードリヒが、姉の死では哲学も救いにならないと書いている点に、ショックの深さを見ています。
クーネルスドルフの会戦、5万が3000になった壊滅
開戦から4年目、戦略上の最大の問題はオーストリア軍とロシア軍が連合して向かってくるかどうかでした。そしてその連合が実際に迫ってきます。
ロシア軍はベルリンから40キロほどのオーデル川に迫り、右岸のクーネルスドルフ付近の高地に布陣していました。そこへオーストリア軍主力から分かれたラウドンの軍勢が合流し、両軍合わせて8万を超える戦力になります。
高地の大軍を攻めるのは難しいものの、撃破しなければベルリンまで遮るものがありません。攻めるしかない状況で臨んだクーネルスドルフの会戦で、プロイセン軍5万は壊滅的な敗北を喫しました。
前線にいたフリードリヒは乗っていた馬を2回撃ち倒され、自身に当たった弾はタバコ入れに当たって命拾いしたそうです。自ら軍旗を握って奮戦し、単身で敵に包囲されて助けられる場面もありました。
数十センチで歴史が変わってる。
フリードリヒは大臣への手紙で、4万8000の部下のうち今はわずか3000で、書いている間も脱走が続き、もはや部下を掌握していないと伝えました。「率直に言って全てが失われました。祖国が滅んだ後に私が生き残ることはないでしょう。さようなら。永遠に」と結んでいます。
フリードリヒは朗読係のカットに18錠のアヘンの入った箱を見せ、祖国の荒廃する姿を見てまで生き残ろうとは思わないと言ったそうです。残軍の指揮権をフィンク将軍に委ね、弟ハインリヒを最高指揮官に任命して、完全に引退と自殺に向かう態勢に入りました。
もう終活入ってるじゃないですか。
さらにこの時期、イギリスからの資金援助も打ち切られました。楊さんは、ここから巻き返すことこそがフリードリヒの人生のクライマックスだと話し、その姿に高杉晋作 ── 幕末の長州藩士。藩が追い詰められる中で挙兵し、劣勢から藩論を覆したことで知られますのような「晋作み」があるといいます。
連合軍の足踏みと、「ゼロパーセントじゃない」という再起
クーネルスドルフでプロイセンを破ったオーストリアとロシアの連合軍は、ベルリンまで40キロに迫りながら進撃しませんでした。シュレジエンをオーストリアが回復し、ロシアが東プロイセンを得ることは取り決めたものの、それ以上は攻めてこなかったのです。
各国の目的
オーストリアはシュレジエン奪還、ロシアは東プロイセン獲得が狙い
進撃の利点が薄い
ベルリンを攻めるメリットが両国にあまりない
滅亡後の問題
プロイセンが滅びるとヨーロッパの均衡が崩れ、ベルリンの扱いなども問題になる
二の足を踏む
プロイセンを叩く利害は一致しても、滅ぼして分割する利害は一致せず牽制し合う
連合軍が足踏みする間に、死のうとしていたフリードリヒは精神的に持ち直していきます。楊さんは、過去に参加したスタートアップで資金がショートした時に自分も同じ元気の出し方をしたと、この場面に強く感動したと語ります。
フリードリヒの元気の出し方は、理性でよく考えてみることでした。数学的に考えれば負ける可能性はゼロではないのだから、諦めるのは非合理的だというのです。
冷静になってみると敵はなかなか来ず、3000人しか残っていないと思っていた兵も、敗残兵を周囲から集めるともっと残っていたそうです。楊さんは、フリードリヒが自殺していたら人は集まらなかったとし、1パーセントでも可能性があれば何かしようと思ったことが後の結果に結びついたと話します。
楊さんはここで、フリードリヒの内面の変化にも触れます。アンチマキャベリ論を書いた啓蒙君主でありながら、シュレジエン戦争を起こす時には名誉が欲しいと漏らしていたフリードリヒが、ボロボロになった今は名誉など少しも考えず、思うのは国家のことだけだと言っているのです。
シュレジエン戦争の開始時、若いフリードリヒは「名誉が欲しい」と漏らしていた
壊滅的敗北の後、名誉は少しも考えず、思うのは国家のことだけだと語る
最初僕がスタートアップ始めた頃は、ちやほやされるかもとか確かに思ってた。けど、やっぱそのすっごい苦労した後って全部どうでもよくなるんだよね。
楊さんは、国家を背負い人の死も関わるフリードリヒとはレベルが違うと断りつつ、キャッシュが尽きた時に名声がどうでもよくなった感覚が重なったと言います。聞き手からも、事業が潰れかけた時に同じ思いをしたという声が上がりました。
もうスーパーボコボコにされたところから再起するみたいなことがあっと、やっぱね、自己承認欲求とかってなくなっていくなっていう経験を、僕もやっぱりちょっと自分の規模なりにしたので。
楊さんの見立てでは、フリードリヒの啓蒙思想は最初から本物だったわけではありません。認められたいというエゴを抱えてシュレジエンに手を出し、凄まじい敗北の経験を通じて、そのエゴが消えていったのではないかと話しています。
ベルリン陥落とトルガウの激戦、終わらない苦境
クーネルスドルフの後に集めたプロイセン軍は、新兵、連れ戻した脱走兵、捕虜、そして15、16歳の子どもまで含むボロボロの軍でした。子どもを戦争に駆り立てるのは人道的に最もやってはいけないと著作に書いていたフリードリヒが、それをせざるを得ない状況だったといいます。
プロイセンは各国に講和を働きかけますが、マリア・テレジアやエリザヴェータに強く恨まれていて、講和は頓挫しました。フランスのポンパドゥール夫人は戦争を終えてもいいと考え始めていたものの、マリア・テレジアは絶対に終わらせないつもりでした。
ベルリンはロシア軍とオーストリア軍の占領下に置かれました。シュレジエンを奪われた恨みを持つオーストリア軍によって、ベルリンは激しく略奪されたそうです。
フリードリヒは、不名誉な講和を承認するくらいなら死のうとプライベートで語っていました。コールベルク陥落時には、来年どうなるのか、国民は、軍はどうなるのかと嘆きつつ、勝つか滅びるかのいずれかで、卑怯者としては死にたくないと書いています。
同じ頃のフリードリヒは、数学的な確実性がないのに絶望するのは卑怯だという考えで自分を奮い立たせていました。物資が欠乏する中、オスマン帝国やロシアの方面にいたタタール族と交渉し、オーストリアを牽制できないかと画策もしています。
まあね、なんかね、織田信長が朝鮮に助け求めるみたいな感じ。だからすごい限界状態って感じ。
この頃のフリードリヒは、「最も暗い時は最も暁に近い時である」という言葉も残しています。深井さんは「いい表現やな」と感心しつつ、「午前4時ぐらい」と例えています。
ロシア女帝の急死、フリードリヒの大ファン・ピョートル3世の登場
追い詰められたプロイセンに、奇跡が起こります。ロシア女帝エリザヴェータが急死し、後を継いだ甥のピョートル3世が、ロシアが勝っているにもかかわらずプロイセンに有利なサンクトペテルブルク条約を結んだのです。
解説によると、ピョートル3世はフリードリヒという啓蒙君主に憧れ、プロイセン風の制服や軍隊の規律をロシア軍に導入するほどのフリードリヒびいきでした。一方で才能はあまりなかったとされ、宮廷では反発が強まり、優秀な妻エカチェリーナに待望論が集まっていたといいます。
ピョートル3世は占領していた東プロイセン、ポンメルン、ノイマルクを無償で返し、賠償金も求めず、プロイセンを支援する軍を送るという話までしました。深井さんは「むちゃくちゃするやん」と驚いています。
ピョートル3世はその後、妻にクーデターを起こされて殺され、エカチェリーナ2世 ── 18世紀後半のロシア女帝。領土拡大や啓蒙的改革を進め、ロシアの最盛期を築いた君主とされますが即位します。それでもロシアは疲弊していたため、ピョートル3世が結んだ講和を履行することにしました。
こんなこと起こりますか?って感じだよね。本当にフリードリヒがゼロパーセントじゃないって言ったのがマジだったっていう。
出演者の間では、フリードリヒが諦めずに戦い名声をヨーロッパ中に広めたことが、ピョートル3世の尊敬につながり、奇跡を呼び込んだのではないかという見方も語られました。
フランス・オーストリアの疲弊と、フベルトゥスブルクの講和
ロシアとの講和を機に、フリードリヒは兵力を16万8000まで増やそうとします。そこまでは届かなかったものの、兵を集め直して再び戦える状態を作っていきました。
同じ頃、フランスはイギリスとの植民地戦争に敗れて戦意を失い、それを受けて神聖ローマ帝国の諸侯もプロイセンと中立協定を結びます。プロイセンは蘇らせた軍で最後の根性を見せ、シュレジエンの大半を奪い返しました。
マリア・テレジアは鉄の意志を持つ人物でしたが、オーストリアはもはや単独で戦争を続ける力を失っていました。楊さんは、マリア・テレジアが講和に傾いた理由をいくつも挙げています。
| 分野 | 状況 | 影響 |
|---|---|---|
| オスマン帝国 | 10万の大軍を国境付近に集結 | 背後を脅かされる |
| 周辺国 | ロシアとスウェーデンが和睦、諸侯は中立、英仏も終戦へ | オーストリアが孤立する |
| 国内 | 軍の士気低下と深刻な財政問題 | 内部が崩れそうになる |
| 本人 | マリア・テレジアの健康問題 | 戦争継続が難しくなる |
フリードリヒはシュレジエンを渡さない強気の交渉を貫き、マリア・テレジアが折れる形でフベルトゥスブルク講和条約が結ばれました。プロイセンのシュレジエン領有が最終的に確認されます。
ただ、ヨーロッパの秩序は七年戦争が始まる前とほぼ同じ状態に戻りました。深井さんは思わず「何やったんや、7年」とつぶやいています。
称賛の陰で残った山積みのタスクと義務感
七年戦争を経て、フリードリヒは軍神のように崇められるようになりました。一方で、明朗快活で感じのよい人物だったフリードリヒは、戦後、皮肉で心が冷たいと言われる性格に変わっていったといいます。
楊さんは、姉も母も友人も戦争中に亡くなり、メンタルがやられたのではないかと推測します。さらに甚大な被害を受けた国を復興させる大仕事が残っていて、フリードリヒは戦争終結の数日後から復興業務に取りかかりました。
勝利の際のフリードリヒは、勝ち得た貴重なものは自分の一身ではなく平和そのものであり、民衆の喜びが何より嬉しいと語りました。そのうえで、首都には崩れた壁があるばかりで昔の仲間には会えず、待っているのは膨大な仕事だけだとも言っています。
ベルリンのフランクフルト門で歓迎を受けたフリードリヒは、用意された豪華な馬車を使わず、戦塵にまみれた軍用馬車のまま暗い横道を通って王宮に入ったそうです。そして翌々日から戦後の復興経営を始めました。
戦後のフリードリヒは各地を視察して被害や農民の実態を調べ、鉱山や森林を開発する部局の設立、農業政策、干拓事業など、細やかな内政に力を注ぎました。深井さんが「どこからそのエネルギーが出るんや」と尋ねると、楊さんは義務感だと答えます。
義務感ですよ。彼の義務感、現代人の義務感と質の違う、近代人の義務感です、これは。
称賛を受けたフリードリヒは、主役を演じたのは全くの偶然で、戦争を完遂するよりもラシーヌ ── 17世紀フランスの劇作家。『フェードル』などの悲劇で知られ、フランス古典主義演劇を代表する人物ですのような戯曲を書きたかったと語り、自分のおかげで勝てたわけではないとも言っています。
シュレジエンの領有によってプロイセンは列強に名を連ね、その国力が後の時代へつながっていきます。楊さんは、その流れを次のように示しました。
シュレジエン確定
プロイセンが列強に名を連ねる
ビスマルクの時代
その国力を使ってドイツ統一を成し遂げる
第一次世界大戦
統一ドイツがその後の大戦へ向かう
楊さんは、理性の時代ではなかった君主たちへのアンチテーゼとして、理性で全てを乗り越えようとした啓蒙君主が本当に困難を乗り越え、同時に心に深い傷を負ったと総括します。人間らしくない、マシーンに見えるという反応に対しては、この時代にはそもそも人間らしさという概念がないと応じました。
収録は深夜1時を回り、出演者たちは「兵が3000ぐらいしかいない」と自分たちの疲労を重ねて笑います。次回はフリードリヒの晩年と、戦争の陰で進めていた内政の話へ移ると予告されました。
まとめ
七年戦争のフリードリヒ大王は、ザイドリッツと鍛えられた軍で倍の敵に連勝した後、兵の消耗と姉の死、クーネルスドルフの壊滅を経て自殺寸前まで追い込まれました。それでも可能性はゼロではないという理性で踏みとどまり、ロシアの政変という奇跡を生かしてシュレジエンを守り抜き、休む間もなく復興へ向かいました。
- ロスバッハ・ロイテン・ツォルンドルフの勝利は、軍人王から受け継いだ訓練、ザイドリッツの抜擢、斜行戦法が重なった結果とされる
- クーネルスドルフで5万の軍が3000にまで減り、フリードリヒは遺書のような手紙を書き、アヘンを手に自殺を考えた
- 連合軍の足踏みの間に「数学的にゼロでないなら諦めるのは非合理」と理性で再起し、名誉ではなく国家のことだけを考えるようになった
- エリザヴェータの急死とフリードリヒびいきのピョートル3世の講和が転機となり、フベルトゥスブルク講和条約でシュレジエン領有が確定した
- 戦後のフリードリヒは称賛を受けながらも性格が冷たく変わり、強い義務感で翌々日から復興と内政に取り組んだ





