老中廃止の衝撃、慶喜はどんな改革をしたのか
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第二次長州征伐で、幕府軍は15万の兵を出しながら3500の長州軍に勝てませんでした。その失敗のあと、1866年12月5日に徳川慶喜が15代将軍に就きます。
ところが慶喜の将軍就任から20日後の12月25日、孝明天皇が悪性の天然痘で亡くなります。深井さんは、幕末の緊迫した時期に将軍と天皇が相次いで亡くなったことに注目します。
後を継いだ明治天皇はまだ子どもでした。この幼い天皇を誰がどう担ぐのかが、ここからの実力者たちの政治闘争の争点になっていきます。
将軍に就いた慶喜は、幕府の威信回復を目指して幕政改革に乗り出します。長州征伐では職務分担が不明瞭でまとまって動けなかったため、まずその仕組みを整えようとしました。
慶喜は、従来の老中・若年寄と三奉行の制度を廃止し、国内事務・外国事務・会計・陸軍・海軍の5局を置きました。深井さんは「老中廃止ってすごいよ」と、この改革の大きさを強調します。
老中・若年寄と三奉行による従来の体制。職務分担が不明瞭で、長州征伐ではまとまって動けなかった
国内事務・外国事務・会計・陸軍・海軍の5局制度。外国対応と近代軍の創設を見据えた組織
深井さんによれば、江戸中期には外国事務はほとんど存在しませんでした。外国事務の局や陸軍・海軍を置いたことは、今の状況に合わせて座組みを変え、侍から近代的な軍隊を作ろうとしていたことを意味します。
慶喜はさらに、身分を超えた人材登用、厳正な賞罰、不要な費用の削減も進めました。フランス公使ロッシュ ── 幕末に来日したフランス公使レオン・ロッシュ。幕府を支援し、軍制改革や横須賀製鉄所の建設などに関わりましたの提言でフランスから陸軍教官を招き、慶喜自身もフランス式の軍服をまとうようになります。
長州に勝てなかったのが痛かったわけだよね。
深井さんは、明治維新の2年前に幕府も西洋化へ舵を切ったのだと位置づけます。
公議政体論と大政奉還論はどうつながるのか
幕府が改革を進める一方で、ほかの有力な藩(雄藩)は公議政体論を構想し始めていました。公議政体論は、徳川の専制をやめ、諸藩の結束のもとで政治を進めようという考え方です。
深井さんによれば、公議政体論の立場に立っていたのが勝海舟 ── 幕臣で、幕府海軍の育成に携わった人物。のちに江戸城の無血開城を西郷隆盛と交渉したことで知られますで、その影響を受けたのが坂本龍馬でした。元土佐藩士の坂本龍馬の考えは、さまざまなパイプを通じて土佐藩主の山内容堂に伝わっていきます。
土佐藩の後藤象二郎は、坂本龍馬の船中八策 ── 坂本龍馬がまとめたとされる新しい国家構想。大政奉還や議会の設置などを含み、後藤象二郎を通じて土佐藩の方針に影響を与えたといわれますに影響を受け、山内容堂に大政奉還を献策します。山内容堂がこれを承諾し、大政奉還という選択肢が浮上しました。
では大政奉還とは何を指すのでしょうか。深井さんは、後期水戸学が唱えた「将軍は朝廷から大政を委任されている」という大政委任論が前提にあると説明します。
大政奉還とは、朝廷から委任された大政を朝廷に返す、という意味です。幕府は大政委任論で自らの権威を説明していたので、それを返せば、ある意味で徳川家は諸侯の一つに落ちることになります。
そうなるね。ポジションを手放すということだから。
深井さんは、大政奉還のポイントは「自発的に返す」ことだと強調します。幕府を武力で倒す討幕とは、この点がまったく違います。
土佐藩と薩摩藩は大政奉還に向けて盟約を結びます。ところが薩摩藩はこのあと、討幕へと舵を切っていくことになります。
四侯会議はなぜ薩摩藩に武力討幕を決意させたのか
薩摩藩は土佐藩と盟約を結びながらも、武力討伐のカードを捨てていませんでした。深井さんは、その理由の一つを慶喜への信頼のなさだと説明します。
慶喜が将軍後見職だった時期、薩摩藩は参預会議での政治闘争に一度敗れていました。そのときの恨みもあり、薩摩藩は慶喜を信頼できなくなっていたと、深井さんは話します。
慶喜が将軍になって幕府の体制が変わると、島津久光の呼びかけで、久光・松平春嶽・山内容堂・伊達宗城の4人が集まります。これが四侯会議で、参預会議のリバイバルのような会議でした。
四侯会議の議題の1つは長州藩の処分でした。薩摩藩は長州藩と盟約を結んでいたため、毛利家の名誉回復を望み、処分を厳しくしないでほしい立場でした。
もう1つの議題は兵庫港の開港です。通商条約で開港が決まっていたものの、孝明天皇が反対していたため勅許が下りていませんでした。
会議は紛糾し、慶喜は議題を朝廷に上げます。深井さんによれば、慶喜は公家たちに「結論を出さなければずっとここにいる」というような圧力をかけ、自分に有利な結論を引き出しました。
議題
長州藩の処分と兵庫港の開港をめぐり、四侯と慶喜が協議
紛糾
会議がまとまらず、慶喜が議題を朝廷に上げる
朝廷工作
慶喜が公家に圧力をかけ、兵庫港の開港が勅許され、長州処分は幕府に一任される
決意
2つの論点で慶喜に敗れた薩摩藩が、武力討伐しかないと決意する
慶喜の母はもともと公家の出身で、慶喜は公家の世界に精通していました。朝廷工作では慶喜のほうが一枚上手だったのです。
深井さんは、慶喜が優秀すぎたことが、薩摩藩に武力討幕を決意させたとまとめます。慶喜が将軍である限り幕府と組むのは難しい、という判断がここで確定しました。
慶喜の記念写真と久光の拳銃、四侯会議の裏話
深井さんは、四侯会議で個人的にとても面白いというエピソードを紹介します。島津久光は、慶喜にガツンと言って主導権を取るつもりで、二条城での対談に臨んでいました。
ところが写真が趣味だった慶喜は、その張り詰めた場でカメラを持ち出し、四侯の写真を撮ったといいます。このとき撮ったとされる写真は、実際に残っているそうです。
めっちゃおもろいよね。なんだこいつって思ってるでしょ。
深井さんは、慶喜が本当に「写真を撮ろう」と言ったかはわからないと断りつつ、余裕綽々なのか空気が読めないのかわからない慶喜の人柄を面白がります。
もう1つのエピソードは、四侯会議のあとの島津久光の行動です。久光は京都に潜伏中だった長州藩の山県狂介(のちの山県有朋)と品川弥二郎を呼び出し、連発式の拳銃を与えました。
2人とも吉田松陰の門下生です。久光は「幕府に反省の見込みがないので、もう一段尽力する覚悟だ」と伝えたとされます。
やれつーことやもん、これ。
薩摩藩から見れば、長州藩は一貫して討幕の姿勢を取り続けてきた頼もしい存在でした。拳銃を渡したことは、薩摩藩が長州藩と組む覚悟を固めたことを示しています。
慶喜を殺せと命じた討幕の密勅は本物か
四侯会議が決裂し、薩摩藩は完全に武力討幕路線へ切り替えます。薩摩藩は京都で裏工作を重ね、天皇の承認のもとという形で討幕の密勅を手にしようとしました。
それはそう。だが、そんなこと言うかな。
深井さんによれば、この密勅がどこまで正式な勅命なのかは実はわかっていません。それでも密勅は実際に下り、そこには「賊臣慶喜を殄戮せよ」と書かれていました。殄戮とは殺し尽くすという意味です。
密勅を出させたのは、朝廷内の過激な一派でした。かつて長州から太宰府まで逃れていた公家たちが裏工作をしたといいます。
孝明天皇の時代なら追放されたかもしれませんが、明治天皇が幼く操りやすい状況だったため、真偽のはっきりしない勅命が下ってしまったと、深井さんは説明します。
密勅が慶喜を殺す理由として挙げたのは、権威をかさにきて長年民を苦しめている、というものでした。深井さんは「せめて攘夷に失敗したからとかにしなよって思うけどね」と、理由の薄さを指摘します。
大政奉還は密勅への肩透かしだったのか
慶喜は情報網を持っていたため、密勅の動きをいち早く察知します。そのカウンターとして打ち出したのが、実は大政奉還でした。
密勅は「大政を委任されているのに悪政で民を苦しめている」ことを理由にしていました。慶喜が自ら大政を返してしまえば、その理屈は成り立たなくなります。
肩透かし。
山内容堂からは1か月ほど前に大政奉還の建白書が出されていました。慶喜は長州征伐を強行したことを反省するという形で大政を奉還し、同時に密勅に関わった3人の公家から薩摩藩に討幕を見合わせるよう命じる沙汰書が出されます。
では、大政奉還で幕府はなくなったのでしょうか。深井さんの答えは「なくなってない」です。大政奉還は委任されていた大政を返上しただけで、将軍を辞めたわけではありませんでした。
慶喜は将軍のままで、諸藩への軍事動員権も持ち、広大な領地と最大の石高も保っていました。手放したのは、四侯会議で将軍だけが一段上にいたような独占的な政治的実権だけです。
慶喜の読みはこうです。大政を返す相手は朝廷であって薩摩藩ではありません。朝廷はいきなり政治をしろと言われてもできず、200ほどある藩のうち薩摩藩や長州藩の言うことを聞く藩は少ないはずでした。
慶喜は、結局は徳川家にお鉢が回ってくると考えていたと、深井さんは話します。実際、朝廷は大政奉還を受け入れたものの、政務を行う体制がないため、当面の政治を慶喜に委任しました。
一応社員じゃなくなったけど、外部の業務委託ねみたいな感じで、何も業務変わんないみたいな。
なんか全然イメージと違った大政奉還。もっとこう、バーンって幕府がなくなるイメージだった。
深井さんは、慶喜の立場の複雑さにも触れます。慶喜は尊王の水戸藩の出身で、天皇への尊敬心が強く、幕府が朝廷より強くなろうとしていたわけではありませんでした。天皇から委任された政治を行えるのは自分ぐらいだ、と考えていたのです。
長州征伐に失敗した以上、公議政体論への移行は避けられないと、慶喜は見抜いていました。そのうえで、合議制の中でも最も力のある藩として、そして将軍として君臨できると考えて大政を奉還したと、深井さんは説明します。
公武合体・公議政体・大政奉還・王政復古はどう違う?
ここで深井さんは、公武合体論、公議政体論、大政奉還、王政復古の4つをまとめて整理します。
公武合体論は、朝廷と幕府が協力して国家を運営しようという考え方です。ペリー来航以降の外圧に幕府だけでは対応しきれなくなり、14代将軍・徳川家茂に孝明天皇の妹・和宮が嫁いだことがその象徴でした。
公議政体論は、朝廷と幕府の構図に雄藩が加わり、幕府が必ずしも中心にならない合議体制で政治を行う考え方です。深井さんは、幕府の一極支配を前提にするかどうかで、公武合体論と公議政体論が分かれると説明します。
深井さんによれば、公議政体論は理想として掲げられたというより、公武合体をしても国が動かなかったため移行していったものでした。幕府が独裁から連立政権的な体制に変わって生き残ろうとする状態で、幕府はなくなりません。
大政奉還は、公議政体に移るための具体的なやり方の一例です。大政委任論で委任されていた大政を、幕府が自発的に返上しました。
王政復古は、これまでの3つとはまったく違います。天皇を中心とする新政府をつくり、摂関制も幕府も廃止し、総裁・議定・参与の三職を置く、システムごと入れ替えるクーデターでした。
| 構想 | 幕府の扱い | 性格 |
|---|---|---|
| 公武合体論 | 存続し、朝廷の権威を借りる | 幕府が生き残るための妥協策 |
| 公議政体論 | 存続し、雄藩との合議に加わる | 幕府が生き残るための妥協策 |
| 大政奉還 | 大政を自発的に返上するが将軍は残る | 幕府自らの防衛策 |
| 王政復古 | 幕府も将軍も廃止する | 倒幕派による新体制づくりのクーデター |
めちゃくちゃわかった。
慶喜はなぜあっさり将軍職を手放したのか
大政奉還で肩透かしをされた薩摩藩は、それで慶喜がおとなしくなるとは考えていませんでした。薩摩藩にとって重要だったのは、慶喜に将軍職を返上させることです。
慶喜が征夷大将軍でなくなれば、諸藩の兵を動員する権限もなくなります。軍事動員権を持つ将軍と戦うのは怖いため、まず将軍職を手放させたい、というのが薩摩藩の狙いでした。
大政を返しても朝廷は政治を担えず、合議制の中で徳川家が主導権を握れると考える
慶喜の影響力は残ると見て、将軍職を返上させて軍事動員権を奪いたいと考える
薩摩藩は藩主・島津茂久(久光の子)と西郷隆盛のもと、3000の兵を京都へ向かわせます。長州藩も1200の兵を率いて兵庫に上陸し、京都で合流しました。
深井さんは、幕末の兵数は戦国時代の数万規模に比べて少ないと指摘します。長く戦争がなかったことや、権力が細分化したことが背景にあるかもしれないと話します。
これに対して慶喜は、将軍職の辞表を朝廷に提出します。自分が将軍だから狙われているのだと気づき、将軍を手放せば生き残れると考えたのだろう、と深井さんは見ています。
え?手放すん?
深井さんは、土壇場でのサバイバルセンスとも、あまりこだわりがなかったとも言えると評します。本気で戦えば勝てたかもしれないのに、慶喜は戦わなかったといいます。
朝廷は自分では何も決められず、10万石以上の大名に京都へ集まるよう呼びかけます。しかしすぐに集まったのは、薩摩・芸州(広島)・尾張・越前の4藩だけでした。
多くの藩は、どちらに転ぶかわからない状況で態度を決め、運命を共にするのを嫌っていたのです。
大久保利通と西郷隆盛はなぜクーデターを決意したのか
土佐藩は、大政奉還がなった時点で倒幕までは必要ないという立場でした。薩摩藩もそれに合意したからこそ薩土盟約を結んだのではないか、という感覚を持っていました。
一方、大久保利通は朝廷の人々を見て、意志もポリシーも覚悟もないと感じていました。深井さんは、大久保が朝廷ごと作り直さなければ日本を牽引できないと考えていたと説明します。
参預会議と四侯会議の失敗、そして大政奉還と将軍職辞任で朝廷があたふたする様子を見て、薩摩藩はクーデターを起こすことを決めます。
大久保利通は、公家の中でも腹の据わった岩倉具視らと連携し、土佐藩の後藤象二郎にも倒幕を明言します。土佐藩でも板垣退助らを中心に倒幕派が大きくなっており、後藤は参加しないほうがデメリットが大きいと判断して賛同しました。
クーデターの狙いは、慶喜を排除し、徳川家の領地を返上させて、徳川家の力を地に落とすことでした。一方の慶喜は、排除されても新しい政府には自分が必要だろうと、自信を持っていたといいます。
クーデター前日、西郷と大久保は連名で岩倉具視らに書状を出しています。そこには、一度は戦って勝たなければならない、という趣旨が書かれていました。
西郷は、200数十年も太平の世が続いたあとで、戦争なしに新しい国家を建設するのは無理だと考えていたと、深井さんは説明します。話し合いがすべて決裂してきたため、武力を伴うショック療法が最も妥当だと覚悟を決めていたのです。
王政復古の大号令と「短刀一本」の覚悟
クーデター当日、薩摩・土佐・尾張・福井・広島の藩兵が御所の門を封鎖し、慶喜と組んでいた会津藩と桑名藩の兵を退去させます。代わりに長州藩を迎え入れました。
蟄居させられていた岩倉具視は赦免されるとすぐに参内し、天皇に王政復古の断行を上奏します。こうして王政復古の大号令が発せられました。
大号令の要点は、慶喜の大政返上と将軍職辞任を認めること、摂関制と幕府を廃止すること、そして総裁・議定・参与の三職を置くことです。国の最高意思決定機関の構造そのものを変える内容でした。
さらに慶喜には辞官納地 ── 官職を辞し、領地を朝廷に返上すること。王政復古の直後、新政府は慶喜にこれを求め、徳川家の力を削ごうとしましたが求められ、京都守護職などを担っていた会津藩と桑名藩は罷免されて帰国を命じられます。
深井さんは、表で目立ったのは西郷と大久保だが、その裏には島津久光がいて、久光の同意を得て2人が動いていたと補足します。
クーデター直後の会議で、山内容堂は「慶喜がいないのに慶喜の処遇を決めるのはフェアではない」と反対します。そのとき別室に控えていた西郷は、会議が紛糾しても短刀一本あれば片付く、と言っていたといいます。
深井さんは、これは天皇の前で血を流してもいいと言っているのと同じだと話します。結果的に誰も殺されませんでしたが、山内容堂は押し切れなかったようです。
ダメやけど、多分それくらいの命の懸け方をしてるっていうことですよね。
ただ、王政復古後の新政府の中で、西郷と大久保は孤立していきます。新政府の財源を確保する狙いもあったとみられますが、徳川家だけを標的に領地ゼロを求めるのはアンフェアだと、周囲の諸藩から見られたのです。
大阪城に引いた慶喜と、江戸で挑発を仕掛ける薩摩藩
将軍職の辞任が受け入れられ、幕府廃止と領地返上を迫られた慶喜は、京都にいると衝突が起きかねないため大阪へ移ります。
深井さんによれば、大阪は経済拠点で朝廷を牽制でき、大阪城は難攻不落で安全でした。京都に影響力を持ちつつ距離を保ち、さまざまな選択肢を取れる場所だったのです。
この兵力は薩摩藩や長州藩より多く、会津藩や桑名藩は突然京都から追い出されたことに強く怒っていました。慶喜は大阪で外国の公使を集め、条約を守ると明言し、王政復古は幼い天皇を挟んだ奸臣の仕業だと主張します。
深井さんは、当時の感覚では、薩摩藩などが勝手に新政府を名乗っているだけにも見えたと指摘します。ここはまさに大義名分同士の戦いでした。
新政府の中では、山内容堂と松平春嶽ら穏健派が、辞官納地の要求を軽くしようと動きます。徳川家には旗本など膨大な家臣がいて、領地をすべて返すのは現実的ではなかったからです。
新政府は尾張藩主の徳川慶勝らを大阪に送り、慶喜を説得します。慶喜が辞官納地を受け入れる代わりに、新政府でしかるべきポストを用意する流れが、穏健派の思惑どおり進みそうになりました。
慶喜は、ポストに就いて発言権を得れば、そこから回復できると考えていたのかもしれないと、深井さんは話します。西郷と大久保は、何をするかわからない慶喜を強く警戒していました。
そこで薩摩藩が取ったのが、江戸の町を荒らして幕臣を挑発する行動でした。西郷は配下の工作員を動かし、江戸で強盗や放火が多発したといいます。市中を警備していた鶴岡藩の藩兵が不審者を追跡すると、薩摩藩の関与が判明しました。
これ全然知られてないよね。江戸とかを放火して戦闘行為に移してボコボコにしようとするみたいな一面があるってことだよね。
高熱の「勝手にせよ」と錦の御旗、戊辰戦争の開戦
会津藩士や桑名藩士は、慶喜が自重していたため挑発に耐えていました。しかし限界に達し、慶喜も薩摩藩と長州藩を討つ「討薩の表」を書き上げます。
それでも慶喜は戦争を避けようとし、軍勢を連れずに軽装で上京してポストを求めに行こうとしていました。ところがその大事な時期に、慶喜はインフルエンザで寝込んでしまいます。
高熱でふらふらの慶喜に、会津藩士たちが京都へ攻め上らせてくれと迫り、慶喜は「勝手にせよ」と言ってしまいます。深井さんは、これを歴史の運命と表現します。
挑発
薩摩藩が江戸で放火や強盗を起こし、幕臣を挑発する
憤激
会津藩士・桑名藩士の怒りが抑えきれなくなる
許可
高熱の慶喜が「勝手にせよ」と言い、徳川軍1万余りが出陣する
開戦
榎本武揚の艦隊が薩摩艦を攻撃し、事実上の交戦状態に入る
新政府はまだ諸藩から十分に認められておらず、旧幕府側が勝てば形勢がひっくり返ってもおかしくない状況でした。その中で、慶喜は薩摩藩の思うつぼにはまったことになります。
幕臣の榎本武揚 ── 幕府海軍を率いた幕臣。オランダ留学の経験を持ち、のちに箱館で新政府軍と戦いましたは、兵庫沖で停泊中の薩摩艦を攻撃し、幕府と薩摩藩は事実上の交戦状態に入ります。勝報を受けた旧幕府軍は1万5000の兵力で京都へ進み、戊辰戦争が始まりました。
大久保利通は長州藩と共に早期に決戦しようと決め、決戦当日の朝、岩倉具視に官軍をつくろうと持ちかけます。それまで天皇直属の軍は存在しませんでした。
やったことはシンプルで、仁和寺宮嘉彰親王を大将に迎え、錦の旗を掲げるだけでした。軍隊や指揮系統が変わるわけではありませんが、深井さんは「日本では効く」と話します。慶喜も会津藩も薩摩藩も、基本的にはみな尊王だったからです。
これがね、関ヶ原の戦いから約270年後の天下分け目の戦いなんですよね。
深井さんは、薩摩藩と長州藩の決断力と行動の速さを、命を懸けているかどうかの違いとして語ります。岩倉具視も西郷も大久保も命を懸けていましたが、慶喜はおそらく命を懸けていなかったので「勝手にせよ」と言ってしまった、という見方です。
深井さんは、西郷なら「俺を刺してから行け」という話になったはずだと対比します。命を懸けた者たちの覚悟の差が、この時期の急展開を生んだと言えるかもしれません。
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まとめ
大政奉還は幕府がなくなる出来事ではなく、討幕の密勅をかわすための慶喜の巧妙なカウンターでした。それでも薩摩藩は将軍職の返上、王政復古のクーデター、江戸での挑発と手を打ち続け、慶喜の「勝手にせよ」をきっかけに戊辰戦争が始まります。
- 慶喜は老中を廃止して5局制度を置くなど、優秀な改革者だった
- 四侯会議で慶喜に朝廷工作で敗れたことが、薩摩藩に武力討幕を決意させた
- 大政奉還は大政の委任を返しただけで、将軍職や軍事動員権は残っていた
- 王政復古は幕府と摂関制を廃止し、三職を置く新体制づくりのクーデターだった
- 薩摩藩の挑発と高熱の慶喜の許可が重なり、錦の御旗のもとで戊辰戦争が始まった




