大政奉還の裏側──慶喜と薩摩の頭脳戦から戊辰戦争へ
歴史を面白く学ぶコテンラジオ (COTEN RADIO)の西郷隆盛編第7回では、深井龍之介さんと樋口聖典さんが、15代将軍・徳川慶喜の大改革から大政奉還、王政復古の大号令、そして戊辰戦争の開戦に至るまでの激動の政治闘争を解説しています。教科書では一行で済まされがちな「大政奉還」の実態と、その裏に渦巻いていた各勢力の思惑を丁寧に読み解いた回の内容をまとめます。
15代将軍・慶喜の大改革
、徳川慶喜江戸幕府第15代将軍。水戸藩主・徳川斉昭の七男で、一橋家を継いだ。英明と評される一方、政治的駆け引きの巧みさから「二心殿」とも呼ばれた。が15代将軍に就任します。ところがそのわずか20日後の12月25日、孝明天皇第121代天皇。攘夷の意志が強く、幕府との協調路線(公武合体)を支持していた。崩御後、幼い明治天皇が即位し、政局は大きく動いた。が天然痘で崩御。将軍と天皇が相次いで代替わりするという、激動の幕末にふさわしい展開でした。
慶喜は就任後ただちに幕政改革に着手します。従来の老中・若年寄・三奉行制度江戸幕府の伝統的な行政機構。老中が政務の最高責任者、若年寄がその補佐、三奉行(寺社・町・勘定)が実務を担った。を廃止し、国内事務・外国事務・会計・陸軍・海軍の「五局制度」を設置したのです。
さらに身分を超えた人材登用、賞罰の厳正化、経費削減にも取り組みます。軍事面ではフランス公使ロッシュレオン・ロッシュ。駐日フランス公使として幕府の近代化を積極的に支援した。フランス式軍事教練の導入を提言した人物。の提言のもと、フランスから陸軍教官を招聘してフランス式軍事教練を実施。慶喜自身もフランス式の軍服を身にまとうようになったといいます。
長州に勝てなかったのが痛かったわけだよね。だからみんなで頑張って西洋化しようとしてるフェーズに入って、幕府もこれで西洋化に舵を切ったってことですね
第二次長州征伐の敗北は、幕府にとって決定的な痛手でした。15万の幕府軍が3,500の長州軍に勝てなかったという事実が、慶喜を急速な近代化改革へ駆り立てたのです。
四侯会議の決裂と薩摩の決意
一方、雄藩側も動きます。島津久光薩摩藩の国父。藩主ではなかったが実質的に藩政を主導し、幕末の政局に大きな影響力を持った。の呼びかけで、久光・松平春嶽越前福井藩主。幕末の四賢侯の一人に数えられ、幕政改革や公武合体を推進した開明派大名。・山内容堂土佐藩主。酒好きの豪放な性格で知られる。大政奉還を将軍に建白したことで有名。四賢侯の一人。・伊達宗城宇和島藩主。四賢侯の一人。開明的な藩政を行い、幕末政局にも積極的に関与した。が集まり、四侯会議1867年に京都で開かれた四人の有力大名(島津久光・松平春嶽・山内容堂・伊達宗城)による会議。長州処分と兵庫開港を議題としたが、慶喜の巧みな政治工作で実質的に失敗に終わった。が開催されます。以前の参預会議1864年に開かれた有力大名による諮問会議。久光らが幕政に参画しようとしたが、慶喜の反対で約2ヶ月で瓦解した。のリバイバルのような位置づけで、将軍慶喜に対してイニシアチブを握ろうという試みでした。
議題は二つ。長州の処分問題と兵庫港現在の神戸港。安政五カ国条約で開港が約束されていたが、孝明天皇の反対で勅許が下りず開港が遅れていた。の開港問題です。ところが慶喜はこの議題を朝廷に諮り、公家たちに圧力をかけて、兵庫開港の勅許と長州処分の幕府一任という、自分に有利な結論を引き出してしまいます。
この結果、薩摩藩は「もはや武力討幕しかない」と決意を固めます。番組では、この会議にまつわる面白いエピソードも紹介されていました。慶喜は緊迫した対談の場にカメラを持ち出し、四侯の写真を撮影したというのです。
めっちゃやばい雰囲気の中で、慶喜が写真、カメラを持ち出して「お前らの写真撮ってやるよ」って
写真好きだった慶喜の余裕綽々ぶりに、久光たちはどんな心境だったのでしょうか。実際、この時撮られたとされる写真は現存しているそうです。
そして会議決裂後、久光は京都に潜伏中だった長州藩の山県狂介(山県有朋)長州藩出身の志士で、後に初代内閣総理大臣となる。吉田松陰の松下村塾に学んだ「松陰チルドレン」の一人。と品川弥二郎長州藩出身の志士。松下村塾出身で、維新後は内務大臣などを歴任した。を呼び出し、連発拳銃を手渡します。「幕府に反省の見込みなきゆえ、もう一段尽力する覚悟だ」──事実上の討幕宣言でした。
討幕の密勅と慶喜の肩透かし
薩摩藩は京都であらゆる裏工作を行い、朝廷から討幕の密勅天皇の名において幕府を討つことを命じる秘密の勅命。1867年10月に薩摩藩と長州藩に下されたとされるが、その正当性については議論がある。を手にしようとします。密勅には「俗臣慶喜の殄戮を励行する」──つまり「慶喜を殺し尽くせ」と記されていました。
どういう理由で言うことになるのかな
長年民を苦しめて、権威をかさにきて民を苦しみ続けているからみたいな。明確な理由とかあんまないわけよ
この密勅がどこまで正式なものだったかは不明とされていますが、一応は明治天皇(当時まだ幼少)の承認のもとで出されたことになっています。幼い天皇の周囲にいた過激派公家たちの工作によるものだったと考えられています。
しかし慶喜はいち早くこの密勅の存在を察知し、カウンターとして打った手が大政奉還でした。朝廷に大政を返上することで、「大政を委任されているのに民を苦しめている」という密勅の論拠そのものを無効化しようとしたのです。
さらに、密勅の発出に関わったとされる三人の公家から、薩摩藩に対して「討幕を見合わせるように」という沙汰書も下されます。慶喜の肩透かしは、見事に成功したかに見えました。
大政奉還の本当の意味
ここで番組が強調していたのは、大政奉還が多くの人のイメージとはかなり異なるという点です。「幕府がバーンとなくなる」というイメージとは違い、大政奉還は独占的な政治的実権を手放すだけであって、将軍を辞めるわけでも、幕府がなくなるわけでもなかったのです。
朝廷から委任された独占的な政治的実権(諸侯の上に立つ特別な立場)
将軍の地位・諸藩への軍事動員権・最大の石高と領地・武士の頭領としての権威
慶喜の計算はこうです。大政を朝廷に返しても、朝廷には政治を行う実力がない。200以上ある藩の中で、薩摩や長州の言うことを聞く藩がどれだけいるのか。結局、最大の石高と軍事力を持つ徳川家にお鉢が回ってくるだろう──。
実際、朝廷は大政奉還を受け入れたものの、政務を行う体制が整っていないため、当面の政治を慶喜に委任することになります。深井さんが「一応社員じゃなくなったけど、外部の業務委託ねみたいな感じで何も業務変わんない」と例えたのは、まさにこの状況を的確に表現しています。
また、慶喜の立場の複雑さも興味深いポイントです。彼は水戸藩徳川御三家の一つで、尊王思想の総本山。「大日本史」の編纂に代表される水戸学を生み出し、天皇への敬意を重んじる思想を育んだ。出身であり、天皇に対する深い尊敬心を持っていました。朝廷を超えようとしているわけではなく、「天皇から委任された政治を最もうまく行えるのは自分だ」という自負から行動していた──かつて島津斉彬薩摩藩第11代藩主。開明的な藩政で知られ、慶喜を将軍に推した。水戸学の影響を受けた人物なら朝廷をないがしろにしないと考えた。が慶喜を将軍に推した理由もここにあったのです。
公武合体・公議政体・大政奉還・王政復古の整理
番組ではここで、幕末の重要概念を改めて整理していました。「公武合体」「公議政体」「大政奉還」「王政復古」──聞いたことはあっても、その違いを明確に説明できる人は少ないのではないでしょうか。
樋口さんはこれらの違いをシンプルに整理しています。公武合体論と公議政体論は幕府が生き残るための妥協策。大政奉還は幕府自らの防衛策。そして王政復古は倒幕派が主導権を握って完全に新しいシステムを作ること。こう理解すると、幕末の政局が一気にクリアになります。
めちゃくちゃわかった、今
王政復古のクーデター
大政奉還で肩透かしを食らった薩摩藩ですが、慶喜への信頼は皆無です。大久保利通薩摩藩の下級武士出身。西郷隆盛とともに討幕運動を主導し、維新後は「維新の三傑」の一人として新政府を牽引した。は朝廷の無力さも痛感しており、「朝廷もどんがら返ししないと日本をとてもじゃないけど牽引できない」と考えていました。西郷隆盛も同様に、二百数十年の太平の後に戦争なしで新国家を建設するのは不可能だと確信していたといいます。
大久保は岩倉具視公家出身の政治家。過激な政治活動で蟄居処分を受けていたが、王政復古のクーデターで復帰。維新の中心的人物となった。や土佐藩の後藤象二郎土佐藩の上士。坂本龍馬の船中八策に影響を受けて大政奉還を建白した。後に新政府の要職を歴任。を説得し、クーデターへの参加を取り付けます。後藤も、もはやクーデターに参加しない方がデメリットが大きいと判断したのです。
そしてクーデター当日。薩摩・土佐・尾張・福井・広島の藩兵が御所の門を封鎖し、慶喜派の会津藩京都守護職を務めた親幕府藩。藩主・松平容保は慶喜を支え、一会桑体制の一角を担った。戊辰戦争では最後まで新政府軍と戦った。・桑名藩京都所司代を務めた親幕府藩。藩主・松平定敬は会津藩主・松平容保の実弟で、ともに慶喜を支えた。の藩兵を退去させます。蟄居を赦免されたばかりの岩倉具視が参内し、天皇に王政復古の大号令1867年12月9日(慶応3年)に発せられた政変の宣言。幕府と摂関制度を廃止し、総裁・議定・参与の三職を置く新政府の樹立を宣言した。を上奏させました。
クーデター直後の会議では、山内容堂が「慶喜がいないのに慶喜の処遇を決めるのはフェアじゃない」と抵抗します。しかし別室に控えていた西郷隆盛の言葉が、この場の空気を支配していました。
天皇の前で血を流してもいい──その覚悟を見せつけられ、山内容堂も押し切れなかったといいます。
挑発と暴発──戊辰戦争の始まり
王政復古の大号令の後、慶喜は大阪城に撤収します。経済拠点を押さえつつ京都との中距離を保ち、複数のオプションを選べるようにする戦略的判断でした。手元には会津兵約3,000、桑名兵約1,500、幕府兵5,000──薩摩や長州より多い兵力がありました。
慶喜は外国公使を招集し、条約履行を明言。王政復古の新政権は「幼い天皇を欺いた奸物たちの所業」であり、国際的な主権は自分にあると主張します。新政府の正当性はまだ確定しておらず、ひっくり返る可能性も十分にあった時期です。
新政府内部でも、薩摩が主張する辞官納地慶喜に全ての官職を辞任させ、徳川家の全領地を朝廷に返上させるという要求。実現すれば数万の旗本・家臣の生活基盤が消滅する過激な要求だった。をめぐって意見が割れていました。穏健派の山内容堂や松平春嶽は、慶喜に一定のポストを与える妥協案を模索します。
ところが、薩摩藩はここで驚くべき手に出ます。江戸市中で放火や強盗を扇動するテロ行為を行い、旧幕府側を挑発して戦争に持ち込もうとしたのです。
西郷さんがまさにこれに関与してるわけですけど、何がなんでも旧幕府軍と軍事衝突を起こして、汚い手を使ってでも戦争を起こしたい
市中警備をしていた庄内藩出羽国庄内地方(現・山形県)の藩。江戸市中の治安維持を担当しており、薩摩藩の挑発行為の背後を突き止めた。の藩兵が不審者を追跡し、薩摩藩の関与が発覚。会津藩士や桑名藩士の怒りは頂点に達します。
慶喜はなおも自重していましたが、運命のいたずらか、インフルエンザで寝込んでしまいます。高熱でうなされる中、会津藩士から「攻めさせてくれ」と激しく迫られ、ついに「勝手にしろ」と言ってしまったのです。
こうして旧幕府軍1万5,000が京都へ進軍を開始。大久保利通はこれを受け、決戦当日の朝に岩倉具視へ「官軍天皇直属の軍隊。錦の御旗を掲げることで「天皇の軍」としての大義名分を得る。日本では天皇の軍に盾突くことは最大の不義とされ、諸藩の態度決定に絶大な影響を与えた。を組成しよう」と提案します。仁和寺宮嘉彰親王を大将に据え、錦の御旗天皇の軍であることを示す旗。赤地に金の日輪と銀の月輪を描いたもので、これを掲げた軍に敵対することは朝敵(天皇の敵)を意味した。を急造。これが「天皇の軍に盾突くのか」という強烈なメッセージとなり、様子見の諸藩にも態度表明を迫ることになります。
樋口さんは、西郷や大久保、岩倉具視、そして長州の志士たちは全員が命を懸けていたと指摘します。一方で慶喜は「多分命かけてない」。だからこそ「勝手にしろ」と言ってしまう。この覚悟の差が、歴史の行方を決定づけたのかもしれません。こうして戊辰戦争1868〜1869年に行われた新政府軍(官軍)と旧幕府軍の内戦。鳥羽・伏見の戦いに始まり、会津戦争、箱館戦争を経て新政府軍の勝利で終結した。が幕を開けることになります。
まとめ
今回の放送では、教科書では数行で片付けられる「大政奉還」と「王政復古」の実態が、驚くほど複雑で生々しい政治闘争だったことが明らかにされました。慶喜の狡猾なまでのサバイバル術、薩摩藩の覚悟を決めた討幕路線、そしてテロ行為による挑発と暴発──歴史は、教科書の一行には収まらないドラマに満ちています。
次回はいよいよ戊辰戦争の展開が語られる予定です。新政府軍と旧幕府軍の「天下分け目の戦い」がどのような結末を迎えるのか、続きが楽しみです。
- 15代将軍・慶喜は五局制度の導入やフランス式軍事教練など、近代化に向けた大改革を断行した
- 四侯会議で慶喜が朝廷工作で完勝し、薩摩藩は武力討幕を決意する
- 討幕の密勅に対し、慶喜は大政奉還で論拠を無効化する「肩透かし」を打った
- 大政奉還は将軍職や軍事動員権を手放すものではなく、慶喜は実権を握り続ける計算だった
- 公武合体→公議政体→大政奉還→王政復古は、それぞれ異なる政治構想である
- 王政復古の大号令は、幕府と摂関制度を廃止し新体制を作るクーデターだった
- 薩摩藩は江戸での挑発テロで旧幕府軍を暴発させ、戊辰戦争の開戦に持ち込んだ
- 命を懸けた者だけがテーブルについた時の決断力と行動力が、歴史を動かした

