大政奉還の真実──慶喜の「肩透かし」と薩摩の覚悟が導いた王政復古クーデター
歴史を面白く学ぶコテンラジオ (COTEN RADIO)にて、深井龍之介さん、樋口聖典さん、楊睿之さんが西郷隆盛編の第7回として、15代将軍・徳川慶喜の改革から大政奉還、王政復古の大号令、そして戊辰戦争の開戦に至るまでの政治闘争を解説しました。教科書では一行で片付けられがちな「大政奉還」の裏側にある慶喜の計算と、薩摩藩の覚悟の決まり方を丁寧に追いかけた回です。その内容をまとめます。
15代将軍・慶喜の大改革
1866年12月5日、徳川慶喜水戸藩主・徳川斉昭の七男。一橋家を継ぎ、江戸幕府最後の第15代将軍となった。聡明で政治手腕に長けたが、その狡猾さゆえに薩摩藩からは強く警戒された。が15代将軍に就任します。ところがその20日後の12月25日、孝明天皇第121代天皇。攘夷を強く主張しつつも公武合体路線を支持していた。崩御後、幼い明治天皇が即位したことで朝廷の政治力学が大きく変わった。が天然痘で崩御。将軍と天皇が相次いで交代するという、幕末の激動を象徴する事態が起こりました。
慶喜は将軍に就くと、幕府の威信回復を目指して大胆な改革に乗り出します。従来の老中・若年寄・三奉行制度江戸幕府の伝統的な官僚機構。老中が最高職で政務全般を統括し、若年寄が旗本を管轄、三奉行(寺社・町・勘定)がそれぞれの分野を担当した。を廃止し、国内事務・外国事務・会計・陸軍・海軍の「五局制度」を新設したのです。
さらに身分を超えた人材登用、賞罰の厳正化、不要な費用の削減にも着手。フランス公使ロッシュレオン・ロッシュ。駐日フランス公使として幕府の近代化を積極的に支援した。軍事顧問団の派遣やフランス式軍事教練の導入を推進した人物。の提言のもとフランスから陸軍教官を招き、慶喜自身もフランス式の軍服をまとうようになったといいます。第二次長州征伐の失敗が痛手だった幕府が、明治維新の2年前にして本格的な西洋化に舵を切ったということになります。
陸軍・海軍を設置したってのはすごい重要なことで。結局、近代軍を創設しようとしてるってことになるよね
四侯会議の決裂と薩摩の決意
一方、幕府の外では公儀政体論徳川の専制をやめ、有力諸藩が参加する合議体制で国政を運営しようという考え方。勝海舟が代表的な論者で、坂本龍馬にも影響を与えた。が勢いを増していました。幕府の一極支配を脱し、雄藩が参加する合議制で政治を動かそうという構想です。この考え方に影響を受けた坂本龍馬土佐藩脱藩の志士。勝海舟に師事し、薩長同盟の仲介や船中八策の起草で幕末政治に大きな影響を与えた。の「船中八策」が、土佐藩の後藤象二郎土佐藩の重臣。坂本龍馬の影響を受けて大政奉還論を山内容堂に建言した人物。を通じて藩主・山内容堂土佐藩第15代藩主。幕末の四賢侯の一人。公武合体から公儀政体論へと立場を移し、穏健な路線で政局に関与しようとした。に伝わり、「大政奉還」という構想が浮上してきます。
そんな中、島津久光薩摩藩の実質的な指導者。藩主の父として「国父」と呼ばれた。自ら政局の主導権を握ろうとし、参与会議・四侯会議を主導したが、いずれも慶喜に敗れた。が主導する形で「四侯会議1867年に久光・松平春嶽・山内容堂・伊達宗城の四人の有力諸侯が京都に集まり、将軍慶喜と政治課題について協議した会議。参与会議のリバイバル的な位置づけだった。」が開かれます。久光、松平春嶽越前藩(福井藩)主。幕末の四賢侯の一人で、政事総裁職を務めるなど幕政改革に関わった穏健派の重鎮。、山内容堂、伊達宗城宇和島藩主。幕末の四賢侯の一人。開明的な藩政改革を行い、幕末政局でも発言力を持った。の4人が集まり、長州の処分と兵庫開港問題安政の通商条約で兵庫(神戸)の開港が定められていたが、孝明天皇が反対していたため勅許が下りず、未開港のままだった問題。列強の圧力が強まっていた。について慶喜と交渉しようとしたのです。
しかし結果は、またも慶喜の勝利でした。慶喜は議題を朝廷に上げ、公家たちに猛烈な圧力をかけて自分に有利な結論を引き出します。兵庫開港は勅許を得、長州処分は事実上幕府に一任されました。
個人的にめっちゃ面白いエピソードがあって。この対談日にすごい緊迫した雰囲気の中で、慶喜がカメラ持ち出して「お前らの写真撮ってやるよ」って
ピースしてピースしてとか言って
趣味の写真で四侯を撮影するという余裕ぶり。実際にこの時撮影されたとされる写真は現存しているそうです。会議の失敗を受け、久光は京都に潜伏中の長州藩士・山県有朋長州藩出身。吉田松陰の門下生で、のちに明治政府で陸軍の創設や内閣総理大臣を務めた。この時は「山県狂介」の名で活動していた。と品川弥二郎長州藩出身の松陰門下生。尊王攘夷運動に奔走し、維新後は内務大臣などを務めた。を呼び出し、連発拳銃を渡すという行動に出ます。「幕府に反省の見込みなきゆえ、もう一段尽力する覚悟だ」──薩摩は完全に武力討幕路線へと舵を切りました。
討幕の密勅と慶喜の「肩透かし」大政奉還
武力討幕を決意した薩摩藩は、京都であらゆる裏工作を行い、ついに討幕の密勅天皇の名で出された幕府討伐の秘密命令。正式な勅許としてどこまで正当なものだったかは議論がある。幼い明治天皇を取り巻く過激派公家たちが主導したとされる。を手に入れます。その内容は「賊臣慶喜の殲戮を励行する」──つまり「慶喜を殺し尽くせ」という恐ろしいものでした。理由は「長年民を苦しめ、権威をかさにきている」という曖昧なもの。番組では「せめて攘夷に失敗したからとかにしなよ」とツッコまれていました。
しかし、さまざまな情報網を持つ慶喜はこの密勅をいち早く察知します。そしてカウンターとして打ち出したのが、実は大政奉還だったのです。
朝廷から委任されていた「大政」を自発的に返上すれば、密勅の「大政を預かりながら民を苦しめている」という論拠が成り立たなくなる──これが慶喜の狙いでした。そして土佐藩からはすでに1ヶ月前に大政奉還の建白書が出されていたので、それに応じる形を取ることもできたのです。
慶喜が大政奉還で失うもの、失わないもの
ここで非常に重要なのは、大政奉還は「将軍を辞めること」ではなかったという点です。朝廷から委任されていた独占的な政治権限を返上するだけで、将軍職そのもの、諸藩への軍事動員権、そして日本最大の石高を持つ徳川家の領地はそのまま手元に残ります。
朝廷から委任された独占的な政治実権(大政)
四侯会議で他の諸侯より「一つ抜きんでた」特別な立場
征夷大将軍の地位・諸藩への軍事動員権
日本最大の石高を持つ徳川家の領地と家臣団
朝廷工作の手腕と政治的影響力
慶喜の計算はこうです。大政を返したところで、朝廷にはそもそも政務を行う体制がない。薩摩や長州だけで二百以上の藩を束ねられるはずもない。結局、自分にまた「お鉢が回ってくる」だろう──。実際、朝廷は大政奉還を受け入れたものの、政務体制が整っていないとして、当面の政治を慶喜に委任するのです。
一応社員じゃなくなったけど、外部の業務委託ねみたいな感じで、何も業務変わんないみたいな
公武合体・公儀政体・大政奉還・王政復古の違い
番組ではここで、幕末を理解するうえで欠かせない4つの概念を整理しています。教科書では大政奉還と王政復古くらいしか出てきませんが、この4つの違いを理解すると「幕府がどう追い詰められていったか」の全体像が見えてきます。
深井さんはこの4つの違いをシンプルに整理してくれました。公武合体論と公儀政体論は「幕府が生き残るための妥協策」、大政奉還は「幕府が自ら政権を返す防衛策」、そして王政復古は「倒幕派が主導権を握って完全に新しいシステムを作ること」──こう理解するとすっきりします。
| 概念 | 幕府の存続 | 主導者 | 性質 |
|---|---|---|---|
| 公武合体 | 存続(中心的存在) | 幕府・朝廷 | 妥協策 |
| 公儀政体 | 存続(合議の一員) | 雄藩・幕府 | 妥協策 |
| 大政奉還 | 将軍は存続・実権は返上 | 慶喜(自発的) | 防衛策 |
| 王政復古 | 完全廃止 | 薩摩・長州ら倒幕派 | クーデター |
王政復古のクーデターと新政府の誕生
大政奉還で「肩透かし」を食らった薩摩藩ですが、慶喜の影響力が削がれるとは最初から思っていませんでした。大久保利通は、参与会議の失敗、四侯会議の失敗、大政奉還後の朝廷のあたふたぶりを見て、「この人たちに任せていてもどうにもならない」と確信します。
西郷隆盛、大久保利通、そして岩倉具視の3人がクーデターの決行を確定させます。土佐藩の後藤象二郎に対しても「倒幕する」と明言。後藤は「参加しない方がデメリットが大きい」と判断し、賛同しました。
クーデター当日、薩摩・土佐・尾張・福井・広島の藩兵が御所の門を封鎖。慶喜派の会津藩京都守護職を務めた親幕府の有力藩。藩主・松平容保は慶喜を支持し、一会桑政権の一角を担った。・桑名藩京都所司代を務めた藩。藩主・松平定敬は会津藩主・松平容保の弟で、ともに幕府を支えた。の兵を退去させ、長州を迎え入れます。そして王政復古の大号令1867年12月9日(慶応3年)に発せられた、天皇中心の新政府樹立を宣言する政令。幕府・摂関制の廃止と三職の設置を定めた。が発せられました。
内容は、慶喜に委任していた大政返上と将軍職辞任の受理、摂関制度と幕府の廃絶、そして三職王政復古の大号令で新設された総裁・議定・参与の三つの役職。従来の朝廷・幕府の官職に代わる新政府の最高意思決定機関として設計された。(総裁・議定・参与)の設置。さらに慶喜には「辞官納地」──すべての役職を辞め、徳川家の領地をすべて返上せよという要求が突きつけられました。
会議が紛糾した時に別室で西郷が何て言ってたかっていうと、「短刀一本あったら片付くじゃん」って言ってる
山内容堂が「慶喜がいないのに処遇を決めるのはフェアじゃない」と異議を唱えた時、別室に控えていた西郷隆盛が発したとされるこの言葉。天皇の前で血を流してもいいという覚悟の表明でもありました。結局、誰も殺されはしませんでしたが、この圧力のもとで会議は薩摩主導で進んでいきます。
挑発と暴発──戊辰戦争の始まり
慶喜は大阪城に撤収します。難攻不落の城を拠点に、経済的にも軍事的にも京都を牽制できるポジショニングでした。会津兵約3000、桑名兵約1500、幕府兵5000と、薩摩・長州を上回る兵力も手元にあります。外国の公使を大阪に招き、「国際政治上の主権はまだ自分にある」と主張。王政復古を「幼い天皇を挟んで奸物たちが私心を行った所業」と断じ、正当なプロセスを経ていない新政権は認めないという姿勢を示しました。
新政府内部でも、薩摩が主張する「辞官納地」は行き過ぎではないかという声が上がります。山内容堂と松平春嶽が穏健派として連携し、慶喜に辞官納地を受け入れさせる代わりにしかるべきポストを用意するという妥協案を進めようとしました。薩摩は新政府の中でやや孤立気味だったのです。
しかし、ここで西郷隆盛が恐るべき手を打ちます。江戸市中に秘密工作員を送り込み、放火や強盗を扇動。旧幕臣を激昂させて武力衝突を誘発しようとしたのです。
会津藩士・桑名藩士たちは慶喜の指示で自重していましたが、薩摩のテロ行為に怒りが爆発寸前でした。そしてまさにこの時、慶喜がインフルエンザで寝込んでしまいます。高熱でうなされる慶喜に会津藩士たちが「京都に攻め上がらせてくれ」と迫り、ついに慶喜は「勝手にせい」と言ってしまいました。
徳川軍勢1万余りが進軍を開始。榎本武揚幕臣のエリートで数カ国語を操る。幕府海軍を率い、停泊中の薩摩艦を攻撃して事実上の開戦のきっかけを作った。のちに蝦夷共和国を樹立するが降伏、明治政府で大臣を務めた。率いる幕府艦隊が薩摩の軍艦を撃破し、事実上の交戦状態に突入します。
これを受けた大久保利通は、決戦当日の朝に岩倉具視のもとを訪れ、「官軍天皇の軍を意味する。この時点まで「天皇の軍隊」は存在せず、薩摩藩や長州藩などの「藩の軍隊」があるだけだった。錦の御旗を掲げることで、薩長軍が天皇の軍であることを視覚的に示した。を組成しよう」と提案します。仁和寺宮嘉彰親王を形式上の大将に据え、錦の御旗天皇の軍であることを示す旗。この旗を掲げた軍に逆らうことは天皇に逆らうことを意味するため、尊王思想が浸透した幕末においては絶大な効果を発揮した。を掲げる──決戦当日の朝に急ごしらえで用意されたこの「天皇の軍」が、旧幕府軍に対して決定的な大義名分の差をもたらしました。
慶喜も尊王派だから。基本的にみんな尊王なんです。天皇の軍に盾突くのはまあまあ難しい
こうして新政府軍と旧幕府軍が激突する戊辰戦争1868年〜1869年にかけて行われた日本の内戦。鳥羽・伏見の戦いに始まり、江戸無血開城、会津戦争、箱館戦争と続いた。干支が戊辰の年に始まったことからこの名がある。が幕を開けました。関ヶ原の戦いから約270年後の「天下分け目の戦い」の始まりです。
まとめ
教科書では「大政奉還→王政復古→戊辰戦争」と淡々と並ぶ出来事の裏には、慶喜と薩摩の壮絶な頭脳戦がありました。慶喜は会議で勝ち続ける政治力を武器に、大政奉還も将軍職返上もすべて「肩透かし」として繰り出し、実質的な支配権を手放さないまま生き残ろうとしました。一方の薩摩は、何度も話し合いの場で敗れた経験から「この国は戦争なしでは変わらない」と覚悟を固め、テロ行為を含むあらゆる手段で武力衝突を引き起こしていきます。
深井さんが指摘した「命をかけた者だけがテーブルについている時の挙動」という言葉が、この時代の空気を鮮やかに切り取っています。慶喜が高熱のさなかに「勝手にせい」と言ってしまう場面と、西郷が「短刀一本で片付く」と言い放つ場面の対比は、まさに「命の懸け方の差」が歴史を動かした瞬間だったのかもしれません。
- 慶喜は将軍就任後、五局制度の導入やフランス式軍事教練など大胆な近代化改革を進めた
- 四侯会議でも慶喜が勝利し、薩摩は「もう武力討幕しかない」と覚悟を固めた
- 大政奉還は討幕の密勅への「肩透かし」。慶喜は独占的政治権限を返しただけで、将軍職・領地・軍事動員権は手放していなかった
- 公武合体→公儀政体→大政奉還→王政復古は、幕府の妥協策→防衛策→倒幕派のクーデターという段階的エスカレーション
- 王政復古の大号令で幕府・摂関制が廃止され三職が設置されたが、新政府の正当性はまだ確立されていなかった
- 薩摩の江戸挑発工作と慶喜のインフルエンザによる判断ミスが重なり、戊辰戦争が開戦した
- 開戦当日の朝に急遽「官軍」が組成され、錦の御旗が尊王の国で決定的な大義名分の差を生んだ

