将軍の威信が崩れた日──勝海舟との出会い、薩長接近、そして第二次長州征伐の結末
歴史を面白く学ぶコテンラジオ (COTEN RADIO)の西郷隆盛編第6回では、深井龍之介さんと樋口聖典さんが、第一次長州征伐から薩長盟約、そして第二次長州征伐の終結までを解説しています。蛤御門の変で名を上げた西郷隆盛が、幕臣・勝海舟との出会いを通じて「戦い」から「対話」へと転換し、やがて幕府への見切りをつけていく過程が語られます。その内容をまとめます。
第一次長州征伐と西郷隆盛の大抜擢
蛤御門の変1864年(元治元年)、長州藩の兵が京都御所の蛤御門付近で薩摩藩・会津藩などと衝突した武力事件。禁門の変とも呼ばれます。の後、孝明天皇第121代天皇。攘夷思想が強く、長州藩の過激な行動に対して追討令を下しました。公武合体を支持した天皇としても知られます。から長州藩への追討令が下ります。命令を受けたのは第14代将軍・徳川家茂第14代征夷大将軍。紀州藩出身で、13歳で将軍に就任。政治的には一橋慶喜ら後見人の影響下にありました。。将軍が持つ軍事動員権によって35藩に命令が下り、15万もの軍勢が広島に集結しました。
15万の軍勢が集まるのは大坂の陣1614〜1615年、徳川家康が豊臣家を滅ぼした戦い。冬の陣・夏の陣の二度にわたる攻防で、約250年にわたる徳川の天下を確立しました。以来およそ250年ぶりのことでした。征長軍の総督には御三家徳川将軍家に次ぐ家格を持つ尾張・紀伊・水戸の三家。将軍家の血筋が途絶えた際の継承候補とされました。・尾張藩主の徳川慶勝が就任。そしてその総督付参謀、つまりナンバー2ともいえるポジションに、西郷隆盛が抜擢されます。
この間まで島流しに遭ってた人がナンバー2ですよ
二度の島流しから復帰し、蛤御門の変で負傷しながらも指揮を執った功績が高く評価された結果です。これは薩摩藩の枠を超え、国家レベルで西郷がオーソライズされたことを意味していました。
勝海舟との出会い──「打ち叩くつもり」が一転
長州征伐の出発前、西郷は大阪にいた幕臣・勝海舟幕末の幕臣。軍艦奉行などを歴任し、海軍の近代化に尽力。のちに江戸無血開城の交渉役を務めたことでも知られます。のもとを訪ねます。当時、軍艦奉行として活動していた勝に、越前の松平春嶽越前福井藩主。幕末の「四賢侯」の一人に数えられ、幕政改革に積極的に関与しました。とともに将軍上洛の交渉を持ちかけるのが目的でした。西郷たちは長州を完膚なきまでに叩き潰すつもりだったのです。
ところが勝海舟の返答は予想外のものでした。「長州をボコボコにしても日本にメリットはない」──そう言い切ったのです。
勝海舟は、幕府の組織が硬直化して責任の所在も曖昧になっている現実を見据えていました。外国勢、特にイギリスなどは幕臣と交渉しても「何も進まない」と軽蔑し始めていた時期です。勝自身も幕府に見切りをつけ、日本全体で合議制を形成し、外国への交渉力を高めるべきだと考えていました。そんな視座の高さが、西郷の心を動かします。
西郷は大久保利通への手紙で、勝を佐久間象山幕末の思想家・兵学者。開国論を唱え、勝海舟・吉田松陰ら多くの門下生を育てました。1864年に京都で暗殺されています。以上の人物と評し、「ひどく惚れもうした」と記しています。幕臣でありながら、覚悟の決まった西郷を正面から圧倒できたところに、勝海舟の器量の大きさがうかがえます。
この段に至っては、腹が決まった人間以外はもう議論のテーブルに立てないフェーズに入ってる
深井さんが指摘するように、この時期の日本は役職や肩書ではなく、頭の良さ・腹の据わり方・現状認識・実行力が問われる局面に入っていました。将軍家茂でさえ存在感を示せない中、実力者だけが歴史の舞台に立てる──そんな時代だったのです。
命懸けの単身交渉と長州征伐の終結
勝海舟との対話を経て、西郷の考えは大きく転換します。長州をボコボコにするのではなく、穏健派を支援して過激派を孤立させ、藩として謝罪させたうえで寛容な処置をとるという方針に切り替えたのです。
西郷が得た情報では、長州藩内にも恭順派がいました。岩国の領主・吉川経幹岩国領主。長州藩の支藩的な立場にありながら、幕府との和議を模索した穏健派の人物です。らを取り込み、「謝罪すれば許す」という交渉を直接持ちかけることを決意します。
西郷はたった2人の供を連れて岩国に乗り込みました。総督の徳川慶勝は「殺されるのでは」と心配して止めようとしましたが、西郷は聞き入れません。深井さんによれば、西郷には「殺されたら殺されたで、それを口実に長州を征伐すればいい」という覚悟がありました。二度の自殺未遂を経験した西郷ならではの、命を賭けた交渉術です。
すげえけど反論しづらくてめんどくせえ。命かけられたら、反対する場合は殺さないといけないじゃん
結果、交渉は成功します。蛤御門の変の責任を負う三家老の首を差し出すことで長州側が謝罪し、第一次長州征伐は戦わずして終結しました。さらに、長州に逃れていた五卿八月十八日の政変で京都を追われた攘夷派の公家5人。三条実美らが長州に落ち延び、その後太宰府に移されました。の身柄は福岡の太宰府に移され、長州と攘夷派公家のつながりが断たれました。
なお、この時期に西郷は再婚もしています。薩摩での正式な妻として糸子西郷隆盛の正妻。岩山家の出身で、西郷との間に寅太郎・午次郎・酉三の三男をもうけました。西郷の死後も明治を生き抜きました。(イトコとも呼ばれた)と結婚し、寅太郎・午次郎・酉三の3人の子をもうけています。
高杉晋作のクーデターと薩長接近
第一次長州征伐が終わり束の間の平穏が訪れたかに見えましたが、長州藩内で高杉晋作長州藩士。奇兵隊を創設し、身分に関係なく兵を集める画期的な軍制改革を行いました。功山寺挙兵で藩の主導権を握り、第二次長州征伐では幕府軍を撃退する活躍を見せます。がクーデターを起こし、再び攘夷強硬路線に傾きます。軍備を増強し、幕府に対して「これ以上の譲歩はしない」という姿勢を鮮明にしていきました。
幕府は上洛を要請しますが、長州は一向に応じません。立場を失った幕府は第二次長州征伐を宣言します。一度は15万の軍勢を集めながら戦わずに済ませた相手に、また軍を集め直さなければならない──幕府の権威はすでに大きく揺らいでいたのです。
西郷はこの時、複雑な立場にいました。勝海舟の意見を受けて第一次では戦争を回避したにもかかわらず、幕府がまた攻めると言い出したことに不満を抱いています。しかし、その不満の本質は「怒り」というよりも、幕府への愛想尽かしでした。
幕府がこれで将軍を出せば動乱になって、幕府の権威がさらに落ちて自分たちの思い通りになるぞ、とちょっと喜んでるぐらいの感じ
第一次で15万を集めても長州に言うことを聞かせられなかった現実が、薩摩の認識を変えました。「これは幕府より長州と組んだ方がいいのでは?」──そんな感覚が薩摩藩内に芽生え始めます。武器購入ルートを失っていた長州に対し、薩摩が秘密裏に武器を横流しする形で、両藩は急速に接近していきました。
坂本龍馬・中岡慎太郎と薩長盟約の実像
薩摩の動向に目をつけたのが、土佐脱藩藩士の中岡慎太郎土佐藩出身の志士。薩長同盟の仲介に尽力し、坂本龍馬とともに近江屋事件で暗殺されました。龍馬と並ぶ仲介者として重要な役割を果たしています。と坂本龍馬土佐藩出身の志士。亀山社中(のちの海援隊)を組織し、薩長盟約の仲介や大政奉還の推進に関わりました。司馬遼太郎の『竜馬がゆく』で広く知られるようになった人物です。です。中岡慎太郎は武器仲介に動き、坂本龍馬の亀山社中坂本龍馬が長崎で結成した商社的組織。武器や物資の運搬を担い、のちの海援隊へと発展しました。は物資運搬を担いました。薩摩は武器を流し、長州は米の調達ルートを提供する──互いの利害が噛み合うギブアンドテイクの関係が形成されていきます。
下関での米調達ルート確保。長州の軍事力を味方につけ、幕府への対抗力を強化
最新式の武器・蒸気船の入手。薩摩の政治力による藩主の官位・権力の回復
ただし、両藩の温度差は大きかったようです。薩摩にとって長州との連携は複数あるタスクの一つに過ぎず、優先順位は5〜6番目程度。一方、武器購入ルートを断たれ、毛利敬親長州藩第13代藩主。「そうせい候」と呼ばれ、家臣の意見を容れて藩政を任せる姿勢で知られました。禁門の変後に謹慎処分を受けています。らの官位剥奪からの復権を求める長州にとっては死活問題でした。
実際、西郷は木戸孝允長州藩士。この時期は桂小五郎の名で知られ、薩長盟約の長州側の中心人物。のちに明治新政府の中枢で活躍しました。(桂小五郎)との会談を一度すっぽかしています。他に喫緊のタスクがあったためですが、長州側は「やっぱり薩摩はダメだ」と不信感を強めました。この温度差を埋めるために坂本龍馬と中岡慎太郎が介入した意義は大きかったと考えられます。
結果として二度目の会談は実現し、木戸孝允と西郷隆盛の間で盟約が結ばれます。坂本龍馬が内容を保証する裏書をしたことで確定しました。ただし、この段階でも薩摩は倒幕までは考えていませんでした。幕府はまだ多くの藩を従えており、薩長が反旗を翻しても味方につく藩がどれだけあるかは不透明だったからです。
朝廷もまた、簡単には倒幕を支持できない事情を抱えていました。戦国時代以降、朝廷は財政的に幕府に完全に依存しており、幕府がなくなれば文字通り路頭に迷いかねなかったのです。
第二次長州征伐と幕府権威の失墜
開戦予告から1年。各藩の渋りでグダグダになりながらも、幕府はついに第二次長州征伐を発動します。薩摩藩は「大義名分がない」として出兵を拒否しました。将軍の軍事動員権に対する公然たる命令拒否は、事実上の反幕宣言ともいえる重大な行動です。
さらに島津久光薩摩藩の実権を握った藩主の父。公議政体論を唱え、朝廷への働きかけを積極的に行いました。藩主ではなく「国父」として権力を行使した人物です。は朝廷に建白書を提出し、朝廷の力で幕府に戦争を終わらせることや、天皇中心の合議制への移行を提案しています。将軍を飛び越えて朝廷と直接つながろうとする動きでした。
それでもなお再び15万の軍勢が集まります。対する長州の兵力はわずか3,500。圧倒的な兵数差にもかかわらず、高杉晋作率いる奇兵隊高杉晋作が創設した長州藩の軍事組織。武士以外の農民・商人なども参加できる画期的な編成で、西洋式の訓練と最新式の銃で武装していました。は善戦し、戦況をひっくり返していきます。
そして戦いの最中、将軍家茂がわずか21歳で大坂城にて病死します。後を受けた徳川慶喜第15代にして最後の征夷大将軍。聡明で知られたが、第二次長州征伐の敗色が濃くなると停戦を選び、のちに大政奉還を行いました。は自ら出陣しようとしますが、その前に小倉城が高杉晋作に陥落させられ、勝ち目がないと判断。勝海舟に停戦交渉を命じ、第二次長州征伐は終結します。
頭脳明晰で狡猾だが、不利と見れば撤退する柔軟さ(あるいは意志の弱さ)を持つ
メリット・デメリットを超えて貫き通す意志の強さが特徴。交渉に命を賭ける姿勢
15万の軍勢で長州一藩に勝てなかった──この事実は幕府の権威を決定的に失墜させました。そして慶喜が第15代将軍に就任しますが、それは同時に徳川幕府最後の将軍の誕生でもあったのです。
まとめ
第一次長州征伐で西郷隆盛は、勝海舟との出会いを通じて「ボコボコにする」から「対話で解決する」へと転換しました。命懸けの単身交渉で征伐を回避したものの、高杉晋作のクーデターで長州は再び強硬路線へ。幕府の弱体化を目の当たりにした薩摩は長州との盟約に踏み切り、坂本龍馬・中岡慎太郎の仲介も加わってその関係は確定します。第二次長州征伐では薩摩が出兵を拒否し、3,500の長州兵が15万の幕府軍に勝利。将軍家茂の病死も重なり、幕府の権威は地に落ちました。慶喜が最後の将軍として登場し、幕末はいよいよ最終局面へ向かいます。
- 蛤御門の変の功績で、島流し帰りの西郷隆盛が征長軍の参謀に大抜擢された
- 勝海舟は「長州を潰しても日本にメリットはない」と説き、西郷を公議政体論的な考え方に転換させた
- 西郷は命を賭けた単身交渉で第一次長州征伐を戦わずに終結させた
- 高杉晋作のクーデター後、幕府への不信から薩摩と長州が接近し盟約を結んだ
- 坂本龍馬・中岡慎太郎の仲介は、両藩の温度差を埋める重要な役割を果たした
- 第二次長州征伐で薩摩は出兵拒否、長州の3,500が幕府の15万に勝利し、幕府の権威は決定的に失墜した
- 将軍家茂の病死を経て慶喜が最後の将軍に就任し、幕末は最終局面へ

