勝海舟との出会いが西郷隆盛を変えた ── 第一次長州征伐から薩長盟約へ
歴史を面白く学ぶコテンラジオ(COTEN RADIO)の西郷隆盛編第6回では、深井龍之介さん、楊睿之さん、樋口聖典さんが、蛤御門の変後の長州征伐から薩長盟約の成立、そして第二次長州征伐における幕府の敗北までを語りました。長州を「ボコボコにする」つもりだった西郷が、幕臣・勝海舟との対話で考えを一変させ、やがて幕府から距離を置き、長州と手を結ぶに至る激動の流れをまとめます。
15万の軍勢と西郷の大抜擢
蛤御門の変1864年(元治元年)に長州藩の急進派が京都御所の蛤御門付近で会津藩・薩摩藩と武力衝突した事件。禁門の変とも呼ばれます。の後、孝明天皇第121代天皇。強い攘夷の意思を持ちつつも、幕府との協力体制(公武合体)を重視しました。から長州藩に対する追討令が下されました。これを受けた第14代将軍・徳川家茂1846〜1866年。紀州藩出身の第14代征夷大将軍。若くして就任し、政局に翻弄されながら21歳で病没しました。が軍事動員権を行使し、35藩に命令が発せられます。広島に集結した軍勢は実に15万人。これは大坂の陣1614〜1615年、徳川家康が豊臣家を滅ぼした戦い。冬の陣・夏の陣の二度にわたって行われ、江戸幕府の支配を確立しました。以来、約250年ぶりの大規模動員でした。
この征長軍の総督には御三家徳川将軍家に次ぐ家格を持つ尾張・紀伊・水戸の三家。将軍の後継者を出す権利を持ちました。・尾張藩主の徳川慶勝が就き、そのナンバー2にあたる総督付き参謀に西郷隆盛が抜擢されます。つい最近まで島流しに遭い、足を負傷し、歩行にも難があった人物が、蛤御門の変での指揮の功績によって薩摩藩を超えた国家レベルで認められたのです。
この間まで島流しに遭ってた人が(参謀に)。すげえな
勝海舟との運命的な出会い
長州征伐の出発前、西郷は大阪にいた幕府の軍艦奉行幕府の海軍を統轄する役職。勝海舟は1862年に就任し、海軍力の近代化に尽力しました。・勝海舟1823〜1899年。幕臣でありながら日本全体の将来を見据え、公議政体論を唱えた人物。咸臨丸での太平洋横断でも知られます。を訪ねます。目的は、将軍の上洛を実現させるための交渉を勝に依頼すること。西郷の側はこの時点で「長州を完膚なきまでに叩き潰す」つもりでした。
ところが勝海舟の返答は意外なものでした。「長州をボコボコにしても日本にメリットはない。許して包摂し、新しい統一国家を形成した方がよい」というのです。
勝は幕臣でありながら、幕府の組織的硬直化を冷静に見抜いていました。責任の所在が曖昧で、正論を唱えても排斥される状況。外国の交渉相手からも軽蔑され始めている現実。そうした中で、日本全体で合議制を形成し、対外交渉力を高めるしかないと考えていたのです。
西郷は大久保利通への手紙で、この出会いの衝撃をこう記しています。
さらに「英雄肌合いの人で、佐久間象山1811〜1864年。信濃松代藩士の思想家・兵学者。西洋の科学技術導入を唱え、勝海舟や吉田松陰の師でもありました。よりことの出来では一層も超えている」「ひどく惚れもうした」とまで絶賛しています。西郷が一瞬で信頼を寄せた人物は、島津斉彬、橋本左内、藤田東湖など数えるほどしかおらず、勝海舟はその一人に加わったのです。
深井さんは、この時代の特徴としてこう指摘します。喫緊の危機においては、役職や家格ではなく「頭が良くて、腹が座っていて、意見があって、意志が強い人間」だけが会議の場に立てるようになる。将軍家茂のような名目上の権力者は存在感を失い、西郷や勝海舟のような実力者が状況を動かしていく ── 歴史の転換点に繰り返し現れるパターンだと言えるかもしれません。
命懸けの和平交渉と第一次長州征伐の終結
勝海舟との対話を経て、西郷は方針を大きく転換します。長州を滅ぼすような策は取らず、藩内の穏健派を支援して過激派を孤立させ、藩として謝罪させれば寛容な処置を取る ── という路線に切り替えたのです。
西郷の情報網によれば、長州藩は一枚岩ではなく、岩国の領主・吉川経幹岩国領主。長州藩の支藩にあたる岩国吉川家の当主で、幕府との和議を進める恭順派の中心人物でした。ら恭順派が和議を唱えていることがわかっていました。西郷はわずか2人の供だけを連れて岩国に乗り込みます。
総督の徳川慶勝は「殺されるのではないか」と心配して止めようとしましたが、西郷は聞き入れません。深井さんによれば、西郷にはこういう覚悟があったといいます。「殺されたら殺されたで、それを理由に長州を思いっきり征伐すればいい」と。二度の島流しを経てなお持ち続ける自殺願望とも重なる、命を盾にした交渉術です。
毎回命かけてくる。すげえけど反論しづらくてめんどくせえ
結果として交渉は成功します。蛤御門の変で出兵を主導した三家老の首を差し出すことで長州側も反省の姿勢を示し、第一次長州征伐は戦わずして終結しました。さらに、長州に逃れていた攘夷派の公家5人の身柄は福岡の太宰府福岡県にある古代以来の行政・祭祀の拠点。幕末には、長州から移された攘夷派公家が滞在する場となりました。に移され、長州と攘夷派公家の連携が断たれることになります。
なお、この頃西郷は私生活でも転機を迎えています。37歳の西郷が22歳のイトと再婚し、寅太郎・午次郎・酉三の三人の子をもうけました。奄美大島の愛加那との関係は薩摩では正式な婚姻と認められておらず、独身扱いだったためです。
高杉晋作のクーデターと幕府の焦り
しかし長州藩内の平穏は長く続きませんでした。高杉晋作1839〜1867年。長州藩士。身分を問わない軍事組織「奇兵隊」を創設し、藩内クーデターで主導権を握りました。コテンラジオでも別途特集されています。がクーデターを起こし、藩の方針を再び強硬路線に引き戻します。恭順の姿勢を見せたかに思えた長州は、軍備を急速に増強し、幕府に対して「これ以上の譲歩はしない」という態度を取り始めました。
幕府は上洛要請を繰り返しますが、長州は一向に応じません。このままでは幕府の権威が地に落ちる ── そう判断した幕府は、第二次長州征伐を宣言します。
しかし各藩の本音は「行きたくない」でした。飢饉や物価高騰で藩の財政は逼迫し、出兵は全額自費負担。長州は軍備を増強して強そうだし、関わりたくないというのが多くの藩の気持ちだったのです。
薩長盟約の成立 ── 坂本龍馬・中岡慎太郎の役割
この情勢の中で、薩摩藩内にある考えが芽生えます。「幕府より長州と組んだ方がよいのでは?」。第一次征伐で15万の軍勢を集めながら長州を屈服させられなかった幕府に対し、もはや期待を持てなくなっていたのです。
幕府への失望
15万を集めても長州を屈服させられず、組織は硬直化。リーダーシップ不在
利害の一致
薩摩:下関で米を調達可能に。長州:武器購入ルートと政治的復権を獲得
薩長盟約の成立
中岡慎太郎・坂本龍馬の仲介もあり、かつての敵同士が秘密裏に結託
薩摩は幕府から禁止されていた長州への武器売却を、自藩名義で購入した最新式の銃や蒸気船を秘密裏に横流しする形で実現しました。長州は見返りに、薩摩が下関で米を調達できるルートを提供します。こうしたギブアンドテイクの関係が土台となりました。
長州にとっても薩摩と組むメリットは大きいものでした。禁門の変後、藩主・毛利敬親長州藩第13代藩主。「そうせい候」の異名で知られ、家臣の意見を広く取り入れる姿勢で藩政を運営しました。や養子の毛利元徳が謹慎処分・官位剥奪を受けており、薩摩の政治力を借りて復権したいという強い意志があったのです。
物資運搬を担ったのが坂本龍馬1836〜1867年。土佐藩脱藩浪士。亀山社中(のちの海援隊)を組織し、薩長の仲介や大政奉還の推進に奔走しました。の亀山社中坂本龍馬が長崎で設立した日本初の商社的組織。薩摩名義で購入した武器の長州への輸送などを担いました。のちの海援隊の前身です。です。そして、感情的にはまだ互いを信頼しきれない薩摩と長州の間に入って仲介役を果たしたのが、中岡慎太郎1838〜1867年。土佐藩脱藩浪士。坂本龍馬とともに薩長盟約の成立に尽力し、陸援隊を組織しました。近江屋事件で龍馬とともに暗殺されています。と坂本龍馬でした。
ただし、この「坂本龍馬がすべてを成し遂げた」というイメージには注意が必要だと深井さんは指摘します。盟約のアウトラインは龍馬が登場する前に薩摩・長州間でほぼできていたという説もあり、龍馬の役割は「仲介として機能した」「最終的な承認の立ち会い人として機能した」という評価が近年の研究では有力とのことです。
なお、中岡慎太郎も龍馬と同等以上に動いていたにもかかわらず、龍馬ばかりが注目されるのは司馬遼太郎1923〜1996年。日本を代表する歴史小説家。『竜馬がゆく』で坂本龍馬を国民的英雄として描き、龍馬像の形成に多大な影響を与えました。の小説の影響が大きいとのことです。
第二次長州征伐と幕府権威の崩壊
開戦予告から1年後、ついに第二次長州征伐が始まります。しかし、薩摩藩は将軍の出兵命令を拒否するという前代未聞の行動に出ました。「この戦争には大義名分がない」というのが表向きの理由ですが、薩長盟約を結んでいる以上、当然長州を攻める側には回れません。これは事実上の反逆であり、幕府との決別を態度で示したことになります。
一方で、島津久光薩摩藩主・島津忠義の父。藩主ではないものの藩の実権を握り、公武合体や公議政体論を推進しました。は朝廷に対して建白書を提出し、「朝廷の力で幕府に戦争を終わらせてほしい」「天皇中心の合議政治体制に変革すべきだ」と踏み込んだ提案をしています。もはや将軍を飛び越えて朝廷と直接つながる意思を示していたのです。
徳川直属軍2万人超 + 31藩、総勢約15万
わずか約3,500(奇兵隊ほか)。最新式の銃と蒸気船を装備
圧倒的な兵力差にもかかわらず、長州軍は善戦し、戦況をひっくり返していきます。高杉晋作率いる奇兵隊高杉晋作が1863年に創設した長州藩の軍事組織。武士以外の農民・町人も参加でき、身分を問わない編成が特徴でした。が幕府軍を撃退し、さらに小倉城を陥落させるに至って、幕府の敗色は決定的になりました。
15万を集めてなお一藩に勝てないという事実は、幕府の武威 ── 武力で他の武士を従えるという存在意義そのもの ── が完全に失われたことを意味していました。
そしてこの戦いの最中、将軍家茂がわずか21歳で大坂城にて病死します。将軍の死を受けて徳川慶喜1837〜1913年。徳川幕府最後の第15代将軍。頭脳明晰で知られるが、最終的に大政奉還を決断し、幕府260年の歴史に幕を引きました。が停戦を決断。勝海舟に停戦交渉を命じ、第二次長州征伐は終結しました。
深井さんは慶喜の性格をこう評しています。「頭は良いが、西郷のような貫き通す意志がない。長州の逆。狡猾だが、メリット・デメリットを無視した突き抜けるものがない」。小倉城が落ちたと知るや「不利だからやめよう」と切り替える柔軟さは、裏を返せば最後まで戦い抜く覚悟の欠如でもあったのかもしれません。
まとめ
第一次長州征伐で参謀に抜擢された西郷隆盛は、勝海舟との出会いで「戦い」から「対話」へと方針を転換し、命懸けの単身交渉で和平を実現しました。しかし高杉晋作のクーデターで長州は再び強硬化。幕府の無力さが露呈するなか、薩摩は長州と秘密裏に手を結び、第二次長州征伐では出兵を拒否するという決定的な態度を示します。15万の幕府軍が3,500の長州軍に敗北し、将軍家茂が急逝したことで、幕府の権威は取り返しのつかないほど失墜しました。
そして、この混乱を引き継いだ最後の将軍・徳川慶喜のもとで、時代はいよいよ明治維新へと向かっていくことになります。
- 蛤御門の変の功績で西郷は征長軍の参謀に抜擢され、国家レベルで認められた
- 勝海舟は幕臣でありながら「長州を潰しても日本にメリットはない」と説き、西郷の方針を転換させた
- 西郷は命懸けの単身交渉で第一次長州征伐を戦わずに終結させた
- 高杉晋作のクーデター後、長州が再び強硬化。幕府は第二次征伐を宣言するが各藩の士気は低い
- 薩摩は武器の横流し・米の調達などギブアンドテイクで長州と接近し、薩長盟約を締結
- 坂本龍馬・中岡慎太郎は仲介役として機能したが、「龍馬がすべてを成し遂げた」という評価は近年見直されている
- 薩摩は将軍の出兵命令を拒否。15万の幕府軍は3,500の長州軍に敗れ、幕府の権威は決定的に失墜
- 将軍家茂の病死を経て慶喜が最後の将軍に就任し、時代は明治維新へ向かう

