15万の大軍と西郷の大抜擢、第一次長州征伐の始まり
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蛤御門の変のあと、長州藩は朝敵とされ、孝明天皇から長州を追って討てという追討令が出ます。命令を受けたのは、軍事動員権を持つ第14代将軍の徳川家茂でした。
家茂の命令で35藩が動員され、15万の軍勢が広島に集結します。深井さんによると、これほどの軍勢は大坂の陣以来、およそ250年ぶりだったといいます。
いやもう(長州を)ぶっ叩くつもりやん。
まだ将軍は力は持ってたっていうことだろうね。
この長州征討軍の総督には、御三家の尾張藩主である徳川慶勝 ── 尾張藩14代藩主。徳川御三家の一つ尾張家の当主で、第一次長州征伐では征長総督を務めましたが就きます。そして西郷隆盛は、総督付きの参謀として参加します。
深井さんは総督付き参謀を「ナンバー2とか」と見ています。少し前まで島流しにされ、蛤御門の変では足を撃たれていた西郷が、指揮の功績を認められて抜擢されたわけです。
これは薩摩藩を超えた国家レベルで彼(西郷)がオーソライズされてるってことだよね。
勝海舟はなぜ「長州を叩いても意味がない」と言ったのか
この時期、西郷の人生にとって大きな出来事が起こります。幕府の軍艦奉行として大阪にいた勝海舟に、長州征伐の出発前に会いに行くのです。
訪問の目的は、将軍を京都へ上洛させる交渉でした。実は幕府内は15万を集めたものの誰もリーダーシップを取れておらず、越前の松平春嶽 ── 越前福井藩の前藩主。幕末の政局で有力な大名の一人として、幕府と雄藩の調整役を担いましたが主導して、江戸へ戻る予定の勝海舟を通じて将軍を引き出そうとしていたといいます。
西郷や春嶽は当時、長州を完膚なきまでに潰すつもりでした。ところが勝海舟の答えは、その前提を覆すものでした。
ボコボコにするつもりの西郷に対して、(勝海舟は)ボコボコにしても日本にメリットないからと。
そうなんです。視座が違うんですよ。
新しい統一国家形成した方が良くない?っていう。
勝海舟は、長州を許して包摂したほうがいいと説きます。しかも勝海舟は幕臣でした。深井さんは、幕府の内部にこうした考えの人物がいたことに驚いています。
深井さんによると、当時の幕府は組織が硬直化して責任の所在が曖昧になり、正論を唱えても排斥される状況でした。イギリスなど外国側も、幕臣と交渉しても何も決まらないと軽蔑し始めていた時期だといいます。
勝海舟自身も今の幕府には見切りをつけていて、雄藩による合議制で軍備を増強し、日本全体で外国への交渉力を上げるべきだと考えていました。深井さんは、これは公議政体論 ── 有力な諸侯(雄藩)が合議して国政を動かそうという構想。朝廷と幕府の融和を図る公武合体論とは区別されますに近いと整理しています。
西郷は大久保利通への手紙で、最初は打ち叩くつもりで行ったが、とんと頭を下げた、実に驚き入った人物だったと書いています。さらに、佐久間象山より事ができる点では一層上回っているようだ、ひどく惚れ申したとまで記していたそうです。
腹が決まった人間しか議論のテーブルに立てない時代
深井さんが注目するのは、島流しを経て腹の決まった西郷を前に、幕臣の勝海舟が「お前らこうすべきだ」と言い切れたことです。打ち叩くつもりで来た相手を感心させるには、勝海舟の側にも相当な覚悟が必要だったと深井さんは見ています。
深井さんによると、この段階の幕末では、実力があり死んでもいいと思えるほど腹の決まった人間以外は、会話の場にさえ入れなくなっていました。将軍家茂のような立場の人は、ほとんど議論の場に出てこないといいます。
本当にやばい時って、役職とかがあるけど無視されるんだなっていうのがめっちゃ面白くて。
樋口さんは、中国の諸子百家 ── 中国の春秋戦国時代に現れた多くの思想家や学派の総称。孔子や老子、韓非子などが知られていますが現れた時代を例に挙げ、世が荒れるほど腹の据わった人物が表に出てくると話します。
深井さんによると、西郷が一瞬で信頼した人物は、島津斉彬、橋本左内、藤田東湖、そして勝海舟くらいしかいません。学者の考察では、西郷はこの時期、口が達者かどうかではなく、「現実に臨んで有能か否か」を人を見る基準にしていたといいます。
西郷の方針転換、たった2人の供で岩国へ
勝海舟との対話のあと、西郷は長州への憎しみを残しながらも、長州をボコボコにしてはいけないという考え方に完全に転換します。
長州を完膚なきまでに潰し、将軍も引き出して征伐する
早期決着を図り、穏健派を支援して過激派を孤立させ、謝罪すれば寛容に処置する
西郷が得た情報では、長州藩の藩論は一枚岩ではなく、恭順を唱える人たちもいました。その中心が、岩国の領主である吉川経幹 ── 長州藩の支藩的な立場にあった岩国領の領主。第一次長州征伐では幕府側との仲介に動きましたです。
西郷はたった2人の供を連れて、自ら岩国へ乗り込みます。総督の徳川慶勝は殺されるのではないかと心配して止めますが、西郷は聞きませんでした。
深井さんは、西郷がこのとき殺されてもいいと思っていたと見ています。殺されたら長州を思い切り征伐すればよく、そうなれば勝海舟も何も言えないはずだ、という感覚だったといいます。
すげえけど反論しづらくてめんどくせえ。
命かけられたら殺さないといけないじゃん。反対する場合。
岩国で西郷は、蛤御門の変の責任は出兵した3家老にあるとして、その首を差し出すよう求めます。長州がこれを受け入れて反省の意を示し、交渉は成功しました。
15万の軍勢は解散し、長州に逃れていた5人の公家は福岡へ移されて大宰府に入ります。深井さんは、これを長州と攘夷派の公家のつながりを断つ措置だったと説明しています。
西郷の再婚と、高杉晋作のクーデター
この頃、西郷は再婚します。奄美大島に妻と2人の子どもがいましたが、薩摩の認識では正妻ではなく、西郷は独身扱いでした。
37歳ほどの西郷は、22歳ほどのイトと結婚し、寅太郎、午次郎、酉三という3人の子どもをもうけます。イトとの結婚は、西郷が亡くなるまで続きました。
一方の長州では、高杉晋作がクーデターを起こし、藩論は再び強硬に傾きます。一度は恭順したかに見えた長州は、すぐに元の姿に戻ったのです。
長州は軍備を強化し、幕府からの上洛要請にも一向に応じません。表向きは言うことを聞きつつ、何かされたら反撃するという姿勢を見せ始めます。
面目を失った幕府は、長州再征伐を宣言します。深井さんによると、再征伐をしなければ「長州1藩でさえ言うことを聞かない」となり、幕府の権威が地に落ちかねない状況でした。
なぜ薩摩は再征伐に背を向けたのか
ただ、この段階では他の藩も幕府の命令に従う気をかなり失っていました。背景には、飢饉や物価高騰という世情不安と、封建制の仕組みがあります。
封建制の仕組み
土地と徴税権をもらう代わりに、動員されたら必ず兵を出す
出兵は全額自費
幕府からお金は出ず、会津藩の京都守護職も実費だった
世情不安
飢饉や物価高騰でこれ以上出費したくない
結果
長州は強そうで、関わりたくないという空気が広がる
それでも将軍家茂は江戸を出発し、大阪で軍議を開きます。これに対し西郷は、勝海舟の助言で一度は戦争なしで決着したのに、幕府が再び攻めることに反発する立場を見せます。
深井さんによると、西郷は本気で怒っていたというより、幕府に愛想を尽かし始めていました。将軍が進発すれば動乱になり、幕府の権威がさらに落ちて自分たちの思い通りになる、と少し喜んでいたくらいだといいます。
倒幕までは考えていないものの、第一次長州征伐で大軍を集めながら長州を従わせられなかった事実は大きく、薩摩の中には「幕府より長州と組んだほうがいいのでは」という感覚が生まれます。
薩長の接近と、坂本龍馬・中岡慎太郎の役割
それまで反目していた薩摩と長州が接近します。武器を買うルートを失っていた長州のために、薩摩が買った武器を秘密裏に横流しするのです。
深井さんによると、本の中ではこの関係に「薩長盟約 ── 1866年に薩摩と長州の間で結ばれた提携の約束。一般には薩長同盟と呼ばれることも多い」という言葉がよく使われていて、同盟まではいかない関係だったといいます。
薩摩が幕府と距離を置き始めたことに目をつけたのが、土佐脱藩の中岡慎太郎や坂本龍馬でした。武器の仲介に加え、薩摩が下関で米を調達できるようにするなど、両藩にギブアンドテイクの関係が生まれます。
下関で米を調達できる。京都や江戸への移動時に鹿児島から送るより近い
最新式の銃や蒸気船を入手できる。薩摩の政治力で藩主の処分や官位剥奪からの復権を狙える
長州が入手した蒸気船での物資運搬には、坂本龍馬の亀山社中 ── 坂本龍馬らが長崎で組織した結社。海運や貿易の仲介を担い、のちの海援隊の前身とされますが関わっていました。
一方で、坂本龍馬の功績の大きさには評価が分かれます。盟約のアウトラインが薩摩と長州の間でできてから龍馬が登場し、承認役を果たしたとする本もあるそうです。
両藩の温度差も大きく、西郷は優先度が5番目か6番目ほどの桂小五郎(木戸孝允)との会談を、急な用件のためにすっぽかしたこともありました。深井さんは、この温度差があったからこそ仲介に入る価値はあったと見ています。
深井さんによると、中岡慎太郎も龍馬と同じくらい動いていて、龍馬ばかりが取り上げられるのは司馬遼太郎さんの影響だといいます。最終的に西郷と木戸は再び会談し、龍馬が内容を保証する裏書をして盟約が確定しました。
なぜ薩摩はまだ倒幕を選ばなかったのか
薩長盟約を結んだ段階でも、薩摩は倒幕を考えてはいませんでした。深井さんは、イメージはしていたかもしれないが、現実の選択肢ではなかったと話します。
理由の一つは、味方の数です。薩摩と長州が反旗を翻しても、全国の藩の多くは幕府側につくと見込まれ、会津藩のように薩摩側につくはずのない藩もありました。
だからやっぱ官軍になるまで勝てないってことなんだよね。
もう一つは朝廷の事情です。朝廷は戦国時代から江戸時代を通じて財政を幕府に依存しており、幕府がなくなれば収入を失うため、倒幕を望んではいなかったといいます。
将軍の命令を拒否した薩摩と、久光の建白
幕府の開戦予告から1年、諸藩が行きたがらずグダグダになりながらも、第二次長州征伐は始まります。そして薩摩は、将軍の出兵命令を拒否します。
あの、将軍の出兵命令を拒否るって、もう完全にやばいムーブだと思います。
深井さんは、薩長盟約の影響に加えて、もう幕府とは仲良くしないという意思を態度で示したものだと見ています。
同じ頃、島津久光は朝廷に建白書を出し、朝廷の力で戦争を早く終わらせることや、天皇中心の政治体制に立ち返って公議を尽くす体制に変えることを提案します。
蛤御門の変を経て、西郷たちの朝廷への発言権は強まっていました。ただ、慶喜を中心とする一会桑 ── 一橋慶喜、会津藩、桑名藩の頭文字をとった呼び名。幕末の京都で朝廷と結びつき、政治の主導権を握った勢力ですもまだ朝廷をグリップしていて、両者はわかりやすく競合体制に入ったと語られています。
薩摩は「この戦争には大義名分がない」として出兵しませんでした。この言い分のもとは勝海舟の考えだと、深井さんは説明しています。
15万対3500の結末と、家茂の急死
それでも幕府軍は再び15万の兵を集めます。対する長州の兵力は、わずか3500でした。
開戦時は兵数と艦砲射撃に押されて長州は退却を余儀なくされますが、次第に善戦して戦況をひっくり返し、幕府軍は奇兵隊 ── 高杉晋作が組織した長州の軍隊。武士だけでなく農民や町人も加わった混成部隊でしたに敗れます。
十五万集めて長州1藩に勝てないんだってなるんだよ。
武威がねえもん。
さらにこの戦いの最中、まだ21歳の将軍家茂が大坂城で病死します。慶喜は自ら出陣したいと朝廷に申し出て許されますが、出発する前に高杉晋作が小倉城を陥落させます。
深井さんは、慶喜は頭がいいものの、西郷のように貫き通す意志がなく、狡猾さのない長州とは逆のタイプだと評します。慶喜は不利と見て勝海舟に停戦交渉を命じ、将軍の死を理由に長州征伐は終わりました。
幕府は15万を集めても長州1藩に勝てなかったことで権威を失い、慶喜が徳川幕府最後の将軍になっていきます。楊さんは、今回は俯瞰的に語ったことで、幕府が徐々に権威を減らしていく流れがよくわかると話しています。
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まとめ
今回の回では、長州を潰すつもりだった西郷隆盛が勝海舟との対面で考えを改め、やがて薩摩が幕府から離れて長州と手を結ぶまでが描かれました。2度の長州征伐を通じて、将軍の命令でも諸藩が動かない現実が明らかになり、幕府の権威は大きく揺らいでいきます。
- 勝海舟は幕臣でありながら、長州を叩くより包摂して統一国家をつくるべきだと西郷に説いた
- 西郷は方針を転換し、2人の供だけで岩国に乗り込んで第一次長州征伐を戦わずに収めた
- 薩摩と長州は利害の一致から接近し、坂本龍馬と中岡慎太郎の仲介で盟約を確定させた
- 薩摩は第二次長州征伐への出兵を拒否し、15万の幕府軍が3500の長州に敗れて家茂も病死した
- この段階でも薩摩は倒幕を現実の選択肢とはせず、慶喜が最後の将軍として次の政局を動かしていく




