女性医師による病院、開院
エリザベス・ブラックウェル編、いよいよ最終回。前回までで、アメリカ初の女性医師だけによる病院がついに設立されました。深井は「エリザベス頑張ったと思いますよ」と、その道のりを振り返ります。少女時代の「強くなりたい、認められたい」という思いから、使命感を持って医師になり、講演や出版活動を経て、ついに人材育成の仕組みづくりのフェーズに入ったのです。
この病院は開院当初から患者が殺到しました。最初の8ヶ月で866人、月に約100人のペースだったと言います。ただし、来院者の多くは貧しい人々。診察代は安く抑えられ、支払えない患者には無料で治療を行っていたため、経営的にはかなり厳しい状況でした。
病院では「衛生訪問員(サニタリービジター)」という新しい職務も作られました。スラム街貧困層が密集して暮らす地区。19世紀の大都市では衛生状態が悪く、感染症の温床にもなっていた。に出向いて患者や出産中の母親を訪ね、治療だけでなく予防衛生を教えたり、石鹸やスポンジを配ったりしたのです。これには経営上の事情もありました。入院させると食事や設備のコストがかかるため、こちらから出向いた方がむしろ経営的なダメージが少なかったのです。
この衛生訪問員として最初に採用されたのが、前回紹介されたレベッカ・J・コールアメリカで2人目の黒人女性医師。エリザベスの病院で衛生訪問員として活躍した。。過酷な仕事でしたが、女性医師たちの姿は次第に地域で受け入れられていきます。
暴動と、味方になる男たち
ある時、産科病棟で女性患者が亡くなり、遺族の男たちが斧やシャベルを手に病院に押しかけて暴動を起こしました。「女の医者が変な治療をして殺したぞ」と怒号が街全体を覆うほど。しかしそこに駆けつけた地域の警官(もちろん男性)が、「このご婦人方は患者のために最善を尽くしている。医者だって誰一人死なせないことなんてできやしない」と大声で群衆を諭してくれたのです。
別の時には、虫垂炎で亡くなった患者の遺族が暴動を起こしましたが、病院の顧問医だった有名な男性外科医が「では検視官を呼びなさい。あなたたちも立ち会っていい」と冷静に対応し、遺体を調べて遺族を納得させました。
これは単に医療技術が優れているだけじゃダメだと。世論の支持、これを得るために積極的に努力することが大事なんだねっていうことを改めて認識するんですよ。
こうした経験から、エリザベスは新たな意識を持つようになります。医療技術だけでなく、世論の支持を得るための努力が不可欠だと気づいたのです。
フェミニストとの距離感
宣伝活動では男性医師たちが強力な協力者となりました。彼らが「女性医師は真剣な専門職の人たちだ」と男性の口から訴えてくれたのです。さらに、同時代にアメリカで盛り上がっていたフェミニズム運動女性の権利拡大や社会的地位向上を目指す運動。19世紀半ばのアメリカでは組織的な女性参政権運動が活発化していた。も、エリザベスの活動を積極的に応援してくれました。
ところが、ここでデリケートな話が出てきます。エリザベス本人はフェミニズム運動と距離を取っていたのです。
エリザベスはあるフェミニストからの熱狂的な賞賛の手紙にあきれ、丁寧に返事を書きました。「今の女性はひ弱で度量が狭くて軽薄だ。自分自身の能力を知らず、思考や感情の面で未発達なのだ」と。女性の受けている束縛は「自然な成り行きとして、彼女たち自身がそれ以上望まなかったために生じた」というのが彼女の立場でした。
問題は社会の構造や男性の抑圧にある。仕組みを変えることで女性の地位を向上させる必要がある。エリザベスは自分たちのロールモデルであるはずだと期待していた。
問題は女性自身の弱さや未発達にある。まず女性が自らを高めることが先。女性の能力を証明すれば、男性は必ず対等な存在として受け入れる。
樋口も「梯子外された感じがするんやろうな」と共感。エリザベスの立場からすれば、自分は突破してきた、努力してここまで来たという自負があり、その厳しさが根底にあったのでしょう。深井は「彼女は子供の時から自分以外の大多数の女性をちょっと軽蔑してた部分があった。自分が見過ごされてきたっていうコンプレックスの裏返しもあるのかもしれない」と補足します。
世論と男性医師たちの支援
もちろんエリザベスは男性たちにも言うべきことは言っていました。「男性の同僚たちに対しては、自分たち女性の尊厳をちゃんと尊重しろよ」と求め続けたのです。有名になった後も、上流階級や中流階級のサロンからは歓迎されず、忸怩たる思いを抱えていました。
また、本質的でないところで話題にされることにもうんざりしていました。「女性医師は普通の女性のように服を着るのか、それとも男のように髪を短く切るのか」といったしょうもない噂話が飛び交っていたのです。
あのよく将棋の棋士とかも昼に何を食べるかっていうのが絶対話題になるんですよ。
タレント扱いですよね。ほんとどう思ってんだろうね。取材される側は。
女子医科大学、開校
エリザベスは次のステージへ進みます。女子のための医科大学を作るというプロジェクトです。ただし、彼女は本当は女子医科大学を作りたくなかったのです。理想は既存の男性の医学部を女性にも開放すること。しかし現実的にはまだ女性を受け入れる医学部はなく、既存の女子医科大学の卒業生のレベルはあまりに低かった。
エリザベスは自分の病院に来る女性医師たちを見て、「想像できる限りの最低レベル。まともな医者を一人として見たことがない」と厳しい評価を下します。質の低い女性医師が世に出ても、女性医師の地位は上がらない。能力で偏見を突破しなければならないと考えたのです。
こうして1868年11月2日、ニューヨーク病院附属女子医科大学が開校します。エリザベス47歳の時のことでした。
他のどこよりも厳しいカリキュラム
エリザベスは妹エミリーとともに、これまでの経験のすべてを統合して理想的な教育プログラムを作りました。ひと言でいえば「厳しい」。他のどの女子医科大学よりも段違いに厳しいカリキュラムだったと言います。
これは当時の男子の医科大学の水準を明らかに上回るものだったそうです。学校の雰囲気も、他の女子医科大学が親しみやすい雰囲気だったのに対し、ここは「威圧的」で「ギラギラしていた」と樋口は表現します。
もう多分ウキウキだったのかな。ね、女子医学生に甘さはいらんみたいな。ビシバシ鍛えてやるみたいな、そういう場を作ってやるっていう。
経営的にはリスクの高い決断でした。カリキュラムが長ければ学費と生活費の負担が増え、有能な女性たちを取りこぼす可能性もある。厳しすぎて他の簡単な学校に流れてしまうかもしれない。それでもエリザベス姉妹は一切妥協しませんでした。
学校は約30年続き、364人の卒業生を送り出しました。閉校する頃には既存の医学部が女性に門戸を開き始め、男女共学が実現していく流れになっていったため、役割を終えて幕を下ろすことになります。
姉妹の関係とイギリスへの旅立ち
大学を立ち上げたほぼ直後、エリザベスはまたイギリスに戻ってしまいます。深井は「彼女はゼロイチの人なんで」と評し、樋口も「シリアルアントレプレナーシップがすごいな」と笑います。
イギリスから女性医師への道を開く支援を求められたことに加え、資金調達のストレスや、業績に敬意を払わない相手にプレゼンすることの疲れもあったようです。そしてもう一つ、大きな理由がありました。妹エミリーとの人間関係が限界に近づいていたのです。
エリザベスは姉として、経営者として仕切る立場でしたが、失明の影響で手術や綿密な検査ができなくなり、患者の診療の多くを妹に頼らざるを得ませんでした。一方の妹エミリーは外科医としてどんどん実績を積んでいく。姉としては複雑で、妹は妹で姉の支配的な性格に耐え難くなり、「もう医者辞めたい」と思い詰めるまでになっていました。
僕からすると、もうエリザベスは経営とか教育の方に行って、エミリーはトッププレイヤーとして役割分担できそうな気もするけど、やっぱそこは自分がプレイヤーというか。
理屈じゃないんでしょうね。感情だと思います。しかも姉妹だからなおさら難しいでしょうね。
結果、イギリスからのオファーはお互いにとってwin-winの着地点となりました。エリザベスはイギリスへ渡り、エミリーはニューヨークの学校を30年間守り続けます。深井は「彼女もレジェンドですね」と讃えます。
エリザベスを継ぐ者たち
イギリスに渡ったエリザベスは、亡くなるまでほぼその地にとどまり、医師として活動しつつ、女子医科大学の設立支援、女子医学生への教育、売春問題など社会課題への取り組みを続けました。彼女が設立に協力したロンドン女子医科大学には、後継者となる注目すべき女性たちが集います。
エリザベスがロンドンで行った講演に感化されて医師を志した女性。エリザベスがメンターとなって支援した。イギリスで初めて医学の学位を取得した女性となる。
ロンドン女子医科大学設立の音頭を取った人物。エリザベスがニューヨークで作った医科大学で学んだ経験を持つ。エディンバラ大学スコットランドの名門大学。ソフィアは1869年に女性として初めて医学を学ぶために入学したが、男子学生の反対運動で追い出された。に入学するも男子学生の激しい反対運動で追い出され、最終的にスイスで学位を取得。イギリスで3番目の女性医師となる。
エリザベスが1910年に89歳で亡くなった時、アメリカにはすでに9,000人以上の女性医師がいました。女性医師のプロフェッショナリズムが確立され、専門職集団として社会から認められるようになっていたのです。
生きてる間に九千人女性医師がいて。まあまあね、一人の影響ではないとはいえ、その道を切り開いた人ってことか。
思想を持って戦うということ
エンディングでは、樋口と深井がエリザベスの人生から見えてくるものを語り合います。樋口はこう指摘します。エリザベスがいなくても、社会の流れとしていつかは女性医師が生まれていたはず。ただしこの人がいなかったら、その実現は数十年、数百年遅れた可能性がある、と。
実務上の成果を超えた「象徴的なロールモデル」としての社会的インパクト。「やっていいんだ」と社会に気づかせる存在の重要性。樋口は野茂英雄を例に、そういう役割の人がジャンルや時代を超えて存在すると語ります。
深井が特に強調したのは、エリザベスが「思想を持って戦った」ということでした。単なるスローガンや情熱ではなく、確固たる思想を自分の中で練り上げ、それに従って行動していたと言います。
単に情熱だけでは動かせる人には限りがある。別に応援するまでにはいかない人、あるいは敵対者を味方に引きずり込むには、やはり確固たる思想が必要なのかなと。
属人的な魅力だけでは、支援者は知り合いレベルで終わってしまう。損得で判断する人しか集まらない。しかし思想が旗印になれば、「この未来に向かってみるのが面白そう」と賛同する人が増えていく。エリザベスがどのように男性医師や支援者を巻き込んでいったのか、その語り口を知りたい、と深井は締めくくります。
まとめ
エリザベス・ブラックウェルの後半生は、女性医師のための「仕組み」を作る戦いでした。病院を建て、患者と信頼関係を築き、男性医師やフェミニストなど多様な味方を得ながら、最終的には男子の医学校を上回るほど厳しい女子医科大学を開校しました。フェミニズム運動とは距離を取り、時に厳しすぎるとも言える言葉を残しながらも、彼女は「女性の能力を証明することでしか偏見は突破できない」という信念を貫き通したのです。
そして海を越えたイギリスでも、エリザベス・ギャレット・アンダーソンやソフィア・ジェックス・ブレイクといった後継者たちを育て、女医の系譜は世界へと広がっていきました。「新しい現実があり得るんだ」と示す象徴的な存在。それこそがエリザベスの残した最大の遺産だったのかもしれません。
- エリザベスは女性医師による病院を設立し、スラム街への衛生訪問員派遣など革新的な取り組みで貧困層の支持と味方を獲得した
- フェミニズム運動とは距離を取り、「問題は女性自身の弱さにある」という厳しい立場を貫いた
- 1868年、他校を上回る厳格なカリキュラムを持つニューヨーク病院附属女子医科大学を開校。30年間で364人の女性医師を育成した
- 後半生はイギリスに渡り、エリザベス・ギャレット・アンダーソンやソフィア・ジェックス・ブレイクなど女医の系譜を世界へと広げた
- 単なる情熱ではなく「思想」を持って戦うことで、味方も敵対者も巻き込むパイオニアとなった
