なぜ飛行機はアメリカで生まれたのか?
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ライト兄弟編の第3回は、初飛行の成功を祝うところから始まります。ただし楊さんは、兄弟がやりたかったのはビジネスであり、初飛行はまだ「プロトタイプを開発した段階」にすぎないと話します。
そうか。確かにプロトタイプなのか。
楊さんはその後の話に入る前に、ライト兄弟の成功を支えた時代背景を押さえておきたいと語ります。兄弟が青春時代を過ごした1900年前後のアメリカは、新しい発明や技術革新が商品として次々と市場に送り出される、活力に満ちた時代でした。
この時代のアメリカには、トーマス・エジソンやグラハム・ベルのような科学者、ヘンリー・フォード、アンドリュー・カーネギー、ジョン・ロックフェラーのような大富豪が次々に登場しています。楊さんはこうしたスター科学者やスター起業家が生まれた背景に、当時のアメリカの「エコシステム」があったという見解を紹介します。
そのエコシステムとは、企業、政府、研究・教育機関、資本が一体となって、科学の知識と技術で社会の発展を推し進める産官学 ── 産業界(企業)、官(政府・行政)、学(大学などの研究機関)のこと。三者が協力して研究開発や人材育成を進める体制を産官学連携と呼びます連携の体制です。楊さんによれば、知的探求体制と呼ばれることもあるといいます。
楊さんは、この体制のモチベーションは「競争」だったと説明します。ライバル関係にあるヨーロッパの列強に対して、技術・経済・軍事の面で有利なポジションを築くことが、国や社会全体の目標になっていました。
列強との競争
ヨーロッパの国々より有利な立場を築くため、新しい科学技術が必要になる
大学との連携
企業や国が、優秀な研究者を育てる大学などの機関と手を組む
基礎研究への投資
すぐにお金にならない基礎研究や科学理論にも資金が入る
商品への実装
大学の知見が企業を通じて商品に取り込まれていく
楊さんはこの流れを、基礎研究が資本主義経済の中で価値を認められていたとまとめます。科学理論を後押しする時代の空気は、ライト兄弟にとっても追い風になったと考えられています。
たった5人が見た偉業と、冷たすぎる反応
一方で楊さんは、それでもライト兄弟の成功は単なる成功ではなく、世界にとって変革の幕開けだったと強調します。ところが、初飛行の瞬間に立ち会ったのは、飛行の地キティホークに住む、わずか5人だけでした。
成功した兄弟はすぐに父親へ連絡し、新聞社に伝えてほしいと頼みます。普段は厳しくストイックな父親も、このときばかりは嬉しそうに「とうとう2人ともやり遂げた」と言ったそうです。
しかし、ライト兄弟はここから有名になっていくわけではありませんでした。国内のメディアに飛行成功の情報は届いたものの、反応はとても冷淡だったといいます。
楊さんが紹介するメディアの反応には、「たったの59秒?59分ならニュースになった」として取り上げなかった例もあります。いくつかの新聞に記事は載ったものの反響はなく、わざわざ取材に来る記者もいませんでした。
当時のメディア担当者は、兄弟について「若いのにきちんとしているけれども、来る日も来る日も飛行機という馬鹿げたものに仕事そっちのけで没頭している」と語っていたそうです。樋口さんは、この見られ方を現代の感覚に置き換えます。
だって毎日毎日家に引きこもってパソコンの画面ばっかり見てる人。
(そういう人を)僕たちが子供の時はね、みんなね、変な人だと思ってたわけですよね。今大体みんなそう。
兄弟の地元の新聞も、すぐ隣で人類の歴史を変える出来事が起きていたのに、まったく報じませんでした。後になって理由を問われた地元紙の担当者は「私たちが単に間抜けだったということです。それに尽きるでしょう」と答えたといいます。
アメリカ陸軍の反応も鈍いものでした。陸軍にとって飛行機開発は重要なテーマでしたが、税金を投じた助成案件の多くが成果を出せず、批判を受けていました。怪しい提案も多かったため、軍は飛行機界隈に厳しい目を向けており、ライト兄弟の知らせも「またか」という受け止め方だったと楊さんは説明します。
誰も気づかないまま、空を制覇していく兄弟
冷たい反応を受けても、ライト兄弟は落ち込みませんでした。浮き足立つこともなく、普段どおり自転車店を回しながら、飛行機の改良に打ち込み続けます。
楊さんによれば、このときの兄弟はまさにフロンティアに立っている状態でした。それは裏を返すと、誰からも教わることができず、師匠のいない道を自分たちで模索しながら進むしかないということです。
兄弟は改良と飛行実験を重ね、2年後には上空で何十周も旋回飛行できるレベルに達します。このときのライトフライヤー3号機は、後に史上初の実用できる飛行機になっていき、飛行距離も40キロまで伸びていました。
かっこいい。完全に空制覇するとこかっこいい。
楊さんは、とんでもない記録を出しているのに世界にはほとんど知られていない構図を、膨らみ続ける風船にたとえます。そして3号機を完成させた兄弟は、そろそろ回収フェーズに移ろうと動き出します。
この頃から兄弟は、家族や地元の友人に飛行実験を見に来ないかと声をかけるようになります。実際に見に来た人たちは唖然としました。
地元の薬剤師は、みんなが空を見上げているので誰かの首の骨が折れるのではないかと思った、408キロもある機械が鷲のように飛び去っていった、と書き残しています。その夜に友人へ話すと、頭でも狂ったのかと思われたそうです。
これ今やったらね、動画で撮ってTwitterにあげたら、誰かがこれ使えるんじゃねえかつって、ぶわって連絡来てみたいな。
楊さんは、当時の人々の感覚を「どこでもドア」にたとえます。いつかは人が空を飛べるかもしれないと思っていても、目の前で実際に飛ぶ姿を見たら、ショックでなかなか受け入れられなかったのではないか、という見方です。
航空先進国フランスへの道場破り
ライトフライヤー3号機を引っ提げたライト兄弟は、営業活動に乗り出します。向かった先は、今では24時間耐久レースで知られるフランスのル・マンです。
楊さんによれば、フランスは飛行船の開発者も多い、飛行技術の先進国でした。兄弟はフランス側と契約の話を進めており、契約を交わすにあたって公開飛行を行うことになります。乗り込んだのは兄のウィルバーでした。
フランスではライト兄弟の噂がすでに広まっていましたが、先進国としてのプライドもありました。フランスの飛行クラブの会長は、世界の空を征服する栄えある使命は我が国の天才たちによって成し遂げられるだろう、と語っていたといいます。
その自負は、ライト兄弟への激しい攻撃となって表れます。フランスのメディアは兄弟を「見かけ倒し」「アメリカ人らしいハッタリ」「自国の人間にさえ信じてもらえないガラクタを売りつけに来るろくでなし」と叩きました。
楊さんは、列強同士の競争意識に加え、ヨーロッパ人にとってアメリカは新大陸という未開の土地だったため、見下す意識もあったのではないかと話します。
それでもウィルバーは気後れしませんでした。パリの上空を悠然と進む飛行船を見上げて、飛行船は見事だが、ライトフライヤー号の10倍の費用がかかるうえ、ライトフライヤー号はその倍の速度で飛べる、飛行船はすでに限界まで開発されていて、まもなく過去の遺物になるだろう、と語ったといいます。
ライトフライヤー号の10倍の費用がかかり、すでに限界まで開発されている
飛行船より安く、飛行船の倍の速度で飛べる
とはいえ、ウィルバーのストレスは極限状態でした。アメリカで分解して船便で送った機体は輸送中にひどく壊れ、現地で何とか修理して組み立てたため、ベストコンディションではありませんでした。
さらに最終調整の最中、ウィルバーは大やけどを負い、左腕が1か月間動かなくなります。不調の機体と病み上がりの体で、フランス中が注目するアウェイの大舞台に臨まなければなりませんでした。楊さんは、ここでしくじればライト兄弟の名は失墜する状況だったと語ります。
1908年8月8日、フランスが度肝を抜かれた公開飛行
1908年8月8日の公開飛行の日、観客は日中から集まっていました。ところがウィルバーは夕方までひたすら点検と最終調整を続け、待ちくたびれた観客のいら立ちやアンチの声も無視して、問題をすべて片付けることに集中します。
18時30分、ウィルバーはついに飛びます。カタパルトから押し出された機体は空へ舞い上がり、機体を傾けると綺麗な曲線を描いて旋回し、スタート地点に戻って滑らかに着地しました。高度10メートル、飛行距離3.2キロの飛行でした。
数日後には、空中で8の字を描いて旋回し、離陸地点にぴったり着陸してみせます。ヨーロッパの人々にとって初めて目にする8の字飛行で、観客は旋回のたびに拍手喝采しました。
着地したウィルバーのもとには、帽子を振りかざした観客が狂ったようになだれ込み、誰もがこの英雄と握手を交わしたがったといいます。
フランス航空界の関係者も度肝を抜かれました。「この男は空を征服した。彼はハッタリ屋などではない」「ライト兄弟に比べれば、我々はまだ子供に過ぎない」といった言葉が残っています。
このニュースは24時間のうちに世界各地の新聞の一面で報じられました。「奇跡の飛行、欧州の疑念吹っ飛ぶ」「ライト機、鳥のように舞い上がる」といった見出しが並びます。楊さんは、世界が知ったのは飛行距離だけでなく、機体を完璧に制御していたことだったと話します。
弟オーヴィルがワシントンを止めた日
兄がフランスで飛んだ翌月、弟のオーヴィルは本国アメリカのワシントンで公開飛行を行います。1908年9月3日の夕方、オーヴィルの「発進」の声とともに機体は動き出しますが、このときは一度墜落して失敗しました。
翌日にもう一度飛んだオーヴィルは、上空を5周半して4.8キロを飛びます。その後も続けざまに飛び、そのたびに世界新記録を塗り替えていきました。
9月9日の早朝には上空を57回周回し、午後にもう一度飛ぶと伝わると、ワシントンでは各オフィスの扉が閉められたといいます。閣僚や連邦議会の議員など1000名を超える政府関係者が、自動車や路面電車で飛行を見に押し寄せ、楊さんはこれを政府の機能が一時的に止まった瞬間だと表現します。
12日には5000人もの群衆が飛行場を取り囲みました。お祝いに駆けつけたオクターブ・シャヌートに、歴史を作り変えている気分を尋ねられたオーヴィルは「最高です。しかし、今はもっと速度を上げることに興味があります」と答え、この言葉が新聞の大見出しになります。
その年の年末、ウィルバーは再びル・マンで飛び、滞空時間2時間20分、飛行距離約124キロという前人未到の記録を打ち立てます。兄はフランスで、弟はアメリカで世界をあっと言わせたことになります。
こうしてライト兄弟旋風が巻き起こり、兄弟はパーティーや講演、各地での飛行にと引っ張りだこになります。スペインやイタリアの国王も見物に訪れ、アメリカでも陸軍との契約が決まりました。
楊さんは、新しいイノベーションがまず軍事利用に流れていく現象を味わい深いと話します。樋口さんは、もともと国はそのためにお金を出していたと応じ、楊さんは、コストのかかる技術は軍事利用と結びつくかどうかが社会実装の1つのポイントであり、軍事利用できなかった飛行船はこの後衰退していくと補足します。
手のひら返しの地元と、3人目のライト兄弟キャサリン
かつて冷淡だった地元も手のひらを返し、ライト兄弟の式典を開きます。2日間にわたる豪華なパレードが催され、街の会社は軒並み休みになりました。
ところが主役のはずのライト兄弟は、イベントの途中で隙を見て抜け出し、工房に戻って仕事をしていたといいます。世界的な熱狂の中心にいても、兄弟はまったく動じませんでした。
えー。すごいな。すげえな。職人だね。
ここで楊さんは、もう1人の重要人物として、兄弟の妹キャサリンを紹介します。楊さんは本を読んだ感想として、ライト兄弟は一般に2人とされるけれど、本来はキャサリンを加えた3人であるべきではないか、と語ります。
キャサリンは、兄弟にとってのベースキャンプであるライト家を取り仕切る、実質的な番頭さんでした。兄たちが海外でけがをしたり体調を崩したりすると、アメリカから駆けつけて看病するなど、物心両面で支えていたといいます。
(キャサリンは)マネージャーさんや。
プロモーション活動に合流したキャサリンは、兄弟のマネージャー兼広報担当として大活躍します。パワフルで愉快な人柄でマスコミ受けがよく、兄弟より人気が出たのではないかと楊さんは話します。
キャサリンはライト家で唯一大学を卒業しており、高校の先生をしていました。外国語を学ばず、おしゃべり好きでもない兄弟に代わって、独学でフランス語を身につけ、スポークスマンとして活躍しました。
「もっと高く」父と飛んだ故郷の空
第3回の最後に楊さんが紹介するのは、ライト兄弟が故郷で行った記念飛行のエピソードです。このとき兄弟は、初めて2人そろって空を飛びました。
それまで2人で飛ばなかったのは、もともとライトフライヤー号が1人乗りだったうえ、複座式になった後も、墜落すれば2人同時に死んでしまうリスクがあったからです。この記念飛行で初めて、オーヴィルが操縦し、ウィルバーが横に座って空へ舞い上がりました。
この日は、最初から息子たちを信じて支えてきた82歳の父親も空に上がります。息子たちに誘われ、観衆にも背中を押されて乗り込んだ父親は、楊さんによれば、おそらく当時飛行機で空を飛んだ最高齢の人間でした。
オーヴィルと父親の乗った機体は上空107メートルまで上がり、6分間飛び続けます。その間に父親が発した言葉は一度だけで、「もっと高く、もっと高くだ、オーヴィル」というものでした。
楊さんは、ライト兄弟の物語はライト家の物語であり、一家一丸で成し遂げた偉業だと語ります。厳格なクリスチャンの父親が、もっと高く飛んでくれと願った場面を、映画にしてほしいとも話しています。
楊さんは、子どもの頃の兄弟が、各地に出かけた父親の手紙を読んで世界の広さを知ったことにも触れます。今度は兄弟が父親を空に連れて行き、世界の広さを見せたという逆転の構図です。
お父さんは村じゃないところの世界を見せてきたんですよね、多分。
綺麗に終わったように見えるライト兄弟編ですが、楊さんは最後の1話には悲しい話があると予告します。「もう良くない?」と渋る樋口さんに、楊さんは「歴史を直視しましょうよ」と返し、物語は最終回へ続きます。
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まとめ
人類初の有人動力飛行は、目撃者わずか5人で、メディアにも陸軍にも相手にされませんでした。それでも兄弟は改良を重ね、1908年のフランスとアメリカでの公開飛行によって世界の評価を一変させます。その裏には、妹キャサリンや父親を含めたライト家全体の支えがありました。
- 1900年前後のアメリカには、列強との競争を背景に基礎研究を商品化する産官学のエコシステムがあった
- 初飛行は信じてもらえず、兄弟は誰にも知られないまま改良を続けて3号機で空を制覇していった
- 1908年、ウィルバーはル・マンで、オーヴィルはワシントンで公開飛行を成功させ、世界的な熱狂を生んだ
- 妹キャサリンはマネージャー兼広報として活躍し、楊さんは「3人目のライト兄弟」と評している
- 82歳の父親が息子と空を飛び「もっと高く」と語った場面に、ライト家の物語が集約されている







