朱子学と陽明学は何が違うのか?
高杉晋作と吉田松陰の出会いを語る前に、深井さんは「陽明学」という思想を紹介します。陽明学は、松陰も晋作も強い影響を受けた儒教の一派です。
深井さんによると、儒教は大きく朱子学と陽明学に分けられます。陽明学を理解するために、まず朱子学から説明が始まります。
朱子学は、すべての原理原則は古典を勉強することで到達できるという考え方です。四書五経 ── 儒教で重んじられる基本の経典群。『論語』『孟子』などの四書と、『易経』『詩経』などの五経を指しますを暗記するほど読み込み、過去の聖人の書物にある答えを理性的に理解していくことが大切だとされます。
これに対するアンチテーゼが陽明学です。陽明学は、理解することと実践することは同じことであり、やることとわかることは同じだと説きます。
陽明学が言ったのは、理解するっていうことは実践するということと一緒なんだと。だからやって初めてわかるんだと。
深井さんは、吉田松陰が黒船に突っ込んでいった理由も、晋作がこの後さまざまなことに飛び込んでいく理由も、陽明学がベースにあると話します。
じゃあわかってやってたっていうよりは、もうやるっていう時点で、あれわかりにいってたんですね。黒船をわかりに行ったんですね、吉田松陰は。
楊さんは、儒教の目的が自己を磨き、自己をコントロールすることだと補足します。例として持ち出されたのは、男子トイレの小便器に誰かが大便をしていた場面です。
楊さんの説明では、儒教はそこで怒りや悲しみが湧くこと自体は否定しません。大事なのは、感情を礼や義といった規範に沿ってアウトプットすることです。
その準備として、朱子学は古典や偉人の言葉を勉強し尽くしてから事実に出会えと説きます。一方の陽明学は、直接事実に出会い、その現場の中で己を磨けと考えます。
陽明学は違うんですよ。陽明学はそんなかったるいことは意味ねえと。
楊さんは、この現場で己を磨く考え方を事上磨錬 ── 日々の実際の物事や仕事に取り組む中で自分を鍛えるという陽明学の考え方。書物上の学問だけに頼らない姿勢を表しますと紹介しています。
朱子学と陽明学の違いは、エピソード説明でも次のように整理されています。
真理は人の外部にある(性即理)。古典を学び理を究め、座学を重視する(居敬窮理)
真理は自分の心の中にある(心即理)。現実の中で己を磨き、行動を重視する(知行合一)
「思ったことは、やったこと」とはどういう意味か?
深井さんは陽明学の核として「致良知」を説明します。習わなくても、何をすべきかは実はみんな知っている、だから自分の良心に聞いてみなさい、という考え方です。
その良知を正しく発揮させたうえで、行いながら理解していく。知ることと行うことは一つのことだ、というのが陽明学の主張だと深井さんは話します。
深井さんが本で読んだ例え話は、美しい花を見る場面です。花を見ることは「知る」に属し、きれいだと思うことは「行う」に属するとされます。
陽明学の祖である王陽明は、花を見た瞬間にきれいだと思うのであって、見たあとに別のステップとして思うわけではない、と説いたといいます。だから見ることと思うことは同じ行為だという理屈です。
だから思ったってことはやってるってことと、やってないってことは思ってないってことですよって言ってるんです。
楊さんは、陽明学の「やる」の定義が現代の感覚とは違うと指摘します。深井さんも、感じることまで含むもっと広い意味だが、解釈としては結局行為につながっていくと応じます。
朱子学はなんだろう、しっかりと机の前で勉強して、勉強し尽くしてから行動しなさい。でも陽明学はもうとりあえず突っ込めと。
楊さんは、これは極端な例えであり、少なくとも日本で受容されたときにそう理解されたもので、中国の本場では若干違うと付け加えています。
深井さんによると、やるべきだと思っているのにやらない状態は、良知の発揮が阻害されている状態として否定されます。陽明学では、自らを燃やしきることがとても大切だとされます。
さらに陽明学には、志を持てという教えもあります。強い志があれば良知は必ず発揮され、自分を磨くには実践が要るので、結局いいと思ったことは全部やりなさい、という結論になると深井さんは説明します。
松陰は才能ある晋作をどう勉強させたのか?
深井さんによると、江戸幕府が採用したのは朱子学で、陽明学は採用されませんでした。そのため多くの人は座学に励みましたが、陽明学には一部に熱狂的なファンがいたといいます。
その代表例が大塩平八郎 ── 江戸後期の陽明学者で大坂町奉行所の元与力。1837年、飢饉に苦しむ民衆の救済を掲げて大坂で乱を起こしましたで、革命を起こすような人たちはだいたい陽明学を勉強していた、と深井さんは話します。
話は松陰と晋作の出会いに戻ります。2人が出会ったのは晋作が19歳のときで、松陰は晋作に大きな才能を感じる一方、読書が足りていないと見ました。
ただ、当時の晋作には勉強する気がさらさらなかったと深井さんは見ています。そこで松陰がとったと言われるのが、晋作のライバルの久坂玄瑞 ── 長州藩の志士で松下村塾の門下生。高杉晋作と並ぶ双璧と称され、尊王攘夷運動の中心人物の一人になりましたばかりを褒める方法です。
このプライド高い晋作に直接言っても意味がないって思ったんだろうね、多分彼は。
松陰が久坂玄瑞を「書物をちゃんと勉強していて偉い」と褒め続けると、晋作は対抗意識を燃やして勉強を始めたといいます。楊さんは、晋作が自作の詩を見せた初対面の場で、松陰が「久坂玄瑞には及ばない」と言っていたと補足します。
深井さんは、松陰がそれを見抜いて言ったのか、単に本音を言った可能性もあると留保しています。
見立て
晋作は才能があるが読書が足りず、プライドも高い
働きかけ
直接言わず、ライバルの久坂玄瑞ばかりを褒める
結果
晋作が対抗意識を燃やし、勉強し始める
晋作の頑固さについても逸話があります。桂小五郎が「晋作は人の意見を聞かない頑固者だから注意してほしい」と松陰に伝えたところ、松陰は晋作の「頑質」を、妥協を許さない個性であり信念とも言えると評しました。
これをみだりに矯正したら普通の人間になっちゃうと。
さらに松陰は、10年後に何か大きなことをするなら必ず晋作に相談する、という趣旨のことを桂小五郎に語ったといいます。深井さんは、それだけのポテンシャルがある人間だと伝えていた、と解説します。
松下村塾は「教える場」ではなかった?
深井さんによると、こうした育て方のもとで、松下村塾の門下生たちは2年も経たないうちに「すげえやつ」になっていきます。松陰は言葉遣いも丁寧で、すべてです・ます調で話していたそうです。
入塾希望者に対して松陰が伝えていたのは、自分は教えられるほど立派ではないが、一緒に勉強することはできる、という言葉でした。松下村塾は教える場ではなく、共に人間を磨く場だったと深井さんは話します。
松陰は自ら学生の隣に座って勉強し、輪に入って「君はどう思うの?」と議論しました。相手が10歳でも27歳でも、態度は変わらなかったといいます。
え、これもう聞けば聞くほど先生としてめちゃくちゃ優秀じゃないですか。
すごいよね。先生だと思ってないよ、本人も。
深井さんは、野山獄 ── 長州藩の萩にあった士分の者を収容する牢獄。吉田松陰は密航未遂の後ここに投獄され、囚人たちと学び合いましたでも松陰は囚人を良くしようとも感化しようとも思わず、相手のいいところを吸収しようと一緒に勉強していただけだと語ります。
当時の普通の寺子屋は、生徒が正座して並び先生が前で講義する形式でした。松陰は生徒の隣に座り、ときには農作業をしながら一緒に勉強したといいます。
生徒は前に正座し、先生が前に立って講義する
松陰が生徒の隣に座り、議論し、農作業をしながら一緒に学ぶ
松陰は晋作に、自分たちが交流しているのは勉強のためではなく、一緒にこの国の役に立つためだと伝えました。深井さんは、毛利家のためにと考えていたであろう19歳の晋作には視座が高すぎて驚く言葉だったはずだと話し、楊さんはこれが後々「楔」として効いてくると予告します。
一方で晋作の親族は松陰を危険人物とみなし、塾通いを禁じていました。そのため晋作は深夜に隠れて通い、松陰は何時に来てもいいと迎え入れ、ご飯も出して朝まで一緒に勉強したといいます。
楊さんによると、萩の周囲の人々からは塾生たちが「乱民」と呼ばれ、危険思想を振りまく集団として白い目で見られていました。
江戸へ向かう晋作に、松陰は何を書き送ったのか?
松下村塾で学ぶうちに、久坂玄瑞らには長州藩の費用で3年間の江戸遊学の許可が下ります。深井さんは、長州藩が人材育成に力を入れていたためだと説明します。
黒船来航後の江戸へ、松陰と日本の未来を語り合った塾生たちが「何かしてやろう」と次々に向かいました。ところが晋作はなかなか行けず、深井さん自身も理由はよくわからないとしつつ、晋作が焦りを感じていたと話します。
松陰に藩政府への申し込みを頼み、晋作はようやく江戸行きが叶います。その際、松陰は晋作に手紙を書きました。
深井さんが紹介する手紙の内容では、松陰は晋作の本質を考える力に自分は到底及ばないと述べ、先に江戸にいる久坂玄瑞は真面目すぎて失敗しないか心配だと書いています。
さらに松陰は、晋作と玄瑞は長所と短所を補い合う親友であり、2人の才能を合わせれば成せないことはないと伝え、玄瑞を死なせてはならない、彼らと合流して国を動かせ、と晋作を送り出しました。
俺さ、その彼の手紙、ポジショントークしてないところが俺すげえいいと思う。
楊さんは、松陰が先生や武士という立場からではなく、人間同士のありのままの言葉を素直に手紙にしている点を評価します。樋口さんも、嘘をついていない感じが伝わると話しています。
そう、それが一番でかい。俺にも何かできるかもしれないって思わせてくれるよね。
晋作が向かった江戸は、攘夷の熱が激しく高まる直前の時期でした。罪人扱いで蟄居中の松陰は江戸に行けませんが、その同志たちが江戸に集結していきます。役者が江戸で揃っていく場面で、この回は次回へ続きます。
まとめ
この回では、行動と理解を一体とみなす陽明学を土台に、吉田松陰が高杉晋作の才能と頑固さを見抜き、対等な同志として育て、江戸へ送り出すまでが語られました。
- 朱子学は古典の座学を重視し、陽明学は「知ることと行うことは同じ」として実践を重んじる
- 陽明学の考え方が、松陰が黒船に突っ込み、晋作がさまざまなことに飛び込む背景にあった
- 松陰は久坂玄瑞を褒めて晋作の対抗心を刺激し、頑固さは矯正せず個性として伸ばそうとした
- 松下村塾は教える場ではなく、年齢を問わず一緒に学び人間を磨く場だった
- 江戸へ向かう晋作への手紙は、立場を感じさせない言葉で「自分にも何かできる」と思わせるものだった


