念願の江戸遊学なのに、なぜ晋作は迷ったのか?
松下村塾を出た高杉晋作は、念願叶って仲間たちと同じ江戸へ行きます。目的は勉強で、楊さんは今でいう留学のようなものだと説明します。
高杉晋作は、まず日本橋にある大橋訥庵の私塾に入ります。攘夷論を激しく戦わせる、当時大人気の私塾でしたが、晋作はわずか2ヶ月で辞めてしまいます。
(辞めた)理由はね、一応不明なんだけど、一説によると新入生が玄関番させられるらしくて。
楊さんによると、晋作は「玄関番の稽古のために来たのではなく、勉強のために来たのだ」と言って辞めたという説があります。この話に深井さんは即座に反応します。
尖りくさってるじゃない。
樋口さんは、松下村塾という最高の学び場を経験した後だったことも大きいと見ています。晋作は松陰への手紙で、塾の仲間を「バカばかり」とこき下ろし、水戸学 ── 水戸藩で発展した学問。尊王思想を軸とし、幕末の尊王攘夷運動の思想的な支柱になりましたの本場である水戸藩の人々についても「大したことがない」と書き送っていたそうです。
樋口さんは当時の攘夷志士について、イメージとは違う実態を補足します。
攘夷志士ってすごいよねみたいな感じにイメージになってるんですけど、実際のところ大半が実はチンピラなんですよ。要は口だけ。
黒船来航で世の中の空気が攘夷に傾くと、「攘夷志士だから偉い」「スポンサーになれ」と金をせびる輩が大勢いたといいます。晋作も松陰も、こうした口だけの人々を徹底的に軽蔑していました。
次に晋作は、幕府が作った国立大学のような学校である昌平黌 ── 江戸幕府直轄の最高学府。儒学を中心に教え、全国から優秀な人材が集まりましたに入ります。ところがここでは規則を破り、酒楼に通って遊びまくったといいます。
その頃の日記は、ちょっと俺どう何したらいいかわかんないとか、俺の心は今乱れているとか、学問の方向性がわからなくなったみたいなこと、また松陰に向かってね。
楊さんは、晋作が弱音を吐ける相手が松陰だったことに注目します。松下村塾で培ったエネルギーを抱えて江戸に出たものの、どうしていいかわからない状態だったと見ています。
かっこいい悪いところをさらけ出せるっていいよね、そういう関係。
深井さんも、吉田松陰のもとが安全な場所だったからこそ、そうでない場所で戸惑ったのかもしれないと応じています。
松陰はなぜ投獄されたのか。幕府の板挟みと井伊直弼
高杉晋作が昌平黌に入って1ヶ月後、吉田松陰は野山獄に投獄されます。松陰は老中・間部詮勝の暗殺を企て、長州藩の政府に堂々と武器を求めたため、驚いた藩が投獄したのです。
同じ頃、江戸の幕府も苦しい立場にありました。ペリーから開国を迫られた幕府は、広く意見を集めても合意が得られず、朝廷の許可を後ろ盾にしたいと考えます。
しかし孝明天皇は強い攘夷論者で、開国に絶対反対でした。楊さんは、幕府には優秀な人材もいたものの、「システムの敗北」で身動きが取れなかったと説明します。老中の阿部正弘は心労から、辞職後に亡くなったといいます。
その反動で登場したのが、非常職である大老に就いた井伊直弼 ── 彦根藩主で江戸幕府の大老。日米修好通商条約の調印や、反対派を弾圧した安政の大獄で知られますです。勅許のないまま日米修好通商条約を結び、これに全国で反発が起こります。その筆頭が吉田松陰でした。
この一連の流れを、因果の順に整理すると次のようになります。
開国要求
ペリーに迫られた幕府は意見を集めるが合意できない
勅許を得られない
攘夷論者の孝明天皇が開国に反対する
条約締結
大老・井伊直弼が勅許のないまま条約を結ぶ
反発と弾圧
松陰ら攘夷派が激しく反発し、井伊直弼が大弾圧する
松陰の江戸送り
野山獄の松陰も江戸へ送られ尋問を受ける
江戸での尋問は、攘夷派の要人である梅田雲浜との結託を疑うものでした。松陰は実際に結託しておらず、嫌疑は晴れかけます。ところが解散となりかけたところで、松陰は自ら「老中を暗殺します」と述べ、小伝馬町の獄につながれてしまいます。
決起の誘いと絶交。孤立する松陰を晋作はどう支えたか
獄中の吉田松陰は、江戸にいる高杉晋作たちに「一緒に間部詮勝を討とう、今が決起の時だ」と手紙を送ります。しかし晋作や桂小五郎、久坂玄瑞は、江戸で多くの情報に触れ、松陰から離れたことで冷静になっていました。
弟子たちは「今決起してもどうしようもない」と伝え、本気であることを示すために血判状を出します。すると松陰は激怒し、「お前たちはその程度の人間か」と絶交を言い渡します。
可能か不可能かっていうのもやってみないとわかんないでしょ。崖の高さは飛び降りてから理解しようぜっていうスタンス。松陰は。
楊さんによると、この「崖の高さ」の例えは本に書かれていたものだそうです。晋作もさすがに引いてしまい、別の人への手紙で失望を綴っています。
ついていけなかった。ついていけない。もう距離も離れてるし、やっぱり心理的距離とさ、物理的距離ってある程度ちょっとあるからさ。
楊さんは、冷静な桂小五郎とそばにいた影響もあったと見ており、ベンチャーでもよくある構図だと話しています。
弟子たちは一時、吉田松陰への手紙を控えることにもしました。情報を渡すほど松陰がどんどん激していくため、これ以上は危ないと判断したのです。松陰についてきた入江杉蔵の兄弟も窮地に追い込まれ、松陰は孤立していきます。
みんなから見放されていく中で、松陰の世話をしたのが高杉晋作でした。面会は許されなかったものの、牢番にいじめられないよう賄賂用のお金を渡し、手紙を書くための筆記用具を差し入れました。
罪悪感もあったと思う。その松陰が決起しようって言ってることに対して、ついていかない選択をした自分は本当によかったのかっていうのを多分ずっと考えてたんだと。
長州藩の重役たちも、晋作に松陰と関わるなと言っていました。楊さんは、久坂玄瑞が松陰を見放したのを晋作が気の毒に思ったという説も紹介しつつ、どこまで本当かはわからないと断っています。やがて松陰から「ようやく心が落ち着きました」という手紙が届き、絶交は解かれます。
父・師・仲間。晋作だけにかかっていたストッパー
吉田松陰だけでなく、久坂玄瑞たちも十分に過激でした。その中で高杉晋作にだけはストッパーがかかっていたと楊さんは説明します。晋作の父親が「松陰と関わるな、変なことをするな」とずっと言い聞かせていたのです。
父親の理由は、高杉家にも毛利家にも大きな迷惑がかかるというものでした。出演者たちも「正しい」「ちゃんとした父親」と認めています。
高杉晋作は久坂玄瑞への手紙で、父親を尊敬しつつも、自分の考えとは違うことを言って止めてくる、それでも父親だから聞かざるを得ないと書いています。楊さんによると、身分の低い者も多い他の仲間はもっと自由に動けましたが、晋作にとって親不孝は絶対にしてはいけないことでした。
彼はその儒教を死ぬほどインストールしてるから、武士として。武士のエリートであるアイデンティティの一つがそれですから。
武士のエリートとしてのアイデンティティと、松陰から受け取った新しいアイデンティティの間で、晋作は揺れ続けます。楊さんは、晋作の本質は久坂玄瑞よりも過激なタイプだったと指摘します。
儒教にもとづき、父親や主君に背く親不孝はできない
仲間と大きなことを成せという師の教えに応えたい
もうなかなかね、振り切れないところがいいじゃないですか。松陰とかね、振り切れてるけど、彼は人間としてそこで悩むんですよ、真面目に。
出演者たちは、振り切れずに悩み続ける人間臭さこそが、生涯続く高杉晋作の魅力の源だと語っています。
獄中から届いた死生観の手紙とは?
この時期、獄中の吉田松陰から高杉晋作に一通の手紙が届きます。かつて晋作が「男はどういう時に死ねばいいのか」と尋ねた問いに、ついに答えが出たという内容でした。
手紙に書かれていたのは、松陰の「死して不朽の見込みあれば、いつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらば、いつまでも生くべし」という言葉です。死ぬことが朽ちない功績になるならいつ死んでもよく、生きて大きな事を成す見込みがあるならいつまでも生きよ、という意味だと楊さんは説明します。
樋口さんは、当時の志士たちがいかにかっこよく死ぬかにこだわっていたのに対し、松陰は違う答えを示したと話します。楊さんは、久坂玄瑞らが早く命を落とす中で、すぐ死にそうな晋作が生き残って大きなことを成せたのは、このメッセージのおかげではないかと見ています。
樋口さんによると、吉田松陰はこの答えに至るまでに、陽明学 ── 明の王陽明が唱えた儒学の一派。知ることと行うことを一体とみなす「知行合一」を重んじ、幕末の志士に影響を与えましたよりさらに過激な思想家である李卓吾の書物を読んでいたそうです。
同じ頃、松陰は晋作に進路のアドバイスもしています。前半は儒教にのっとった堅実な内容ですが、後半で出演者たちを驚かせる展開になります。
むちゃくちゃなアドバイスしてるけど、これをね、再現するんだよ後で。それもちょっと覚えといて。晋作、これをね、ちゃんと聞いたんだよね。
楊さんは、高杉晋作が父親と吉田松陰の言うことはとてもよく聞く素直な人だったと話し、破天荒なだけのイメージではないと強調しています。
突然の処刑。晋作はなぜ師の死に立ち会えなかったのか
吉田松陰自身は、まさか死刑になるとは思っていませんでした。しかし大老・井伊直弼は朝廷や攘夷派の意向を無視して強硬に国政を進め、次々と処刑を行います。周囲の処刑を耳にした松陰は、自分も死ぬかもしれないと思い始めます。
松陰は遺書のようにいろいろな人へメッセージを送り、最後に「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」と詠みます。自分はここで死ぬかもしれないが、魂はここに残していくという意味だと楊さんは説明し、松陰は実際に斬首されます。
このとき高杉晋作は萩へ帰る途中でした。松陰を手助けしていたことが父親に知られ、「もう松陰と関わるな」と呼び戻されていたのです。何週間もかかる帰路の間に松陰は処刑され、晋作は萩に着いてからそれを知り、激しく怒ります。
楊さんは、晋作の目線で一連の出来事を追ってほしいと話します。
まず松陰先生と一緒に楽しく勉強してます。で、やっと江戸遊学行けます。で、江戸にいたら松陰が急になんかやばいことになっていきます。
深い感情を処理しきれなかったはずだと楊さんは語り、松陰がこれまで送った手紙が晋作にどう影響していくのかは次回に持ち越されます。
まとめ
江戸に出た高杉晋作は学びに迷い、過激化する吉田松陰とも一度は決別します。それでも孤立した師を支え、獄中から死生観と進路の教えを受け取りました。父と師の間で揺れる葛藤と松陰の言葉が、その後の晋作の決断を形づくっていきます。
- 晋作は江戸の私塾を2ヶ月で辞め、昌平黌では遊び回るなど、遊学先で迷い続けた
- 勅許なき条約締結と井伊直弼の弾圧の中で、松陰は自ら暗殺計画を口にして江戸の獄につながれた
- 決起を拒んで絶交された晋作は、見放された松陰を差し入れなどで支え、関係を修復した
- 父の教えと松陰の教えの板挟みに悩む姿が、晋作の人間的な魅力として語られた
- 「生きて大業の見込みあらば、いつまでも生くべし」という松陰の死生観が、晋作の後の決断に効いてくる


