もうやっせん!止まらぬ薩摩士族の空回り――混乱の渦が飲み込む理性
歴史を面白く学ぶコテンラジオ(COTEN RADIO)の西郷隆盛編第14回では、深井龍之介さん、樋口聖典さん、楊睿之さんが、薩摩士族の暴発と西郷隆盛の決起までを語ります。各地で起きる士族の反乱、犬をこよなく愛した西郷のエピソード、火薬庫襲撃による暴発、そして「シサツ」という誤解が決定的な亀裂を生んだ経緯を追います。その内容をまとめます。
各地で頻発する士族の反乱
1876年(明治9年西郷隆盛が鹿児島に帰郷してから約3年後。廃刀令や秩禄処分など、士族の特権を次々と奪う改革が進められた時期。)9月から10月にかけて、西日本各地で士族の反乱が次々と発生しました。福岡では秋月の乱福岡県の秋月(現・朝倉市)で起きた士族反乱。政府への不満を募らせた旧秋月藩士たちが蜂起したもの。、熊本では敬神党の乱(神風連の乱)熊本で起きた保守的な士族グループによる反乱。廃刀令への反発と伝統的価値観の尊重を掲げて挙兵した。、山口では萩の乱前原一誠ら旧長州藩士が政府に不満を持ち蜂起した反乱。征韓論争で敗れた不平士族が中心となった。が起こりました。
鹿児島でも「これに呼応しよう」という声が上がりましたが、西郷隆盛はこれを抑え込みます。「今じゃない」と。しかし、西郷が桂久武薩摩藩出身の人物。桂小五郎(木戸孝允)とは別人。西郷と親しく、この時期も書簡でやり取りをしていた。に宛てた手紙には、各地の反乱を「両三日珍しく愉快の報を得ました」「四方に蜂起があるだろうと楽しみにしています」と記しています。一方で、鹿児島にいる間は挙動を人に見せず、「ひとたび動けば天下が驚くべきことをなす」と含みを持たせていました。
この手紙が発見されたことで、従来の「西郷は志学校生に担がれて仕方なく反乱に加わった」という見方に変化が生まれました。西郷自身も反乱にポジティブな姿勢を持っていたのではないか――そんな説が現在では有力です。
犬派・西郷のエピソード
話は少し脇道に逸れますが、西郷隆盛は犬を愛した人物としても知られています。猟に適した犬をどうしても手に入れたいと思えば、無理をしてでも手に入れたというエピソードが数多く残っています。
西郷さんは京都の宴席に犬を連れて上がり、草履履きのまま犬にうなぎを食べさせて、さっさと帰っていったそうです。
維新後、東京で生活していた頃には犬と同じ室内で暮らし、「極めて不潔であった」という証言も残っています。これは当時の西郷が精神的に疲弊していた時期と重なります。「人間嫌い」と自称していた頃でもあり、犬だけが唯一の癒しだったのかもしれません。
鹿児島に帰郷してからも、ブリなどの魚をご飯に炊き込んで犬に食べさせたり、高価だった鶏卵をわざわざ買って犬のご飯に混ぜたりしていました。その結果、犬たちは肥満し、「猟に適さない犬」になっていったと言われています。
火薬庫襲撃――暴発のきっかけ
1877年(明治10年)1月、鹿児島県内に保管されていた陸軍火薬庫の弾薬を、中央政府が大阪に移送しようとする動きがありました。大警視川路利良薩摩藩出身の警察官僚。西郷が東京に呼び寄せて警察制度を整備させた人物。この時期は鹿児島の動向を密偵を使って監視していた。は密偵を放ち、鹿児島の士族たちの動向を逐一把握していました。志学校の生徒たちが「早く東京に行って邪魔な奴らば切り斬りす(斬り殺す)」という歌を歌っているという報告も上がっていました。
中央政府がこの火薬を船で移送しようとしたことを察知した志学校の生徒たちは、火薬庫を襲撃します。この襲撃には約千人が参加し、なんと三十万発もの弾薬を運び出しました。その後も連日、各所の火薬庫を襲撃し続けました。
この時、西郷さんは大隅半島で狩猟中だったんです。急報を受けて帰ってきた西郷は、「しまった!」と膝を打って驚いた。
家に戻った西郷は志学校の生徒たちを前に、「おはんたちはなんたることをしでかしたとや(何てことをしたんだ)」と大声で怒りました。息子の菊次郎西郷隆盛と愛加那(あいかな)との間に生まれた長男。後に政治家として活躍し、京都市長も務めた。は、「この時ほど父が本気で怒ったのを見たことがない」と語っています。
「シサツ」計画と西郷決起
志学校の幹部たちは会合を開き、対応を協議しました。その最中、鹿児島出身の警察官たち二十数名が捕らえられます。彼らは川路利良が送り込んだ密偵でしたが、志学校の若者たちは「西郷を暗殺しに来たのではないか」と疑いました。
激しい拷問を加えた結果、密偵たちは「視察しに来た」と答えました。ところが志学校側はこれを「刺殺(刺し殺す)」と聞き間違え、「やはり西郷を殺すつもりだったんだ!」と確信してしまったのです。
「視察しに来た」
(見に来ただけ)
「刺殺するつもりだった」
(暗殺計画があった)
西郷自身もこの時、大久保利通が自分を殺そうとしていたと信じたようです。そしてついに、西郷は決断を下します。
「おいどんの体をあげましょう」――つまり、「もう死ぬ覚悟を決めた」という意味です。西郷は最初、怒りました。しかし、すぐに思い直したのです。この事態を招いたのは自分の責任だと。近代化に逆行した鹿児島を作り、志学校を開いて若者たちを集めたのも、すべて自分だったと。
若者たちだけを死なせるわけにはいかない。もう少し国の役に立ちたかったが、それは叶わなかった。ならば一緒に死のう――そう決断したのです。
現状認識のズレ
一方、中央政府は迅速に動きました。山縣有朋長州藩出身の陸軍軍人。この時期は陸軍卿(陸軍トップ)として軍の指揮を執っていた。後に総理大臣も務める。陸軍卿は、弾薬強奪が起きる前日から鹿児島の挙兵を警戒し、熊本鎮台九州地方を管轄する陸軍の拠点。熊本城に司令部が置かれていた。の司令官に警戒命令を出していました。弾薬強奪の報を受けると、電信と汽船を駆使して全国の部隊に出兵準備を命じ、警視庁の巡査六百名を九州に派遣しました。
対する薩摩側は、非常に楽観的な見通しを持っていました。当時鹿児島に滞在していたイギリス人外交官アーネスト・サトウイギリスの外交官。幕末から明治にかけて日本に滞在し、多くの歴史的証言を残した。「サトウ」は日本姓ではなく、イギリスにある姓。は、薩摩士族たちの考えを記録しています。
これに対し、イギリス公使ハリー・パークスイギリスの外交官。幕末から明治初期にかけて駐日公使を務め、日本の近代化を見守った。は冷静に指摘しました。「薩摩士族は自分たちの力を過信しているのではないか。薩摩の威信と西郷の名声に頼りすぎて、判断を誤っている」と。
実際、薩摩士族たちは幕府を倒した自負があり、自分たちが戦えば必ず勝てると信じていました。しかし、政府は着実に近代的な軍隊を整備しており、電信と鉄道を使った迅速な動員体制も確立していました。現状認識のズレは、決定的でした。
西郷隆盛、鹿児島を発つ
西郷軍は、わずか十日ほどで編成を完了しました。一番大隊から五番大隊まで、そして別府晋介率いる連合大隊を含め、総兵力はなんと一万四千名に達しました。これだけの兵を集められる西郷の影響力は、依然として絶大でした。
ただし、志学校に属していなかった士族の中には、挙兵に批判的な者もいました。彼らは外に出たことがあり、他藩や東京の情報を知っていたため、「今の挙兵は無謀だ」と考えていたようです。しかし、志学校の若者たちは刀を抜いて従軍を迫り、批判する者には「腰抜け」と罵倒しました。
この頃の西郷さんには二十名の護衛がついていて、動きを注意深く監視していたんです。
アーネスト・サトウはこの様子を見て、「西郷の決意が揺らぐことを恐れていたのだろう」と記しています。西郷は誰とも話せず、退路を断たれた状態でした。
1877年2月15日、西郷軍は鹿児島を発ちます。この日、鹿児島では五十年ぶりの大雪が降りました。出陣の際、十六歳の菊次郎が父に付き従い、十一歳の虎太郎西郷隆盛と糸子(二度目の妻)との間に生まれた長男。後に侯爵となり、貴族院議員を務めた。が愛刀を持って見送りに来ました。
西郷は菊次郎を見て「来たか」とだけ言い、虎太郎には途中で「お前はもう帰れ」と告げて帰しました。これが最後の別れになるとわかっていたのでしょう。
この時、西郷隆盛は四十八歳。当時の基準では老人と呼ばれる年齢でした。実際、「西郷老人」「芋爺」「老西郷」といった呼び名で親しまれていたと言います。
こうして西郷隆盛は、止まらなくなった歴史の渦に身を投じました。次回はついに西南戦争の戦闘が始まります。
まとめ
薩摩士族の不満は、各地の士族反乱や志学校内部の過激化によって臨界点に達していました。西郷隆盛自身も各地の反乱に「愉快」と記すなど、決して無関心ではありませんでした。しかし、火薬庫襲撃という暴発が起きたことで、西郷は「おいどんの体をあげましょう」と覚悟を決めます。
「視察」と「刺殺」という誤解が決定的な亀裂を生み、薩摩士族の楽観的な現状認識と、中央政府の冷静な対応との間には大きなズレがありました。西郷は死を覚悟しながら、一万四千の兵とともに鹿児島を発ちました。
- 1876年、西日本各地で士族の反乱が頻発。西郷は手紙で反乱に「愉快」と記していた
- 犬を愛した西郷は、犬と同居し高価な食事を与え続けた
- 1877年1月、志学校生が火薬庫を襲撃し三十万発の弾薬を強奪。西郷は激怒した
- 「視察」と「刺殺」の聞き間違いが決定的な亀裂を生み、西郷は決起を決断
- 薩摩側は楽観的な見通しを持っていたが、政府は迅速に対応し戦闘準備を整えた
- 西郷は総勢一万四千の兵を率い、1877年2月15日に鹿児島を発った

