引退したはずの西郷が各地の反乱を喜んでいた?
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西郷隆盛の鹿児島では、私学校 ── 西郷隆盛が下野後に鹿児島で設立した士族の教育組織。軍事教育も行い、のちに西南戦争の主力となりましたの士族たちに不満がたまり、いつ爆発してもおかしくない状態になっていました。
その頃、西日本では士族の反乱が立て続けに起こります。福岡の秋月の乱、熊本の敬神党の乱 ── 明治政府の欧化政策に反発した熊本の士族たちが1876年に起こした反乱。神風連の乱とも呼ばれます、山口の萩の乱です。
鹿児島でも呼応しようという声が上がりましたが、最後は抑え込まれました。深井さんは、ここで挙兵していたほうが本当は強かったかもしれないと話しています。
一方で、西郷隆盛自身は各地の蜂起を好意的に受け止めていたことが、桂久武に宛てた手紙からわかります。手紙には、反乱の知らせを「珍しく愉快の報」と書き、この先の蜂起を楽しみにしていると記されていました。
さらに西郷は、喜びを見せれば若者たちが騒ぐので人には見せていない、ただし一度動けば天下を驚かすことをするつもりだ、とも書いています。
あれ、全然引退してないぞ、心は。
楊さんによれば、従来は西郷が私学校勢に担がれただけだと見られてきました。この手紙の発見によって、西郷自身も反乱に前向きだったのではないかという見方が出てきたといいます。
唐突に挟まる、犬好き西郷の逸話
シリアスな話が続く前に、深井さんはあえて西郷隆盛の犬好きのエピソードを挟みます。猟に向いた犬を欲しがり、気に入った犬は強引にでも手に入れたという話が多く残っているそうです。
京都にいた頃の西郷は、宴席にも犬を連れて上がっていました。祇園の芸妓君龍さんによれば、西郷は犬にうなぎを出させ、一緒に食べるとさっさと帰っていったといいます。
維新後の東京では室内で犬と同居し、極めて不潔だったという証言もあります。深井さんは、この頃の西郷はメンタルが落ち込んでいた時期で、今で言えばセルフネグレクトに近いかもしれないと見ています。
猟に同行した関係者の証言では、西郷は犬にブリの炊き込みご飯や、当時高価だった鶏卵を混ぜたご飯を与えていました。その結果、犬は太って猟に使えなくなったそうです。
犬によって自分が慰められてたっていうところもすごく大きかったんじゃないかなと思いますよね。唯一の癒しの存在だったかもしれない。
鎮圧の知らせで燃え上がる私学校と、大久保への怒り
熊本、福岡、山口の蜂起は、いずれも政府に鎮圧されます。その知らせが鹿児島に届くと、私学校の士族たちは蜂起への共感を深め、政府への反感をさらに強めていきました。
萩の乱の知らせから1ヶ月後の幹部会では、西郷隆盛が珍しく皆の前で大久保利通を激しく批判し、「彼の肉を食うも飽かざるなり」と言ったとされます。
楊さんによれば、当時の大久保利通は、少数の官僚で権力を独占しているという批判を浴びていました。深井さんは、西郷が新聞の情報に扇動されていたことに加え、近くにいる人の感情に呼応してしまう性質があったと話します。
ただし西郷隆盛は、桐野利秋らが挙兵を言い出したときには「今じゃない」と抑えています。決起すると決めたわけでも、しないと決めたわけでもない、迷いの状態だったと考えられます。
同じ頃、大警視の川路利良 ── 薩摩出身の警察官僚。西郷の推挙で日本の近代警察制度を整え、初代大警視を務めましたは、薩摩出身者を密偵として鹿児島に送り込み、様子を探っていました。士族たちは「邪魔な奴らは斬り殺す」という趣旨の歌を歌っていたといいます。
川路利良自身は、鹿児島が反乱を起こしても全国の兵を相手にすれば勝ち目はないと、冷静に見ていました。
火薬庫襲撃、西郷はなぜ本気で怒ったのか?
ついに私学校の生徒たちが暴発します。鹿児島には陸軍の火薬庫があり、政府は危険視して弾薬を大阪へ移そうとしていました。
それを察知した私学校の生徒たちは火薬庫を襲撃し、30万発もの弾薬を運び出したといわれます。その後も連日、各所の火薬庫が襲われました。
牙を抜かれるわけじゃない。
このとき西郷隆盛は大隅半島で狩りをしていました。弟の西郷小兵衛から知らせを聞いた西郷は、膝を打って「しまった」と言ったそうです。
帰宅した西郷は生徒たちを前に「おはんたちはなんたることをしでかしたとや」と大声で怒りました。息子の菊次郎は、父がこれほど本気で怒るのを見たことがないと語っています。
西郷や桐野利秋ら幹部は、時期が来るまで勢力を温存する方針でした。しかしこの事件で政府の摘発は避けられなくなり、西郷は「事ここに極まれり」と言ったとされます。
「視察」が「刺殺」に聞こえた?おいどんの体をあげましょう
私学校の幹部は、川路利良が送り込んだ密偵たちを捕らえます。彼らが西郷隆盛を暗殺しに来たのではないか、その裏に大久保利通がいるのではないかと疑ったためです。
20数名が捕まり、激しい拷問を受けました。その中で警察側が口にした「視察」という言葉が、「刺殺」と聞き間違えられたといわれています。
密偵の捕縛
偵察に来た薩摩出身の警察官たちを、私学校側が暗殺者と疑う
拷問
20数名を捕らえて激しい拷問を加える
聞き間違い
「視察に来た」が「刺殺に来た」と受け取られる
確信
大久保が西郷を殺そうとしていると私学校側も西郷も考える
ただし深井さんは、聞き間違いがなくても弾薬を奪った時点で暴発していただろうと話しています。
ここで西郷隆盛は「おいどんの体をあげましょう」と言います。深井さんの解釈では、これは「しょうがない、死ぬか」という覚悟の言葉です。
火薬庫襲撃には1000人が参加しており、もう逃れられない重罪でした。自分が作った私学校の若者たちだけを死なせるわけにはいかないと、西郷は考えたといいます。
樋口さんは、下の人間の責任を取る姿勢が、江藤新平 ── 佐賀出身の明治政府の元参議。佐賀の乱を起こして敗れ、処刑されましたへの対応と一貫していると指摘します。
(西郷さんは)それがこんな形で死ぬんだ自分って思いながら言ったんだと思うこれ。
政府は一枚上手だった、電信と汽船の即応
一方、私学校の人たちは、新聞だけから情報を得るエコーチャンバーの中で、政府に余裕で勝てると思い込んでいました。深井さんはこれを「ホモサピエンスだな」と表現しています。
実際の明治政府の対応は素早いものでした。楊さんは、京都にいた三条実美、木戸孝允、伊藤博文が電報で弾薬強奪を知ったところから順に説明します。
中でも際立ったのが陸軍卿の山縣有朋です。山縣有朋は弾薬強奪の前日に、熊本鎮台の司令長官と大山巌へ、鹿児島の挙兵を警戒するよう命じていました。
めちゃくちゃ政府は成長してたんですよ。
全軍で陸路北上へ、総兵力1万4000の薩軍
西郷隆盛たちは対応を話し合います。西郷ら少数で上京して政府を問いただす案も出ましたが、最終的には全軍出兵論が多数を占めました。
海路で長崎を突く案もありましたが、海軍力が乏しかったため、熊本、佐賀、福岡を経て陸路で北上することになります。
薩軍は、西郷が狩りから戻ってから10日ほどで編成を終えました。深井さんが挙げた大隊長の顔ぶれは次のとおりです。
| 部隊 | 指揮官 | 備考 |
|---|---|---|
| 一番大隊 | 篠原国幹 | 五番大隊までで総勢1万2000名 |
| 二番大隊 | 村田新八 | 同上 |
| 三番大隊 | 永山弥一郎 | 同上 |
| 四番大隊 | 桐野利秋 | 同上 |
| 五番大隊 | 池上四郎 | 同上 |
| 六番・七番の連合大隊 | 別府晋介 | 総勢2000名 |
総兵力は1万4000に達しました。私学校に属していない鹿児島の士族も多く加わった一方で、挙兵に批判的な士族もいたと楊さんは話します。
批判的だったのは、戊辰戦争などで鹿児島の外に出た経験を持ち、多様な情報に触れていた人たちでした。そうした消極的な士族に、私学校の若者は刀を抜いて従軍を迫り、批判すれば腰抜けと罵ったといいます。
アーネスト・サトウが見た、根拠のない楽観
この頃の西郷隆盛の様子を、鹿児島に滞在していたイギリス人のアーネスト・サトウ ── 幕末から明治にかけて日本に駐在したイギリスの外交官。日本語に通じ、多くの記録を残しましたが記録しています。西郷には約20名の護衛が付き、その動きを注意深く見張っていました。
サトウは、護衛が刺客から西郷を守るだけでなく、西郷の決意が揺らぐことを恐れていたのだろうと見ています。深井さんは、護衛に囲まれて誰も西郷に話しかけられない状態だったと話します。
サトウは、薩摩側が数々の楽観的な見方をしていたことも伝えています。
海軍は西郷に敵対しない、政府は抵抗しない、薩摩出身の樺山資紀は迎合する、百姓出身の徴募兵は士族に立ち向かわない
電信と汽船で即座に警察と軍を動かし、山縣有朋は挙兵を想定して事前に警戒を命じていた
報告を受けたパークス ── 幕末から明治初期の駐日イギリス公使ハリー・パークス公使は、薩摩士族は藩の威信と指導者の名声を信じるあまり、判断を誤ったのではないかと冷静に述べています。
だから現状認識能力がいかに大事かっていうな。
「並んで迎えろ」と書かれた文書、ずれていく現状認識
出陣にあたり、西郷隆盛、桐野利秋、篠原国幹の名で、政府に問いただすことがあるので兵を連れて行く、という文書が熊本鎮台に届けられました。
その文書には、通行の際は整列して指揮を受けるように、と高圧的に書かれていました。すでに役職を辞めているにもかかわらず、並んで迎えろと言っているような内容です。
深井さんによれば、この文面は西郷隆盛自身ではなく部下が書いたものでした。読んだ西郷は驚いて取り消させようとしましたが、間に合いませんでした。
政府は抵抗しないだろうという見通しとは逆に、この文書は政府を怒らせます。深井さんは、相手の思考回路をまったく理解できていないのが私学校の現状認識だったと話します。
西郷隆盛自身も、熊本鎮台の兵を率いて東京に行こうと言うなど、認識がずれ始めていました。深井さんは、京都で暗躍していた頃の西郷はもういない、あるいは諦めて信じたいことを信じているだけかもしれないと見ています。
50年ぶりの大雪の日、息子に告げた「帰れ」
1877年2月15日、西郷軍は鹿児島を出立します。この日、鹿児島には50年ぶりの大雪が降ったそうです。
なんかもう神様のあれを感じるね、なんか。
16歳の菊次郎は父に従って出陣し、陸軍大将の軍服を着た西郷隆盛を11歳の虎太郎が見送りに来ました。菊次郎が来たのを見た西郷は「来たか」とだけ言ったといいます。
虎太郎は父の愛刀を持って付いて歩きましたが、西郷は途中で「お前はもう帰れ」と帰しました。これが虎太郎との最後の別れになります。
このとき西郷隆盛は48歳で、当時は西郷老人や芋爺、老西郷とも呼ばれていました。次回はいよいよ西南戦争が描かれます。
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まとめ
この回では、各地の反乱に心を動かされていた西郷隆盛が、私学校の暴発をきっかけに、若者と共に死ぬ覚悟で挙兵へ向かう過程が語られました。背景には、政府の実力を見誤った鹿児島側の楽観と、現状認識のズレがありました。
- 西郷隆盛の手紙から、本人も各地の反乱に前向きだった可能性が指摘されている
- 火薬庫襲撃に西郷は本気で怒ったが、自分の責任と考え「おいどんの体をあげましょう」と覚悟を決めた
- 「視察」が「刺殺」と聞き間違えられたとされ、大久保による暗殺疑惑が確信に変わった
- 政府は電信と汽船で素早く対応し、山縣有朋は挙兵を想定して事前に備えていた
- 薩摩側は根拠のない楽観に陥り、高圧的な文書がかえって政府を怒らせた







