下野した西郷は鹿児島で何をしていた?
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征韓論の政変で朝鮮行きを認められなかった西郷隆盛は、鹿児島に帰ります。樋口さんはこの帰郷を「拗ねて帰っちゃいましたね」と表現しました。
鹿児島での西郷は、田舎に住んで狩猟と温泉を巡り、心身を休めていたといいます。武家屋敷の庭石や木のほとんどを人に譲り、庭を畑にして粟や大根を育てていたそうです。
すぐ温泉行きたがる。絶対風呂好きやん。
西郷の家には、沖永良部島に流されたときに一緒だった川口雪甫川口雪甫さんも住んでいました。川口さんは子どもの教育係を兼ね、玄関に近い一間で暮らしていたといいます。
あと4話あります。
樋口さんが「お疲れ様でした、西郷さん」と締めようとすると、深井さんはこう返します。西郷の物語は、この穏やかな生活のままでは終わりません。
9歳の少年が見た西郷家の日常
深井さんは、当時9歳で西郷家に出入りしていた少年の証言を紹介します。後に雑誌に載ったもので、西郷の暮らしぶりがかなり細かく残っています。
少年の証言によると、玄関を入った一間には本や机が並び、川口さんがおびただしい量の写本を作り続けていました。部屋にはナポレオン1世、ワシントン、ネルソン提督など欧米の英雄の絵が掲げられていたそうです。
一方で西郷自身の居間には、床の間の軸も花瓶もありませんでした。あったのは手提げカバン1つと投げ網4つ、柱に吊るした筆十数本、そしてリンカンの図と、犬が凍死しそうな人を救う場面の図だったといいます。
深井さんは、その犬はセントバーナードだと考えられていると紹介します。忠義心があり、凍えた人を助けに行く犬の姿が、犬好きの西郷の好みだったのだろうと話しています。
証言では、西郷の顔は上野の銅像とは似ていないとされています。ただ深井さんが実際に肖像を探したところ、「あの銅像とあんま変わんない」という結果でした。
ああ、いいね。西郷どんや。これ。
身長は180センチぐらいで、腕には少年時代の刀傷が残っていたといいます。子どもが好きで相撲を取り、病気の子の髪を櫛でといてやることもありました。
抜けた髪は紙ごとひねって奥さんに渡し、溝に流すよう言ったという細かい記憶まで残っています。深井さんは、磯田道史磯田先生がこの繊細さに触れていたことも紹介しました。
ただし西郷は時間にはうるさく、学問や食事の時間が決まっていました。勉強の時間になると、遊びに来た友達も「後でまた来い」と帰されたそうです。
大久保利通の内務省と民選議員設立建白書
西郷が引退生活を送る一方、東京では大久保利通が強い影響力を持っていました。大久保は内務省 ── 1873年に設置された明治政府の官庁。警察や地方行政など内政を広く所管し、大久保利通が初代内務卿を務めましたを作り、その長官に就任します。
内務省は警察、衛生、土木、宗教政策、文化財行政など、内政全般に及ぶ強い権限を持っていました。ただし大久保の序列は三条実美太政大臣や岩倉具視より低く、独裁体制だったわけではないといいます。
それでも大久保は決断力とリーダーシップが際立ち、周囲が引っ張られていく構図があったと深井さんは説明します。大蔵卿の大隈重信と工部卿の伊藤博文が両脇を固め、政府の主流派が形成されました。
大久保利通を軸に、財政の大隈重信、インフラ整備の伊藤博文が固める。旧幕臣も含む多様な官僚が集まる
板垣退助、江藤新平、副島種臣、後藤象二郎ら。大久保の専制を批判する
大久保は薩摩出身者にこだわらず、能力のある人を登用したと話されています。これに対し、西郷とともに辞めた板垣退助らは「大久保が専制している」として民選議員設立建白書 ── 1874年に板垣退助らが政府に提出した意見書。選挙で選ばれた議員による議会の開設を求め、自由民権運動の出発点とされますを出しました。
建白書は大久保の専制を批判し、納税者の権利を訴えるものでした。深井さんは、もっと多くの人の意見を入れるべきだという主張だと説明しています。
西郷が板垣退助に返した「引退してない」言葉
板垣退助は西郷に、今後も行動をともにしようと呼びかけます。しかし西郷はこれを断りました。
板垣が民選議員の設立を目指すべきではないかと問うと、西郷は言論で目的が達成できるとは思わないと答えたといいます。さらに、自ら政府を取った後に未曽有の政治を行う、という趣旨の発言もしていました。
え?全然引退してないやん。
引退してるけどしてないってことだよね。
西郷はさらに、今後は関係を断って自分を捨ててもらいたいとも言います。楊さんは、西郷は関わりたくないのだろうと受け止めています。
その頃、政府の外では不平分子が伸長し、ついに右大臣の岩倉具視が襲撃されます。岩倉は斬られて軽傷を負い、堀の水中に逃れて難を逃れました。この事件は政府を戦慄させ、東北から九州まで不満の高まりを伝える報告が届いていたといいます。
なぜ元武士たちは明治政府に怒っていたのか
楊さんは、当時の元武士の気持ちを説明します。明治政府は、王政復古や廃藩置県というクーデターの賭けに勝った人たちが権力を独占している、という見方もできる存在でした。
なんであいつらが、大久保とかがさ、権力を持っているんだと。何の権限があって自分たちから税金を取ろうとするんだっていう話ですよね。
元武士たちの目には、薩摩や長州の出身者がのさばり、命をかけて戦った自分たちより留学した人の方が高い地位に就いているように映っていました。税金まで取られることにも納得できなかったのです。
ただし、士族全員が没落したわけではありません。深井さんによると、3割以上の士族は維新後も中程度以上の生活を維持できていました。
利回りのよい公債、官僚や教師などの安定職、実業での成功。教育による知的・経済的なストックがあった
上級士族ほどのアドバンテージがなく、不満を抱えやすかった
楊さんは、上級士族は教育を受けてきたため、そのスキルを明治の時代にも生かせたと説明します。子どもにも教育を受けさせられる点で、差はさらに広がりました。
武士がね、リストラされたようなもんですから。
江藤新平の帰郷と佐賀の不穏な空気
こうした情勢の中で起きたのが佐賀の乱 ── 1874年、江藤新平らが佐賀で起こした士族の反乱。明治政府に対する大規模な士族反乱の最初の例とされますです。西郷とともに下野した元参議の江藤新平が、佐賀に戻った後に起きました。
旧佐賀藩は江藤や副島種臣らを輩出し、地元に残った士族の影響力も根強い土地でした。政府からは、治めるのが難しい県として認識されていたといいます。
佐賀では、西洋化に反対する元士族が憂国党を結成しました。一方、江藤の影響を受けた若い士族たちは征韓論を唱え、やがて征韓党が県庁機構を掌握します。
もう党の名前になってるやん。
江藤は征韓党の党首になってほしいと頼まれ、民選議員設立建白書に署名した翌日に引き受けたといいます。板垣らは過激派に祭り上げられることを心配し、江藤も当初は民権論で行くと答えていました。
まあ本人も乗り気なんだよね、結局。
深井さんは、温泉や農業でのんびりしている西郷とは対照的に、江藤は最初からやる気満々で佐賀に入ったと話します。江藤が戻ると、征韓党の勢いは一気に高まりました。
小野組への押しかけから挙兵へ
きっかけは、政府のお金を管理していた小野組出張所への押しかけでした。憂国党の人々が、給料の遅配に怒って「さっさと出せ」と言いに行ったのです。
当時、士族は藩がなくなった後もしばらく政府から給料を受け取っていました。米からお金での支払いへ切り替える際に遅れが生じ、それが怒りに火をつけたといいます。
給料の遅配
米から金銭払いへの切り替えで士族の給料が遅れる
小野組への押しかけ
憂国党が給料を出せと小野組出張所に迫る
政府の出動命令
大久保が早期鎮圧のため熊本鎮台に出動を命じる
挙兵
命令が漏れ、仲の悪かった憂国党と征韓党が団結して挙兵
大久保利通は全国の士族の動揺を封じ込めるため、早期鎮圧が必要だと判断します。九州全域を管轄する熊本鎮台に出動が命じられました。
出動命令が漏れると、佐賀の士族は激しく怒ります。もともと仲の悪かった征韓党と憂国党が一致団結し、挙兵を決めました。佐賀の士族は一度は鎮台兵を圧倒して勝利を収めます。
大久保利通が自ら前線に向かった理由
政府の反撃は素早いものでした。大久保は乱の波及を恐れ、自ら鎮定にあたることを三条太政大臣に要請します。
これ乱が波及したらやばいから、自分が行きますって言って。
大久保は軍事と裁判の権限を全面委任され、汽船ニューヨーク号で博多に入港しました。他の政府兵力と合流し、1364名の征討軍を集結させて進撃を開始します。
大久保は戦闘経験のない政治家でした。それでも最前線で軍を指揮し、1か月後に佐賀の兵を壊滅させたといいます。
つええんや。
深井さんは、佐賀の乱が徴兵制になって初めての本格的な戦争だったことも指摘します。平民から集めた鎮台兵が元侍に勝てるのか分からず、大久保が自ら行った背景にはその不安があったと話しています。
江藤新平はなぜ西郷に見捨てられたのか
戦況が絶望的と判断した江藤は、舞鶴丸に乗って鹿児島へ向かいます。4か月ぶりに西郷に会い、援軍を求めました。
しかし西郷の答えは、指導者が部下を残して逃げるようでは加勢しない、というものでした。法廷で堂々と申し開きをしなさいとも告げ、取り付く島もなかったといいます。
江藤は四国へ逃れますが捕まります。元司法卿として法律を整備した江藤は、たった2日の裁判で晒し首にされました。
うわぁ、これも皮肉やね。
大久保の日記には、江藤の陳述について「実に笑止千万」と書かれていたといいます。大久保から見れば、江藤は多くの人を巻き込みながら形勢が不利になると逃げ、弁明までした人物でした。
深井さんは、大久保が西郷を信じていたとも説明します。西郷が鹿児島で不平分子の重しになってくれているのに、江藤はなぜすぐ反乱を起こしたのか、という感覚があったようです。
覚悟の、なんていうか、覚悟の偏差値がちょっと合格レベルに達しなかったんだろうね。
佐賀の乱は、元参議という政権中枢にいた人物が士族反乱を率いる先駆けになりました。樋口さんは、たかだか10年ほど前にできた政府なら武力で倒せる、という認識が不平士族の間に広がっていたと話しています。
鹿児島に戻った不満分子と私学校
鹿児島では、西郷とともに旧近衛兵や陸軍の人々が戻ってきていました。深井さんによると、鹿児島出身者の多くは全国で役人をしており、戻ってきたのは中央政府に不満を持つ人ばかりだったといいます。
なるほど。危ねえね。
西郷は、職もなく鬱屈を抱えた士族のために私学校 ── 西郷隆盛が1874年に鹿児島で設立した学校組織。銃隊学校や砲隊学校などを含み、のちの西南戦争の中心勢力となりましたを作ります。銃隊学校と砲隊学校で軍事訓練を行い、県内各地に分校を置いて若者を集めました。
深井さんは、西郷は反乱を決めていたわけではないが、するべき時にはしようと考えていたのだろうと見ています。いつでも反乱できる状態で、世直しの時のために準備していたということです。
樋口さんは、暴発を抑えてガス抜きをさせる目的もあったかもしれないと補います。当時の鹿児島は、想像以上に険悪な雰囲気だった可能性があるといいます。
対外危機が消え、鹿児島が「独立国」になる
西郷が私学校の人材を生かす場として想定していた一番は、対外危機だったようです。外国との問題が起きたときこそ、育てた人材が国の役に立つと考えていました。
しかし、その機会は次々に消えていきます。台湾をめぐる危機は去り、樺太をめぐるロシアとの問題は条約で解消され、下野のきっかけとなった朝鮮問題も日朝修好条規 ── 1876年に日本と朝鮮の間で結ばれた条約。朝鮮の開国を定めたもので、日本に有利な不平等条約でしたで一旦解決しました。
一方、私学校は地元の支持を得ます。鹿児島県令の大山綱良は西郷を慕って援助し、区長や戸長、学校長に私学校の人材を任命していきました。区長の半数以上が私学校関係者だったといいます。
鹿児島県がその士学校が支配する独立国みたいになってくるんですよ。
他の県では県外出身の役人が改革を進めていましたが、鹿児島だけは私学校の若者で行政が固まり、改革が進みませんでした。深井さんはこれを皮肉な構図として語ります。
維新を先導した薩摩は中央に人材を送り込みましたが、地元では旧来の権力が残りました。最も進んでいたからこそ、最も遅れているという逆転が起きていたのです。
評論新聞とエコーチャンバーが生んだ思い込み
私学校の人々は、新聞に檄文を公表し、欧米への屈従を恥辱とし、政府の西洋かぶれを批判しました。東京政府は外に弱腰で内に専制的、しかも腐敗している、というのが共通見解でした。
思想っていうか思い込みだよね。解像度の低い情報に基づいた思い込みですよね。悪く言えば。
西郷や私学校の人々の主な情報源は、東京で発行されていた評論新聞でした。元薩摩藩士の海老原穆海老原厚が関わる反政府色の強い新聞で、大久保政権の悪政や腐敗、政府が瓦解寸前であるかのような記事をよく載せていたといいます。
樋口さんによると、私学校に入ることは本人たちの優越感にもつながっていました。一方で、軍事教練中心の教育に疑問を持って退校を願っても認められず、退校すると村八分にされたという記録も残っています。
深井さんは、西郷や桐野利秋ら幹部も評論新聞の情報に強く影響を受けていたと話します。不満を持つ人だけが集まった鹿児島では、その効果がさらに強まりました。
似たような人間しかいない人ってやっぱこうなっていくんだよね。SNSのアルゴリズムとかもまさにこうですけど。
深井さんは、多様な人と出会い、情報を共有することの大切さを感じると語ります。樋口さんは、食い詰めて尊厳を奪われた状態が重なり、「無敵の人になる条件」がそろっていたと表現しました。
武士マインドはなぜ抜けなかったのか
対外危機が去ったことで、私学校にたまった憤懣は晴らす場を失っていきます。しかも元士族たちには、日々の勤労で身を立てて社会に貢献するという発想があまりありませんでした。
深井さんは、リンカン編で扱った自由労働イデオロギーと比べます。宗教に根ざした労働観がない中で、動乱で戦功をあげて一気に出世しようという考えが残っていたといいます。
武士マインド、簡単に抜けない。
なんかそれを叩き込まれて、それを仕事にしてきた人たちだから、簡単にはそれはね。
廃刀令と秩禄処分で特権がゼロに
こうした時期に、中央政府は士族特権の廃止を次々に打ち出します。1876年には廃刀令 ── 1876年に出された、軍人や警察官などを除いて帯刀を禁じた布告。武士の象徴だった刀を持つ特権がなくなりましたが出されました。維新から約8年経っても、士族はまだ刀を持っていたのです。
そうだね。もう尊厳、アイデンティティに関わるからですね、武士の。
さらに政府は秩禄処分 ── 明治政府が士族に支給していた家禄を廃止した政策。代わりに金禄公債を交付し、士族の経済的特権を終わらせましたを進めます。廃藩置県後も士族に払われていた給料は、政府歳出の3割弱を占める重い負担になっていました。
給料の代わりに公債が交付され、利子で生活するよう求められました。公債は25年かけて抽選で政府が買い上げる仕組みでしたが、生きていける金額ではなかったといいます。
今で例えると、公務員を一旦全員解雇して、退職金も国債で支給して、最小限の人数で公職を再編するっていうような措置なんですよね。
廃藩置県後
藩はなくなるが、士族には給料が支給され続ける
廃刀令
1876年、武士の象徴である刀を持つ特権がなくなる
秩禄処分
給料を廃止し公債に置き換え、制度上の特権がゼロになる
私学校の生徒たちは金銭の不満を表に出さないよう教育されていましたが、存在意義を否定されたと感じていました。私学校では「東京の奸臣を討ち、民の苦しみを救う」という言葉まで語られるようになります。
鹿児島への特別配慮と、それでも止まらない怒り
樋口さんは、政府が鹿児島の士族の不満を認識し、配慮もしていたと説明します。地租改正で課税が及ぶ代わりに、鹿児島の土地所有者へ特別な給付金を出す条件が認められていました。
背景には、島津久光が右大臣に就いていて、鹿児島の事情に配慮されやすかったことがあったといいます。
公債にも優遇がありました。最も利回りの高い10%の公債のうち、92%を鹿児島県の士族が持っていたのです。
それでもエコーチャンバーの中にいた私学校の人々は、中央政府がひどく腐っていると認識していました。民を苦しめているのは中央の私利私欲の政治だと考えていたのです。
いやもうだから条件は揃ってますからね。燃料はもう充満してるから、あとは火がつくかどうかみたいなところで。
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まとめ
今回は、鹿児島で穏やかに暮らす西郷の姿から、佐賀の乱、私学校の拡大、士族特権の廃止までが語られました。政府の配慮があっても、閉じた情報環境と奪われた尊厳が、鹿児島を爆発寸前へと追い込んでいきます。
- 鹿児島の西郷は農夫のような生活を送る一方、板垣には自ら政府を取るという趣旨の発言もしていた
- 佐賀の乱では大久保利通が自ら前線に立って鎮圧し、江藤新平は西郷に援軍を断られて処刑された
- 私学校は鹿児島の行政を掌握し、維新を先導した薩摩が最も封建的な状態になった
- 評論新聞と同質な集団によるエコーチャンバーが、中央政府への不信を強めた
- 廃刀令と秩禄処分で士族特権はゼロに近づき、反乱の条件がそろっていった







