ローマ帝国の分裂から神聖ローマ帝国へ
フリードリヒ大王編の2回目は、大王が治めることになるプロイセンという国が、どのように成立したのかという話から始まります。楊さんはまず、カエサルの時代にあったローマ帝国までさかのぼります。
楊さんの説明では、ローマ帝国は東西に分裂し、東ローマ帝国は長く残った一方で、西ローマはまもなく消滅します。その後の西ヨーロッパを治めたのは、南下してきたゲルマン系の人たちでした。
ゲルマン系の人々を統一して生まれたのがフランク王国 ── 5世紀末にゲルマン系のフランク人が建てた王国。現在のフランス・ドイツ・イタリアにまたがる大国となり、西ヨーロッパの原型をつくりましたです。最大の領域を築いたカール大帝(シャルルマーニュ)の死後、フランク王国は3つに分割され、それが今日のフランス、イタリア、ドイツに相当する分かれ方になっていきます。
現在のドイツにあたる部分には、神聖ローマ帝国 ── 中世から1806年まで続いた、ドイツを中心とする国家連合体。皇帝の下に多数の諸侯国や都市が半ば独立して存在していましたが成立しました。大小さまざまな騎士や貴族が主権を持つ自分の国を持ち、それを緩やかに統合していたのが神聖ローマ帝国だったと楊さんは説明します。
なぜ征服者が、滅ぼした民族の名前を名乗ったのか
プロイセン誕生の直接のきっかけは、中世ヨーロッパの人口増加でした。楊さんによれば、10世紀から14世紀ごろに気候が温暖化し、農業技術の革新もあって、ヨーロッパの農業生産性が大きく上がります。
人口が増えたヨーロッパのキリスト教徒は、外へ進出しようとします。ところが周囲は、イスラム教徒が支配するイベリア半島・北アフリカ・中東と、スラブ系の人々が住む東ヨーロッパで、いずれもキリスト教徒ではない人たちの土地でした。
西ではスペインをイスラム教徒から取り返し、中東には十字軍を送ってキリスト教国家を築きます。しかし中東の国々はほとんどイスラム勢力に取り返され、行き場を失った騎士や兵士たちが、12〜13世紀に東ヨーロッパへ植民していきました。
気候の温暖化
10〜14世紀ごろ、農業技術の革新とともに生産性が向上
人口の増加
キリスト教徒がヨーロッパの外へ進出しようとする
十字軍とその後退
中東に築いた国家の多くがイスラム勢力に取り返される
東方植民
行き場を失った騎士たちが12〜13世紀に東ヨーロッパへ
プロイセン建国
ドイツ騎士修道会がプルーセン人の地に国を建てる
東方への移住を中心的に担ったのは、武装したキリスト教の僧侶集団であるドイツ騎士修道会 ── 十字軍の時代に結成された宗教騎士団。のちにバルト海沿岸へ進出し、修道会自身が国を治める騎士団国家を築きましたでした。彼らはバルト海沿岸に進出し、そこに住んでいたスラブ系のプルーセン人の地に国を建てます。これがプロイセンです。
この命名に、樋口さんは驚きを示します。征服した側が、征服された側の名前を国名にしているからです。
でもすごいよね。征服した方が征服された方の名前使ってるからね、これ。
楊さんによれば、プルーセン人はとても勇敢で、ほとんど絶滅するまで抵抗を続け、ドイツ騎士修道会に虐殺された歴史があります。理由は本にも書かれておらず、わからないといいます。
樋口さんは、騎士修道会は自分たちを「ドイツ騎士修道会」と認識していたので、国の名前をつけるモチベーションが低かったのではないかと推測します。ただし本人は直後に、根拠のない推測だと断っています。
普段は本をちゃんと読んでソースのある内容で、今のとこはものすごく適当なことを言ってます。
お坊さんが治める国は、どう運営されたのか
後にプロイセンとしてまとまる土地は、騎士修道会が建てたプロイセンだけではありません。楊さんは、今のポーランドやドイツ北部はほとんどスラブ系の人々が住む土地で、そこにさまざまなゲルマン系の人々が入植してキリスト教を伝えていったと説明します。
ポンメルンやシュレジエンでは融和が平和的に進み、ベルリン周辺のブランデンブルクでは多少の抵抗はあったものの比較的緩やかに征服が進みました。こうしたドイツ北部からポーランド北部にかけての土地が、のちにまとまってプロイセンになります。
楊さんが面白いと語るのは、騎士修道会による国の治め方です。修道会のメンバーは全員聖職者なので、妻や子どもを持てません。そのため、当時ふつうだった血縁による相続で領地を統治することができませんでした。
そこで騎士修道会は、騎士になりたくて入ってきた貴族の次男・三男が出世していく官僚組織をつくり、その上に会議で物事を決める合議体、さらにその上に総長を置きました。楊さんはこれを、共和制的で少し近代的な印象のある組織だと表現しています。
次男三男がね、長男じゃないから、自分の土地を世襲できない人たちがここに来るっていう感じになってるんですよね。
ただし国の中では、貴族が農場や荘園を経営して具体的な統治を担っていました。楊さんは、当時のヨーロッパには修道会が治める国も、王が治める国も、大貴族が治める国もあり、それぞれが独立性を持って運営されていたと話します。
プロイセンの騎士修道会国家では、他宗教の人々はとても苦しい立場に置かれ、異民族は討伐されて虐殺されていたと言われているそうです。
肩書きが多すぎる「複合君主制」とは何か
プロイセンの歴史を理解する鍵として、楊さんは複合君主制 ── 近世ヨーロッパで、1人の君主が複数の国や領邦をそれぞれ別の資格で治める体制。各地の法や行政は統一されずに残りましたという概念を紹介します。1人の人物が、ある国の王でありながら別の国の大貴族でもあり、さらに小さな領地も持っている、という状態が可能だったのです。
楊さんは、Googleの社長がマイクロソフトの部長も兼任しているようなものだと例えます。樋口さんは、ノルマン朝のイングランド王が、フランスではフランス王の臣下であるノルマンディー公でもあった例を挙げています。
極端な例として紹介されたのが、エリザベス1世の回に敵役として登場したカール5世です。楊さんはその称号を読み上げますが、カスティリア、レオン、両シチリア、エルサレム、グラナダなど、地名がいつまでも続きます。
楊さんによれば、これらの多くは今のスペインの州にあたる小さな領域で、それぞれに王がいました。カール5世はその全部の王を兼ねていた、という意味の称号なのです。
樋口さんは、日本や中国ではこうしたことは起きておらず、全部の王ならまとめて1つの国の王と名乗ればよいはずなのにそうならないところに、ヨーロッパの王政の複雑さがあると話します。統一権力がなく、活動の結果として獲得した地位を整理できていないからだ、という見立てです。
一方で、この感覚は現代にもあるという話になります。商店街のリーダーであり、会社の役員であり、家族のリーダーでもある、というように、人は社会の中でたくさんの肩書きを持っています。樋口さんは自分自身に重ねて納得したと語ります。
僕これ読みながらさ、なんでこんな複雑なことするんだろうなと思ってたけど、俺もやってたよね。
いろんな会社の役員してるの、まさにこれだもんね。
ホーエンツォレルン家は、なぜ飛び地の国になったのか
複合君主制の下では、小さな国をたくさん集めても行政機関は統一されず、多元的な行政を複雑なまま抱えることになります。ここで登場するのが、神聖ローマ帝国の貴族だったホーエンツォレルン家 ── ドイツ南西部シュワーベン出身の貴族の家系。ブランデンブルク選帝侯、プロイセン王を経て、のちにドイツ皇帝も出しましたです。
楊さんの説明では、ホーエンツォレルン家は少しずつ領土を得ながら中心地を北へ移し、ベルリン近くのブランデンブルクを辺境伯として領有します。その頃に宗教戦争である三十年戦争 ── 1618〜1648年に神聖ローマ帝国を主な戦場として起きた宗教戦争。周辺諸国も巻き込み、ドイツの国土は大きく荒廃しましたが始まりました。
転機となったのは、騎士修道会の最後の総長がホーエンツォレルン家の出身だったことです。この総長は宗教戦争のさなかに修道会をやめ、世俗に戻って国を統治すると宣言し、プロイセンをホーエンツォレルン家に譲るという遺言を書きました。
樋口さんは、宗教戦争で宗教組織を維持する力が弱まり、誰も存続を望んでいなかったから解散になったのではないかと話します。
こうしてホーエンツォレルン家は、ブランデンブルクとプロイセンを併せ持つことになります。三十年戦争はウェストファリア条約で終わり、神聖ローマ皇帝の権力が失墜するなかで、帝国内の小国は事実上の主権国家として独立色を強めていきました。
ただし楊さんによれば、この時期のホーエンツォレルン家は複雑な立場にありました。ブランデンブルク辺境伯としては神聖ローマ皇帝の臣下、プロイセン公としてはポーランド王の臣下で、2つの主君を持っていたのです。
ホーエンツォレルン家は神聖ローマ帝国内でハプスブルク家に次ぐ2番手の勢力になりますが、領地はまとまっていませんでした。支配する7つか8つの領域はそれぞれ小さく、離れた飛び地だったのです。バラバラの領土と統治体制を一元化することが、この一族の課題になりました。
「全員フリードリヒ」の曾祖父、大選帝侯は何をしたのか
この課題に取り組んだのが、フリードリヒ大王の曾祖父にあたる大選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムです。父も祖父もフリードリヒという名前で、樋口さんは名前のバリエーションのなさに不満をこぼします。
マジでもう少しバリエーション用意しろと。
楊さんは「樋口さんの曽祖父までが全員樋口聖典」と例えて笑いを誘います。そこで番組では、主人公のフリードリヒ以外はあだ名で呼ぶことにしました。
選帝侯とは、選挙で選ばれる神聖ローマ皇帝の選挙権を持つ貴族のことです。大選帝侯はまずポーランドと戦い、ポーランドの宗主権から離脱しました。
ブランデンブルク辺境伯としては神聖ローマ皇帝の臣下、プロイセン公としてはポーランド王の臣下
プロイセン公としては主君なし、ブランデンブルク辺境伯としては神聖ローマ皇帝の臣下
とはいえ周囲は、西にフランス、北にオランダ、東にポーランドやスウェーデン、南に神聖ローマ皇帝と、大きく強い相手ばかりで、プロイセンは孤立していました。番組では、大選帝侯は夢想家的だったとされ、力がないのに艦隊を作ってアフリカに植民地を築き、すぐに売り払うことになったと紹介されます。
一方で大選帝侯は、のちのプロイセンの発展の基礎となる常備軍を、ホーエンツォレルン家で初めて導入しました。それまでの戦争では傭兵を雇っていましたが、傭兵には戦時にいろいろな不都合があったといいます。
その分ね、お金かかっちゃうんだよね。やっぱり常備軍ってずっと雇ってるじゃん。戦争の時だけじゃなくて、ずっと人件費払ってるんで。
常備軍の財源として、大選帝侯は国内のユンカー ── プロイセンなどドイツ東部の土地貴族。中世の騎士の流れをくみ、領地で農場を経営し、強い支配権を持っていましたと呼ばれる貴族から税を取りました。ユンカーに自分の領地での強い権限を認める代わりに、税を納めさせる仕組みです。
戦争のたびに雇う兵。戦時にいろいろな不都合があった
常に設置される自前の軍隊。人件費がかかり続けるため、ユンカーへの課税で財源を確保した
オランダとリプシウスから何を学んだのか
大選帝侯のもう1つの大きな仕事は、国家運営のモデルとしてオランダに注目したことです。当時のオランダは黄金時代で、スペインから独立を勝ち取り、オランダ東インド会社で海外貿易に乗り出し、ポルトガルから香辛料貿易の利権を奪い、長崎の出島にも拠点を置いていました。
小国でありながら覇権国家となったオランダを、大選帝侯と官僚たちは三十年戦争で荒れたブランデンブルクを復興させる手本にしようとします。大選帝侯自身がオランダに留学し、オランダを統治する一族の女性と結婚し、官僚や将校の息子たちも留学させたと番組では説明されています。
そこで影響を受けたのが、オランダの軍制改革のキーマンとされる政治学者ユストゥス・リプシウス ── 16世紀ネーデルラントの人文主義者。古代ストア哲学を近世の政治や軍事に応用した新ストア主義を唱え、各国の君主や軍人に読まれましたです。リプシウスの本は国際的なベストセラーとなり、宮廷や大学で政治の教科書として使われるほどだったといいます。
番組での説明によれば、リプシウスは国王と身分制を温存したまま中央集権を強め、経済、行政、軍事を合理化して、君主を頂点とするトップダウン構造をつくることを唱えました。今でいう開発独裁に近い考え方です。
リプシウスは君主のあり方についても語っています。君主は感情に動かされず、自分を理性で律するべきだという考え方で、これがフリードリヒ大王にも大きな影響を与えたとされます。
さらにリプシウスは、常備軍の創設も提唱していました。外国人の傭兵に頼らず自前の軍を持つこと、税で軍の財源を確保すること、兵に訓練を施して規律を身につけさせることを説いたといいます。
こうした考え方は新ストア主義 ── 古代ローマのストア派哲学をもとに、理性・規律・忍耐を重んじる近世の思想潮流。国家統治や軍隊の組織化に応用されましたと呼ばれ、大選帝侯はそれを自国に取り入れようと熱心に学びます。それが以後のホーエンツォレルン家の統治方針として受け継がれていきました。
理性的な君主は、本当に実現できるのか
新ストア主義が君主に求める姿について、番組では、一見すばらしいシステムに見えて、実はかなり無理を言っているのではないか、という意見が出ます。1人の人間に、常に合理的で機械的な判断を求めることになるからです。
現代の政治家にも、人間的で常識的な判断と、合理的な判断の両方が求められるという指摘があり、会社経営にも通じるという声も上がります。樋口さんは、これを設計段階の問題として捉えます。
樋口さんによれば、君主も政治家も経営者も、実際にはそういう生き物ではないので、百点を目指しても百点にはなりません。この時代は百点を目指すことしか考えていなかったが、今は結果が出ているので、百点にならない前提でどうするかを考えたほうがいいのでは、と話します。ただし、これは一側面の捉え方だとも断っています。
さらに樋口さんは、この考え方に、マックス・ウェーバーが指摘したようなプロテスタンティズム的なストイックさを感じると語ります。宗教戦争を経た時代の感覚が、ここに生きているという見方です。
最後に番組では、この回の内容がまとめられます。ヨーロッパの東北の辺境をドイツ騎士修道会が征服し、その植民地がヨーロッパの秩序に取り込まれるなかでホーエンツォレルン家の領地に集約され、新ストア主義に基づいて富国強兵を始めるまで、およそ1000年かかったという流れです。
樋口さんは、プロイセンが飛び地を抱え、1つにまとまりたいと強く思っていた国だという特性も付け加えます。次回は大王の祖父と父の話で、フリードリヒ本人が登場するのはその次の回になると予告されました。
まとめ
フリードリヒ大王の前史となるこの回では、東方植民で生まれたプロイセンが、複合君主制のもとでホーエンツォレルン家の飛び地の国となり、大選帝侯がオランダとリプシウスに学んで国家の土台を築くまでがたどられました。
- プロイセンは、ドイツ騎士修道会が滅ぼしたプルーセン人の名を取って建てた国で、命名の理由ははっきりしていない
- 複合君主制のもとでは1人が複数の国の君主を兼ね、カール5世の長大な称号はその典型だった
- ホーエンツォレルン家はハプスブルク家に次ぐ勢力となったが、領地は小さな飛び地に分かれていた
- 大選帝侯は常備軍を導入し、ユンカーへの課税で財源をまかなった
- リプシウスの新ストア主義が説いた「理性で自分を律する君主」像は、フリードリヒ大王にも影響を与えたとされる





