国がまだ「国」ではない時代とは?
フリードリヒ大王編の3回目は、プロイセンという国がもうできているのかという深井さんの問いから始まります。楊さんの答えは「微妙なんですよね」というものでした。
楊さんによると、この時代のヨーロッパには、現在の私たちが思い浮かべるような国は存在していません。あるのは大小さまざまな領地で、王が治めれば王国、公爵なら公国、伯爵なら伯領と呼ばれます。
それぞれの領地には主権、宮廷、行政機関、裁判所があり、一つ一つが国のようなものだったといいます。ホーエンツォレルン家は当時、ブランデンブルク辺境伯領とプロイセン公国という2つの大きな領土を持っていました。
なんか、だから複合君主制によってそれが。しかもそれが全部飛び地ね。
ホーエンツォレルン家の当主は、プロイセンではプロイセン公、ブランデンブルクではブランデンブルク辺境伯という別々の肩書きを持っていました。1人のリーダーが複数の領地を兼ね、しかも領地ごとに別の人の臣下になることもあるため、構造はさらに複雑になります。こうした体制が複合君主制 ── 1人の君主が、法や制度の異なる複数の領地を同時に治める体制。近世ヨーロッパで広く見られましたです。
番組では、世界地図が国ごとに塗り分けられている感覚をいったん捨て、「この集落群はこの人のもので、税金はこの人が取る」という単位で考えるとわかりやすいと説明されます。働き方にたとえると、少し前の会社員に副業や複数の所属を説明するような感覚だそうです。
猫背フリッツはなぜ王号を欲しがったのか
曽祖父の大選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムは、オランダをモデルに常備軍を作りました。ただ当時のプロイセンは、フランスやイギリス、スペインといった大国に比べると、まだ弱い小国でした。
続く祖父の名前はフリードリヒ1世で、あだ名は「猫背フリッツ」です。贅沢をする人という意味で「豪奢王」とも呼ばれました。
だって、そう、ちょっともういろいろ、ちょっとまず一世やなかったんかいっていうのがあってて。
孫のフリードリヒ大王は、祖父の猫背フリッツを「肩が張って胸が薄い小男で、背骨が曲がっていた」「個性に乏しい凡庸な君主」「虚栄心の塊」と酷評しています。一方で番組では、猫背フリッツは教養ある宮廷を営んだ人物で、大王は祖父から大きな影響を受けていると語られます。
猫背フリッツの大きな功績は、17世紀から18世紀への変わり目に、プロイセンを王国に昇格させたことです。プロイセンは神聖ローマ帝国 ── 中世から1806年まで続いた、ドイツを中心とする諸領邦の連合体。皇帝はいたものの、近世には権威が大きく弱まっていましたの一部で、本来は皇帝がいる以上、王を名乗れませんでした。
しかし三十年戦争で皇帝の権威は下がり、各領邦は主権国家のように振る舞うようになります。そこで猫背フリッツは、王を名乗る許可を皇帝に願い出ました。
王号を欲しがった理由は外交でした。ライバルの複合君主たちはどこかで王号を持っていたのに、猫背フリッツだけは持っていませんでした。王号がないと格下に見え、対等に渡り合えない感覚がとても嫌だったようです。
猫背フリッツは、有事には皇帝に軍隊を貸すことや、今の金額で10億円ほどを払うことを約束し、王位を手に入れました。孫の大王はこれを「意味のない王号」と批判しましたが、歴史家は、権威そのものが政治的なカードとして機能した以上、王号には意味があったと評価しているそうです。
お菓子に1億7000万円。贅沢はなぜ外交だったのか
当時のフランス王は「太陽王」と呼ばれたルイ十四世 ── 17〜18世紀のフランス国王。ヴェルサイユ宮殿を舞台にした豪華な宮廷文化と、絶対王政の象徴として知られますで、莫大なお金を使った豪華な宮廷生活を送っていました。猫背フリッツは、このルイ十四世を真似しようとします。
猫背フリッツは豪華な衣装や料理に加え、宮廷菓子職人の経費にもお金を使いました。お菓子の経費は年間5000万円ほどだったものを、1億7000万円まで増やしたといいます。祝賀会では、黄金の器、ダイヤモンド付きの煙草入れ、エメラルドの指輪などを引き出物のように配りました。
番組では、こうした贅沢ができること自体が、この時代の外交的なパワーだったと説明されます。目に見える豪華さによって、国家間の序列がある程度決まっていく時代でした。
ザクセン選帝侯やバイエルン選帝侯など、同じ選帝侯の立場にある人たちも同じように多くのお金を使っていました。ただ、他の君主には収入があったのに対し、プロイセンには目立った産業がありません。そのため猫背フリッツは、破産寸前まで追い込まれます。
外交中心の時代
三十年戦争後、戦争よりも外交で決着をつけることが主流になる
フランスが基準
最大の国フランスのルイ十四世が、豪華な宮廷文化を作る
派手合戦
各国の君主が権威を示すため、豪華さを競い合う
破産寸前
収入の少ないプロイセンも追従し、財政が苦しくなる
番組では、この派手合戦はナポレオン戦争後のウィーンで外交団の地位が制度として決められるまで続いたと語られます。仕組みができるまでは、広告宣伝費であり、外交費であり、ブランディング費でもある贅沢を続けるしかなかったという見方です。
当時のフランスは、2位の国の倍ほどの人口を持つ大国でした。フランス語はヨーロッパの共通語で、今の英語のような立場にありました。
一方で、猫背フリッツ自身も教養や文化を好む人物でした。ベルリン宮殿やシャルロッテンブルク城の建設では、有名な彫刻家や建築家にお金が流れます。その結果、学者にも資金が回り、自然科学や啓蒙思想 ── 理性によって迷信や古い権威を見直そうとした18世紀ヨーロッパの思想運動が育っていきました。
猫背フリッツは贅沢を批判される一方で、学問と芸術の拠点の素地を整えた君主とも評価されています。番組では、浪費と文化の発展は表裏一体だったと語られます。
ライプニッツと語り合った祖母ゾフィー・シャルロッテ
祖父の代のもう1人の重要人物が、猫背フリッツの妻で大王の祖母にあたるゾフィー・シャルロッテ王妃です。ゾフィー・シャルロッテはハノーファー選帝侯 ── ドイツ北部ハノーファーを治めた選帝侯家。のちにイギリス王家となるヴェルフェン家の系統です家の出身で、とても賢く、美しい女性だったといいます。
ゾフィー・シャルロッテ王妃は、哲学者で数学者でもあるライプニッツ ── 17〜18世紀ドイツの哲学者・数学者。微積分の発見者の1人で、モナド論などの難解な哲学で知られますと普通に会話できるほどの教養人でした。
で、僕、ライプニッツの本読んだことあるんですけど、マジで何言ってるかわかんないです。
ゾフィー・シャルロッテ王妃は、英語、フランス語、イタリア語をネイティブ並みに話しました。フランス語は、フランス人からもフランス人ではないかと思われるほど流暢だったそうです。祖父をこき下ろした大王も、この祖母のことは高く評価していました。
番組では、祖父母の代に育まれた文化を大切にする気風を、大王が濃く受け継いだと語られます。大王の教養人としての資質は、特にこの祖母に似たものだという見方です。
ゾフィー・シャルロッテ王妃は37歳で亡くなりました。死の床では、ライプニッツにも説明できなかった事物の根源を見に行けるのが楽しみだと語ったそうです。夫の国王には「盛大なお葬式という楽しみを1つ残してあげられる」と言い、周りを泣かせたといいます。
教養人夫婦から生まれた粗暴な軍人王
猫背フリッツとゾフィー・シャルロッテの間に生まれたのが、大王の父フリードリヒ・ヴィルヘルムです。曽祖父と同じ名前の登場に、深井さんは思わずツッコミを入れます。
二世でいいやん。もうナンバリングのルールがもうmacOSみたい。ややこしい。
フリードリヒ・ヴィルヘルムは、文化を愛した両親とは正反対の性格で、「軍人王」と呼ばれました。本には、優雅な母とは似ても似つかない粗暴で無骨な子どもで、フランス風の宮廷生活を愛した父の趣味も継がなかったと書かれています。
フリードリヒ・ヴィルヘルムは幼い頃、母の実家であるハノーファーの宮廷で育ちました。ハノーファー家はイギリス王家と同じ家系で、いとこのゲオルクはのちにイギリス王ジョージ2世になります。
少年時代のフリードリヒ・ヴィルヘルムは、このいとこのゲオルクに暴力を振るい、銀糸の刺繍が入った寝間着を暖炉の火に放り込んだという逸話が残っています。深井さんは「スパルタ感ありますね」と反応し、樋口さんは親子が思った通りに育たない面白さを語ります。
フリードリヒ・ヴィルヘルムが結婚した相手はゾフィー・ドロテアです。母がゾフィー・シャルロッテで、妻がゾフィー・ドロテアという紛らわしさに、スタジオでは再びツッコミが入ります。
城の700室のうち5室だけ。軍人王はどこまで倹約したのか
軍人王フリードリヒ・ヴィルヘルムは、お金を惜しまず使った父と違い、徹底した倹約家でした。父の浪費で財政が苦しく、立て直さなければならない事情もありました。
軍人王は、700室ある城のうち自分のために使ったのは5室だけでした。食事もキャベツと豚肉、グリーンピースと羊のカツといった市民的な家庭料理で満足していたといいます。
ただし軍人王は、家族や客人を満腹にさせることはなく、ごちそうを食べたいときは他人の家に出かけていきました。牡蠣を100個贈られたときは、70個を自分で食べ、残りの30個を7人の客に出したそうです。
軍人王をもてなしたオーストリア大使は、「陛下は昼食と夕食を召し上がった後、狼のようにへどをお吐きになった」と書き残しています。このエピソードには、スタジオも解釈に困っていました。
軍人王の倹約は、国家財政にも及びました。宮廷の年間予算は27万ターラーから5万5000ターラーまで減らされ、番組ではこれを80パーセント削減と紹介しています。花壇は大根とキャベツの畑になり、豪華なヨットはロシアで兵隊と交換され、動物園のライオンは他国に売られました。
芸術は、軍人王にとって無駄どころか悪でした。劇場は閉鎖され、芸術アカデミー、オルガン作りの名人、金細工師も不要とされます。舞踏会や仮面舞踏会、市民の射的大会まで禁止されました。
大学についても、軍人王は真理を探求する場ではなく、国家の役に立つ人材を育てる場であればよいと考えていました。役人は安い給料で猛烈に働かされ、小さな汚職も容赦なく罰せられます。
軍人王はユンカー ── プロイセンの在地領主層。土地と農民を支配し、のちに軍や官僚の中核を担いましたからも税を厳しく取り立てました。「経済が破壊される」と抗議するユンカーに対し、軍人王は「破壊されるのはお前らの権力であって、領土ではない」と言い返したといいます。
一方で軍人王は、使うべきところでは使う人物でした。今の金額で150億円ほどを食器に払ったこともあるそうです。軍人王はフランスを嫌い、「フランス人を見ると唾を吐きたくなる」とまで言っています。教養に満ちた皮肉を好んだ息子の大王とは対照的に、何でもストレートに言う王でした。
フランス風の豪華な宮廷に大金を使い、芸術や学問を育てたが、破産寸前まで追い込まれた
宮廷費を大幅に削り、芸術を切り捨て、お金を軍事に回した
人口250万人で兵力8万人。プロイセン軍はどう強くなったのか
軍人王は軍事費を惜しみませんでした。在位中にプロイセン軍を3万8000人から8万人まで増やしています。当時のプロイセンの人口は250万人ほどで、およそ25人に1人、男性に限ると13人に1人ほどが兵士だった計算になります。
| 国 | 人口 | 兵力 |
|---|---|---|
| プロイセン(軍人王の晩年) | 250万人 | 8万人 |
| フランス | 2000万人 | 16万人 |
| オーストリア | {placeholder} | 10万人 |
兵力の数を比べると、プロイセンが国の規模に対して異例の投資をしていたことがわかります。
プロイセン軍は数だけでなく、質も優れていました。兵士は同じ弾丸を使い、同じ歩幅とスピードで動けるよう、機械の歯車のように訓練されます。1分間に3回の一斉射撃ができるまで鍛えられ、大王の時代には1分間に7回まで向上したといいます。
軍人王は兵士そのものも好きで、背の高い兵士を集めたポツダム巨人衛兵隊を作りました。当時は175センチほどで長身とされ、条件を満たした人には今の金額で年収2000万円ほどが支払われたそうです。
ところが軍人王は、これほど強い軍隊を持ちながら、ほとんど戦争をしていません。深井さんは「宝の持ち腐れ」と驚きますが、番組では、軍隊は持っておくこと自体に大きな意味があると説明されます。そもそも戦争は最もお金がかかるため、倹約家の軍人王は必要のない戦争を避けました。
軍人王が優れていたのは、費用のかかる常備軍を増強しながら、借金に頼らず財政赤字も出さなかった点です。ユンカーから税をきちんと集めきったところに、辣腕の政治家としての一面が見えます。
同じ時期のフランスは、収入が多いにもかかわらずお金を使いすぎました。その後、財政破綻から民衆への増税を経てフランス革命へと進みます。番組では、プロイセンは財政破綻の手前で踏みとどまったことになると語られます。
アレクサンドロス大王の父に似た軍人王と、文化系の息子
樋口さんは、軍人王は王としてとても優秀だったのではないかと個人的に評価します。そのうえで、アレクサンドロス大王の父フィリッポス2世になぞらえました。
フィリッポス2世は軍を整え、その息子アレクサンドロスが大きな戦果を上げました。同じように、フリードリヒ大王が戦争で勝てた理由の1つも、父の軍人王が強い軍隊を残していたことにあると考えられます。
ところが、軍人王のもとに生まれたフリードリヒ大王は、祖父に似て教養に憧れる文化好きの少年でした。息子のフリードリヒは、最初から父の軍人王とまったく合いません。
ここが隔世遺伝というか、なんというか。面白いですね。
軍人王との対立によって、フリードリヒ大王は大きな苦労を背負うことになります。次回からは、いよいよフリードリヒ大王本人の話が始まります。
まとめ
フリードリヒ大王の祖父と父は、まったく正反対の王でした。祖父の猫背フリッツはプロイセンを王国にし、贅沢な宮廷によって文化と学問の素地を作りました。父の軍人王は徹底した倹約で財政を立て直し、国の規模に見合わないほど強い軍隊を築きます。大王は祖父母から教養を、父から軍事力を受け継いだと言えそうです。
- この時代のヨーロッパは国ではなく領地の集まりで、複合君主制のもとで1人の君主が複数の肩書きを持っていた
- 猫背フリッツは外交上の権威を得るために王号を獲得し、フランスを真似た贅沢で財政を傾けた一方、文化と学問を育てた
- 祖母ゾフィー・シャルロッテはライプニッツと語り合える教養人で、大王の教養の源流とされる
- 軍人王は宮廷予算を大幅に削り、兵力を8万人まで増やしながら、財政赤字を出さずに強い軍を築いた
- 文化好きの大王と実利主義の父との対立が、次回以降の物語の出発点になる





