イギリスはなぜアジアへ向かったのか?
コテンラジオ日露戦争編の前回は、東アジアの秩序が華夷思想 ── 中国を文明の中心とし、周辺を文化的に劣る「夷」とみなす世界観。皇帝を頂点とする序列で国際関係をとらえますという特殊な思想に基づき、西洋とは全く違っていたという話でした。今回はその続きとして、清がヨーロッパ列強の進出を受けていく過程が語られます。
楊さんによると、清に特に大きな影響を与えたのはイギリスでした。新大陸がヨーロッパの世界に入ってきたことや商工業の発展によって、イギリスでは香料やお茶などの嗜好品への需要が高まっていきます。
豪華な品に多くの人がアクセスできるようになり、イギリスはそうした産品を生むアジア諸地域との関わりを深めたいと考えました。ただ、産地となるアジアの国々は、ヨーロッパ諸国の取り合いの対象になっていきます。
| 国 | 主な支配地域 |
|---|---|
| イギリス | インド |
| フランス | 仏領インドシナ(今のベトナムやラオスなど) |
| オランダ | 今のインドネシアなど |
イギリスは1600年に東インド会社 ── アジアとの貿易を独占的に担うためにつくられたイギリスの特許会社。のちに植民地統治も行う巨大な組織になりましたを設立し、インドを巡るフランスとの戦いに勝って、東アジアや東南アジアへ進出していきます。
交易の拠点には、商人の居留地や要塞を備えた「ファクトリー」が作られました。フランスやオランダからの攻撃に備えたこのファクトリーが、やがて租界 ── 外国人が居住し、行政権などを持った特別地区。中国の開港場などに設けられましたと呼ばれる外国人居留地へと変わっていきます。
中国とかに欧米列強が進出していった後も、どこかしこにも住んでいるってわけじゃなくて、(外国人は)固まって住んでいました。
そのイギリスが東アジアへ進出する中で起きたのが、清との戦争であるアヘン戦争でした。楊さんはアヘン戦争を、西洋が東洋から世界の覇権を奪った象徴的な出来事だと位置づけます。
我が祖国が世界覇権の座から転げ落ちるきっかけになったアヘン戦争を、中国人である僕が語りますよ。
広東システムと密貿易ルートは何を生んだのか
アヘン戦争の前提として、楊さんはまず当時の清の貿易体制を説明します。清では皇帝が支配し、貿易も国が管理していたため、自由貿易は基本的にできませんでした。
清が貿易を認めた場所は広東という1つの港だけでした。さらにその港では、清から特許をもらった指定仲買人が貿易を取り仕切り、海外の商人は決められた相手とだけ取引するよう指示されていました。
この管理貿易は「広東システム」と呼ばれます。もっと貿易拠点を作り、利益を上げたいイギリスにとって、広東システムはアジアで利権を広げるうえでの大きなハードルでした。
ところが広東システムの裏側で、別の密貿易ルートが形成されていきます。もっと儲けたい指定仲買人たちが、自分の特許を民間事業者に名義貸ししたのです。
指定仲買人
清から特許をもらい、公式に貿易を仕切る
名義貸し
もっと儲けるため、特許を他の民間事業者に貸す
民間事業者
海外の個人商人たちと勝手に貿易を始める
密貿易ルート
政府の管轄外で取引が広がり、東インド会社がアヘンを売り込む
楊さんは、この政府に管轄されない密貿易ルートを使って、東インド会社が清にアヘンを売り込んだことを前提知識として押さえています。
紅茶の赤字をアヘンで取り返すという発想
イギリスがアヘンを清に流した理由として、楊さんが挙げるのは紅茶の需要です。産業革命で工場労働者が増え、疲労対策の飲み物として紅茶が大量に飲まれるようになりました。
120倍。
120倍紅茶の輸入が増えたんですよね。どこから輸入してたかというと、それが中国なんですよね。
イギリスは紅茶をあまりに大量に中国から輸入したため、大きな貿易赤字が生まれます。その赤字を取り返す手段としてイギリスが考えたのが、密貿易ルートを通じたアヘンの売り込みでした。
深井さんは、清側がそもそもイギリスの品物をほとんど欲しがっていなかった点を補足します。楊さんも、中国は大体のものを国内で自給自足できたと応じます。
売るもんないからどうしようってなった時に、マフィアと全く同じ思考方法で麻薬で麻薬漬けにしたらいっぱい買うだろつって。
紅茶需要の急増
産業革命で工場労働者が紅茶を飲むようになる
貿易赤字
清の紅茶を大量輸入するが、清はイギリスの品を欲しがらない
アヘンの売り込み
インドで栽培したアヘンを密貿易ルートで清へ流す
売り込みの主体について、楊さんは東インド会社だとしつつ、その背後に国がついていたと説明します。東インド会社は植民地のインドで、現地の農民に換金作物としてアヘンを作らせる政策を取っていました。
清を蝕んだ400万人の中毒者
楊さんによると、1773年ごろから少量のアヘンが秘密裏に広東へ持ち込まれ、闇の世界を通じて広まっていきました。アヘン戦争直前の1838年には、清に流れ込むアヘンの量が2400トンに達したといいます。
100人に1人という推定に、深井さんは「高校に3人、4人いる」と地元を思い出したような例えを持ち出し、楊さんからツッコミが入ります。
イギリス東インド会社がアヘンで大きく儲ける一方、清にはいくつもの悪影響が出ていました。楊さんは、清が受けた被害を次のように整理します。
- 銀が流出して銀高になり、税負担が倍になるなど市民生活が悪化した
- 中毒患者が増え、兵士にも広がって軍事力が低下した
- 国内でもケシ栽培が広まり、穀物の生産が減る危険があった
清の政府はアヘンを禁止する命令を出しますが、東インド会社は関わっていないとシラを切ります。さらに清の官僚たちが商人から大量の賄賂を受け取っていたため、真相追及もなおざりになっていきました。
林則徐はなぜイギリスを刺激したのか
清朝政府はようやく本腰を入れてアヘン対策に乗り出し、改革派の有能な官僚である林則徐 ── 清の官僚。アヘン禁止のため欽差大臣として広東に派遣され、没収したアヘンを処分したことで知られますを広東に派遣します。
楊さんが強調するのは、林則徐の周到な事前準備です。北京から広東へ移動する途中、大臣として招かれる宴会をすべて断り、学者たちにヨーロッパ情勢やアヘンに関する本を読ませて、毎晩のように講義を受け続けました。
その結果、林則徐は広東に着いたときには西洋情勢に詳しく、アヘンの焼却方法にも精通していたといいます。林則徐はイギリスの貿易監督官に理路整然と抗議し、さらにアヘンを焼きました。
この林則徐の対応がイギリスを刺激します。イギリスにはもともと自由貿易を実現したいという大きな目的があり、当時の外務大臣パーマストン ── 19世紀イギリスの政治家。外相や首相を務め、国益のためには武力行使も辞さない強硬な外交で知られますは自由貿易至上主義者でした。
楊さんによると、パーマストンは、アヘンの輸出をやめればまた紅茶貿易で赤字が出るため、国益のために断固拒否すべきだと考えていました。加えて、アヘン貿易で利益を得ていた商会もロビー活動を行います。
その代表がジャーディン・マセソン商会 ── アジア貿易で財を成したイギリス系の商会。現在も香港を拠点とする複合企業グループとして続いていますです。楊さんは、今も香港に本拠地を置き、マンダリンオリエンタルホテルグループなどを所有する大企業で、長崎のグラバー園もかつてジャーディン・マセソン商会の長崎代理店だったと紹介します。
イギリス議会では、キリスト教徒としてやってはいけないのではないかという反対論もありました。それでも投票の結果、賛成271票、反対262票という僅差で開戦が決まります。
ボロ負けした清と南京条約
開戦が決まると、イギリスは大艦隊を北京の港である天津に派遣して砲撃しました。楊さんは、清は内陸アジアの帝国で主力は騎馬兵力だったため、海軍力が乏しく西洋の近代兵器に全く歯が立たなかったと説明します。
ボロ負けした清は、不平等条約である南京条約を結ばされました。楊さんは、今の香港を巡る政治問題の始まりが、南京条約で決められた香港割譲にあると指摘します。
| 項目 | 内容 | 補足 |
|---|---|---|
| 領土 | 香港割譲 | 現在の香港問題の始まり |
| 賠償金 | 2100万ドル | 清の収入の4割程度 |
| 開港 | 5つの貿易港を開く | 大砲で強制的に開かせた |
さらに楊さんは、東インド会社の社員で植物学者のロバート・フォーチュン ── 19世紀イギリスの植物学者。中国から茶の苗木や製茶技術をインドへ持ち出したことで知られますが中国奥地からお茶の苗木を持ち出し、インドで栽培した話を加えます。そこから生まれたのがダージリンティーで、清によるお茶の独占は失われていきました。
深井さんは一連の出来事を、裏から麻薬を流してシラを切り、アヘンを燃やされたら怒って戦争を仕掛け、勝ってお茶を持ち出し香港を取ったと振り返ります。
で、勝ってお茶を盗み。
言い方。
これが帝国主義です。弱肉強食でしょ?
道徳の教科書に載っていたアヘン戦争
今の中国の人々がアヘン戦争をどう受け止めているのかについて、楊さんは自身の小学校時代の記憶を語ります。
僕が中国で小学校通ってた時に、道徳の授業の教科書にアヘン戦争とか載ってあったんですよ。
中華民族最大の屈辱とか書いてあった記憶がある。
歴史ではなく道徳の授業で扱われていたという点に、深井さんも驚きを示します。アヘン戦争は中国で、屈辱の記憶として教えられてきたと楊さんは考えています。
太平天国の乱とアロー戦争、清はなぜ崩れていったのか
楊さんは、アヘン戦争のあと中国で2つの大きな動乱が起きたと話します。1つ目が太平天国の乱 ── 1851年に始まった清朝への大反乱。キリスト教の影響を受けた洪秀全が指導し、長期にわたる内戦となりましたです。
太平天国の乱は、プロテスタントの影響を受けた客家 ── 中国の漢民族の一系統とされる集団。独自の言語や文化を持ち、各地に移住した歴史がありますの人物が、中国に楽園を築こうとして起こした内乱でした。清国政府は太平天国の乱を制圧できず、代わりに漢民族の軍閥が平定します。
その結果、清の軍事的な統制は緩み、自前の軍隊を持つ豪族のような漢民族の軍閥が力を持ち、貴族政治のような状態になっていったと楊さんは説明します。
2つ目の動乱が、アヘン戦争から15年後のアロー戦争です。清の官憲がイギリスの船アロー号を、国籍登録の更新を怠っていたことを理由に捕まえ、乗り込んでいた犯罪者を逮捕しました。
その際、イギリスの国旗が清の兵士に引きずり下ろされたとされます。楊さんは事実かどうかわからないと断りつつ、のちに日本公使となるイギリスの広東領事パークスが権利侵害だと激しく抗議し、フランスを誘って戦争に踏み切ったと語ります。
アロー戦争でも清は敗れ、天津条約が結ばれました。天津条約には、イギリスとフランスへの賠償金、外交官の北京駐在、外国人の内地旅行の許可、10の港の開港などが含まれていました。
え、いや、要はごめん、これ(アロー戦争)って要は戦争したかったってことですか?
とにかく東アジアの最大のマーケットである中国に食い込みたかったんですね。理由はなんでもいいんです。
樋口さんは、昔「お前なんか見よったろ」と因縁をつけられた経験になぞらえ、深井さんが「樋口さんが清側でね」と応じます。深井さんは、アヘン戦争で清が意外に弱いとわかったことが、アロー戦争でさらに容赦なく攻める背景になったと見ています。
円明園の焼失と、苦力として海を渡った人々
天津条約は南京条約よりもさらに厳しい内容だったため、清は一度これを拒否します。するとイギリスとフランスは連合軍を北京に出兵させ、略奪の限りを尽くしました。
清の美しい離宮だった円明園 ── 北京郊外にあった清朝の離宮。西洋風の建築も備えた広大な庭園でしたが、1860年に英仏軍によって破壊されましたは焼き払われて廃墟となり、略奪された宝物は後に大英博物館などヨーロッパの博物館に所蔵されたといいます。
その後に結ばされた北京条約では、賠償金の増額に加え、中国からの海外移民の公認が認められました。楊さんによると、当時シンガポールを開発していたイギリスが、清から労働力を調達するためにこの条項を持ち込んだのです。
ある意味で強制的に移民させられた中国人労働者は苦力 ── 19世紀以降、海外で過酷な肉体労働に従事した中国やインドの労働者を指す呼び名。クーリーと読みますと呼ばれ、シンガポールの開発だけでなく、アメリカの鉄道建設や中南米の開発にも使われていきました。
「天下」が消え、ウェストファリア体制が現れる
楊さんは、アヘン戦争、太平天国の乱、アロー戦争という一連の出来事の結果、東アジアから皇帝を中心とする「天下」がなくなったと説明します。代わりに現れたのが、近代国際法に基づくウェストファリア体制 ── 1648年のウェストファリア条約以降に形づくられた国際秩序。主権国家どうしが対等な立場で外交や戦争を行うことを前提としますでした。
皇帝を中心にぼんやり続く秩序。どの土地が誰のものかは大体でよかった
どこからどこまでがどの国かを厳密に決める。誰のものでもない土地は先に占めた者が取ってよい
楊さんは、ローマ法以来の「先占の論理」では、空いている土地は取ってよいとされると話します。東アジアのゲームのルールそのものが変わったことで、中国から見れば歯牙にもかけなかった日本が、新しいルールを実装して突如現れる構図になったといいます。
主権を持った国家と主権を持った国家っていうのが、外交的に話し合ったりとか、戦争をしたりして物事を決めることができるよっていう考え方。
一応建前上は対等。大きくても小さくても建前上全部対等。
樋口さんはウェストファリア体制を、全部が対等になる一方で強い者が勝てる発想だと受け止めます。
アヘン戦争に学んだ江戸幕府と、改革を阻んだ幕府
楊さんは続けて、アヘン戦争が日本に与えた影響を紹介します。アヘン戦争の勃発や清の劣勢は、長崎に入港したオランダ船や中国船によって刻々と日本へ伝えられ、清の惨状は書物を通じて全国に広まりました。
楊さんによると、江戸幕府は情勢を的確に認識し、異国の出来事を自国の戒めにしようとしました。アヘン戦争を起こした中国の二の舞にならないことが、幕府内で合言葉のようになっていたといいます。
ところが、改革を阻んだのもまた幕府でした。幕府は各地の大名が力をつけることを嫌い、大きな船や大砲の製造を禁じていましたが、その規則をなかなか撤廃しようとしなかったのです。
これに対し、佐久間象山 ── 幕末の思想家・兵学者。西洋の技術を積極的に学ぶべきだと説き、吉田松陰や勝海舟らに影響を与えましたらが、国としてまとまって軍事力をつけるべきだと主張し始めます。楊さんは、アヘン戦争をきっかけに、徳川家や幕府よりも国全体を考えるべきだという思想的な土壌が日本で育っていったと見ています。
幕府はヨーロッパに対して甘い情勢認識を持ち、徳川家の安全を優先していた
清の二の舞を恐れ、徳川家より国全体を考えるべきだという思想的土壌が生まれた
樋口さんは、外に大きな敵がいると内側がまとまりやすいという、いろんな組織によくあるパターンだと応じます。
吉田松陰と高杉晋作はアヘン戦争から何を見たのか
楊さんは、アヘン戦争から強い影響を受けた人物として吉田松陰と高杉晋作を挙げます。吉田松陰はアヘン戦争に強い関心を示して熱心に研究し、研究論文によればアヘン戦争を通じて世界情勢に目を向けるようになったといいます。
高杉晋作は上海に渡り、中国人が奴隷のように扱われている様子を見て強い危機感を抱きました。楊さんは、高杉晋作が長崎に帰国した翌日にオランダから勝手に蒸気船を買ったというエピソードも紹介し、アヘン戦争が倒幕の動きにも大きな影響を与えたと話します。
深井さんは、日本が近代化できたのは目の前で中国がボコボコにされるのを見たことが大きいと語ります。企業に例えると、世の中の変化を認識しない人や、それで消えていく企業はいくらでもあるといいます。
特にそれが組織にとって都合の悪い事実の場合は、その都合の悪い事実を認識するってものすごいハードルとコストが高いやつなんですよ。
深井さんは、都合の悪い現実を直視する難しさを日本が乗り越えられたのは、中国が敗れる姿を目にしたからだと考えています。
尊敬する「中国パイセン」の敗北が残した衝撃
深井さんによると、日本は漢字や律令制など多くを中国から取り入れ、武士の世になって独自路線を歩んでからも孫子の兵法を読むなど、中国を千数百年にわたり進んだ隣国だと見てきました。
なんか拮抗して結構強かったんだけどみたいな感じの負け方じゃないから。で、麻薬売られてボロボロにされてるっていうのは、やっぱりすごいね。
尊敬してる俺たちの中国パイセンが。
あのパイセンあんな感じになるんだっていう。
樋口さんは、文化も違い心理的距離も遠い西洋の人々が中国を一気に打ち負かす様子は、日本から見ると相当怖かっただろうと話します。深井さんは、その後に黒船が来たことで吉田松陰らの行動につながり、当時の日本の危機感は正当なものだったと振り返ります。
対等なはずの国際法で、なぜ麻薬を売れたのか?
深井さんは、ウェストファリア体制が建前上は対等なのに、なぜ麻薬を売るようなことができたのかという疑問に触れます。答えとして、キリスト教国でない国には何をしてもいいという感覚が、当時のヨーロッパに強くあったと話します。
文明化されてない国はそもそも対等じゃないんです。
樋口さんは、全員が同じ権利を持つように見えて実態は対等ではないと整理し、深井さんは、権利を持つ資格の前提に議会制民主主義などがあり、その背景にキリスト教が強くあったと補足します。
ある意味あれだよね、その序列とか、その先進国とか野蛮国っていう風に分けるっていう意味において、華夷思想とそう変わんないよね。
深井さんは、この後の日本はウェストファリア体制と、華夷思想に基づく中国中心の体制との板挟みになりながら近代化を進め、それが明治維新、そして日清戦争へとつながっていくと予告します。次回は日本がどう近代化したかが語られる予定です。
まとめ
アヘン戦争は、紅茶の貿易赤字を取り返そうとしたイギリスが密貿易でアヘンを流し込んだことから始まりました。清は続く太平天国の乱とアロー戦争でも弱体化し、東アジアの「天下」はウェストファリア体制に置き換わっていきます。その姿を目にした幕末の日本は、現状を認識し直す大きなきっかけを得ました。
- 紅茶の大量輸入による赤字を埋めるため、イギリスは密貿易ルートでアヘンを清に売り込んだ
- 林則徐のアヘン焼却をきっかけに、イギリス議会は271対262の僅差で開戦を決め、清は南京条約で香港割譲などを受け入れた
- アロー戦争や北京条約を経て、清を中心とする「天下」は近代国際法のルールに置き換わった
- 江戸幕府や吉田松陰、高杉晋作はアヘン戦争から危機感を学び、国全体で近代化を考える土壌が生まれた
- 対等を掲げるウェストファリア体制も、文明とキリスト教で序列をつける点では華夷思想と似ていると語られた


