「日本国民」はいつ生まれたのか?
前回はアヘン戦争を通して、清が東アジアの覇権を失う過程が語られました。今回は視点を日本に移し、明治維新後の日本が何に直面していたのかを追います。
深井さんによると、明治時代は一度に切り替わったわけではありません。明治初期の人々は将軍のことは知っていても、天皇のことは知らないという状態もあったといいます。
その藩の単位で生活してた人たちが、いきなり日本国民だってなったわけじゃなくて、日清戦争とかを通じて日本国民が誕生していくんですよ。
深井さんは、「あの大きな清と戦うのか」という感覚を通じて、日本が1つにまとまっていったと説明します。国民意識は、外との対立の中で段階的に育っていったと言われているそうです。
1868年に明治維新が起き、1871年には廃藩置県 ── 藩を廃止して府県を置いた明治政府の改革。旧藩主である大名の統治権を新政府に集め、中央集権国家の土台を作りましたが行われます。旧藩主の大名の権限を新政府が完全に取り上げ、今の都道府県とほぼ一致する県が置かれていきました。
同じ1871年、明治政府は政府を2つに分けます。岩倉具視を長とする使節団がアメリカとヨーロッパへ長期の視察に出る一方で、西郷隆盛らが留守組として日本に残りました。
深井さんは、この使節組と留守組の分裂が後に内乱のような事態になり、使節組側が勝って「明治政府バージョン2」のような体制に移っていくと予告します。
ビスマルクが明かした「国際関係の本音」
岩倉使節団が重要だった理由は、不平等条約にあります。明治維新の直前、黒船で来航したアメリカをはじめ、日本はアメリカ、ロシア、オランダ、イギリス、フランスと不平等条約を結ばされていました。
深井さんは、ウェストファリア体制 ── 主権国家同士が対等に並び、互いの内政に干渉しないことを原則とする近代ヨーロッパの国際秩序。1648年のウェストファリア条約がその起点とされますとはいっても、実際には力で勝る国が劣る国に不平等な条約を結ばせていたと指摘します。
その不平等条約を結んでるってことは、自分たちは列強ではないってことなんですよ。列強ではないっていうことは、アヘン戦争の清のようにボコボコにされる可能性を常にはらんでるわけですよね。
使節団は視察と並行して不平等条約の解消交渉を目指しましたが、結論としては解消できませんでした。当時の日本にはまだそこまでの力がなかったと深井さんは説明します。
使節団はプロイセンでビスマルク ── プロイセン、のちのドイツ帝国の首相。ドイツ統一を主導し、力と現実的な外交で知られる政治家ですの演説を聞いています。その内容は「先進国は都合の良い時には国際法を持ち出し、都合が悪くなると大砲を持ち出す」というものでした。
ビスマルクはさらに、国際関係を動かしているのは結局軍事力で、先進国の同情は当てにならないと述べます。遅れて近代化した小国プロイセンこそ日本との親善にふさわしいという演説に、使節団は強く感動したそうです。
いやー、ビスマルクいい人だね。ちゃんと飾り気なく真実をバンと言ってくれる。
なんかすっげえ遠くからなんか野蛮な人来たけど、何喋ろうかなと思ってこれ(演説)喋ったんでしょうね。
この演説を直接聞いたのは、岩倉具視、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文といった明治政府の重鎮たちでした。楊さんが言うように、みな教科書に載っている人物です。
征韓論は「侵略論」だったのか
使節団が海外にいる間、日本では西郷隆盛や板垣退助らの留守政府が政治を担っていました。留守政府は1873年に地租改正 ── 土地の価値に応じた税を現金で納めさせる明治政府の税制改革。それまでの米による年貢を改め、国家財政を安定させる狙いがありましたを行い、米で納めていた税を現金に変えています。
深井さんは、米で税を納めることは西洋から見ると野蛮に映ったと説明します。海外を実際に見た使節組と、国内で重要な改革を進めた留守組は、やがて朝鮮をどう扱うかで揉め始めます。
これがいわゆる征韓論です。教科書では西郷隆盛が征韓論を唱えたと書かれますが、深井さんによると、西郷隆盛は武力行使には反対で、朝鮮への使節派遣を考えていたといいます。
背景にあるのは、新しい国際ルールのもとで近隣国と関係を結び直さなければならないという焦りです。朝鮮や清と早めに外交関係を作るべきだという感覚は共通していましたが、その時期をめぐって意見が割れました。
両派の立場は、海外体験の有無によってちょうど逆向きになっていました。
国内の制度改革をすでに固めてきたので、そろそろ朝鮮へ使節を出して新しい外交関係を作るべきだと考えた
圧倒的な西洋文明を見て、今は国内を固めることが先で、朝鮮に何かするべきではないと主張した
新しいゲームルールでの振る舞いっていうのを日本が始めると、それ帝国主義的な振る舞いをしていると列強に見られてしまいますよね。そうすると潰されちゃうじゃないですか。
深井さんによると、この対立は後に政府内の大きな派閥となり、西南戦争 ── 1877年に西郷隆盛を中心とする旧薩摩藩士らが起こした反乱。明治政府軍が鎮圧し、日本最後の大規模な内戦とされますへ行き着きます。大久保利通の側が勝ちますが、その大久保も翌年に暗殺されました。
高杉晋作、坂本龍馬、西郷隆盛、大久保利通といった最前線の人物がいなくなり、伊藤博文のような「二番手」がトップになります。深井さんは、この世代交代による「明治政府2.0」で、明治維新が終わったという感覚になると語ります。
万国公法という「新しいゲームルール」
明治日本が入ろうとした近代国際社会のルールを、深井さんは万国公法 ── 19世紀の東アジアで使われた国際法の呼び名。西洋の国際法を漢訳した書物の題名に由来しますという言葉で説明します。このルールに従う国だと示せない限り、対等には扱われませんでした。
ISOみたいな感じかな。
(ISOの)スーパーバージョンみたいな感じでね。
明治国家は、天皇が主催する国家として万国公法を守ると宣言し、外国政府に承認されることで国際的なスタートを切っています。
ただし万国公法の主権国家間の平等と内政不干渉は、キリスト教地域だけに適用される原則でした。非キリスト教地域には別の基準が用いられたからこそ、西洋は植民地を作ることができたと深井さんは説明します。
深井さんによると、先に行った者がその地を治めてよいという考え方も、キリスト教社会の中の話でした。非キリスト教社会は、原住民が住んでいても「未開の地」とみなされていたのです。
欧米人の側からは、キリスト教の概念がない国の法律で裁かれるのは受け入れがたいものでした。そのため自国の法で自国民を裁く権利や関税を自由に決める権利を求め、それが非キリスト教国から見ると不平等条約になりました。
楊さんは、西洋の側はむしろ良いことをしていると考えていたと補足します。その関係を説明する言葉として、パターナリズム ── 強い立場の者が、弱い立場の者の利益のためだとして、本人の意思に関わらず介入や干渉をすること。父権主義とも訳されますを挙げます。
ただ一方で違う見方をすれば、自分たちの価値観を押し付けて、相手の独立と価値観の自由を認めていないってことでもあるわけですよね。
深井さんは、列強同士でさえ力の論理で動いていたことを踏まえ、ビスマルクの演説が真に迫ってくると語ります。楊さんも、列強同士の弱肉強食が国民国家化や軍備増強を促したと続けます。
なぜ明治日本は服装や結婚制度まで変えたのか
不平等条約の解消には、万国公法の主体となる最低基準を満たす必要がありました。深井さんによると、その基準が「文明化」であり、西洋が文明国と認めるかどうかという文明国標準 ── 19世紀の国際法で、国家が対等に扱われるために満たすべきとされた基準。実質的には西洋の法制度や生活様式が物差しでしたです。
審査されるんや。
文明国の基準はキリスト教文明の規範と生活様式でした。明治日本が着るものや結婚制度を変え、男性同士の恋愛を野蛮だとして禁止していった理由も、ここにあると深井さんは話します。
これ(文明化)がそのただ憧れてやってるとかいうレベルの問題じゃなくて、これをやらない限りは常に植民地にされる危険性にさらされているという立場だったんです、やっぱり。
深井さんは、欧米列強を批判すること自体が目的ではないと強調します。強い者が定めたルールに従う者だけがテーブルに乗るという構造は、あらゆる文明に再現性があるからです。
深井さんにとって歴史を学ぶとは、同じ構造のものが今どこにあるかを考えることです。樋口さんは、ITツールを導入していない会社を見下す態度や、アメリカ陣営か中国陣営かという現在の話を例に挙げました。
日本の不平等条約の解消は日露戦争の勝利後もすぐには実現せず、明治の終わりの1年ほど前、1911年にようやく達成されたと深井さんは紹介します。
琉球はなぜ日清の火種になったのか
急いで西洋化しようとする日本に対し、中国には冊封体制 ── 中国皇帝が周辺国の君主に位を与え、朝貢を受けることで結ばれた上下関係の国際秩序。東アジアでは長く続いた仕組みですがありました。朝貢を通じて天下を治める体制で、その背景にある思想を深井さんは華夷思想 ── 中華を文明の中心とし、周辺を夷狄とみなす中国の伝統的な世界観と呼んでいます。
中国から見れば、冊封体制の端にいて入りもしなかった日本が、急にウェストファリア的に動き始めたことになります。その最初の問題が琉球でした。
琉球は1372年ごろから明の洪武帝 ── 明王朝を建てた初代皇帝。周辺国に朝貢を呼びかけ、冊封関係を広げましたに朝貢し、清とも冊封・朝貢関係を続けていました。一方で1609年ごろから薩摩藩の島津家の侵攻を受け、薩摩の支配下にもありました。
冊封体制ではこの両属は問題になりませんでしたが、ウェストファリア体制では主権国家同士の条約として説明がつかないため、日本と清の間で問題になります。
清と冊封・朝貢関係を結びつつ、薩摩藩の支配下にもある両属の王国
1879年に日本が首里城を接収し、琉球藩を廃止して沖縄県を設置
清朝は抗議し、アメリカの前大統領の調停でも解決しませんでした。楊さんは、中国から見れば子分が勝手に奪われた形だと表現します。
日本政府は琉球問題を解決済みとする立場を保ち、清朝は未解決だと主張し続けます。深井さんは、こうした経緯が現在の中国共産党の沖縄への認識にもつながっていると話しています。
ロシアの脅威と「主権線・利益線」
琉球を沖縄県にしたことで、日本は冊封・朝貢の関係を国際法の体系へ組み替える外交方針を取り、清との対決が現実味を帯びます。同時に、日本にとって強い脅威になったのがロシアでした。
クリミア戦争に敗れて以降、ロシアは東へ伸びる方針を取り、シベリア鉄道を建設しつつありました。近代化を始めたばかりの日本は、今ロシアと戦えば必ず負けると分かっていたため、早く対抗できる力をつけようとします。
深井さんは、ウクライナ侵攻を受けて今もロシアの脅威から軍備増強が語られる状況と、この時代の構図が重なると指摘します。
楊さんは、列強の圧力に立ち向かう論理として、山県有朋 ── 長州出身の軍人・政治家。吉田松陰に学び、陸軍の基礎を築いたほか、首相も務めましたが1890年の第1回帝国議会で唱えた主権線・利益線論を紹介します。
主権線を守る
国家の主権が及ぶ範囲を守ることが第一
利益線を守る
主権線に接するエリアもコントロールしなければ主権は守れない
他国と衝突
利益線は他国もコントロールしようとするため、争いの火種になりうる
樋口さんは、この考え方がウクライナの回で扱った生存圏の考え方に近いと応じます。日本は陸軍をフランス、海軍をイギリスを手本に整えていきました。
日本はイギリスの目で世界を見ていた?
他の列強も脅威なのに、なぜ日本はロシアだけを強く恐れたのか。深井さんは学者の間でも意見が分かれる問いだとしたうえで、1つの考察を紹介します。
倒幕の中心となった薩摩・長州が世界情勢を知る情報源は、ロシアと対立するイギリスでした。タイムズやロイター通信から世界を見て、お雇い外国人も最も多いのがイギリス人で、重要な役職に置かれていたといいます。
シベリア鉄道はイギリスにとっても脅威でした。栄光ある孤立 ── 19世紀後半のイギリスが、どの国とも同盟を結ばずに圧倒的な国力を保った外交方針の呼び名を保つイギリスは、ロシアが不凍港を得て東に拠点を築けば制海権と貿易が脅かされるからです。
この考察によると、イギリスの脅威感覚がそのまま日本に伝わった可能性があります。深井さんは、どこから情報を仕入れているかという問題だと語ります。
今だって海外の情報を海外の言葉で入れようと思ったら、やっぱり英語になっちゃうから。
深井さんも、中国のメディアの情報は日本であまり重視されていないと応じます。イギリスの見方が悪いわけではなく、偏ると判断力が鈍るという点で、2人の認識は一致しました。
日本はなぜ朝鮮に「された側のやり方」をなぞったのか
ロシアへの脅威感から、朝鮮をロシアより先に確保すべきだという意見が出てきます。朝鮮がロシアに押さえられれば、日本には海しか残らず、大陸への展開も難しくなるからです。
日本は、冊封体制の一番手である朝鮮を独立国にしてロシアに対抗させるか、自分たちの傘下に入れたいと考えました。その考えと最も対立したのは、この時点ではロシアではなく清でした。
清はやはりね、(華夷思想の)ど真ん中だし、なんとか伝統的なこの東アジアの国際秩序をなんとかね、保とうとする動きに出るんですよね。
日本はまず清と日清修好条規を結びます。相互に領事裁判権を認める平等な条約で、欧米と不平等条約を結ばされていた日本と清にとって初めての平等条約でした。
しかし朝鮮との国交樹立は失敗します。冊封体制下の朝鮮は宗主国の許可なく他国と外交関係を結べず、第一の朝貢国を失えば冊封体制が崩れる清も許可しなかったためです。
そこで日本は、軍艦で脅して無理やり開国させるという、かつてアメリカにされたことと同じ手段を取ります。深井さんは、日本が列強のように振る舞い始めたのがこの時期だと説明します。
黒船で来航し、ルールをよく知らない日本に不平等条約を結ばせた
軍艦で圧力をかけ、ルールをよく知らない朝鮮に日朝修好条規という不平等条約を結ばせた
日朝修好条規には「朝鮮国は自主の国」と書かれ、冊封体制と矛盾する内容が盛り込まれました。同時に、日本の領事裁判権、無関税特権、日本貨幣の流通、釜山などへの租界の設定を認めさせています。
しかもされた時に体験してるから。お手本があるからやり方がわかってるんです。
深井さんは次回、朝鮮から見てこの一連の流れがどう見えていたのか、朝鮮国内で何が起きていたのかを紹介すると予告します。それぞれの視点から相互理解することが大事だという言葉で、この回は締めくくられます。
まとめ
明治日本は、不平等条約と植民地化の危機から抜け出すために、万国公法という西洋のルールへの適応を急ぎました。その過程で琉球や朝鮮をめぐって清と衝突し、自らも列強のように振る舞い始めます。
- 岩倉使節団は不平等条約を解消できず、ビスマルクから国際関係は力の論理で動くという本音を聞いた
- 西洋の文明化は憧れではなく、植民地化を避けるための条件だった
- 琉球の両属は冊封体制では問題にならなかったが、ウェストファリア体制のもとで日清対立の火種になった
- 日本のロシアへの脅威認識には、イギリス経由の情報によるバイアスがあった可能性がある
- 日本は朝鮮に対し、自らがアメリカにされたのと同じ方法で不平等条約を結ばせた





