新聞での闘争に挫折し、パリへ渡ったマルクス
前回のエピソードはこちら
この回はマルクスに話が戻ります。前回まではエンゲルスの半生が語られていました。マルクスはライン新聞で政治闘争をし、新聞を通じて理性によって社会を変えようとしていました。
しかしマルクスは、自分の勉強不足や、理性では社会を変えられない無力感を感じていたといいます。同時に、過激な主張ゆえにプロイセン政府から弾圧も受けていました。この現状に嫌気が差したマルクスは、ライン新聞を辞めることにします。
ライン新聞を辞めたマルクスは、以前も登場したルーゲという同じヘーゲル左派の人物と組み、フランスで月刊誌を出そうとします。移った先はパリでした。
なぜパリだったのか。フランス革命が起きた土地だけあって、パリは革新的思想の最先端の街だったからです。マルクスは、ここでもっと革新的なことをしていきたいと考えました。
マルクスはプロイセンを出てパリに渡り、ドイツとパリの知識人が合同で雑誌を出そうとします。これが独仏年史(ドイツフランス年史)です。年史とは雑誌を指す言葉として使われています。
当時のパリには、ドイツで政府とぶつかって亡命した活動家が8万5000人ほど集まっていたといいます。政府を倒そうという過激な人もいる中で、この時期のマルクスはそこまで過激なタイプではなかったと語られています。
7年越しの結婚と、独仏年史の失敗による無職生活
パリへ移る前、マルクスの私生活で大きな出来事がありました。長年婚約関係にあったイェニーと結婚したのです。婚約から7年ほど過ぎていたといいます。
イェニーさんが素晴らしい。俺だったらマルクス捨ててるよ。
マルクスはパリへ移るにあたって、イェニーも連れて行き、一緒に暮らすことにします。ライン新聞のころに勉強不足を痛感していたため、パリでは勉強しながら独仏年史を出す準備を進めました。
しかし独仏年史には困難が続きます。共同で出そうとしたルーゲがフランス人の書き手を探しても、まったく相手にされなかったのです。ルーゲは人間的に魅力がなく、ケチで金にうるさかったとも語られています。
結局フランス人は集まらず、独仏年史はドイツ人だけで出すことになります。ただし、ここに寄稿したエンゲルスの文章を見て、マルクスがエンゲルスに一目置いた点は重要な出来事でした。
独仏年史は第1号を出そうとして頓挫し、最初に出たのは第1号と第2号の合併号でした。これが最初で最後の号となり、雑誌は失敗に終わります。
マルクスは、貴族の娘であるイェニーを妻に迎えて生活費を稼いでいこうという時期でした。ところが独仏年史が合併号で終わったことで、7年待たせて結婚した相手の前で、いきなり無職になってしまうという状況になります。
新婚大丈夫?
宗教ではなく資本主義が問題だと言い始める
無職になったマルクスは、それでも勉強を続け、かつての仲間だったバウアーを厳しく批判する記事を書き始めます。バウアーは宗教批判の立場から、ユダヤ人はユダヤ教から離れたほうがいいと論じていました。
バウアーは、ユダヤ人が不平等に扱われるのはユダヤ教に凝り固まっているからだと考えていました。これに対してマルクスは、原因はユダヤ教ではないと反論します。アメリカのようにユダヤ人が平等に扱われている社会もあるからです。
マルクスが問題の根にあると見たのは、利己的な個人の欲望がぶつかり合う私有制、つまり資本主義そのものでした。宗教ではなく、生活を成り立たせている資本主義こそが問題だと考え始めたのです。
この頃から出てきちゃうんですね、その主張が。
この時期のマルクスは、私有制に基づく社会の矛盾や悲惨さを取り除きたいと考え、漠然と社会主義の方向へ向かっていきます。だからこそ、この後に資本主義そのものを研究していくことになります。
ヘーゲル左派の人々は、社会のさまざまな問題の原因を宗教に求めていました。マルクスがここで、原因は宗教ではなく経済生活だと言い始めた点が、大きな転換だったと語られています。
フォイエルバッハの唯物論と、社会が意識を規定するという発想
なぜ経済生活だという話になったのか。楊さんは、フォイエルバッハという人物が考えた唯物論の影響を挙げます。フォイエルバッハ ── 19世紀ドイツの哲学者。宗教は人間が作り出したものだと論じ、マルクスら若い世代に大きな影響を与えました。書き起こしでは「ホイエルバッハ」と発音されています
フォイエルバッハは、宗教が人間を作り出したのではなく、人間が宗教を作り出していると考えました。ところが人間は、自分で作った宗教に支配され、神が「あれしていい、あれしてはダメ」と決めてくることで、自分自身でいることが難しくなっているといいます。
フォイエルバッハによれば、宗教はもともと人間から生まれたものです。だから人間が自分自身を発見すれば宗教から抜け出せて、自己実現し、自由になれるはずだと考えました。この脱・神様的な思考が、フォイエルバッハの唯物論です。
マルクスは、こうしたフォイエルバッハの影響を受けながら、重要な思想を形づくっていきます。それが唯物史観 ── 社会や歴史のあり方を、人間の意識や理念ではなく、生産などの物質的な条件から説明する歴史の見方。マルクスの思想の土台になりましたです。
唯物史観を一言で言うと、人間は自分たちの意思によって、意図的に社会を変革することはできないという考え方です。当時としては画期的でした。
当時の知識人は、これとは逆に考えていました。だからこそ新聞で社会活動をし、理性を武器にした論を展開して社会を変えようとしていたのです。
意識が変われば社会を変えられるっていう仮定の下っていう。
人間の意思では社会が変わらないとすれば、社会をどう変えるかという方法そのものが大きく変わります。深井さんは、当時の知識人のやり方では社会は変わらないとマルクスが言い続けた、それがこの後の彼の人生だと語ります。
封建制から資本主義への転換に見た、社会が変わる仕組み
では、人間の意思では変わらない社会は、どうやって変わるとマルクスは考えたのか。彼は、社会の内部で生産力が発展しきり、新しい生産関係を生む物質的な条件が古い社会の中で育ったとき、初めて人間は社会を変革できると考えました。
マルクスは歴史も勉強し、封建制から資本主義へ移り変わったときに、具体的に何が起きていたかを考えました。封建制の内部で生産力が発展し、自分たちが生きていく以上の生産物、つまり剰余生産物が作れるようになっていったといいます。
余った生産物は商品として販売されるようになり、貨幣経済が浸透していきました。すると、より自由に商業活動を営みたいという欲求が高まり、封建的社会は自然になくなっていったと説明されます。
別にあなたが変えたいと思ったから変わったわけじゃないですよね。
めちゃくちゃしっくりくる。
当時の知識人は、フランス革命のように、人間がイデオロギーを持って社会を変えていったと感じていました。マルクスは、そもそもブルジョワジーが変えたいと思った背景に、生産物が余っていったという条件があると指摘したのです。
構造の話をしてるよね。逆になってるんですよね。
人間が理念やイデオロギーを持って、社会を変えていくと考えた
生産過程の変化という条件が先にあり、その帰結として社会が次の段階へ進むと考えた
なぜマルクスは「労働」と「生産」を人間の根源に置いたのか
マルクスが克服しようとしたのは、現実世界の疎外でした。疎外はヘーゲルが使った言葉で、深井さんは「うまくいっていない」「自己実現できていない」状態と言い換えています。
現実世界を変えるには、理念ではなく、うまくいっていない現実のどこを変えれば世の中が変わるかを考える必要があります。マルクスは、その鍵を、自分たちが生産物を作っている生産体制の中に見出しました。ここから資本論へつながっていきます。
なぜそこまで生産を重視するのか。深井さんは、キリスト教社会では神が人間の存在意義や活動を説明していたが、神を使わずに自己意識を定義しようとする啓蒙主義以降、人間を改めて定義し直す必要が出てきたと説明します。
神と切り離して人間が普段何をしているかを突き詰めると、残るのは労働だといいます。芸術や著作などの活動もありますが、究極的には、食べるために何をしなければならないかは変えられない、と楊さんは補足します。
もう一つの理由は、動物がしていないのに人間がしていることが、労働であり生産だという点です。マルクスは、人間が何をどう生産しているかが社会のあり方を規定していると考えました。
資本主義が資本主義なのは資本主義的な生産をしているから、封建制が封建制なのは農奴が自給自足の生産をしているから、原始社会がそうであるのは狩猟採集という生産をしているからだ、とマルクスは整理します。
だからこそマルクスは、資本主義を徹底的に分析しなければなりませんでした。社会がどうあるかを見なければ、自己意識がどうあるかは見えないという考え方に立っていたからです。
自分の自己意識とかどうでもいいんだよ。逆に。
神を使わず人間を定義する
啓蒙主義以降、神と切り離して自己意識を定義する必要が出てきた
人間の活動を突き詰める
動物にはなく人間にある活動として、労働・生産が残る
生産が社会を規定する
何をどう生産するかが、資本主義・封建制などの社会のあり方を決める
資本主義を分析する
自己意識を知るには社会と労働のあり方を分析するしかなく、資本論へ向かう
下部構造と上部構造。社会的存在が意識を規定する
樋口さんは、人間が幸せに生きることが根源にあり、そこから法律や国のかたち、コミュニケーションが生まれ、その次に経済があると考えて生きてきたと話します。マルクスの発想は、その感覚とは逆でした。
深井さんは、この発想が啓蒙主義以降のルソーたちの考え方と真逆だと強調します。ヘーゲル左派までが受け継いだ、自分たちの考えで人間を啓蒙していこうという発想と、マルクスの考えはまったく違っていたのです。ルソー ── 18世紀の思想家。人間の理性や意志によって社会を作り変えるという発想につながり、フランス革命にも影響を与えました
マルクスは、意識が存在を規定するのではなく、社会的存在が意識を規定していると考えました。理念それ自体が生活から独立して力を持つことはなく、理念は常に生活に根ざし、生活に規定される存在だという見方です。
マルクスの言う「社会的な存在」は、資本論をより分かりにくくしている点でもあります。資本論に出てくる労働という概念を、マルクスは常に「社会的な存在としての労働は何か」という角度で考えます。
資本家についても同じで、マルクスは資本家がいい人か悪い人かを論じていません。資本家が社会的にどういう存在かを問うています。深井さんは、ほとんどの人がこれを正しく理解していないと語ります。
社会的存在って意味が。ロールとしてというか、役割としてというか。
深井さんは、これが自分の自己認識とずれていることが要点だと説明します。私たちが自分をどう思っているかが社会的存在を決めているのではなく、社会の生産体制の中でどんな存在かが、私たちの意識を規定しているという順序です。
だからマルクスは資本論の中で、あなたたちは労働も資本も資本家も理解していない、とずっと言い続けます。メタ認知しない限り、自意識として理解することすらできていない、という主張です。
理解されなかった資本論と、脅かされる知識人の尊厳
深井さんは、マルクスの主張について、意識が規定している側面もあると感じるとして、完全には賛同していないと述べます。それでも、マルクスの言うことには一理あると語ります。
当時の知識人にとって、マルクスの発想は自分たちの考えと違いすぎました。啓蒙主義以降ずっと意識の話を議論してきた人々に、マルクスは「そうじゃないでしょ」と言ったのです。
樋口さんは、それが尊厳を脅かされる感覚につながると指摘します。意識を変えれば社会は変わると信じ、素晴らしい意識の話をしてきた人たちからすれば、マルクスの主張はわけが分からないものだったのです。
理念持ってるし。なんか尊厳を否定される感じになるんですよ、人間としての。
樋口さんは、この見方が、人間を社会に操られるマリオネットのように捉えかねないと言います。自ら考えて次の社会を設計しようとする人たちに向けられた主張なので、反発するのも分からなくはない、と語られます。
マルクスからすれば、頭のいい人たちが軒並み勘違いしたまま国を変えようとしている状況でした。だから彼らに理解してもらおうと資本論を書いたのですが、誰にも理解されなかったといいます。深井さんは、その顛末までがセットで面白いと話しました。
だからね、一人だけめっちゃ頭良くて。
ルーゲとの決別と、パリのカフェでのエンゲルスとの出会い
マルクスは、こうした唯物史観を少しずつ形づくりながら、独仏年史を合併号として出しました。ドイツにも送って発行しようとしましたが、検閲が厳しくなり没収されてしまいます。
そのうちルーゲともうまくいかなくなり、絶交するかたちになります。独仏年史もうまくいかず、マルクスは再び無職になりました。やることもないので、現実社会を、特に経済学を勉強しなければと考え始めます。
そんな時に理解者として現れたのがエンゲルスでした。工場を研究していたエンゲルスと、哲学や経済学に打ち込んでいたマルクスが、パリで改めて出会います。
二人が会ったのは、カフェ・ド・ラ・レジャンスというチェス打ちのたまり場のような有名なカフェだったと記録に残っています。かつてエンゲルスを評価していなかったマルクスも、独仏年史に寄稿された論文に感銘を受け、会う約束をしました。
二人はパリで2週間ほど過ごし、そのうち10日間ほど話し込んだといいます。互いに自分の考えをぶつけ合った末に、自分たちは同じことを考えていると気づく瞬間が訪れます。
一生のうちにこういう人に会えるのは。
エンゲルスはこのとき、マルクスのほうが自分よりさらにすごいと感じていました。ここから生涯続く友情が始まります。マルクスはバウアーに対抗するパンフレットを一緒に作ろうとエンゲルスを誘い、共同での執筆が始まります。
樋口さんは、資本家であるエンゲルスが無職のマルクスを見下すことなく、むしろリスペクトしていた点を、フラットな資本家でよかったと振り返ります。
父との対立と、母に「資本を稼いでこい」と言われるマルクス
エンゲルスはパリから故郷に戻り、この後はマルクスと手紙のやりとりを続けます。ちょうどこの頃のドイツでは、労働環境の悪化を背景に、産業のストライキや農民一揆が起きていました。エンゲルスはそれを知って興奮したといいます。
すでに共産主義者になっていたエンゲルスは、モーゼス・ヘスらと討論会を開くなど活動を続けます。一方で、いやいや家業を継いでいたため、父との関係がこの頃こじれていきます。
家業を継ぎたくないと言うエンゲルスに対し、父は対抗措置として小遣いを減らしました。無神論者で家業を嫌う息子に、犬のような暮らしをさせようとしたと語られ、二人の仲は険悪になります。
マルクスのほうも母親と関係が悪くなっていました。母親は息子の生活能力をひどく心配し、資本について書いていないで、あなたが資本を稼いでこい、とマルクスに叫んだことがあるといいます。
これを聞いた楊さんは、自分もマルクスの勉強をしていたときに母から同じことを言われたと明かします。資本の勉強をする前に金を稼げ、というわけです。
資本の勉強する前に金稼げと。僕、古典で働いてるっていうのを母疑ってるんで。
深井さんは、息子が金を稼がずに資本の勉強をしていたら、どの母親も「稼いでからやったら」と思うだろうと笑います。マルクスも同じことを言われたのだと実感がわいた、と楊さんは語ります。
家業を継ぎたくない息子に対し、父が小遣いを減らして険悪になる
資本を書くより資本を稼いでこい、と母が息子の生活能力を心配する
プロイセンの圧力でパリを追われ、ブリュッセルへ
エンゲルスとマルクスは仲良く活動を続け、バウアーとその周辺のヘーゲル左派を批判する神聖家族を執筆します。ほかにも、出せなかったパリ草稿を書くなどしていました。
無職のマルクスは、雑誌に論文を寄稿してわずかに働いていました。それをプロイセン政府が見つけ、国外でドイツを批判しているのをやめさせるよう、フランス政府に圧力をかけます。
フランス政府はこれに応じ、マルクスを国外退去させます。マルクスはブリュッセルへ避難せざるを得なくなりました。ただ、無職の彼には移動する金がなく、ここでもエンゲルスが協力者を募って費用を工面します。
マルクスがパリに滞在したのは15か月、およそ1年半でした。この後、彼はずっと追放されながらの生活を送ることになります。
世界から嫌われてるな。
二人はこの回の最後で、パリでの出会いの熱を振り返ります。歴史を変えた10日間の会話を、ボイスレコーダーで残しておきたかったと語り合いました。
そこにマジでほんとボイスレコーダー置いときたかったですね。
このシリーズの次のエピソードはこちら
まとめ
この回では、新聞での政治闘争に挫折したマルクスがパリで唯物史観を形づくり、生涯の盟友エンゲルスと出会うまでが描かれました。宗教ではなく生産と資本主義に問題の根を見たマルクスの発想は、当時の知識人の常識と真逆で、理解されないまま資本論へとつながっていきます。
- ライン新聞を辞めたマルクスは、革新的思想の街パリへ渡り、独仏年史を出そうとするが失敗し、無職になる
- マルクスは、問題の根を宗教ではなく資本主義に見出し、人間の意思では社会は変わらないとする唯物史観を形づくっていく
- 生産こそ人間の根源だと考えたマルクスは、社会的存在が意識を規定するという発想に立ち、資本主義の徹底分析へ向かう
- その主張は当時の知識人の尊厳を脅かし、資本論を書いても誰にも理解されなかった
- パリのカフェで出会ったマルクスとエンゲルスは、10日間語り合って意気投合し、生涯続く友情を築く




