なぜイギリスだけが議会政治を実現できたのか
民主主義の歴史編は、古代ギリシャ、ローマ、イタリアの都市国家を経て、今回からイギリスに移ります。深井さんによれば、中世の西ヨーロッパには国ごとに形の違う身分制議会 ── 貴族・聖職者・平民など身分ごとに代表が集まる議会。中世から近世のヨーロッパ各地に見られ、身分の違いを前提に構成されていましたが広く存在していたといいます。
ところが1600年代のヨーロッパでは、フランスやスペインが強大な絶対君主による専制支配を確立し、ドイツなどは小さな王が乱立して統一国家の体さえ取れていませんでした。その中でイギリスだけが、他国より1〜2世紀早く統一的な議会政治を実現していたと深井さんは説明します。
そんな中で、イギリスだけ、他の国よりも一世紀とか二世紀早い段階で、統一的な議会政治をやっている国っていうのを実は実現させてるんですよ。
深井さんは、13世紀から17世紀の4世紀の間に、イギリスでは「王であっても法の下に従う」という法の支配 ── 権力者も含めて誰もが法に従うべきだとする考え方。イギリスで発展し、近代の立憲主義の土台の一つになりましたの考え方が強まっていったと話します。一方でフランスやスペインなどでは、同じ期間に法の支配が消滅させられていったといいます。
王も法に従うという考え方が強化され、議会が王を牽制していく
法の支配の考え方が消滅させられ、絶対君主の専制支配へ向かう
深井さんは、現代の議会はギリシアの民会やローマの元老院をモデルにしていないが、このイギリス議会はモデルになっていると言えると整理します。
辺境だから変われた?シリコンバレーや秦との共通点
なぜイングランドだけが違う動きをしたのかについて、深井さんは答えはどの本にも書いていないと断ったうえで、イングランドが辺境の国だったからではないかという仮説を示します。樋口さんは、産業革命も同じくイングランドで起きたと応じます。
深井さんはこの構図を、アメリカのシリコンバレーにたとえます。デトロイトなどが産業の中心だった時代に、農村地帯だったシリコンバレーからITや半導体の最先端が生まれたことに近いといいます。
中国の秦だってもともと西の外れにあるところだったし、要するになんていうか、外れにあるところであればあるほど、その既存の仕組みだったりとかからの逸脱がしやすくなるんだよね。
樋口さんは、自身の拠点である田川も辺境なので優れているのではと冗談を飛ばし、深井さんが「ノーコメントで」と返す場面もありました。
深井さんは、イギリスの歴史はこの側面から見ると国王をいかに法で抑えるかの歴史だったと言えると述べ、ここから概観に入ります。
フランス人の王がイングランドに来たくなかった理由
イギリス史の出発点として深井さんが挙げるのは、1066年のノルマン・コンクエスト ── 1066年、フランス北部ノルマンディー公ギヨーム(ウィリアム1世)がイングランドを征服した出来事。以後、フランス語を話す貴族層が支配層となりましたです。それまでのイングランドは、サクソン系の王などが並び立つ七王国時代でした。
ノルマンディーのウィリアムがイングランドを征服し、国王・諸侯・貴族・騎士が君臣関係で結ばれる封建制国家を作ります。深井さんは、騎士がお姫様を救うような「おとぎ話の国」がここで確立すると表現します。
その後、息子のウィリアム2世は専制政治を行いましたが、弟のヘンリー1世は貴族たちの助言を受け、あまり専制政治をしないと示したといいます。続いてヘンリー1世の孫にあたるフランスのアンジュー伯が、ヘンリー2世として即位します。
深井さんが強調するのは、イングランドの王がフランス人だったという点です。当時フランスはすでに大国で、イングランドは辺境の田舎の島のような存在でした。
行きたくないんですよ。フランス貴族からしたらさ、行きたくないわけ。だからイングランド王なんだけど、あんまり行きたくない場所みたいな。
イングランドに深くコミットしたくない王が治めたことで、イングランドの統治は特殊な状態になっていったと深井さんは説明します。
王が不在でも回る仕組みとしてのコモン・ロー
ヘンリー2世は司法改革を進め、自分が王国にいない間も法律が駆動してうまく治まる状態を作ろうとしたといいます。
あんまりイングランド行きたくないんだけどさ、もう俺ずっとフランスいるから。嬉しくやってくれ。
樋口さんはこれを「海外支社みたい」と表現しました。ヘンリー2世はこの改革の中でコモンロー ── 過去の判例や慣習に基づいて判決を下すイングランド固有の法体系。成文法中心の大陸法と対比され、現在も英米法の基礎になっています裁判所を整備します。
深井さんの説明では、コモンロー裁判所は「過去にこういう判決が下ったから今回もこうだよね」と先例や伝統に基づいて判決を下す場で、刑事事件や民事上の訴訟を裁いていたと考えられるといいます。
ジョン王とマグナカルタ、繰り返される署名と反故
ヘンリー2世の末っ子であるジョン王は、イングランドで生まれ育ったとされる人物です。深井さんによれば、ジョン王は諸侯から厳しく税を取り立て、専制的に振る舞いました。
ジョンはさ、イングランドで生まれてさ、いや俺偉いみたいな感じで専制政治するわけじゃん。そうすると貴族からするとさ、何お前ってなるじゃん。
それまで強いマネジメントを受けていなかった諸侯は反発し、ジョン王に諸侯の権利を認める文書マグナカルタ ── 1215年にジョン王が諸侯に認めさせた文書。王権を制限し、法の支配の起点として知られる「大憲章」ですに署名させます。ジョン王はすぐに署名しますが、その後に嫌になって否認し、イングランドは内戦に突入しました。
内戦のさなかにジョン王が亡くなると、幼いヘンリー3世が即位します。国王支持派と反対派の妥協が成立し、国王も法の下にあるという原則を確認する文書が再交付されました。
深井さんによれば、このときヘンリー3世はまだ9歳で、一人では統治できず諸侯の力を借りるしかなかったため、マグナカルタを再び認めるしかなかったといいます。
シモン・ド・モンフォールの議会に市民が呼ばれた日
成長したヘンリー3世は外国人を重用して軍事遠征に失敗し、お金を集めるために課税を強化します。この失政に諸侯が反発し、再び反乱が起きました。
反乱を率いたのがシモン・ド・モンフォール ── 13世紀イングランドの貴族。ヘンリー3世に対する諸侯の反乱を指導し、市民代表を招いた議会を開いたことで知られますです。彼は軍事力を背景に、マグナカルタに近いオックスフォード条項をヘンリー3世に認めさせます。
オックスフォード条項は、統治上の権限を持つ委員会と、王国の統治を点検する議会(パーラメント)を設置し、定期的に開催することを定めたものでした。課税するなら議会を開いて諸侯の声を聞け、という約束だったと深井さんは説明します。
ヘンリー3世は署名しますが、数年後にはまた嫌になり、再び内戦が起きます。シモン・ド・モンフォールは勝利し、2度目の制圧でさらに強気に出られる立場になりました。
王の専制・課税強化
ジョン王、成長したヘンリー3世が強権的に振る舞う
諸侯の反乱
反発した諸侯が軍事力で王に対抗する
文書への署名
マグナカルタやオックスフォード条項を認めさせる
王の反故と内戦
王が嫌になって約束を破り、再び対立が起こる
シモン・ド・モンフォールが開いた議会には、州を代表する騎士、諸侯、高位聖職者に加えて、都市代表の市民が招集されました。呼ばれたのはシモン・ド・モンフォールを支持する都市の市民だけだったものの、議会に市民が呼ばれるという「イノベーション」が起きたと深井さんは話します。
なんかね、なんで呼んだのかみたいなところが。
深井さんは、課税や戦争には庶民の力と合意が必要だったこと、そしてシモン・ド・モンフォールが自分を支持する人を呼んだという特殊事情があったことを挙げます。
身分制もあるし、自由なんて全然考えてないんだよ。考えてないんだけれども、ここで行われてる議会に平民が呼ばれるっていう、なんかことがアクシデンタルに起こってるわけだよね。
このシモン・ド・モンフォールの議会は、イギリス議会の始まりとされています。深井さんによれば、1965年にエリザベス2世が行った議会創立700周年の記念行事は、この議会から数えたものだといいます。
樋口さんは、王の力が弱かったから起きたという点で産業革命に似ていると指摘し、深井さんも、イングランドは伝統的に王が弱く、国として強くないのに議会が発展し産業革命が起こったと応じます。
エドワード1世の模範議会はなぜ開かれたのか
シモン・ド・モンフォールの議会は2ヶ月ほどしか続きませんでした。幽閉状態にあったヘンリー3世の息子で王太子のエドワードが脱走し、権力を集中させたシモン・ド・モンフォールへの反対勢力も勢いづいていきます。
エドワードは反対勢力をまとめてシモン・ド・モンフォールを倒し、ヘンリー3世を解放して治安を回復させます。オックスフォード条項は廃棄されましたが、改革の成果は一部引き継がれたといいます。
やっぱりどれだけの人の力を借りたかっていうのがね、その人のね、やっぱりね、これ会社でもそうだと思うんだけど、強権発動具合に影響してるわけですよね。
即位したエドワード1世は、軍事活動のため国内の支持を取り付ける必要があり、議会を開催します。これが模範議会 ── 1295年にエドワード1世が招集した議会。聖職者・貴族に加え州や都市の代表も含み、後の議会構成の手本とされましたと呼ばれるものです。
模範議会には、諸侯や高位聖職者に加え、下級聖職者の代表、各州2名の騎士、各都市2名の市民が招集され、代表を送るよう求められた都市は100以上あったといいます。
| 項目 | シモン・ド・モンフォールの議会 | 模範議会 |
|---|---|---|
| 開いた人 | シモン・ド・モンフォール | エドワード1世 |
| 主な参加者 | 州代表の騎士、諸侯、高位聖職者、都市代表の市民 | 諸侯、高位聖職者、下級聖職者の代表、各州2名の騎士、各都市2名の市民 |
| 市民の範囲 | シモン・ド・モンフォールを支持する都市のみ | 100以上の都市に代表派遣を求める |
深井さんによれば、エドワード1世が幅広く人を呼んだのは、いろんな人からお金を集める代わりに、その人たちを議会に呼ぶという事情からでした。樋口さんが、理念よりリアルな問題の解決のための挙動なのかと尋ねると、深井さんはギリシアやローマ、コムーネでも同じことが起きていたと答えます。
議会は王にとっても得だった?利害調整の場の誕生
深井さんは、13世紀後半のイングランド議会は2つの制度が結合して成立したと説明します。1つは地域共同体の代表が国政に参加すること、もう1つは国王の専制を抑えるために有力な臣下が集会を開くことです。
そのうえで深井さんは、議会には国王にとっての利点もあったと指摘します。議会を開けばより多くの課税ができる一方で、市民から「自分の街にこうしてほしい」という要求を受け、それに応えなければならないというトレードオフがあったといいます。
国王
議会を開くことで課税の同意を得て、お金を集められる
貴族・市民
課税に同意する代わりに、地域の要望を国王に突きつける
議会
双方が持ちつ持たれつで利害を調整する場になる
深井さんによれば、イングランドの歴史は、この持ちつ持たれつをしながら議会が王から少しずつ権力を削いでいく歴史でした。他の国では議会が権力を失っていったのに対し、イングランドだけが権力を獲得していったといいます。
二院制と庶民院の台頭、身分を超えた国政参加
イングランド議会は14世紀半ばごろに二院制を取るようになります。上院は聖職者と上級貴族による貴族院、下院は騎士と都市代表の市民による庶民院です。
庶民院の議員は課税の同意権をテコに、税金の成立を認める代わりに地域社会の要望に応える法律を制定させていきました。この駆け引きの中で、庶民院の存在感は大きくなっていったといいます。
深井さんは、ある程度の年収があれば騎士身分でなくても被選挙権がある状態になっていったことを「すごい革新的なこと」だと話します。
利害調整は民主主義ではない、という整理
樋口さんが「ものすごく民主主義的なイメージ」だと反応すると、深井さんは、それは利害調整という意味での民主主義的な部分にすぎないと応じます。
忘れないでほしいのは、この当時のイギリスは民主主義的でもなんでもないです。封建社会の身分制における社会だからさ。その利害調整は民主主義社会じゃなくてもできるってことなんです。
また深井さんによれば、14世紀ごろの議会は依然として国王による統治の補助者・協力者にすぎませんでした。定期的な開催は約束されておらず、王政がお金を必要としたときに開かれて意見を聞かれる存在だったといいます。
それでも14〜15世紀には百年戦争 ── 14〜15世紀にイングランドとフランスの間で断続的に続いた戦争。フランス王位継承などをめぐって争われましたやバラ戦争 ── 15世紀のイングランドで、ランカスター家とヨーク家が王位をめぐって争った内乱といった長期の戦争が続き、議会は何度も開かれることになりました。樋口さんは、トラブルがあるから庶民の意見を聞かないと課税できないという構図を面白がります。
16世紀には、ヘンリー8世がカトリック教会から離れてイギリス国教会を作る宗教改革を断行します。教会や修道院の解散、役所の整備などの手続きでも、議会が国王を助けたといいます。
スコットランド王の王権神授説が議会を怒らせる
エリザベス1世が未婚のまま亡くなると、スコットランド王ジェームズ6世がイングランド王ジェームズ1世として即位します。深井さんによれば、スコットランドはイングランドと文化が違い、スコットランド議会はイングランド議会ほど強い存在ではありませんでした。
ヘンリー8世やエリザベス1世は、マグナカルタ以来の伝統を踏まえて議会に気を使いながら統治していました。しかしジェームズ1世はその感覚を持たないまま来て、王権神授説 ── 王の権力は神から授けられたもので、王は神に対してのみ責任を負うとする考え方。近世ヨーロッパの絶対王政を支える理論となりましたを主張します。
神に渡された権力だからさ、お前らの言うことなんて聞かなくていいだろって言うんですよ、イングランドで。
深井さんは、フランスとイギリスの違いをこう整理します。フランスでは議会が長い間開かれず民衆がキレてフランス革命になったのに対し、イギリスでは伝統を無視された議会がキレてイギリス革命を起こしたといいます。
議会は最初から抑えつけられ、長く開かれない。民衆がキレてフランス革命へ
議会とうまくやってきた伝統を王が無視し、議会がキレてイギリス革命へ
でね、この文脈を踏まえない人がポッと来てバグるっていう。
樋口さんは、これをTwitterがXになったことになぞらえ、すぐに「それは知らんけど」と自ら打ち消して笑いを誘いました。
チャールズ1世と議会の泥沼、そして処刑へ
ジェームズ1世の後を継いだチャールズ1世もイングランドの政治文化に馴染まず、朝臣のバッキンガム公に依存して議会を無視した政治を行います。強制公債の発行や献上金の強制、コモン・ローの文化に反する法的手続きによらない逮捕や監禁も行ったといいます。
貴族院と庶民院は国王に請願を出し、財政悪化もあってチャールズ1世は権利の請願 ── 1628年にイングランド議会がチャールズ1世に提出した文書。議会の同意なき課税や不当な逮捕を禁じることを求めました(Petition of Right)に同意を与えます。
ところがバッキンガム公が暗殺されると、チャールズ1世はキレて権利の請願を認めない態度をとり、11年間議会を招集しませんでした。その間には、海賊の取り締まりを名目に船舶税を強引に徴収したといいます。
スコットランドで宗教をめぐる反乱が起きると、軍事費が不足したチャールズ1世は、11年ぶりに議会を開かなければならなくなります。
で、この議会を開くと、当然だけどさ、11年間開かれなくて、おざなりにされてたわけだよね。で、いきなり開いたら金をよこせって言ってるわけですよね。
庶民院はこれに応じず国王の専制を非難し、チャールズ1世は開いたばかりの議会を解散します。しかしスコットランド軍を倒せず、また議会を招集するという繰り返しになりました。
とにかく王様がなるべく言うことを聞きたくない。だけど戦争するために議会を開かないといけない。議会を開くんだけど、なんかムカつくからすぐやめるみたいな。
でも必要なプロセスなのかもしれないね。
スコットランド軍がイングランド北部に侵入し、王は賠償金の支払いを余儀なくされます。議会は少なくとも3年に1回は議会を開けと主張しますが、議会内部も議会派と国王支持派に分裂しました。この争いの中で、チャールズ1世は裁判にかけられて処刑されます。
クロムウェルから名誉革命へ、議会政治が確立するまで
チャールズ1世の処刑後はクロムウェル ── 17世紀イングランドの政治家・軍人。イギリス革命で議会派を率い、共和政下で護国卿として実質的な独裁を行いましたが実質的な独裁政を敷きます。クロムウェルの死後に独裁政は崩壊し、処刑されたチャールズ1世の子チャールズ2世が呼び戻されて王になりました。
深井さんによれば、チャールズ2世もまた問題のある振る舞いをしたものの天寿を全うします。しかし後を継いだジェームズ2世は追放され、国外に逃亡しました。
このとき、宗教的な対立の中で、宗派が合致するオランダのオラニエ公ウィレム ── オランダ総督。1688年の名誉革命でイングランドに迎えられ、妻メアリーとともにウィリアム3世として即位しましたが呼ばれ、王に据えられたといいます。深井さんは、細部は省くとしたうえで、重要なのは王と議会が繰り返し対立し、毎回議会が勝ってきたことだと強調します。
王が殺され、さらに追放されるという出来事が2回続いたことで、スコットランドも含めたイギリスで議会政治が完全に確立したと深井さんは説明します。これによりイギリスは、フランスやスペインとは異なる議会優先の立憲君主制へ進んでいきました。
その頃フランスやドイツ、スペインの議会は?
樋口さんが「フランスは国王がまあまあちゃんとやれていたのか」と尋ねると、深井さんは、やれていなかったことが積み重なってフランス革命になったとも言えると答えます。フランスでは王の処刑どころか、王というシステムや貴族まで一度なくなるほど激しい反乱が起きました。
深井さんによれば、フランスの絶対王政は家を統治する延長線上のようなもので、社会を統治する仕組みとしての議会が育ちませんでした。フランスにも三部会 ── フランスの身分制議会。聖職者・貴族・平民の3身分の代表で構成され、1789年に久しぶりに招集されたことがフランス革命のきっかけになりましたはありましたが、長く開かれなかったために平民が怒ったといいます。
他の地域についても深井さんは概観します。
| 地域 | 議会 | 状況 |
|---|---|---|
| フランス | 三部会 | 長い間開かれず機能しない |
| ドイツ(神聖ローマ帝国) | 帝国議会 | 存在はしたが、そもそも統一国家として成り立っていない |
| スペイン・ポルトガル | コルテス | 立法に関わらず、力がなかった |
| 北欧 | 一応の議会 | 同じく力がなかった |
各国にも似たものはあったものの機能していなかった、というのが深井さんの整理です。
樋口さんが冒頭の「辺境」の話との関係を尋ねると、深井さんは、フランス人から見て田舎で治めたくなかったから議会が発展し、王権が弱かったから議会が維持され、そこにスコットランド王が強硬姿勢で来て反発を招き、議会政治へ大きく振れたと改めてまとめます。
なんか及ぶと思っちゃって、行ったら議会からやられたとか。
尻尾を踏んでしまったっていうね。
次回はホッブズ、議会政治と民主主義を分けるもの
深井さんによれば、17世紀のイギリスはまさに革命の時代で、この経験から新しい政治思想が生まれていきます。次回からはホッブズ ── 17世紀イングランドの哲学者。主著『リヴァイアサン』で、自然状態と社会契約から国家の正当性を論じました、ジョン・ロック、ルソーを一人ずつ紹介していく予定です。
それまでの議会は利害調整の場にすぎず、アテネ民主制も人権という概念のないものでした。そこに自然権と自然法という概念が加わり、「なぜ我々は統治されているのか」「本来あるべき統治とは何か」という問い直しが3人によって行われたと深井さんは話します。
誰が主権を持つべきか。その主権っていう正当性はどうやって担保されるべきか。そして主権とは何なのかっていうことがゼロベースで全部考え直されて
深井さんは、今の憲法はこの流れに基づき、議会政治は技術や機能として使われていると言えると整理します。
樋口さんが「市民が政治に参加しても民主主義ではないということか」と確認すると、深井さんは少し違うと答えます。
市民が政治に参加するのは民主主義的だと言えると思うんだけれども、その何のためにまずそうしてるか。あとはその参加した時にどういうことを考えないといけないかっていうことがこの後整理されたって感じですよね。
まとめ
イギリス議会は、辺境の地をフランス人の王がコミットせずに治めたことから始まり、王と諸侯の対立と妥協の繰り返しの中で、課税と要望を取引する利害調整の場として育ちました。17世紀の王の処刑と追放を経て議会政治は確立しますが、それはまだ民主主義ではなく、その違いを明らかにする思想家たちが次回から登場します。
- イギリスだけが他国より1〜2世紀早く統一的な議会政治を実現し、それが現代の議会のモデルになった
- 王がイングランドに来たくなかったことや王権の弱さが、法で王を抑える仕組みと議会の発展を後押しした
- マグナカルタやシモン・ド・モンフォールの議会、模範議会を経て、市民も国政に参加する議会が形づくられた
- スコットランド出身の王が議会の伝統を無視したことでイギリス革命が起こり、議会優先の立憲君主制が確立した
- 利害調整としての議会政治と民主主義は別物であり、その違いはホッブズ以降の思想で整理されていく





