ロシア脱出はどんな段取りで決まったのか
SAMI Japanは、ロシアでIT事業を営んでいた会社です。ウクライナ戦争の開戦後、社員とともにロシアを出て日本へ拠点を移すことになりました。
前回までの番外編では、ロシアを出るかどうかの転換点と、まず会社のお金をどう動かすかという問題までが語られました。後編は、出国を決めたあとの動きから話が始まります。
(出国する)その後に出る決断もめっちゃほんと大変だなと想像してて。例えばボリスとかだと、自分が出たら家族はどうなるのかとか、当然考えないといけないだろうし。
牧野さんの説明によると、3月7日の夜にボリスさんらとニュースを見て、送金の手続きなども含めて「もうダメだ」と判断し、出国を決めました。
祝日明けの3月9日ごろに社員をオフィスに集め、日本へ行くと宣言します。行く場合は金曜日までに家族の合意を取り、翌週月曜の16日ごろには大使館へ短期滞在ビザを申請しに行く、という段取りでした。
この時間表を見ると、家族と相談できる時間は数日しかありませんでした。社員一人ひとりが、その短い期間で人生の行き先を決める必要があったことになります。
残って戦うか、出るか。ボリスさんと家族の決断
ボリスさん自身は、最初は「どこにも行きたくなかった」といいます。ロシアに残って戦争に反対したい気持ちがあり、周囲の友人にも「戦争を止めなければならない」という考えが多かったそうです。
ボリスさんは、第二次世界大戦が起きたときのドイツ国民も同じことを考えていたのだろうか、とも思ったと振り返ります。
そのボリスさんに「一刻も早く出るしかない」と強く勧めたのは、お母さんでした。ボリスさんは軍事訓練を受けた予備役にあたり、デモに参加して警察との問題もあったため、兄弟の中で最も危ない立場だったといいます。
4人兄弟で21歳の弟もいたため、自分だけが出て弟はどうなるのかという心配もありました。ボリスさんはロシアが「プリズン」のように閉じ込められる状態になっていたと表現しています。
最終的にボリスさんは、ロシア国内ではウクライナへの支援が難しいと考え、出たほうが何かできるはずだと自分を納得させて出国しました。
ボリスとしてはウクライナ、ロシアの戦争を止めたいっていうのと、ウクライナを支援したいっていうのがあって、ロシアでとどまって戦争反対しようと思ってたんだけど、出た方ができるっていうのもあって、出ることを決意したわけだよね。
ただ、ボリスさんの決断はすぐに固まったわけではありません。日本に来てからも「戻らないと」という気持ちがあり、自分が何もできないと納得するのは難しかったと語ります。
ボリスさんは、自分の頭上に爆弾が飛んでいるわけではないのに苦しい。それならウクライナにいる人たちはどんな思いだろうと考えると、心が割れるようだったといいます。
その後、ボリスさんの弟は動員を見越して早めにヨーロッパへ送り出し、家族も去年の10月に無事出国しました。ボリスさんは最近、牧野さんから有給をもらって家族に会いに行ったそうです。
送金とバラバラのフライトはどう乗り越えたか
出国先の出雲は、大統領令が出る前日ごろに稲川さんから「出雲ならサポートしてくれる人がいる」と電話があったことで決まりました。縁もゆかりもない土地で、社員に「出雲って何ですか」と聞かれた牧野さんは、Wikipediaのリンクを送ったといいます。
当時は夜中や土日にも法律改正が次々に出るため、役員は朝から晩までオンラインで待機していました。牧野さんは、心が休まらない状態が2週間ほど続いたと振り返ります。
3月7日の大統領令のあとも、銀行側がこうした状況に不慣れで、会社は審査に引っかかり、しばらくお金を送れませんでした。
突破口になったのは、ボリスさんの前職です。銀行のコンプライアンス担当だったボリスさんは、どういう書類をどういう観点で作れば審査が通るかを知っていて、その方針どおりに書類を揃えた結果、日本への着金が確認できました。
これ映画や。オーシャンズイレブンみたいな。たまたま俺のメンバーこの書類作れるぜみたいな。
移動も簡単ではありませんでした。フライトがほとんど取れず、最初のメンバーは3月22日ごろに中東経由で日本に着き、牧野さんはサンクトペテルブルクからエストニアのタリンまでバスで10時間ほどかけて陸路で抜けたといいます。
社員はタイ経由など2回、3回と乗り継ぎ、東京・新宿の安いホテルに日をずらして「現地集合」しました。ボリスさんは最後まで残り、空港で捕まるかもしれない緊張の中で出国したそうです。
縁もゆかりもない出雲が、なぜ心を救ったのか
移動中、出雲の家探しは、稲川さんが作った出雲の経営者のグループチャットが担いました。経営者たちが物件を探し、カメラで内覧させてくれたといいます。
保証人とかもね、外国人ってすぐ借りれないですからね。
牧野さんによると、実際には一度も会ったことのない経営者が個人保証をしてくれていたこともありました。さらに、家具も布団もない部屋に着いたときには、経営者たちが街中の飲食店などから不要な家電や家具を集めてくれたそうです。
ボリスさんは東京のホテル滞在中にコロナにかかったあと出雲に移りましたが、「東京じゃなくて出雲でよかった」と語ります。静かで自然が多く、美味しい料理と温かく迎えてくれた人たちのおかげで、社員みんなが助けられたといいます。
やっぱこういうのってご縁だなと思いますよね。ほんと稲川さんと槙野さんが知り合いでみたいな。
ビザ取得の直後に来た動員と「駆け込み寺」
出雲で仕事を再開したあとも、課題は続きました。社員は短期滞在ビザで入国していたため、長期ビザへの切り替えが必要で、8月にようやく全員のビザが取れ、少なくとも1年は生活できる状態になりました。
ところが、その1〜2か月後にロシアで動員が始まります。ロシアに残っていた知人や、大学院生として残っていた社員から、涙ながらに「日本に出してくれ」と頼まれるようになりました。
牧野さんは、SAMI Japan自体が駆け込み寺のようになったと話します。全員は受け入れられないものの、関係のある人に限ってはできる範囲で受け入れる流れを作り、今は一旦落ち着いているそうです。
Dopomoga.jpは避難民の就労をどうつないだのか
SAMI Japanは避難後の5月ごろから、社内の非営利事業としてDopomoga.jp ── SAMI Japanが運営するウクライナ避難民向けの就労支援サービス。日本企業の求人情報をウクライナ語で発信していますを運営しています。
牧野さんによると、日本にはもともとウクライナの人が1500人ほどいて、避難民として2300人ほどが来ています。多くは日本語ができず、英語ができる人も一部のため、仕事探しが難しい状況です。
東京のような大都市はサービス業が中心で、言葉が必須です。一方、地方の製造業や一次産業のオーナー企業には「1人2人なら受け入れてもいい」という志のある会社があることがわかりました。
しかし、そうした情報がウクライナ語でまったく発信されていなかったため、ウクライナの人たちは日本に仕事がないと思っていたといいます。
求人を集める
地方の中小企業から、避難民を受け入れてもよいという求人を1件ずつ集める
翻訳する
求人情報をウクライナ語に直す
発信する
ウクライナやヨーロッパの周辺国に向けて発信する
避難を検討できる
自治体の無償住居と仕事の情報がそろい、日本が避難先の候補になる
ヨーロッパでは避難しても仕事に就けず、ウクライナへ戻る人も少なくないといいます。牧野さんは、住居と仕事の情報があれば日本も避難先になると発信したことで、実際にヨーロッパから日本へ来た人もいると語ります。
運営は、ボリスさんが当初は全体管理を担い、牧野さんが日本企業を回って求人を集める形でした。ロシア色の強い会社だと摩擦も生まれるため、キーウ在住のウクライナ人にも加わってもらい、ウクライナ人とロシア人が一緒に1年ほど続けています。
クラウドファンディングと受け入れ企業の募集
Dopomoga.jpは、CAMPFIREでクラウドファンディングも実施しました。ウクライナの人に日本へ避難できることをもっと知ってほしい、という趣旨です。
牧野さんは、資金面の支援に加え、メディアで取り上げられたことで、それを見た地方の企業が受け入れに手を挙げてくれたとも話しています。求人は北海道から沖縄のパン屋まで全国に広がっています。
一方で、ウクライナからの問い合わせは増え続けています。去年の9月には月20件ほどだった問い合わせが、今は月80件ほどになりました。
去年の9月時点で月20件ほど
現在は月80件ほど
非営利事業のため人員は増やせず、人力で対応しています。牧野さんは、求人側が増えないと続けられないとして、受け入れられる企業からの連絡を呼びかけました。
苦労した当事者が、なぜ支援を続けるのか
深井さんは、戦争で苦労してきた二人が、なぜ避難民支援に取り組むのかを尋ねます。
牧野さんによると、最初はロシア国内で別の支援プロジェクトを考えていましたが、社員を危険にさらすためやめました。日本へ避難する過程で、自分たちにとって何が重要だったかを振り返ると、それが住居と仕事だったといいます。
牧野さんは、ウクライナの避難民にとっても同じだろうと考え、Dopomoga.jpをやろうという話が自然発生的にみんなの中で生まれたと語ります。
多分住居と仕事とフレンドリーに受け入れてくれる人たちみたいなのがいるのが多分すごい大事なんだろうなとは僕も想像してて。
「ドポモーガ」はウクライナ語で「支援」という意味です。ボリスさんは、ドメインのJPと合わせて「日本の支援」という意味になるのがいいと考えて名付けたと説明しています。
航空券代とビザの行方という残る課題
受け入れ企業以外の課題を聞かれたボリスさんは、まず資金を挙げます。開戦当初は政府や日本財団から資金や住宅の支援がありましたが、今年はそれが終わりました。
ボリスさんによると、ヨーロッパから日本への航空券は片道15万〜20万円ほどかかり、避難民には払えない額です。企業が身元保証人になり航空券を手伝う例もありますが、支援がなければ来るのは難しいといいます。
もう1つの課題はビザです。ウクライナ避難民は短期滞在で入国したあと、就労もできる特定活動 ── 日本の在留資格の1つ。法務大臣が個別に活動を指定するもので、ウクライナ避難民には就労可能な形で認められていますに切り替えていますが、1年ごとの期限の先がどうなるかは誰にもわからないと牧野さんは話します。
ここら辺はだから政治家の方とかに今後の展望を実際つけて発表してもらうのが大事なとこですよね。
深井さんは、航空券代は寄付で支えるのがよいと考え、CAMPFIREの月額サポートを紹介しました。牧野さんたちはNPO化も悩みつつ、まずは月額寄付を航空券代などに充てたいとしています。
中東で滞留するITエンジニアを日本へ
牧野さんが次に語ったのは、出雲を拠点にしたビジネスとしての人材事業です。旧ソ連地域ではこの10年ほどの政変で、10万人以上の優秀なエンジニアが流出しているといいます。
ロシア人エンジニアの多くはトルコなど中東に滞留し、欧米では口座が作れない、仕事が得られないといった壁があります。ウクライナでは男性がそもそも出国できないという問題もあります。
非営利事業。工場労働者やオフィスマネージャーなど、一般職のウクライナ避難民の就労を支援する
ビジネスとして実施。旧ソ連地域の高度ITエンジニアを日本企業へ紹介し、移住してもらう
去年の募集には予想を大きく超える100人以上が応募しました。ロシアだけでなく、ウクライナ、ベラルーシ、アルメニアなどの人がいて、選んだ8人に半年ほどオンラインで日本語を教えてきたそうです。
その8人は5月末ごろに2週間ほど出雲市に滞在し、出雲市の社会課題を解決するアプリを作るハッカソン ── 短期間で集中的にソフトウェアを開発し、成果を競うイベント。ハックとマラソンを組み合わせた造語ですに取り組みます。まだ就職先が決まっていない人にとっては、日本企業への最後のアピールの場になります。
樋口さんは、福岡県田川で廃校を利用した地方創生に取り組んでいる立場から、外の力と地域の力を組み合わせる出雲の事例を学びたいと話しました。
歴史を学ぶことは、決断を早めるのか
最後のメッセージで、ボリスさんは「もしよかったら出雲へ見に来てください」と呼びかけました。樋口さんは、すっかり出雲の人になっていると応じています。
牧野さんは、深井さんに会う前からコテンラジオのリスナーだったと明かします。戦争当事国に巻き込まれ、日常とかけ離れたことが起こりうると身をもって痛感したといいます。
牧野さんは、大学時代に歴史をきちんと学んでいれば、自分の意思決定が1日、2日早くできたのではないかと後悔したと語ります。そのうえで、歴史に興味を持つことがすごく重要だと身をもって体験したと話しました。
多分聴いてる一人一人ができることがあると思うので。
まとめ
後編では、SAMI Japanの二人が、家族との決断、送金と移動の困難、出雲の人々の支え、そして自らの経験から生まれた避難民支援とエンジニア移住事業までを語りました。支援を必要とする人と受け入れる側をつなぐ試みは、今も協力者を求めています。
- ボリスさんは残って戦う思いと家族の説得の間で揺れながら、ウクライナを支援するために出国を選んだ
- 銀行の審査はボリスさんの前職の知識で突破し、出雲では経営者たちが保証人や家具まで支えた
- Dopomoga.jpは、住居と仕事という自分たちの避難経験を生かし、日本を避難先の選択肢にした
- 航空券代とビザの先行きが課題で、受け入れ企業と月額寄付が求められている
- 牧野さんは、歴史を学ぶことが非常時の意思決定を早めうると実感を込めて語った


