軍人王の息子は、なぜ「ひ弱」に映ったのか
フリードリヒ大王は、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世、通称「軍人王」の息子として生まれます。誕生時には祖父のネコゼフリッツもまだ存命で、孫の誕生を心から喜び、将来に期待したと伝えられています。
ただし、フリードリヒ大王は後年この祖父を虚栄心の強い人物として厳しく評しています。樋口さんは、祖父個人は好きでも、王としては評価していなかったのかもしれないと受け止めました。
ちなみに、父の軍人王と祖父のネコゼフリッツは性格が真逆で、非常に仲が悪かったといいます。この父と祖父の関係は、のちの父子対立を読み解く鍵になっていきます。
フリードリヒ大王は実は三男でした。2人の兄が幼くして亡くなったため、実質的な跡継ぎとして育てられることになります。
え、ここで二(世)使うんや。
深井さんが紹介した文献では、幼いフリードリヒは体こそ丈夫だったものの華奢で、繊細かつ多感、温和で優雅な性分だったと書かれています。読書や音楽を好み、とりわけ姉と仲がよかったそうです。
文化系の部活に入ってそうだね。
こうした気質は、学問や文化に理解のあった祖母ゾフィー・シャルロッテから受け継いだのではないか、とも言われています。一方、パワー系の軍人王の目には、この息子が後継者としても息子としても軟弱に映り、受け入れがたいものでした。
深井さんによれば、フリードリヒ大王の才能はまさに軍人王が「意味がない」と予算を削った領域にありました。小国プロイセンが生き残るには軍備しかないと考えた軍人王は、常備軍を4万人ほどから8万人ほどに倍増させ、それ以外の支出を徹底して削っていたのです。
14人の子を持ちながら不仲だった両親と、姉ヴィルヘルミーネ
フリードリヒ大王の母で軍人王の妃であるゾフィー・ドロテアは、音楽や芸術が大好きな人でした。2人の間には14人もの子どもが生まれますが、夫婦仲はとても悪かったといいます。
当時は王が愛妾を持つことがステータスとされた時代でしたが、軍人王は1人の愛人も持ちませんでした。深井さんは、その理由を軍人王の宗教観に見ています。
信念だと思う。シンプルにカルヴァン主義の宗教的観念から出てきてると思う。
当時のホーエンツォレルン家はカルヴァン派 ── 宗教改革者カルヴァンの流れをくむプロテスタントの一派。救われる者はあらかじめ神が決めているとする予定説を説き、勤勉な職業生活を重んじましたでした。救われているかは生きている間わからないので、ただ仕事に打ち込むという考え方を、軍人王は地で実践していたと深井さんは話します。
母ゾフィー・ドロテアが軍人王とまったく違う性格だったことは、夫婦の不仲の原因である一方、息子のフリードリヒ大王にとっては救いにもなりました。
フリードリヒ大王は、姉のヴィルヘルミーネと特に仲がよく、母の宮殿を隠れ家にして、父の目を盗んで詩を作ったり音楽を演奏したりしていました。芸術を宗教的なレベルで無駄だと考える軍人王にとって、それは「けしからん」ことでした。
フリードリヒ大王とヴィルヘルミーネの姉弟関係は生涯続き、姉が49歳で亡くなるまで、心の友のようにやりとりを続けたといいます。
フランス人の養育係から、軍人の教育係と分刻みの日課へ
2歳から6歳までのフリードリヒ大王を育てたのは、フランス人のラクール夫人でした。フランス語しか話せない人で、文化の国フランスらしく、文学的な表現や思索を優雅に楽しむ人物だったと深井さんは説明します。
息子がフランス風の教育を受けることを嫌った軍人王は、6歳になったフリードリヒ大王に、全員軍人の教育係を新たにつけました。
2〜6歳はフランス人のラクール夫人が養育。フランス語と、文化や文学を楽しむ雰囲気の中で育つ
6歳からは軍人の教育係がつき、祈祷と聖書、算数、砲術、王家の歴史などの実用教育へ
軍人王が教育係に出した指令書には、朝晩の祈祷のあとに聖書を読ませること、オペラや喜劇など「世俗のくだらぬ楽しみ」に近づけないことが書かれていました。勘定、数学、砲術、家政を基本とし、ホーエンツォレルン家の歴史も十分に学ばせるよう求めています。
何より大切なのは「軍人であることへの真の愛情」だとされました。深井さんは、軍人王は自分も息子も軍人だと思っていたのだろうと話します。
6歳以降のフリードリヒ大王の1日は、分刻みで定められていました。起床は6時ジャストで、祈りと着替え、洗顔、髪を整えてもらう間の朝食までを6時半に終えます。
毎週土曜の午前にはその週の内容の試験があり、合格すれば午後は自由時間、落第すれば補習でした。
完全に士官学校だね。
もう容赦ない帝王学教育だね。
楊さんは、当時のプロイセンの状況を考えれば、軍人王の立場も理解できなくはないと話します。一方で深井さんは、愛人が政治を動かしていたフランスの王子とはまったく違うと、その落差に驚いていました。
隠れ文化人デュアンと、すれ違う父子の視点
軍人王には誤算がありました。フリードリヒ大王につけた3人の軍人のうち、1人が「隠れ文化人」だったのです。
その人物はデュアン・ド・ジャンダンです。フランス学院の教授を務めた文人で、従軍時の軍功がたまたま王の目に留まっただけでした。軍人王に隠れて4000冊もの書物を集め、その大部分はフランス語の著作だったといいます。
フリードリヒ大王は、軍事・外交・内政の知識をほかの2人の軍人から学びました。しかし、ラクール夫人と引き離されたあとに文化的な心を満たしてくれたのは、このデュアンでした。
フリードリヒ大王が好んだのは詩作やフルート演奏でした。分刻みのノルマをこなした息抜きにフルートを吹くのですが、それは禁止されており、見つかれば鞭で打たれました。
深井さんは、この場面を父と息子それぞれの視点から整理しています。
指示されたノルマはやっている。息抜きにフルートぐらい吹かないと、明日からのやる気が出ない
プロイセンはまだ弱い国。強国と渡り合う次の代に芸術などしている暇はない。軍事的鍛錬や乗馬、狩猟をすべきだ
どっちもわかるね。
深井さんは、どちらの立場もそれぞれの特性と状況から見れば自然だが、2つがまったく噛み合わないと話します。息子は頑張っているからこそ息抜きしたいのに、父は次の代が危ういと思って細かく口を出すのです。
でもお父さんはマイクロマネジメントしないと次がやばいと思ってマイクロマネジメントしてるんですけど、これめっちゃ会社であるじゃん。
マイクロマネジメントされるのが嫌だからスピードが上がってないのに、上司の方はもっとマイクロマネジメントしなきゃと思うっていう。
上司と部下、あるいは二代目・三代目の経営者にも見られる構図として、3人は噛み合わない善意がすれ違いを深めていく様子に「あるある」と頷き合いました。
16歳のドレスデン訪問が決定的な亀裂に
フリードリヒ大王は6歳から16歳まで、こうした環境の中で父との関係を悪化させていきます。16歳ごろ、父とともにドレスデンを訪れたことが大きな転機になりました。
ドレスデンではザクセン選帝侯 ── 神聖ローマ皇帝を選ぶ権利を持った有力諸侯の1人で、ザクセン地方を治めた君主。ドレスデンを都とし、華やかな宮廷文化で知られましたが贅を凝らして2人を歓待しました。豪華なベッドに美しい裸の女性を横たわらせるという趣向まで用意していたといいます。
軍人王は激しい嫌悪感を覚え、すぐに息子の目を遮ってその場から連れ出しました。しかし、フリードリヒ大王はその後遊んでしまい、性病にかかったと言われています。深井さんは、どこまで本当かはわからないと断っています。
軍人王は激怒しました。分刻みで育ててきた16歳の息子に後継者としての自覚を求め、ザクセンのような退廃的な文化に染まってはならないと考えていたからです。
なんかこれが起こってから、お父さんもそこに結構手が出るようになったらしくて、結構息子をボコボコにしてたみたい。
深井さんによれば、このあと身体的な暴力や食事を与えないといった、本格的な虐待が始まります。
軍人王はなぜ息子を許せなかったのか
軍人王がここまで息子を許せなかった理由について、深井さんは収録前の議論をもとに1つの見方を示します。軍人王の倹約と富国強兵は、父ネコゼフリッツの政治へのアンチテーゼであり、反面教師だったのではないかというものです。
息子がおじいさんに似てるんだよね。
絶対におじいさんみたいにしちゃいけないって思ってボコボコにするんですよ。
父への否定
軍人王は派手なネコゼフリッツの政治を反面教師にし、倹約と軍備で国を立て直そうとする
息子が祖父に似る
芸術を好む王太子フリードリヒが、否定してきた祖父に似ていく
恐れと拒絶
息子を祖父のようにしてはならないという恐怖が、暴力へと向かう
深井さんは、虐待は手法として絶対に駄目であり、当時でさえ周囲は引いていたと強調します。そのうえで、軍人王がそう思ってしまう理由までは理解できると話しました。
感情的にも自分が否定して嫌ってた自分の軍人王のお父さんに、自分から出てきた息子がさ、似てるっていうのも多分もう受け入れられなかったんだろうね。
深井さんは、軍人王が祖父を否定する力で政治をしているからこそ、祖父に似た息子とぶつかるのだと考えています。
姉と弟が書き残した虐待の記録
同じころ、軍人王は痛みを伴う病気に悩まされ、ひどく不機嫌になっていきます。その怒りは、フリードリヒ大王と、性格がよく似た姉ヴィルヘルミーネの2人に向けられました。
ヴィルヘルミーネはのちに、「病気のため、王は耐えがたいほど不機嫌になりました」と振り返っています。朝9時に王の部屋へ出頭させられて立ち去ることも許されず、一日中罵られ、満足に食事も与えられず痩せこけていたと記しています。
楊さんによると、当時ベルリンにいた外国の使節は、フリードリヒ大王がまるで多くの戦争をくぐり抜けてきたかのように老けて見えたと書き残しています。フリードリヒ大王自身も友人に、友人たちの死は恐ろしいが自分の死はまるで怖くない、という手紙を送っていました。
深井さんは、多感で繊細な人が、適性のある芸術や哲学を封じられたまま王の務めを強制され、細かく管理され、殴られている状態だと整理します。
本当にスーパーパワハラですよ。
軍人王は将校や従僕の前でも息子を殴り、「父(ネコゼフリッツ)からこんな目に遭わされたら、私なら自殺するだろう」と言い放ったといいます。樋口さんは、そこには「お前は悔しくないのか」という意味があったのかもしれないと推し量りました。
さらに軍人王は、性的な「悪習」に染まらないよう、養育係の1人を常に王太子と同室させて監視させていました。番組の別シリーズ「性の歴史」でも扱った、当時のヨーロッパの風潮です。
王太子フリードリヒが姉に宛てた手紙には、「毎日奴隷のように殴られているのです」とあります。読書も音楽も学問も禁じられ、誰とも話せず、スパイに囲まれているとも書かれています。
同じ手紙では、ポツダムの宮殿で父に髪をつかまれて床に倒され、殴られたうえ、カーテンの紐を首に巻かれて引っ張られたと記されています。近習が駆けつけて父の腕を引き離してくれたといいます。
そしてフリードリヒ大王は、親友のカッテとカイトがついてきてくれること、旅券も手形もあることを書き、「私はイギリスへ逃げます」と決意を伝えています。
深井さんは、このままでは殺されると思うほどの虐待に追い込まれていたのだと話します。
イギリス王女との縁談の破談と、逃亡へ
フリードリヒ大王が逃げ先に選んだイギリスは、母ゾフィー・ドロテアの故郷と同じ家が治める国でした。母は息子をイギリスの王女と結婚させたいと考えていました。
ただ、王太子の結婚は外交問題であり政治問題でもあるため、最終的に決めるのは軍人王です。結局イギリス王女との縁談は実現せず、フリードリヒ大王にとって大きなショックになりました。
深井さんは、なぜフリードリヒ大王が逃げられると思っていたのかは、何冊読んでもよくわからなかったと率直に話しています。それでも王太子は、どうにかして父の暴力から逃れなければと追い詰められていきました。
希望が一個なくなった感じだな。
深井さんは、王太子の逃亡は普通の家出とはまったく違う話だと念を押します。楊さんも、外国の使節が大勢いる場で殴られる状況では、逃げなければ殺されるかもしれないと感じたのだろうと話しました。
逃亡を図ったのは18歳ごろで、虐待が始まったのは性病の疑惑があった16歳ごろからと推測されています。ただし明記されてはおらず、それ以前から暴力があった可能性もあると深井さんは補足しています。
フリードリヒ大王の人生は、ここからつらい経験を乗り越えていくものになると予告され、次回はいよいよ逃亡の顛末が語られます。
まとめ
今回の回は、繊細で芸術を愛した王太子フリードリヒと、祖父への反発を原動力に倹約と軍備に生きた軍人王が、どうすれ違い、暴力と逃亡の決意にまで至ったのかを描いています。
- フリードリヒ大王は繊細で多感な気質を持ち、その才能は軍人王が「無駄」と切り捨てた芸術や学問の領域にあった
- 6歳からは軍人の教育係による分刻みの帝王教育を受け、隠れ文化人デュアンが文化的な心の支えになった
- 息抜きを求める息子と、国の存亡から管理を強める父の視点は、マイクロマネジメントの構図として噛み合わなかった
- 深井さんは、祖父を否定することで政治をしてきた軍人王が、祖父に似た息子を受け入れられなかったと考察している
- 16歳ごろから虐待が本格化し、縁談の破談も重なって、王太子は18歳ごろイギリスへの逃亡を決意する





