アメリカ支社長が本社より強い会社?
楊さんはまず、鎌倉幕府の将軍の立場を整理します。将軍は守護と地頭の任命権を持ち、全国の警察権と軍事権を束ねる立場でした。一方で、行政権はもともと持っておらず、少しずつ取っていったものの、全部は取っていない状態だったといいます。
鎌倉幕府の権力のあり方には、今も諸説あるそうです。東西で別の国のようだったという見方もありますが、朝廷と幕府が補い合って1つの国家を作っていたという説が最も有力だと紹介されています。
前回話された承久の乱 ── 1221年、後鳥羽上皇が鎌倉幕府を倒そうと兵を挙げて敗れた戦い。これを機に幕府の影響力が西日本へ広がりましたで朝廷が敗れて以降、鎌倉幕府の権威と権力は西日本全体にまで広がります。天皇はそのまま残る一方、幕府は西日本に御家人をエリアマネージャーのように送り込んでいきました。
楊さんは、この状態を「他の国ではなかなか起こらないほどいびつ」だとして、会社に例えます。日本本社の会社で、アメリカ支社が全社売上の80パーセントほどを稼いでいる、という設定です。
本社の取締役会で議決はしていても、みんなアメリカ支社長の言うことを聞かざるを得ません。ほかの地域の支社長も本社ではなくアメリカ支社長の下についており、人事もほぼアメリカ支社長の一存で決まります。
ほぼアメリカやん。なるほどね。
それでも、アメリカ支社長が本社の取締役をクビにすることはありません。本社の役員は社内表彰のときだけ出てきて賞状を渡す、という構図だと楊さんは説明します。
いびつっすね。実質権力がもうほぼない。
| 会社の例え | 当時の対応 | 実態 |
|---|---|---|
| 日本本社の取締役会 | 朝廷 | 議決はするが影響力は小さい |
| アメリカ支社長 | 鎌倉幕府 | 売上の大半を握り人事も決める |
| ほかの地域の支社長 | 各地の守護・御家人 | 本社ではなく支社長の下につく |
彼らたちは、いびつだなっていう感覚はあったんだろうね。でも初めてのね、システムだからね。
楊さんは、この形が連続的に少しずつできあがったものなので、当時の人々にとっては自然でやりやすいやり方だったと補足しています。例え自体は歴史学的には語弊もあるが、イメージとして捉えてほしいという前置き付きです。
楊さんによると、室町幕府もこの構造はほぼ同じで、江戸幕府になって日本は大きく変わるそうです。古代から中央集権化を目指しながら実現できず、鎌倉・室町・戦国を経て、秀吉や家康の時代にようやく中央の権力が整っていったのが日本史だといいます。
ちゃんとサーバー入れ替えようぜみたいな。根本から変えようと。
樋口さんのIT的な例えに、楊さんも「クラウド化するなら全設計を考え直さないといけない」と乗ります。置き換えるだけでは本当のDXではない、という話で、設計から変えたのは明治維新ぐらいだろうと話されています。
本当そうだからね。運用で頑張るのはもう無理だよ。
で、それの戦国時代はなんかもう炎上案件みたいな。ずっと炎上してるみたいな。
家のルールで国を治めるとはどういうことか
鎌倉幕府の体制は、もともと家という私的な組織の統治方法を、そのまま幕府の統治方法にしたものだと楊さんは説明します。
たとえば政所は、もとは武士ではなく貴族の家政機関、つまり家の政治を担う機関でした。頼朝はこれにならって侍所や政所、執権などを設けていきます。
鎌倉幕府には、内閣のような合議体である評定衆、裁判機関の引付衆、家のルールにあたる御成敗式目 ── 1232年に北条泰時が定めた鎌倉幕府の基本法。武家社会の慣習をもとに、所領争いなどの裁判基準を示しましたもありました。楊さんは、こうした家のルールで全国を治めていたのが当時の日本だとまとめます。
出演者の一人は、現代の会社との違いを挙げます。今は個人が組織に参加しますが、当時なら取締役は全員が特定の一族、グラウンドの管理は別の家が代々受け継ぐ、というように単位が家だったといいます。そのため家を断絶させると、組織の中でその職務を担う人がいなくなってしまいます。
楊さんは、家が役割を受け継ぐ仕組みから一夫一妻制が生まれ、古代には比較的強かった女性の権力が下がっていったとも話しています。
相続の形も変わっていきます。鎌倉時代はまだ分割相続でしたが、耕せる土地の開拓が限界を迎え、戦争で新たな土地を得る機会も減ると、相続のたびに土地が細切れになり、家の財産が減っていきます。
分割相続。子どもたちに財産を分けるため、代を重ねるごとに土地が細切れになる
跡取りを1人決めて、その人だけに家督と土地を継がせる
財産を継げなかった次男や三男は、寺に入ったり朝廷に仕えたりしました。そうした人々を受け入れた寺社勢力も、そこで政治力をつけていったといいます。
楊さんは、跡取りだけが相続する仕組みによって、家庭の中でも権力と権威の分離が起きたと指摘します。父親は有能か無能かに関係なく、親から土地を継いだというだけで偉い存在になった、という説明です。
元寇と天皇家の分裂、そして「悪党」の登場
段階的に国家権力を取っていった鎌倉幕府ですが、ここからさまざまな出来事で揺らいでいきます。楊さんが最初に挙げるのが元寇 ── 13世紀後半、モンゴル帝国(元)が2度にわたって九州北部に攻め込んだ出来事。文永の役・弘安の役と呼ばれますです。
モンゴル軍が攻めてきた九州には、将軍の家来ではない非御家人が多く、彼らも懸命に戦いました。しかし幕府は私的な組織から生まれた武家の棟梁であり、補償の対象は御家人だけだったため、非御家人の不満が募っていったといいます。
もう1つの出来事は、鎌倉時代末期に天皇家が2つに分かれたことです。鎌倉幕府は仲裁を頼まれ、両方の家から交互に天皇を立てればいいと提案しますが、後醍醐天皇 ── 鎌倉時代末期の天皇。天皇中心の政治を目指して倒幕に動き、のちに建武の新政を行いましたに拒まれ、敵とみなされてしまいます。
戦乱が始まると、在地領主である武士は自分の土地を離れて戦いに行かなければなりません。楊さんは、土地を離れることは非常にリスキーで、中央の権力が弱い日本では、その隙に土地を奪う者が出てきたと説明します。
御家人が出陣して空けた所領を占領しようとする武士たちは「悪党」と呼ばれました。今の「悪党」という言葉の語源とされますが、意味は少し違うそうです。
楊さんが強調するのは、政治的な混乱だけなら政治的に解決できたはずだという点です。巻き込まれたのが在地領主で、彼らが所領を離れたからこそ、政治では解決できない状態に陥り、鎌倉幕府は裁ききれずに滅亡へ向かいました。
楊さんは、将軍の最も大事な役目は所領安堵 ── 主君が家来の土地の支配権を認め、保証すること。武士にとって主従関係を結ぶ最大の理由でしたであり、所領安堵のできない将軍はいらないのだと言い切ります。
武士の始まりは不法占拠から?
悪党とは、もともと領主に年貢を納めず、実力で土地を占拠するような武士や没落した武士のことだと楊さんは説明します。出演者の一人は、相続できなかった次男や三男が、そのまま家の土地に居座って自分のものにしようとした例もあると補足しています。
楊さんはさらに、武士はそもそも「人の土地を取りがちな人たち」だったと指摘します。墾田永年私財法 ── 743年に出された、新しく開墾した田を永久に私有してよいと認めた法令。荘園が広がるきっかけになりましたをルーツに、軍事力を持ち、在地領主と結びついて実力でのし上がってきたからです。
出演者の一人が「怒る人がいるかもしれないけれど、武士の始まりは不法占拠から」と言うと、楊さんも「ほんとそう」と応じています。もともとある傾向が、幕府の統制が弱まったことで抑えきれなくなった、という構図です。
御家人は将軍に呼ばれれば、土地を離れて戦場に行かなければなりません。当主と跡継ぎが戦死すれば一家は離散し、土地を守る武力もすべて連れ出しているため、ほかの武士に横取りされやすくなります。
しかも内乱では、武士たちが家来に「奪った土地はお前のものにしていい」と約束していたといいます。これは「切り取り次第」と呼ばれ、実力で土地を取りに行く者をさらに増やしました。
楊さんによると、戦争に動員された人の3分の1ほどが死んでいたとされ、負けた家は人身売買などのひどい目にも遭いました。土地の権利文書が燃やされると、裁判でも誰の土地かわからなくなり、最終的には武力が法を超えてしまいます。
留守を預かった人や代わりに戦った人が成果を挙げると、リーダーが入れ替わることさえ起きたといいます。こうして御家人にとって、戦争に行くことはリスクしかないものになっていきました。
内乱で動員
将軍の命令で、所領を離れて戦場へ向かう
留守の所領が狙われる
悪党や「切り取り次第」の武士が土地を奪いに来る
家の断絶と土地の喪失
当主の戦死や権利文書の焼失で、土地を失う
全員が防御型に
恩賞も期待できず、駆けつけずに自分の領地を守る
楊さんの説明では、みんなが自衛に回った結果、どちらかが勝つのではなく「全員が戦争に行きたくなくなって終わる」という形で戦いが収まったといいます。武士にとっては、どちらの天皇が勝っても構わなかったからです。
鎌倉幕府はなぜ見限られ、室町幕府が生まれたのか
こうして鎌倉幕府は信頼を失い、より実力のある新しい武士たちが朝廷と契約を結び直していきます。楊さんは、端的に言えばこれによって室町幕府ができあがると説明します。
当時の鎌倉幕府では、源氏の将軍は権威だけの存在になり、実権は執権 ── 鎌倉幕府で将軍を補佐した最高職。北条氏が代々この地位に就き、事実上の政治の主導権を握りましたの北条家が握っていました。御恩と奉公は家と家の関係なので、武士たちは「なぜ北条家のためにこんなに頑張っているのか」と気づいていった、と楊さんは話します。
後醍醐天皇や足利尊氏、新田義貞が倒幕に動きますが、その後、足利尊氏が立てた天皇と後醍醐天皇が対立し、南北朝時代 ── 朝廷が京都の北朝と吉野の南朝に分かれて並び立った時代。約60年続き、室町幕府3代将軍の足利義満のときに統一されましたに入ります。その状態のまま室町幕府ができあがり、3代目の足利義満の時代に天皇が1つに戻りました。
楊さんは、この回は日本史の流れよりも武士の変遷を話していると断ったうえで、「幕府は本領を安堵できなくなったら滅びる」とまとめます。武士は自分の土地を経営して生きているので、経営させてくれる人をボスに選び、させてくれない人を切り捨てるという原理で動いていたといいます。
出演者の一人は、今なら警察を呼んで裁判をすればいいという前提があるが、その前提がないとこうなるのかと驚きます。楊さんは、警察も裁判も頼れないなら、頼りがいのある人を頭領に担ぐのは自然な流れであり、幕府とは武士たちがみんなで作ったセーフティーネットだったと説明します。
その仕組みを引き継ぎ、頼りなくなった源氏と北条家に代わって足利家が室町幕府を開きます。そして室町幕府が頼りなくなったときに出てくるのが、戦国大名であり信長だ、という流れで次回へつながります。
武士が本当に欲しかったのは権力ではなく安心?
話の終わりに、出演者の一人が「なんか安心したいんですね、やっぱり」とつぶやきます。学校や漫画で歴史を学んだときは、権力や富を求めて動いていると思っていたが、実は安心したかったのではないか、という気づきです。
楊さんは「シンプルに安心してご飯を食べたいんだと思います」と応じ、別の出演者も、コンテンツとして消費されがちな戦国時代も、その時代を生きた人の気持ちを想像すると大変だったはずだと話します。
楊さんは、当時の人から見れば現代人はめちゃくちゃ幸せな人たちに見えるだろうと言います。ガードマンがいなくても誰も殺しに来ない、自分の土地を自分で守らなくても国が保証してくれる、そんなレベルの違いだという話で、収録はなごやかに締めくくられました。
まとめ
鎌倉幕府は、家のルールで全国を治めるいびつな構造のまま権力を広げましたが、元寇の恩賞問題や天皇家の分裂、悪党の登場によって、武士の土地を守るという最大の役目を果たせなくなり、見限られていきました。
- 鎌倉幕府は、実権を握る幕府と権威を持つ朝廷が並び立つ、会社に例えるといびつな二重構造だった
- 侍所や政所、御成敗式目など、幕府の仕組みは家の統治方法を国に広げたもので、相続も分割から跡取り1人へと変わっていった
- 内乱で所領を離れた御家人の土地を悪党が奪い、戦争に行くことがリスクしかない状況が生まれた
- 武士は所領安堵してくれる人をボスに選び、できない人を切り捨てるという原理で動いていた
- 武士の行動原理の根っこには、権力や富よりも「安心して暮らしたい」という思いがあったと語られている


