鎌倉幕府そっくりの組織なのに、支配地域は驚くほど狭い室町幕府
前回までで鎌倉幕府の内実と滅亡を扱ったコテンラジオ織田信長編は、今回は室町幕府の話に入ります。「信長は?」と驚く樋口さんに、深井さんは「次回、信長」と答えます。
日本史の話だと思ってたでしょ。これ信長なんですよ、今回のシリーズね。今までの情報、全部信長の時役立つから。
深井さんによると、室町幕府は鎌倉幕府とかなり似た組織で、源氏が足利家に変わったような感じだといいます。鎌倉幕府でナンバー2だった執権にあたる役職は、室町幕府では管領 ── 室町幕府で将軍を補佐し、政務を統括した最高の役職。斯波・細川・畠山の3家が交代で就いたため「三管領」とも呼ばれますという名前になりました。
管領の座は、斯波家・細川家・畠山家の3つの家で回されていました。樋口さんは、このうち斯波家の下に織田家がついていたことを指摘します。
鎌倉幕府との大きな違いは、室町幕府が直接統治する範囲がとても狭かったことです。関東や九州、東北は人に任せてしまい、幕府が直接治めたのは今の関西地方と中国地方、四国あたりだけでした。
めっちゃ狭いんですよ。超コンパクトな政府なんです。小さい政府って感じ。
九州には九州探題、奥州には奥州探題を置き、関東には鎌倉府のトップとして鎌倉公方が置かれ、関東管領などが関東を治めました。
室町幕府の力は鎌倉幕府よりさらに少し弱いかもしれないものの、商業的なところからも税金を取るなど、税の徴収は強化されていたといいます。初代の足利尊氏と2代目の時代の室町幕府は、有力な守護たちの連合政権のような性格で、足利家は一応の盟主という位置づけでした。
守護を京都に集めた義満の策が、なぜ裏目に出たのか
教科書でも太字で出てくる3代将軍の足利義満の時代に、南北朝の争いが収束します。討伐のために派遣されていた有力な守護たちは京都に集められ、そのまま幕府の政治に参加するようになりました。
中央政治に参加する有力な守護は「大名」と呼ばれ始めます。深井さんは、これが大名という呼び名のルーツだと説明します。
守護はもともと幕府が任命する役職で、世襲制ではありませんでした。ところが次第に特定の家に固定され、世襲化していきます。
守護たちが京都に集まると、自分の本国を直接経営できなくなります。そこで守護は守護代 ── 守護の代理として現地で領国の経営を担った役職。守護が京都に常駐するようになると、実際の統治は守護代が行うようになりましたに経営を任せるようになりました。
義満が守護を京都に集めた狙いは、守護の権力を削ぐことでした。地方で守護が軍閥化するのを抑え、自分の近くに置いて求心力を高めようとしたのです。
ところが深井さんは、この義満の策こそが戦国時代を生むことに直結したと話します。守護を集めた結果、今度は現地の守護代が力を持ち始めたからです。
え?逆に?ちょっと待って。それ(守護の力が強まること)をしないために守護を集めたんですよね。
守護代の台頭について、実際に現地を治める人に人徳も権力も集まるのは当然だ、と深井さんは説明します。樋口さんも、現地で起きていたことを具体的に語ります。
(守護代は)その土地の領民、民たちを実務レベルで治めないといけないじゃないですか。
例えば治水工事とかして英雄として崇められたりとかもあるし、あとはその統治のノウハウが溜まっていくんですよね、守護代の方に。
さらに重要なのが家臣団です。家臣である武士たちは、実質的には守護代の言うことを聞くようになっていました。そのため守護と守護代が戦えば、武士は守護代についていくことになります。
義満の中央集権策が守護代の台頭につながり、やがて戦国時代へ向かうまでの流れは、次のように整理できます。
守護を京都に集める
義満が守護の軍閥化を抑え、求心力を高めるため
守護代に経営を委任
守護は本国を直接経営できなくなる
守護代が力を蓄える
領民の支持、統治ノウハウ、家臣団が守護代に集まる
将軍の権力が弱まる
守護が地方に帰り、実力を蓄えた守護代と戦って負ける
樋口さんが「守護を呼ばなければ起きなかったのでは」と問うと、深井さんは「呼んでなくても起こってますね」と返します。樋口さんは、その場合は守護代ではなく守護が力を蓄えていた可能性がある、と受け止めます。
専制と合議制を行き来した将軍たちと、6代将軍の暗殺
足利義満は専制的に権力を握り、直接管轄する地域の守護の力を弱めることに成功しました。しかし4代将軍の足利義持は専制政治をやめ、京都にいる守護との合議制に戻します。義満のことが嫌いだったためと言われているそうです。
足利義持は守護たちと協調して遠征をしようとしましたが、保守的になっていた守護たちは消極的で、結局行かなかったといいます。
6代将軍の足利義教になると、今度は再び専制化に振れます。深井さんは、合議制と専制を行き来する一貫しない姿勢が評判を落とし、室町幕府のガバナンス低下の原因になったと指摘します。
足利義教は全国支配を進めようとしましたが、有力守護の反対で頓挫していました。一番反対していた畠山さんが亡くなると、義教は反動のように過激化し、武力で寺社勢力を抑えにかかります。
足利義教は比叡山延暦寺との関係も悪化させ、焼き打ちもしています。深井さんによれば、信長より前に小規模な焼き打ちがあったわけです。
信長もそんなに規模でかくないって最新研究で言われてんだけどね。
さらに足利義教は、専制化のために有力な守護たちを殺し始めます。守護たちは「次は自分が殺されるのでは」と怯えるようになりました。
深井さんが皮肉だと語るのは、外敵がいた時代には内乱が起きにくかったという点です。敵がいるうちは「喧嘩している場合じゃない」とまとまれましたが、外敵を倒したことでまとまる理由がなくなりました。
そんな中、守護の赤松満祐が将軍の足利義教を暗殺します。将軍が他の守護を2人ほど殺したのを見て、自分も殺されると考えたためです。
これ俺も殺されるんじゃねと。殺される前に殺したろつって殺すんですよ、将軍を。
6代将軍の暗殺以降、大名同士の結束はなくなり、2代続けて幼い将軍が擁立されます。地方への統制が効かなくなり、軍事招集をかけても集まらなくなりました。
将軍がそんな状態になったことで、京都にいた守護たちは地元に帰り始めます。しかし帰った先では実務を担って力を蓄えた守護代が待っており、両者の争いが戦国時代につながっていきます。典型例として、守護代の朝倉氏が守護の斯波氏を倒した例が挙げられます。
樋口さんが日本は統治しにくい地形ではと問いかけると、深井さんは山がちで領邦国家になったドイツと似ていて、統一政権が作りづらいのは確かだと応じています。
応仁の乱はなぜ起きた? 通説と新しい説
混乱のさなかに決定打として起きたのが応仁の乱 ── 1467年から約10年にわたって続いた大規模な内乱。京都を主戦場とし、室町幕府の権威を大きく失墜させ、戦国時代の始まりとされることが多い出来事ですです。とても複雑な乱なので、深井さんはエッセンスだけを抜き出して説明します。
通説では、8代将軍の足利義政の後継者をめぐり、弟の足利義視と息子の足利義尚が対立し、そこに有力守護家の畠山家と斯波家の家督争いが加わって全国が2つに分かれた、とされます。一方、最近注目された新しい説もあります。
将軍の跡継ぎ争い(弟の足利義視と息子の足利義尚)に、畠山家・斯波家の家督争いが加わって拡大した
将軍の部下の部下のナンバー1とナンバー2が喧嘩したことが発端とする見方
全然違うけど、普通の人からしたら別にどっちでもいいしみたいな感じだと思いますよ。
どちらの説でも、争いが日本を二分する戦乱に広がり、中央政権のガバナンスがさらに弱まった点は共通しています。この応仁の乱の中で、足軽や野伏と呼ばれる人たちが台頭してきました。
足軽については、もともと京都で略奪をするチンピラのような存在や元犯罪者が傭兵として雇われたという説があると語られます。野伏も、百姓や地侍だった人が傭兵として雇われたものとされます。
応仁の乱は10年ほども続き、京都は荒れ果てました。京都にいた守護たちは本格的に国へ帰り、残ったのは細川家だけになります。深井さんによると、この細川家は後に総理大臣になった細川さんの先祖だそうです。
その細川氏も力を失い、有力大名同士の力の均衡が崩れます。将軍は全国への影響力を失い、誰も幕府のリーダーシップを取れない混乱状態に陥りました。
下剋上は「実力で上を倒す」話ではなかった
混乱の中で、守護代や在地領主など力を持っていた人たちが台頭したのが戦国時代です。ただ、深井さんは下剋上のイメージは実際とは少し違うと話します。
深井さんによると、下剋上の背景には、自分の部下が言うことを聞かなくなった将軍が、部下を飛び越えて部下の部下に直接命令するようになったことがあります。将軍の権威はまだ残っていたので、部下の部下は命令を聞いてくれたのです。
あれ、俺守護代だけど、これもう実質守護なんじゃない?みたいなことになってくるし、そもそも守護を任命する権力を持ってるのは誰か。
守護を任命する権限を持っているのは将軍です。将軍に認められれば守護になれるのだから、下剋上が起こるわけです。深井さんは、将軍は自ら身分秩序を破壊して戦国時代を招いてしまった、とまとめます。
この構図は会社でもよくある、と深井さんは言います。樋口さんは、社長が部長の部下に直接命令するようなものだとたとえます。
骨抜きにしちゃダメなんだなってちょっと思ったね。ちょっと今と簡単にアナロジーにしちゃダメなんだろうけど。
下剋上は、下の者が実力だけを頼りに上を倒したのではなく、上の上に認められたからこそ上へ行こうとしたものでした。樋口さんが「大義名分があるんですね」と確認すると、深井さんはリスクがない構図だったと答えます。
リスクないじゃん。だって将軍から認めてもらってて、自分が倒したら守護になれるんだったら。
楊さんも「イメージが全然違った」と驚きを口にしています。
守護、守護代、国人、寺社。戦国時代のプレーヤーは誰だったのか
800年前からたどってきた話が、ようやく信長の時代に追いつきます。深井さんは、戦国時代に揃ったプレーヤーを出自ごとに紹介していきます。
1つ目は、守護がそのまま戦国大名になったケースです。多くは京都に行かなかった人たちで、大友宗麟、武田信玄、今川義元、大内義興(在京していたらしい例外)、薩摩の島津などが挙げられました。
2つ目は、上司を飛び越えて大名になった守護代、つまり下剋上をした人たちです。朝倉孝景、上杉謙信の家である越後長尾氏、そして織田信長がここに入ります。
しかも織田信長って守護代の部下。そう、織田家がね。
深井さんによれば、織田家自体は守護代でしたが、信長の家はさらにその守護代の部下にあたる分家でした。このほか尼子経久や三好氏もこの系統です。
3つ目は、さらに下の地頭や国人が戦国大名になったケースで、毛利元就、真田昌幸、長宗我部、龍造寺家が挙げられます。そしてどれにも当てはまらない、なぜか大名になった人として斎藤道三と北条早雲がいます。道三の娘の濃姫と結婚したのが信長です。
ここまでの戦国大名の出自を整理すると、次のようになります。
| 出自 | 特徴 | 主な人物・家 |
|---|---|---|
| 守護 | 守護のまま戦国大名になった | 大友宗麟、武田信玄、今川義元、大内義興、島津 |
| 守護代 | 上司を飛び越えて大名になった | 朝倉孝景、越後長尾氏、織田信長、尼子経久、三好氏 |
| 国人など | 地頭・国人から大名になった | 毛利元就、真田昌幸、長宗我部、龍造寺家 |
| その他 | なぜか大名になった | 斎藤道三、北条早雲 |
大名とは別の勢力として、寺社勢力もいます。比叡山延暦寺、浄土真宗(一向宗)の石山本願寺、空海の真言宗の高野山金剛峯寺、そして玄奘につながる法相宗の興福寺です。玄奘の名前が出たことに、樋口さんは驚いています。
鎌倉幕府の崩壊から、義満の専制化、合議制と専制の揺れ、守護代の台頭という流れの結果、こうしたプレーヤーが揃い、実力で戦う戦国時代に突入していきます。深井さんは、この知識があれば信長の野望をプレイするのも楽しくなるかもしれないと話し、次回からいよいよ信長の話に入ると予告して回を締めくくりました。
まとめ
室町幕府は鎌倉幕府に似た組織でありながら支配範囲が狭く、足利義満の中央集権策がかえって守護代の台頭を招きました。専制と合議制の揺れ、将軍暗殺、応仁の乱を経て幕府は統制を失い、将軍自らが秩序を壊したことで下剋上が起こり、信長を含む戦国のプレーヤーが揃っていきます。
- 室町幕府は鎌倉幕府とよく似た組織だが、直接統治したのは関西・中国・四国あたりだけの「小さい政府」だった
- 足利義満が守護を京都に集めた結果、現地の経営を担う守護代に人望と力が集まった
- 合議制と専制を行き来する将軍の姿勢や6代将軍の暗殺が、幕府のガバナンス低下を加速させた
- 下剋上は、将軍が部下の部下に直接命令したことで生まれた、いわば将軍公認の秩序破壊だった
- 守護、守護代、国人、寺社勢力が出揃い、守護代の部下の分家から織田信長が登場する舞台が整った





