ドイツはなぜ「短期決戦」に賭けたのか
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前回のサラエボ事件と開戦の話を受けて、今回から戦争の経緯に入ります。深井さんは、動きが煩雑なので、ドイツを中心にどう動いたかを切り口に話すと宣言します。
ドイツが主戦略に据えたのは、大戦の10年ほど前にシュリーフェンという人物が作ったシュリーフェン・プラン ── ドイツ参謀総長アルフレート・フォン・シュリーフェンが立案した対仏・対露の二正面作戦計画。西を先に片付け、東へ兵力を回す構想で知られますです。西のフランスと東のロシアに挟まれたとき、どう対処するかという計画でした。
シュリーフェン・プランの考え方はシンプルです。1国で2つの大国を相手に兵を分散させると負けるので、国土が広く軍の到着に時間がかかるロシアより先に、フランスを短期決戦で屈服させ、その軍を東に回してロシアと戦うという順番の戦略でした。
順番にフランス、ロシアっていう順に叩いていこうぜと。そういう戦略なんですよね、ドイツが。これすごい重要な戦略。
シュリーフェン・プランには懸念点もありました。フランスへ最短で攻め込むには、中立国のベルギーとルクセンブルクを通過する必要があります。中立を侵犯すればベルギーの抵抗に加え、イギリスが参戦する口実を与えるおそれがありました。
本来は三国同盟の一員だったイタリアも、オーストリアとの未回収のイタリア ── イタリア系住民が多いのにオーストリア領に残った地域をめぐる問題。イタリアはこれらの領土回復を強く望んでいましたの問題をちらつかされ、イギリス・フランス・ロシアの側につきます。深井さんは、代わりにドイツはオスマンを味方にしたと補足しつつ、本筋に戻ります。
それでもドイツ軍の指導者は、イギリス参戦の危険より、早期にフランスを屈服させることを優先しました。深井さんは、ドイツの戦略は短期決戦であるべきで、それができるかどうかで戦い方がまったく変わると繰り返します。
一方のフランスは「第17号計画」を立てていました。普仏戦争でドイツに奪われたアルザス・ロレーヌ地方を取り返すという計画で、深井さんによれば、それ以上のロジックはあまりなかったといいます。
もう真っ向勝負というか、どストレートや。
緻密に計算されたドイツの計画と、奪われた土地を取り返すことに集中したフランスの計画は、対照的な作りになっています。
ベルギーを通って西のフランスを短期決戦で屈服させ、その後に全軍を東に回してロシアと戦う
普仏戦争で奪われたアルザス・ロレーヌ地方を攻め込んで取り返す
マルヌの戦いで崩れた計画と「デフォルトお粗末」
ドイツの速攻とフランスの迎撃がぶつかったのが、9月のマルヌの戦い ── 1914年9月、パリ東方のマルヌ川周辺で行われた戦い。英仏軍がドイツ軍の進撃を食い止め、西部戦線膠着のきっかけになりましたです。最初はドイツが押しますが、英仏軍が踏みとどまったことで戦線は膠着します。
深井さんによると、ドイツの勝ち筋はパリまで一気に進んで陥落させることだけでした。マルヌの戦いで戦線が膠着した時点で、その間にロシアが来るため、シュリーフェン・プランは失敗に終わります。
戦線膠着したらもうシュリーフェンプラン終わりなんですよ、それで。
シュリーフェン・プランの失敗理由は、軍事史などでさまざまに考察されています。深井さんが挙げる1つ目は、計画が長い間参謀本部の外に知られておらず、政府中枢が知ってから開戦までわずか2年しかなかったことです。大規模な軍隊を前提とした計画なのに、準備が追いつかず、開戦時点で前提条件が違っていました。
2つ目は、参謀総長の小モルトケ ── ヘルムート・ヨハン・ルートヴィヒ・フォン・モルトケ。普仏戦争を勝利に導いた大モルトケの甥で、第一次世界大戦開戦時のドイツ参謀総長です。プロイセンの名将だった大モルトケの親戚ですが、実力はまったく違ったとされ、作戦実施面での失敗も多かったといわれます。
小モルトケは戦争のプレッシャーに耐えきれず、精神的にも肉体的にもボロボロになり、のちに脳卒中で亡くなります。深井さんは、この後のドイツ首脳部のほとんどが精神をやられていくと話します。
こんな戦争の命運をさ、かけられても、相当な精神力ないと。東郷平八郎ぐらいの精神力ないと難しいですよ。
国家の命運を左右する計画が、参謀本部という小さな組織で作られ、政府中枢でほとんど検討されず、準備期間もないまま実施された。深井さんはこの事態について、歴史全体を見れば珍しいことではないと脱線します。
深井さんによれば、ドイツはこれでも頑張った方で、フランスのほうがもっとお粗末だったといいます。楊さんは、シュリーフェン・プランは実際の戦争のためではなく、予算を獲得するための提案書にすぎなかったという最近の研究の説も紹介しました。
計画の秘匿
長い間参謀本部の外に知られず、政府中枢が知ってから開戦まで2年しかなかった
前提の不一致
大規模な軍隊を前提とした計画なのに、開戦時点で条件がそろっていなかった
指揮の失敗
参謀総長の小モルトケに作戦実施面での失敗が多かった
マルヌで膠着
英仏軍が踏みとどまり、短期決戦が成り立たなくなった
ファルケンハインの登場と750kmの塹壕
短期決戦に失敗した小モルトケは、わずか数か月で交代させられます。ヴィルヘルム2世が後任の参謀総長に据えたのが、ファルケンハインです。
ただしドイツは、マルヌでの敗北を認めることになるのを避けるため、実際の指揮権はファルケンハインに移しながら、交代の発表までにはかなり時間をかけたといいます。参謀総長が代わっても、戦線の膠着は続きました。
深井さんによれば、戦線の膠着はそれまでの戦争では起こらなかったことでした。日露戦争の奉天会戦や二〇三高地でも機関銃による掃射で多くの人が死んでおり、各国は機関銃の威力をわかっていました。わかっているからこそ、戦線は膠着したのです。
そこで生まれたのが、堀のような溝を掘って通路にし、砲撃で相手の戦線を崩してから飛び出して突入する塹壕戦 ── 地面に掘った溝(塹壕)に身を隠しながら戦う戦い方。第一次世界大戦の西部戦線では、敵味方の塹壕が長く対峙しましたです。
塹壕を掘ると、敵は回り込もうとします。回り込まれないようにさらに掘るので、塹壕はどんどん長くなりました。フランスが北から迂回を企て、ドイツがそれを防ごうとした結果、塹壕はスイス国境からイギリスとの海峡まで、全長750km以上に達します。
(塹壕が)750キロ?
深井さんは、750kmという長さを東京駅から函館駅、あるいは東京から山口駅までの鉄道の長さにたとえます。国境線を丸ごと塹壕でなぞったような状況でした。
機関銃の威力
正面から突っ込めば大量に死ぬことを各国がわかっていた
塹壕を掘る
溝に身を隠し、砲撃してから突入する戦い方が生まれる
迂回と延長
敵が回り込もうとし、防ぐ側がさらに掘り進める
750km以上
スイス国境から海峡まで塹壕が続き、誰も迂回できなくなる
塹壕自体は日露戦争のころから使われていましたが、深井さんは、これだけの長さと規模は初めてだったと説明します。
迂回できない戦線と人海戦術
戦線が端から端まで伸びた結果、誰も迂回できなくなりました。敵と戦うには、正面から突っ込むしかありません。
誰も迂回できないってどういうことかっていうと、全員正面突破するしかないんですよ。これで人が死ぬんですよ、まず。
守る側は有刺鉄線 ── とげの付いた鉄線。これを張りめぐらせた鉄条網は、歩兵の突撃を足止めする防御設備として使われましたで鉄条網を作り、突撃を足止めしながら機関銃で掃射しました。深井さんによれば、これで一気に1000人ほどが死ぬようなことが起こったといいます。
大量の犠牲を出して陣地を奪っても、すぐ後方に新しい陣地が作られます。そのため攻撃目標を連続して設定する必要があり、まず砲兵で砲撃してから陣地を奪う戦術がとられました。深井さんは、これは日露戦争の学びを生かしたものだと話します。
しかし砲弾にも機関銃の弾にも限りがあります。そこで軍部が考えたのが、人間の数は機関銃の弾より多いので、全員で攻めればどこかで上回るという発想でした。
人海戦術で。
当時の機関銃は冷却が必要で、小便をかけて冷やしたという話もあったそうです。さらに無線が未発達で、前線の状況はリアルタイムで参謀本部に伝わりませんでした。
前線でさ、めちゃくちゃ人が撃ち殺されてるのに、また送っちゃうわけ人。
深井さんは、第一次世界大戦は無能な指揮官が大量に登場したと語られがちだが、こうした技術的な側面もあったと指摘します。
迂回できない
750kmの塹壕で正面突破しか選べない
弾に限りがある
兵士の投入量で機関銃の能力を上回ろうとする
情報が届かない
無線が未発達で、前線の惨状が参謀本部に伝わらない
兵を送り続ける
撃たれている前線に次々と兵士が送られる
各国は、自分の損耗を抑えて相手を消耗させる状況を作ろうとしました。ところが塹壕戦では、両陣営ともに多大な死者を出し、どちらかだけが大きく損をすることは起こりませんでした。
だから(死者が)2000万人まで行ったんですよ。
砲撃を耐え、突撃する兵士たちの日常
塹壕戦の最前線には歩兵が配置され、防御や機関銃での迎撃、突撃を担いました。攻撃のときに時間を合わせて一斉に突撃するため、腕時計が使われるようになったと深井さんは話します。
後方には砲兵が配置され、突撃前に相手の最前線へ大量の砲撃を行います。防御側は砲撃のあいだ何もできず、雨のように降ってくる砲弾で死ぬかどうかは運次第でした。砲撃で亡くなる人がとても多かったようです。
あまり知られていませんが、前線は交代制でした。何日間、何週間と前線にいて、生き残れば後方の陣地に戻るという形です。
深井さんが強調するのは、塹壕戦の悲惨さが「これ以上工夫のしようがない」点にあることです。
さらに、戦争のやめどころが誰にもわからないため、スーパー泥沼化状態が4年間続いたと深井さんは話します。夜中にも砲撃が来るため、精神的におかしくなる人も多く、震えが止まらない兵士の映像も残っています。PTSDや、体の一部を失う人も数多くいました。
人が死にすぎて正規兵の補充が効かなくなると、年齢を偽った10代の若者が訓練も受けずに送り出されるようになります。遮蔽物に身を隠すという基本さえ知らない彼らの多くは、初日で亡くなったといいます。
塹壕の衛生環境はどれほど劣悪だったのか
塹壕の中は、風呂にも入れず、まともなトイレも作れない環境でした。穴の中で用を足すしかないため、チフスや赤痢などの感染症が流行します。
戦いは4年間続いたので、兵士たちは四季をすべて塹壕で過ごしました。とくに冬は悲惨で、雨で水が溜まった塹壕にいると足が腐り、凍傷や、足が壊死する塹壕足 ── 冷たく湿った環境に足が長時間さらされて起こる障害。英語でトレンチフットと呼ばれ、悪化すると壊死して切断が必要になりますになる人が大量に出ました。
シラミが湧く、病気にかかる、塹壕足になって足が壊死して切断するしかなくなる、砲弾にさらされる、突撃して殺されるっていう凄まじい状況ですよね。
水も十分に取れず、小便を飲んだという話もあります。深井さんによれば、ネズミや人の死体が浮かぶ水たまりの泥水をすするしかなく、それが赤痢の原因にもなりました。食事も十分には配給されない中で、兵士たちは戦い続けました。
それでも若者が戦場へ向かった理由
これほどの環境でも、最初は多くの兵士が国のために戦っていました。後半になるとうんざりしていきますが、前半はそれでも戦っていたと深井さんは話します。
背景にはナショナリズムの高まりがありました。若い男性が戦争に行っていないと女性から責められることもあり、戦争反対を口にすれば売国奴や裏切り者扱いされる空気があったといいます。
加えて情報統制が敷かれ、死体の映像を残すことも禁じられていたため、塹壕戦の悲惨さは国内に知られていませんでした。騎馬兵が戦う昔の貴族の戦争を想定していた人たちは、塹壕戦を想像できないまま戦場に行き、初日や2日目で絶望したといいます。さらにこの上に毒ガスも使われました。
騎馬兵が戦う昔の貴族の戦争を想定し、国のために戦うことを良いことだと考えて戦場へ向かう
砲撃、機関銃、有刺鉄線、毒ガス、劣悪な衛生環境の塹壕で、初日や2日目に絶望する
楊さんは、兵士の立場からすれば行っても地獄、行かなくても地獄だったと受け止めます。深井さんは、自分なら赤痢とチフスで死ぬ、方向音痴で迷って死にそうだと冗談めかしつつ、当時の兵士の死生観にも触れます。
でもなんかその死ぬのが怖いっていうのはあんまりなかったみたい。もちろん怖い人もいたと思うんだけど、怪我する方が怖かったりしたらしい。
深井さんは、戦争に行った時点で生きて帰れるかわからないため、即死できるほうが楽だと考える人も少なくなかったと、読んだインタビューをもとに話しています。ただし人によるとも添えています。
次回は東部戦線へ。悲惨さを知る意味
ここまでは西部戦線、つまりフランスとの戦いの話でした。同じ時期にはロシアも攻めてきており、ドイツとロシアの戦いは東部戦線 ── 第一次世界大戦で、ドイツ・オーストリアとロシアが戦った東側の戦線。西部戦線と並ぶ主要な戦場でしたとして次回に語られます。
深井さんは、同時期の出来事でも分けて話さないとわかりにくいと説明し、今回はあえて悲惨なところを伝えるつもりで話したと明かします。
こういうところはそうですね、これヒトラーの時もそうでしたけど、やっぱりね、精神に来ますけど、知ってないとやっぱり理解できてないよね。
楊さんは、自分を平和主義者とは言わないが、こうした現実を知ると戦争を簡単に勧めることはできなくなると語ります。深井さんも、これを経験した人は誰も戦争をやっていいとは思わないはずだと応じ、この回を締めくくりました。
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まとめ
ドイツはフランスとロシアに挟まれる状況を、フランスを先に短期決戦で倒すシュリーフェン・プランで乗り切ろうとしました。しかしマルヌの戦いで戦線が膠着し、戦争は誰も迂回できない750kmの塹壕戦へと変わり、両陣営が大量の犠牲を出し続ける泥沼になりました。
- シュリーフェン・プランは、準備期間の不足や前提条件のずれ、小モルトケの指揮の失敗もあり、マルヌの戦いで崩れた
- 塹壕は迂回を防ぐために伸び続け、スイス国境から海峡まで750km以上に達し、正面突破しか選べなくなった
- 機関銃と有刺鉄線、弾の不足を補う人海戦術、前線の情報が届かない通信事情が、犠牲を拡大させた
- 兵士は砲撃、突撃、感染症、塹壕足、汚れた水に苦しみながら、4年間戦い続けた
- ナショナリズムと情報統制のもと、多くの若者は塹壕戦の現実を知らないまま戦場へ向かった







