タンネンベルクで名を上げた二人は誰か?
前回のエピソードはこちら
前回までに西部戦線は塹壕戦で膠着していました。その一方で東部戦線では、ロシア軍がドイツの予想よりも早く進軍してきます。
ドイツ軍とロシア軍はタンネンベルク ── 現在のポーランド北部にあたる東プロイセンの地名。1914年8月、この一帯でドイツ軍がロシア軍を包囲して大勝しましたで対峙し、この局地戦ではドイツ軍が圧勝したと深井さんは説明します。
タンネンベルクの勝利で名を上げたのが、ヒンデンブルクとルーデンドルフです。ヒンデンブルクは、コテンラジオのヒトラー編に登場した人物でもあります。
ヒトラーを首相に任命した人、これ(ヒンデンブルク)。
深井さんによると、ヒンデンブルクはドイツの敗戦後にできるヴァイマル共和国 ── 第一次世界大戦後の1919年に成立したドイツの共和制国家。帝政が崩壊した後に生まれ、1933年のナチス政権成立まで続きましたの大統領になります。その理由は、東部戦線の対ロシア戦で多くの戦績を残したことにありました。
西部戦線が膠着していたため、東部戦線での勝利に国民は沸きました。マスコミとドイツ帝国も、西部戦線の膠着から目をそらす意図もあって、ヒンデンブルクとルーデンドルフを東部戦線の英雄として宣伝していったといいます。
追い込まれたドイツで始まった内部対立
東部戦線で結果を残したヒンデンブルクは、ドイツ内部で東部戦線を重視するよう主張していきます。しかし時の参謀総長ファルケンハインは、西部戦線に重点を置きたいと考えていました。
東部戦線(対ロシア)での戦果を背景に、東部を重視するよう主張
参謀総長として、西部戦線(対フランス)に重点を置きたいと考える
シュリーフェン・プランが失敗し、ドイツはすでに追い込まれていました。そのなかで指導部の対立が始まったことに、樋口さんも反応します。
追い詰められた時こそ、なんかこういう対立が生まれそうな気もするよね。
ファルケンハインとヒンデンブルクは非常に仲が悪くなり、ルーデンドルフもファルケンハインと不仲でした。皇帝ヴィルヘルム2世もこの対立にいら立っていたようです。
深井さんによると、ヴィルヘルム2世はこの頃から鬱になってきたと言われています。シュリーフェン・プランの失敗、西部戦線の膠着、先の見えなさ、指導部の不仲が重なっていました。
きついわな。これはきついよ。
ヴェルダンの戦いは何を狙っていたのか?
参謀総長ファルケンハインは軍人のあいだで人気がありませんでした。それでもヴィルヘルム2世にかばわれ、なんとか地位を保っていたといいます。
ファルケンハインの意向で西部戦線に力を入れた結果、起きたのがヴェルダンの戦い ── 1916年2月から12月にかけて、フランス北東部のヴェルダン要塞をめぐって独仏が戦った戦い。両軍に膨大な死傷者が出た消耗戦として知られますです。ドイツの狙いは要塞の突破そのものではなく、圧力をかけてフランスに損害を出し、和平交渉に持ち込むことでした。
深井さんは、この時期のドイツはもう「そういう勝ち方」しか考えていなかったと話します。ドイツは38センチ長距離砲という巨大な砲を作り、1200門もの砲を準備して撃ち込んでいきました。
フランス内部では要塞を放棄したほうがよいという声も出ましたが、最終的には防御して戦う道を選びます。ただ、指揮官があまり優秀ではなく、要塞があるのに外へ出て多くの兵が死んだとする文献が多いといいます。この評価は文献によって異なると深井さんは補足しています。
ドイツが西部戦線に集中してきたことを受けて、フランスはイギリスとロシアに攻撃を仕掛けてもらい、ドイツの兵力を分散させようとします。実際にロシア軍が動き、分散は一定程度成功しました。
ドイツ側では、ヴィルヘルム2世の息子で同名の皇太子ヴィルヘルムが、作戦意図を理解していなかったとされます。損耗させて講和に持ち込むはずが、皇太子はフランス軍を殲滅しようとし、ドイツ軍にも大きな損害が出たといいます。
楊さんも、いいところで叩きのめして有利な条件で講和を結ぶのが本来の作戦だったと振り返ります。深井さんは、この時点のドイツはすでにきれいに勝つことを諦め、講和の結び方を考えていたと話しています。
1日で最も人が死んだソンムの戦い
ヴェルダンの戦いと同時並行で、フランス北部ではソンムの戦い ── 1916年7月から11月にかけて、フランス北部のソンム川周辺で英仏連合軍とドイツ軍が戦った戦い。初日のイギリス軍の損害は歴史的な規模とされますが起こります。フランスの要請に応じて動いたイギリス軍を、ドイツ軍が迎え撃った戦いです。
深井さんは、ソンムの戦いを歴史上1日で最も人が死んだ戦いとして紹介します。その原因は、砲撃してから突撃するという塹壕戦の定石と、ドイツ軍の機関銃にありました。
大規模砲撃
イギリス軍がフランス軍とともに1週間、200万発を撃ち込む
突撃
ドイツ軍陣地は破壊されたと考えてイギリス軍が前進
機関銃の反撃
生き残っていたドイツ軍の機関銃で、この日だけで5万7000人が死傷
攻撃の繰り返し
後続の部隊と連携が取れず同じ攻撃を46回繰り返し、さらに2万5000人が死傷・行方不明に
やばすぎるな。
楊さんは、兵士が人形のようになぎ倒されたという記録も残っていると補足します。深井さんは、多くの死者が出ていることが後方に伝わらず、ドイツ軍から見れば撃っているだけで人を殺せる状態になっていたと説明します。
一方で、ソンムの戦いではドイツ軍も大きな損害を受けました。ファルケンハインが絶対に後退するなと命じていたためです。
そこ(命令に従う点は)日本とすごい近いんですけど、あんまり脱走とかせんのですよ、他の国に比べて。
ソンムの戦いでは、イギリスの新兵器である戦車も投入されました。楊さんによると、この戦いにはヒトラーも参戦していて、足の負傷だけで生き残ったといいます。
深井さんは兵士の手記を読み上げます。手記には、大隊長も中隊長も小隊長も次々に戦死し、ドイツ軍の陣地にたどり着いたときには30人ほどしか残らず、兵力の8割を失っていたと書かれていました。続けて読まれた窒息ガスの苦しみを語る手記は、別の兵士によるものかもしれないと深井さんは話しています。
ルーマニア参戦で辞任したファルケンハイン
ソンムの戦いが始まると、ドイツはヴェルダンに投入していた兵力も分散させることになり、ヴェルダンへの攻勢は勢いを失います。1916年ごろ、開戦から2年ほどたった時期の話です。
もともと軍内部で支持が弱かったファルケンハインは、ヒンデンブルクとルーデンドルフから遠慮なく批判され、ヴィルヘルム2世もいら立つようになります。そこへ、ヴィルヘルム2世の親戚が国王を務めるルーマニアが、敵側について参戦しました。
まあこの人(ヴィルヘルム2世)いつもまさかなんだけどね。めちゃくちゃポジティブなんだろうね、そこは。
ルーマニア軍が実際の戦線にどれほど影響したかはわからないものの、ヴィルヘルム2世は心理的に大きなショックを受け、うつ状態がさらに進んだといいます。
ヴィルヘルム2世はファルケンハインを呼んで今後の方針を問いただし、その後にヒンデンブルクも呼んで同じ質問をします。プライドの高いファルケンハインは、この扱いに強い不満を抱いて辞意を出しました。
ヴィルヘルム2世はその辞意を止めずに受け入れます。開戦から1か月半で事実上解任された小モルトケに代わり、2年ほどドイツ軍を指揮してきたファルケンハインは、こうして参謀総長を辞任しました。
参謀総長ファルケンハインが西部戦線を重視し、ヒンデンブルク・ルーデンドルフと対立
ヒンデンブルクが参謀総長、ルーデンドルフが副参謀総長にあたる立場となり、2人が共同で指揮の責任を負う
皇帝より人気になった英雄と、泣き出す皇帝
楊さんは、ヒンデンブルクとルーデンドルフを名コンビと表現します。ヴィルヘルム2世もこの2人による形勢逆転に望みを託し、実際にドイツ軍は、ドイツから見れば裏切ったルーマニアに勝利しました。
タンネンベルクでの勝利に始まる東部戦線での活躍に、ルーマニアへの勝利が加わったことで、ヒンデンブルクの人気はさらに高まります。ドイツ各地に木製の像が置かれるほどになり、やがて皇帝よりも人気を集めていきました。
楊さんは、人は苦しいときに、自分を苦しみから救い出してくれそうなヒーロー、つまり偶像にすがってしまう部分があるのではないかと話します。
人気が移ったことで、ルーデンドルフを中心に、ヒンデンブルクも含めて皇帝を軽視するようになります。深井さんによると、ヒンデンブルク自身はかなり皇帝を尊重していたほうだったといいます。
この段階のヴィルヘルム2世は戦争に疲れ果て、和平を望んでいました。開戦時は戦争を甘く見ていて、こんな事態になるとは思っていなかったからです。
もう会議の中で平和っていう言葉が出るだけで泣いてたらしいですよ、彼(ヴィルヘルム2世)は。
ドイツはイギリスやフランスに和平提案を送りますが、内容が中途半端だったこともあって拒否されます。精神的に不安定だったヴィルヘルム2世は、今度は逆に、和平ではなく徹底的に相手を潰す方向へ振れてしまったといいます。
アメリカはなぜ参戦するのか?
追い詰められたドイツに対し、この後、アメリカがイギリス・フランス・ロシアの側で参戦します。深井さんはアメリカを「隠れボス」と表現します。
アメリカはヨーロッパの戦争に干渉しない方針を貫いており、当時のウィルソン大統領も、戦争をしないと訴えて当選していました。それでも参戦に至った理由は、次回のテーマとして持ち越されます。
楊さんは、第一次世界大戦ではコミュニケーションのミスで多くの人が死んでいると指摘します。無線や機関銃のような新しい技術に、人間のノウハウがまだ追いついていなかったのではないかという見方です。
深井さんは、コミュニケーションの前提として、そもそも信頼関係が必要ではないかと応じます。
ヘミングウェイの手記と、戦友のために戦う心理
深井さんは、作家ヘミングウェイ ── アメリカの作家アーネスト・ヘミングウェイ。第一次世界大戦に赤十字の救急車の運転手として従軍し、その体験は後の小説『武器よさらば』にも生かされましたの手記も紹介します。
手記には「地獄も同然とまでは言いませんが、でもこれならいっそ地獄に葬り込まれた方がいいと思ったことが8回ぐらいあったことは確かです」と書かれていました。
さらにヘミングウェイは、フットボールチームの仲間だった親友グンナール・ダールの死について「彼を殺したドイツの豚野郎どもに仕返しするチャンスを神様が与えてくれるといいのですが」と記しています。
こうやって近しい人が殺されたりすると、やっぱ憎悪を生むよね。ドイツにはドイツでやっぱこう思ってる人が絶対いますからね。
楊さんは、戦争を研究した人類学の本の聞き取り調査に触れます。人が戦争に行く理由として、ナショナリズムや国のためという概念もある一方で、戦友のために行くという答えが多かったといいます。国という大きなものより、死んだ友人や兄弟のほうが個人にとってリアルだという見方です。
最後に深井さんは、次回はアメリカの参戦経緯に加え、ロシア革命でニコライ2世がボリシェヴィキに殺され、ロシアが戦線から離脱していく流れも扱うと予告します。
このシリーズの次のエピソードはこちら
まとめ
今回は、東部戦線の英雄ヒンデンブルクの台頭から、ヴェルダンとソンムの消耗戦、ファルケンハインの辞任、皇帝の精神的な消耗までが語られました。戦況の膠着が指導部の対立や皇帝の揺れを生み、兵士の手記からは戦場の悲惨さと、憎しみや仲間への思いが戦いを続けさせる様子が見えてきます。
- タンネンベルクでの勝利で、ヒンデンブルクとルーデンドルフが東部戦線の英雄として宣伝された
- ヴェルダンの戦いは、ドイツがフランスを損耗させて講和に持ち込むことを狙った戦いだった
- ソンムの戦いでは、イギリス軍が初日だけで5万7000人の死傷者を出した
- ファルケンハインの辞任後、人気が皇帝からヒンデンブルクへ移り、ヴィルヘルム2世は和平と強硬の間で揺れた
- 次回は、不干渉主義だったアメリカが参戦した理由とロシア革命が語られる







