過去最長の番外編、最後のテーマ「六波羅蜜」とは
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今回は龍源さんをゲストに迎えた仏教シリーズの最終回です。深井龍之介さんは「過去最長の番外編ですよ、多分」と話し、樋口聖典さんも「番外編がとどまるところを知らない」と笑います。
最後のテーマとして深井さんが持ち込んだのが「六波羅蜜」です。平清盛の本拠地として知られる六波羅蜜寺の「六波羅」と同じ言葉で、聞いたことはあるが意味はよくわからない、という状態の人が多い言葉です。
六波羅蜜の波羅蜜はパーラミターという言葉で、完成させるべきこと、という意味です。六波羅蜜で、6つの完成させるべき事柄のセットになります。
龍源さんは、これは大乗仏教を修行し、それを基に社会を生きようとする人が、日々心がける6つの在り方だと説明します。樋口さんが「理想像の要素として持っておけばいいか」と確認すると、龍源さんは「常日頃気をつけていることぐらいで」と応じ、深井さんは「行動指針ってやつ」とまとめます。
戒律とは少し違う、というのがポイントです。あれもこれもしてはいけない、という細かな禁止のリストは上座部仏教のイメージであり、六波羅蜜はもっと前向きな行動指針だと龍源さんは整理します。
第一の指針「布施」──与えるために余剰をつくる
1つ目の「布施」は、日本ではお寺にお金を払うことという意味で使われますが、龍源さんによれば本来の意味は「与えること」です。
布施はサンスクリット語のプージャの音写ではないかという考え方です。尊きものや良きものに、自分の力を添えるという意味ですね。
つまり、素晴らしいと思える相手に、自分のお金やリソースを添えて、その働きの一部として自分の力を使ってもらうこと。それが布施の元々の考え方だと龍源さんは説明します。コテンラジオの活動を素晴らしいと思った人が余剰分を手渡すのも、この意味での布施にあたると例を挙げます。
ここで龍源さんが強調するのが、布施をするには前提が必要だという点です。以前の回で語った「余剰と欠乏の閾値」を引かないと、そもそも与えられないというのです。
この布施を行動指針にすると考えたら、自動的に欠乏と余剰の閾値を引いて、それを超えた分は与える、という発想になるわけですよね。
さらに布施は、誰かにくれてやることでも、邪悪なものに力を貸すことでもありません。世界を良くするものに力を添えるためには、その相手を探すこと、そしてその相手と共に歩むことまで含まれる。だからこそ修行になるのだと龍源さんは述べます。
布施の対象はお金に限りません。深井さんが確認すると、龍源さんは労力や知識、優しさなど、渡せるものすべてが入ると答えます。イライラして余裕がなければ人を手助けできないように、優しさも余剰がなければ出せないというわけです。
第二の指針「持戒」──自分の原則を確立する
2つ目は「持戒」、戒律を持つと書きます。ただし龍源さんは、ここでの戒律は上座部仏教のような細かな禁止のリストではないと注意します。
結論から言うと、自分のアイデンティティの確立というか、自分の原則を確立し、それをきちんと守ろうとするということですね。
たとえば「優しい人でいよう」「誠実でありましょう」「人を騙さない」「逃げない」といった、自分自身に設定した在り方を守ること。それが持戒だと龍源さんは説明します。原則はその都度更新してよいものの、「めんどくさいからやめよう」では話にならないといいます。
原則がなければ、場当たり的な人になってしまう、と龍源さんは指摘します。その時々でしのぐだけになると、二枚舌・三枚舌になり、定見のない信用ならない人になっていくというのです。
自分に絶対的属性を付与せずに、世界とどのような関係性を保つことが良きとされるかを設定し、その関係性を再現していく、という感覚で捉えればいいんですか。
すごく大乗的に正確な素晴らしい解釈だと思います。他者との関係性、世界との向き合い方に関して、自分が原則を持つということですね。
深井さんは、自己を固定するのではなく、目指す関係性やその先の状態を決めて再現しようとすることを、ルールなしにやってはいけないと言われている、と言い換えます。龍源さんもこれを肯定し、この持戒が布施ともつながっていると付け加えます。閾値を設定して布施をするぞ、という姿勢自体が戒律になるからです。
第三の指針「忍辱」──折れない、曲げない
3つ目は「忍辱」です。忍ぶに屈辱の辱と書き、一般には「屈辱に耐え忍ぶこと」と説明されますが、龍源さんはこの理解を「間違ってないけど間違ってる」と評します。
屈辱に耐え忍ぶというと、バカにされて我慢する意味に取るでしょう。そうじゃなくて、あのね、折れないということだと僕は思うんですよ。
布施を前提に、原則を持って世界に向き合っていても、思いがけない嫌なことや、望まない結果は起きます。そこで「もう嫌だからやめた」となれば、そこでゲームセットになってしまう。折れたり腐ったりせず、決めた道を行き続けることが忍辱だと龍源さんは説明します。
前回語られた三句の法門、すなわち菩提心を持ち慈悲を根本として方便を尽くすと決めたなら、結果が出ようが出まいがそれを曲げない、という姿勢がここに重なります。ただし龍源さんは、命の危険まで冒す必要はないと補足しつつ、ちょっとやそっとでポキポキ折れていては意味がないと述べます。
深井さんは、玄奘や鑑真を勉強しているとこの忍辱を実践している感じがすると指摘し、「これは絶対折れないもんね」と重ねます。
第四の指針「精進」──正しい目的へ勇敢に歩み続ける
4つ目は「精進」です。日常でも「精進しなよ」と使われますが、龍源さんはそんな軽い意味ではないと言います。
設定した目的に対して、正しくその目的が果たされる道筋を、勇気を持って止まらず歩み続けること。それが精進の本来の意味です。
無駄弾を撃ちまくったり、やみくもに走り回ったりするのは精進ではない、というのが龍源さんの整理です。「俺頑張ってるねん」という人がいても、その頑張り方は正しいのか、という問いが抜けていれば精進とは言えません。
深井さんは、これは前回の「菩提心を因となす」にリンクすると受け、構造を理解して適切な手を打てということだと言い換えます。龍源さんも同意し、適切な手がわかっているなら、少々怖くても勇敢に進まなければ意味がないと述べます。
京都から東京に行きたいのに、なぜか西に向かって進んでしまう。これはどんだけ頑張っても精進とは言わないんですよ。目的地に着かないので。
正しい目標設定と手段の選定があって、そこへ勇敢に進んでいく。目的や手段が合っているのかを問わないまま無駄に頑張るのも、言うだけで実行しないのも、どちらも精進ではない。その両方が合わさっているのが精進だと龍源さんはまとめます。
第五の指針「禅定」──精神を磨き、正しく見る
5つ目は「禅定」です。一般には瞑想修行や座禅を指しますが、龍源さんはこの「禅」という言葉にも解説が必要だと言います。
元のサンスクリットはディヤーナという言葉です。心が動かない、定まった境涯に入っていくことが禅定なので、平たく言うと精神修養なんですね。
布施・持戒・忍辱・精進を正しく完成させるには、心が散乱していたり、イライラしていたりするとできない。だから散乱する心を抑え、愚かしさと向き合って制御するための精神修養が必要になる、というのが禅定の位置づけです。
龍源さんは、壁に向かって座る座禅も手段の一つに過ぎないと言います。何年滝に打たれても、何十年洞窟にこもっても、それで心が正しい悟りの方向に向かっていなければ、それは修行とは言わないと述べます。
何年間滝に打たれようが、どれだけすごい荒行を成し遂げようが、心が正しい悟りの方向に行ってなかったら、そんなものは修行とは言わないわけですよね。
ここでの「正しさ」は、中観唯識という仏教の原則の理解が精密になっていくことだと龍源さんは説明します。この哲学がわかっていないと、そもそも何のために布施をするのか、なぜ忍辱で耐えるのかがわからなくなってしまう。それを防ぐために自分の仏教的な知性を磨くのが禅定だといいます。
異質な第六の指針「智慧」──五つに支えられて湧くもの
最後の6つ目「智慧」だけは、少し異質だと龍源さんは言います。六波羅蜜はもともと「5プラス1」の構造になっているというのです。
手前の5つが福徳で、自分の中にエネルギーを貯める。最後の智慧が、そのエネルギーが発揮されることなんですよね。
ここでいう智慧は、株式市場が読めるといった小賢しい話ではなく、悟りの智慧だと龍源さんは述べます。平たく言えば、普通の人とは違うものの見え方をするようになることです。前回、深井さんが三句の法門を「一見大したことないのにすごいことを言っている」と感じたのも、智慧が湧いてきたからだといいます。
手前の5つが完成に近づくにつれ、智慧はアップデートされていきます。そして智慧波羅蜜の完成とは、そこで生まれた新しい見え方が退化しないこと、そしてそれを正しく使って生きることだと龍源さんは説明します。
なるほどわかるわかる、とはいえ、って言って元に戻る。これは意味ないんですよね。智慧が完成に向かってないということなので。
5つでエネルギーを作り、智慧が増大し、それを使って実際に生きる。これがスパイラルで回ると智慧のレベルが上がり、また違うレベルの布施や持戒が課題として現れる。こうして真の菩薩に近づいていくのが六波羅蜜の全体像だと龍源さんはまとめます。
龍源さんは、これは仏教の枠を超えたフレームワークでもあると言い添えます。企業の運営や日常生活に落とし込むことも可能で、この六波羅蜜のフレームで生きると「すごくいい感じになると思う」と話します。
知っているつもりの言葉──智慧と知識、般若心経
樋口さんは、6つ目の「智慧を忘れずに継続する」ことができていないと感じたと振り返ります。人と話して衝撃を受けても、日常に戻ると忘れてしまう、というのです。
いや、普通ですよね。なのでその手前の5つの波羅蜜が足りていない、ということになるわけですよね。
智慧という言葉は日本語の一般語彙ですが、それが5つに支えられているという発見が面白かった、と深井さんは話します。知識と知恵の違いがそれでよくわかる、というのです。
さらに話は「般若心経」に及びます。智慧の元の言葉はプラジュニャーで、これが般若と訳される。般若波羅蜜とは、まさに智慧の完成のことだと龍源さんは説明します。
これ、般若波羅蜜ってあるじゃないですか。あれの般若波羅ですか。
全く一緒です。智慧の完成です。
樋口さんが「般若心経ですね」と受け、龍源さんは般若心経とは智慧の完成についての確信の経だと答えます。布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧という、聞いたことのある言葉のほとんどが、実は正確な意味を知らないまま伝わっていたことに、三人は驚きを共有します。
覚悟ではなく状態──不退転という到達点
龍源さんは、六波羅蜜に関連する概念として「不退転」を挙げます。相撲や政治の場面で「不退転の覚悟で」と使われますが、これも本来の意味とは違うといいます。
不退転って覚悟するもんじゃなくて、なっちゃうの。本当に不退転になっちゃうと、もう引けないんですよ、やめれなくなる。
どう考えてもきついし、しんどいとわかっているのに、やめられない。それが不退転だと龍源さんは説明します。樋口さんが「その境地に至るのが理想か」と確認すると、龍源さんはそこからが本物の大乗菩薩だと応じます。
やめたい気持ちはあるんだけど、これをやめたら俺、生きてる意味ないしな、となって、それをせざるを得ない。それが不退転の証拠なんですよ。
深井さんは、これは菩提心があるからだと受けます。ここでやめたらどういう結果になるかがわかっているから、その因果を結ばせないためにやめられない、という構造です。龍源さんも、5つの波羅蜜をやって智慧が湧いた結果、もうやめる選択肢がなくなり、不退転になると整理します。
龍源さんは、玄奘がタクラマカン砂漠を渡ったことや、弘法大師の行いも不退転の例だと挙げます。深井さんはミャンマーで無給で子どもの手術を続ける外科医を思い浮かべ、日本やアメリカなら大金持ちになれる腕を持ちながら続けるのは不退転だろうと話します。
樋口さんは、施設が潰れかけたときに続けた経験を「不退転だったかも」と振り返ります。深井さんは、株主がいて辞められない起業家のように外的な理由で辞められないのは不退転ではなく、菩提心と慈悲がなければ不退転にはなれないと指摘します。樋口さんも、当時は慈悲や悟りに向かう感覚があったと認めます。
今日から使える仏教──言葉を持つと決断が速くなる
龍源さんは、この六波羅蜜が会社の運営などにも語彙として使えると言います。「今ちょっと持戒が狂っているな」「これは忍辱がないよね」と言えるだけで、いろいろなことが変わるというのです。
深井さんは、布施も持戒も禅定も智慧も、聞いたことのある言葉なのに正確な意味を知らなかったことに驚きます。もともと仏教用語だった言葉が、もわっとした意味のまま日常に浸透している、という発見です。
この辺をクリアに自分の行動指針にしたらいいんだなと思ったら、あらゆることに迷いがなくなるし、決断のスピードが上がりますよね。
仏教だけ解像度が高くなったのは、日本人が漢字を通じて言葉になじんでいるからだ、と深井さんは分析します。イスラムのザカートのように初めて聞く言葉だと浸透に時間がかかるが、仏教は理解しやすかったぶん話が深くなった、というわけです。
最後に樋口さんは、内容もさることながら、龍源さんが台本を一切見ずにすべて話していることが一番すごいと語ります。深井さんも、それが僧侶ということなのだと受け止めます。
これができなかったら、お坊さんとしての役割は果たせないんですよね。僕が習ってきたチベットやミャンマーの先生たちは、みんなこうです。
龍源さんは、師の一人である孫文長老が、どんな質問にも「それは何々経の何章、何ページ目の何行目から」と出典を示して唱えてみせたと明かします。三蔵法師や玄奘の暗記力もこのレベルだったのだろう、と一同は想像を膨らませます。AIで何でも調べられる時代でも、頭の中に入った知識が一瞬で結合してアウトプットされることの価値を、樋口さんは改めて感じたと語ります。
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まとめ
コテンラジオの仏教シリーズ最終回は、大乗仏教の行動指針「六波羅蜜」を布施から智慧まで一つずつ読み解く回でした。聞いたことはあっても意味を知らなかった言葉が、実は互いに支え合う構造を持つことが浮かび上がりました。
- 六波羅蜜は、菩薩が完成を目指す6つの行動指針で、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧からなる
- 布施は余剰をつくって善きものに力を添えること、持戒は自分の原則を確立して守ることを指す
- 忍辱は折れず曲げないこと、精進は正しい目的へ勇敢に歩み続けること
- 手前の5つがエネルギーを貯め、それに支えられて発揮される悟りの見え方が智慧である
- 智慧が湧いた結果、やめる選択肢がなくなる状態が不退転で、覚悟ではなく到達した状態を指す





