道具で終わらせない、実践としての仏教へ
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この回の冒頭で確認されたのは、これまで数回にわたって語ってきた中観や唯識の哲学は、あくまで道具や材料にすぎないという点です。
龍源さんは、ここで終わってしまっては仏教として意味がないと強調します。哲学を使って、どう生きていくかがなければ本当に意味がない、というわけです。
逆に言うとここまでで終わってたら意味ないんですよ、仏教として。それ(哲学)今のは道具材料なので、それを使ってどう生きていくかっていうところがないと本当に意味がない。
深井さんによれば、仏教にはこの哲学を土台にした実践論の問答が数多く残っているといいます。生じた苦をどう認識すれば透かせるのか、といった具体的なやり取りです。
そこで実際に出演者の悩みを相談してみようという話になったものの、収録前の雑談で、普通の悩みを持っている人が一人もいないことが判明します。代わりに、龍源さんが以前語った「余剰」の話を、中観・唯識から読み解いていくことになりました。
豊かさの正体は「余剰」だと考える
密教は、上座部仏教のように豊かさを求めるなとは説きません。むしろ豊かになりなさい、強くなりなさいと明確に説くと龍源さんは言います。そのほうが世の中にコミットする力が強くなるからです。
では、目指すべき「豊か」とは何か。龍源さんは、その第一段階を「余剰」だと説明します。余っているものを持っていることが、豊かさの前提になるという考え方です。
余ってるものを持っているっていうのが、まず豊かの前提になると。自分に何か余ってるもの、余剰がない状態で豊かっていうのは言わないですよね。
ここで深井さんは、これまで学んだ空や唯識の概念を重ねます。絶対的に貯金があるという状態自体が、実体のないものだというわけです。
貯金があるから幸せだと思うことは可能でも、それは実体のないものを唯識の認知でそう感じさせているだけなので、常に不安と表裏一体だと深井さんは指摘します。
超資産を持ってる自分みたいなので幸せになってる状態って、諸行無常的にはすごく不安定で、資産がなくなったらやばいかもみたいな感じで、ディフェンスムーブし続ける人生みたいな。
要求値が無限大だと、100%苦が発生する
資本主義の世の中では、資産や資本を実体視した上で、どれくらい持てば豊かなのかと線引きをしがちだと龍源さんは言います。年収2000万で豊かか、いや2億ないと豊かではないのか、というように。
そして実体視すると、お金や資源はいくらあってもいいと考えるようになります。龍源さんはこれを数式的に、要求値が無限大になると表現します。
一方で、自分の現状は有限で、あらゆるものを実体視する以上、得られる限界値も地球の資源以上には取れず有限です。要求値が無限大なのに現状が有限という状態は、永遠に続くことになります。
それこの仏教の原則に当てはめて考えていただくと、100%苦が発生するんですよ。
これが、得れば得るほど乾くとお釈迦様が説いたことの正体だと龍源さんは言います。豊かさをポジティブな上限で線引きしようとする限り、苦から逃れられません。
龍源さんが示す解決策は、線引きの向きを変えることです。豊かさの上限ではなく、どこを割ったら自分が欠乏になるのかという下限に閾値を引くという発想です。
いくらあってもいいと上を求め続ける。要求値が無限大になり、有限の現状との差から苦が生まれ続ける
これを割ったら苦しいという下限に閾値を引く。満たせば苦は発生せず、それ以上は余剰になる
1ヶ月生きていくのに家賃や食費、旅行なども含めて必要な額を、他人がしょうもないと言おうと、自分が必要と感じるなら満たすべきだと龍源さんは言います。その閾値さえ満たせば苦は発生しないはずです。
だとすれば、閾値を超えた分はすべて余剰になります。余剰とは、必ず要すると書く「必要」がないもの、つまりなくても困らないものだという整理です。
貯金した瞬間、余剰は消えてしまう
龍源さんによれば、満ち足りたという楽を得るには、必要最低限と余剰の線引きができることが前提になります。月40万で足りると正しく線引きできていれば、40万あれば満ち足りたという楽が得られます。
さらにその人が頑張って毎月60万稼いでいれば、20万円分が余剰になります。ここで話は、これまでの仏教哲学へと戻っていきます。
龍源さんは、あらゆる実存は自分が輪郭を設定した「意味」だと言います。そして「意味」という言葉自体が、意識が感じる味であって、それそのものではないと説明します。
お金のその千円の意味っていうのは、千円そのものじゃなくて、千円というものによってもたらされた心理反応なんです。
つまり余剰の意味も、余ったお金そのものに付いているわけではなく、そこから感じている味であって実体がありません。だからこそ、次に「余剰の確定」が重要になると龍源さんは言います。
20万円余っているから、何かあった時のために貯金しておこうと考えると、その瞬間に問題が起きます。余剰は、貯金という目的に使われた時点で消えてしまうのです。
確かにお金は自分のところに残ってるんだけど、余剰であるという意味が消えた。
楊さんも、意味と関係性の哲学から見るとそうなってしまうと納得します。お金は手元にあっても、余剰という意味の輪郭が確定しないままになるわけです。
余剰は「手放す」ことで意味が確定する
仏教が主張する真の豊かさは意味として立ち現れるもので、意味は輪郭を確定しないと意味になりません。では余剰の輪郭を確定するにはどうすればいいか。龍源さんの答えは「手放すこと」です。
20万円の余剰と見ていたものを、何のダメージもなく手放せた時に、その人は初めてそれが余剰であったという意味を確定できる、という論理です。
龍源さんは、これを優しさに置き換えて説明します。自分は優しさを持っていると主張しても、倒れているおばあさんを面倒だからと放っておけば、それは優しくないというわけです。
行動してない、発揮されてないんですよ、意味が。それがポテンシャルかもしれないけど、発揮されなかったら意味がないんですよ。
同じように、20万円の余剰という豊かさを持っていると言っても、その意味が発揮されなければ確定できません。貯金しておこうと繰り返すだけでは、永遠に豊かさの意味が確定しないままになります。
では、どこに向かって手放すのか。一切が空で、意味は関係性によって立ち現れる以上、自分が関係している相手先に欠乏があるはずだと龍源さんは言います。欠乏は苦を導くので、その苦はないほうがよいのです。
余剰を認知する
閾値を超えた分を、必要のない余剰として自覚する
欠乏に向けて手放す
関係先で欠乏=苦が生じているところへ、余剰を提供する
意味が3倍になる
自分が余剰であったと確定でき、相手を救えた喜びを得て、相手の苦が実際に救われる
龍源さんは、これが真の豊かさであり、慈悲を原理として意味と豊かさを理解し行動すれば、この世界から苦は消えていくと語ります。楊さんも深井さんも、確かにそうなると納得します。
托鉢は物乞いではなく、社会を豊かにする行為
龍源さんは、お坊さんが托鉢に行くのは、ただの物乞いではないと言います。お釈迦様は托鉢を、社会を豊かにする行為だと説いたのです。
托鉢とは、人々に余剰を自覚させ、手放したものに誇りを持たせる行為です。しかも渡された余剰を、お釈迦様たちはより大きな力で世界に行き渡らせる、という考え方が示されます。
深井さんは、これはお布施をした本人が使うよりも大きな成果を出さなければ意味がない、レバレッジの話だと補足します。施した人が自分で食べていたほうがマシ、という結果にしてはいけないのです。
逆に言うと大きくないとレバレッジが効かないってことですよね。(施した人が自分で)食ってた方がマシじゃんみたいなことにしてしまったら。
だからこそ出家者は、その覚悟を持って生きなければならないと龍源さんは言います。自分で自分を食わせることは禁止で、お金の対価を得てもいけません。お願いしなくても余剰を提供されるような人でなければならない、というのが僧のルールです。
これに対し楊さんは、提供する側の視点から疑問を投げかけます。相手が破戒僧のような人なら、あげたくないと思うのではないか、というものです。龍源さんは、本来あげる必要はなく、そこには相手への信頼が必要だと応じ、そういう世界にしたいと語りました。
三句の法門|悟りに至る3つの要素
ここから話題は、深井さんが「本当にそうだ」と感じている「三句の法門」へ移ります。これは密教の根本テキストである大日経に説かれる、重要な概念です。
龍源さんによれば、大日経では「三」が聖なる数として頻出します。経典は仏陀と弟子の問答の形をとっており、密教の菩薩のトップである金剛薩埵が、大日如来に質問する形で進みます。
その中で「悟りはどうやって得られるのか」という問いに、大日如来が答えたのが三句の法門です。経典の言葉は「菩提心を因とし、大悲を根とし、方便をもって究竟とす」というものです。
龍源さんは、これを現代語に意訳します。仏教を極めようという心が原因となって悟りが起こり、その行いの根本は慈悲でなければならず、取り得るあらゆる方法を駆使していくことが悟りの完成だ、という3要素です。
菩提心を因とす
悟りを極めようという心を原因=出発点にする。動機が正しくなければ結果も狂う
大悲を根とす
悟りに至る行いの根本を、他者の苦を除く慈悲に置く
方便をもって究竟とす
取り得るあらゆる方法を尽くして実践し、完成へ向かう
龍源さんは、原因である心の起こし方を仏教では「発心」と呼ぶと説明します。何を求めて、どういう世界観で始めたのかという原因が正しければ、結果も正しい方向に行く可能性を持ちます。逆に原因が間違っていれば、とんでもないところに行き着くのです。
「動機」がすべてを決める
樋口さんは、この「因」を現代のモチベーションや動機付けに近いのかと尋ねます。龍源さんも動機やモラルに近いと応じ、深井さんは量ではなく質の問題だと補足します。
深井さんは、この三句の法門を、自分が苦しくない状態になるにはどうすればいいかという問いへの答えだと捉えます。全ての生き物は苦を離れ楽に近づきたいという根本性質を持つ、という前提です。
(生き物の)苦を離れ、楽に近づきたいっていう根本性質を成就させようとした時に、動機がいわゆる苦を滅しようという動機でないといけませんよって言われてる。
さらに深井さんは、悟りを求める菩提心を根本にせよという教えを、構造的に世界を理解しようとする気持ちを持て、という意味に解釈できると言います。
悟りとは因果を含めて世界を構造的に理解している状態なので、菩提心を根本にせよという言葉は、世界全体を理解しようとする気持ちがないと苦しみは消えない、と読めるという解釈です。
世界全体というものを理解しようとする気持ちを持たないと、あなたの苦しみは消えませんって言われてるなと思ったんです。
菩提心は「目指すもの」と「目指す心」の一致
龍源さんは、菩提心という言葉自体が大変な言葉だと言います。密教では菩提心が2つに分離しており、それが一つになっているのが本当の菩提心だという考え方です。
その2つとは、勝義菩提心と世俗菩提心です。勝義菩提心が「目指されるもの」、世俗菩提心が「目指す心」だと龍源さんは説明します。
目指したいものが分かっていなければ、どう目指せばいいか分かりません。逆に目指されるものだけ分かっていても、目指す心がなければ何も起きない。両方が揃っていなければおかしいのです。
東京に行きたいですって言った時に、東京がどこにあって何なのかが分からなかったら、東京行けないし、行っても意味ないんですよね。
龍源さんは、これはビジネスにも応用が利く考え方だと言います。すごく稼ぎたいと言う人に、何を目指し、何が目指しているのかと問うと、曖昧な人が多いのです。
樋口さんは、現代では目標設定が自分の心ではなく社会的に決められていることが多いと応じます。いい高校、いい大学、売り上げを上げること。実在論的に物事を捉えると、そこに行くのがいいことだと外から決められてしまうわけです。
自由エネルギー理論と重なる誤差修正の話
龍源さんは、この菩提心の構造が、脳の自由エネルギー理論と重なると指摘します。
深井さんは、脳は誤差を減らそうとし続けている、それ以外のことをしていないという理論だと紹介します。目的地の設定と現在地の認識があり、その誤差を最短で埋めようとするのが脳の基本の働きだというわけです。
龍源さんによれば、この設定がうまくいっていないと変な挙動になります。目的地が分かっていない、現在地が分かっていない、最短経路が分かっていない、といった状態です。
深井さんはここで、三句の法門にもう一つのポイントがあると言います。それは、この教えが悟っていない人に向けて言われている点です。
悟ろうとする気持ちを悟ってないやつが持てよって言われてるわけじゃん。
悟っていない人には、目指すビジョンも、そこへ近づく方法も分かりません。その人に、菩提心が出発点にないと挙動がバグると言われている点が、深井さんには驚きでした。
深井さんは、ビジョンが正しいかどうかが要なのではないと受け取ります。真理を探求しようとする気持ちがないと、誤差修正をし続けられないという読み方です。
アマラ識があるから、予測値を持てる
なぜ悟っていない人が悟りを予測値として持てるのか。龍源さんは、それは唯識でいうアマラ識があるからだと言います。そこが真理であり、悟りそのものとして自分に接続しているのです。
ないものを予測値として持てというのは無理筋ですが、唯識理論や空の論理によって、悟りはすでに自分に接続するものとしてあると龍源さんは言います。
その予測値に誤差を出させるのが、変なエゴだと龍源さんは指摘します。思い込みや余計な行動様式があると、自分の中にある真理が歪んで見えてくる。だからこそ、誤差の修正に努め続けなさいと説かれるわけです。
なぜ他者を救わないと、自分は悟れないのか
深井さんは、大悲を根本とせよという部分にも鋭い問いを立てます。中観と唯識を極めた人が言っているのだとすれば、なぜ慈悲を根本にしないと悟れないのか、という問いです。
大悲とは、他人の苦しみを取り除いていく慈悲のことです。深井さんは、なぜ他人の苦しみを取り除かないと自分が悟れないのか、と問い直します。
なんで他人の苦しみを取り除かないと自分が悟れないのかって。(三句の法門を)思考しないとあなたが悟れないって言われてるわけじゃん。
龍源さんの答えは、すべては関係性だから、というものです。関係先を救わなければ、関係元である自分との関係性の中に苦があることになる。だから他者の苦を除かないと、自分の苦も消えないのです。
社会を憎む深井龍之介の、新鮮な驚き
深井さんは、この教えに強く感動する理由を、自分の出発点から説明します。他者を救わないと自分が悟れないという認知で存在している人は、世界にあまりいないと感じているのです。
龍源さんや樋口さんにはそれが当たり前に響くのに対し、深井さんには新鮮な驚きがありました。その理由を、深井さんは自分が社会を憎んでいるからだと語ります。
僕は社会を憎んでて、社会を相対化して隔絶して、自分はロンリネスだとか思ってるような人間なんで。
社会をこんなに嫌いなのに、社会を幸せにしないと自分が幸せになれないのか、という驚きだというわけです。深井さんは、他のメンバーがいい人すぎて共有できないのかもしれない、と冗談めかして語ります。
龍源さんは、自分はむしろ小さい頃から、自分と社会との関係性が良くも悪くも緊密に結びついている感覚をずっと持ってきたと応じます。だから特別な驚きはない、というのです。この出発点の違いが、同じ教えへの反応の差を生んでいました。
問思修|情報のインプットから始める作法
樋口さんは、悟りに向かう到達点は誰が決めるのかと問います。深井さんも、向かうところの設定の正しさは誰が判定するのか、と重ねます。
龍源さんによれば、この3要素はプロセスであると同時に、互いに問い合うトライアングルでもあります。正しさは、慈悲を根本としているかという問いで回収されるのです。
これ循環するんですよ。慈悲があるんだったら方便を尽くすよねってなって。じゃあその尽くしてる方便ってあんた何やってんの?って言うと、菩提心に帰ってくるんですよね。
さらに龍源さんは、仏教の「問思修」という3つの智慧の作法を紹介します。まず聞いて情報をインプットし、次にそれを自分で思索して理解し、最後に体を使って修めていく、という順番です。
龍源さんによれば、壁にぶつかればまた問に戻り、問思修を必ず問から始めて修で終える、という循環を繰り返すのが仏教の修学のルールです。社会福祉事業でも、まず自分が志すものが何かを知るための材料をインプットする「問」から始まるのです。
楊さんが、目標設定も情報をインプットしないとやりようがないと確認すると、龍源さんもそう応じます。修や思の段階で、常にそこに慈悲はあるのかが問われ続けるのです。
菩提心を「因」に置くことの秀逸さ
深井さんが最も秀逸だと感じているのは、菩提心を「因」つまり出発点に置いている点です。この因があることで、インプットせずに世界を憐れんで突っ走ることが阻止されるからです。
世の中の構造や、それをやれば誰がどう助かってその後どうなるかを考えず、目の前の可哀想な人のために良かれと思ったことをやり続けることは可能です。それが「菩提心を因としていない」として弾かれるのが、深井さんには秀逸に映ります。
悟りを得ていない人間に向けて言われている以上、これは全部理解してから動けという意味ではないと深井さんは読みます。むしろ、本気で構造理解を目指せ、限界まで頑張れと言われているのです。
全部理解してから動けじゃなくて、とにかく頑張れって言われてるわけだよ。お前の限界まで頑張れ。
深井さんは、この3要素をぐるぐると自分に問い続ければ、やってはいけないパターンを全部弾けると言います。慈悲を根本としていない事業、菩提心がよく分からない事業、問を欠いたまま正義だと信じて突き進む行動。そのどれもが、3つのどれかで引っかかるのです。
悟りとは「如実知自心」|自分の心を真実に知ること
龍源さんは、三句の法門の手前に、そもそも悟りとは何かという問いがあることを紹介します。大日如来の答えは「如実知自心」、真実のごとくに自らの心を知ることだ、という一言でした。
龍源さんによれば、中観・唯識は、自分の心が世界をどう認知しているかという話です。世界を認知している自分の心の正体が真実のごとく分かれば、その心が現出させている世界の正体も分かる。それが悟りだというのです。
これは応用が利きます。慈善事業をやりたいと思った時、そのフィランソロピーを認識している自分の心が何かを分かること。そのために菩提心を因とし、大悲を根とし、方便をもって究竟とするのだ、という構造です。
深井さんが、弱者を可哀想だ、救ってあげなきゃという気持ち自体は悟りではないのかと確認すると、龍源さんは、それが何なのかをまず分かろうとすることだと応じます。
自分と、例えばその弱者救済っていうんだったら、その弱者救済という概念と自分の関係って一体何なんだと。それを分かろうとするっていうのが菩提心ですよね。
なぜ「慈悲」ではなく「悟り」が最初なのか
樋口さんは、深井さんの感動のポイントがようやく分かったと言います。三句の法門は、幼少期に大人から言われる「賢くなって人に優しくしなさい」という教えと、一見よく似ているのです。
だからこそ、一度見ただけで「それ系ね、理解した」と思い込みやすい、と樋口さんは自省します。よく考えると、菩提心を最初に置いている例は他にあまりない、というのが深井さんの発見でした。
深井さんが最初に引っかかったのも、菩提心を「因」に置いている順番でした。普通なら慈悲が最初に来そうなのに、まず悟ろうとしなさいと言われている点です。
もし悟ろうとする気持ちがないまま慈悲だけをブーストさせると、絶対的な正義の暴走になると深井さんは言います。インプット不在で世界を決めつけ、自分が信じた正義を人に押し付ける行動になりかねないのです。
(慈悲が先だと)突っ走ってインプット不在で世界を勝手に決めつけ、自分が正義だと信じたことを人に押し付けながらボコボコにするみたいなことできますね。
だからこそ、社会の構造と真理、そして自分の心の作用をちゃんと見ようとした上で、その土台に大慈悲を発動させろと言われている。深井さんは、菩提心を因とする出発点でない限りすべてダメだと言われている点に、この教えの凄みを見ています。
ヒトラーは、どこが欠けていたのか
樋口さんは、ヒトラーには菩提心がなかったのか、と問いかけます。深井さんは、菩提心もなく、大慈悲もなく、方便だけがあったと分析します。
深井さんによれば、ヒトラーは世界を理解したい、ブーストさせたいという気持ちは強かったものの、自分の偏りを超えて物事を理解しようとする気持ちはなく、悟りを求めてもいませんでした。
さらに彼の慈悲は、ユダヤ人を対象外とした慈悲だったため、大慈悲ではないと深井さんは指摘します。三句の法門で「大悲」と書かれているのは、全員を入れよという意味だからです。
彼(ヒトラー)の慈悲は慈悲なんだけれども、ユダヤ人を対象外とした慈悲だから大慈悲ではない。
樋口さんは、いろいろな前例に当てはめると、この人はこれが足りない、あの人はこれが足りないと、すべてがバチッと分かることに気づきます。3つすべてを満たしている人は、意外なほど少ないのです。
深井さんは、この3つを満たせば悟れるはずなのに、悟っている人などいないと応じます。3つを満たしていても悟りまでには距離があるからこそ難しく、だからこそこれをよく書いたものだ、と感嘆します。
「わかったつもり」で滑らないために
樋口さんは、話しながらメタ的なことに気づきます。この教えは、「はいはい、そういうことね」と分かったつもりになるまでの距離が早すぎる、という点です。
一回これ見た時に、はいはい、それ系ね、理解したって思っちゃいがち。
深井さんは、それは問答の「問」がおろそかなのではないかと応じます。そして、この教えが身につくかどうかは、行をしているかどうかにかかっていると言います。
龍源さんによれば、修行とは滝に打たれることではなく、自分の体にインプットし、それを使いこなす訓練です。それをやっていると、パッと分かったつもりのことが、あれ、もっと深いなと気づく瞬間が訪れます。
樋口さんは、自分は人生の大事なことを小学生の頃に言葉としてはすべて習っている気がすると語ります。健康第一、友達を大事にしろ。言葉では知っていても、身体感覚としては分かっていなかったのです。
大きい病気して初めてめっちゃ健康第一やんって思うとか。(大事なことを)身体感覚で取りに行ってる感じがしてるんですよ。
深井さんは、禅の「行住坐臥」がすべて修行だという言葉を引きます。座禅そのものが修行なのではなく、自分の課題や理解の浅さを見いだし、真理に迫っていくことが「行する」ということだと語ります。
行ができた人は「これはこういう意味だ」と分かるのに対し、何万時間座っていても行ができていない人は、慈悲ですからと分かったようなことを言って、すべてが滑ってしまう。理解した気になっているだけでは、核心に届かないのです。
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まとめ
この回は、密教が説く豊かさと悟りを、これまで積み上げた中観・唯識の哲学を土台に実践論として読み解く回でした。余剰は手放して初めて意味が確定し、悟りへの道は菩提心・大悲・方便の3つが循環して成り立つ、という構造が示されました。
- 密教は豊かさを肯定するが、その正体は「余剰」であり、余剰は手放して欠乏を埋めることで初めて意味が確定する
- 要求値を無限大に置く限り苦は発生し続ける。豊かさは上限ではなく、欠乏の下限に閾値を引くことで得られる
- 三句の法門は「菩提心を因とし、大悲を根とし、方便をもって究竟とす」。悟りを求める心を出発点に置く点が要になる
- すべては関係性のため、他者の苦を除かないと自分の苦も消えない。だから大悲は全員を対象とする「大」でなければならない
- 悟りとは「如実知自心」、自らの心を真実に知ること。わかったつもりで滑らないためには、問から始める問思修と行が欠かせない





