清盛の急死と「頼朝の首を供えよ」の遺言
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今回の話は、頼朝のライバルである木曽義仲を語る前に、大きな事件から始まります。平清盛が急死するのです。
清盛はもともと福原の遷都 ── 清盛が現在の神戸市あたりの福原へ都を移そうとした計画。反乱の激化を受けて断念し、都は京都へ戻されましたに集中しており、反乱軍をそれほど深刻に見ていませんでした。しかし平氏が甲斐源氏に大敗して帰ってきたことで、遷都を断念し、京都に都を戻して反乱鎮圧へ切り替えます。
平氏は近江源氏などの反乱をすぐに平定し、京都に近い近江や美濃を押さえます。次に頼朝の叔父・源行家がいる尾張を狙い、清盛の息子・平宗盛の出陣を予定していました。
ところがその矢先、清盛が突如熱病に倒れます。遠征は延期となり、そのまま清盛は64歳で亡くなりました。当時としては長生きの部類です。
清盛は死に際に「我が眼前に頼朝の首を供えよ」と言い残したと、平家物語のエピソードとして伝わります。
うわぁ。呪いの一言よ。怖え。
いかにも作り話に見えますが、これは本当だろうと言われています。樋口さんは、松山ケンイチさんが清盛を演じた大河ドラマでもこの場面が再現されていたと補足します。
楊さんは、この後の平家が和平交渉に進まず戦い続ける路線に入っていくのは、清盛のこの言葉を聞いていたからではないか、という説もあると話します。
平宗盛の政権返上と、意味をなさなかった駆け引き
清盛の死後、跡を継いだ平宗盛は大きな政治的転換を打ち出します。清盛が後白河上皇を幽閉して振る舞ってきたことを謝罪し、今後は後白河上皇に従うと述べたのです。
これには裏があります。頼朝や木曽義仲が挙兵した大義名分は、以仁王が「清盛の専横を糾弾し、清盛を討て」と各地の源氏に呼びかけたことにありました。宗盛は、その大義名分そのものを奪おうとしたわけです。
あれ?ってなりますね。
しかし楊さんは、この手はあまり意味がなかったと言います。政権返上はポーズで、宗盛が実際に後白河上皇の言うことを聞くわけでもなく、源氏が戦いをやめるわけでもなかったからです。誰にとっても効果のない一手でした。
この頃、頼朝の叔父・源行家と弟・義円が、美濃と尾張の国境の墨俣川で平氏に敗れ、義円が戦死します。楊さんは、これは頼朝本人の軍ではなく別の源氏の敗北であり、平氏がずっと負け続けていたわけではない点を強調します。
平氏側の大将は宗盛の弟・平重衡で、かなり強い武将だったと伝わります。源氏と平氏は勝ったり負けたりを繰り返し、頼朝自身はまだ鎌倉に構えたままでした。
バラバラに挙兵した源氏と、急成長する木曽義仲
一進一退の中で、一人だけ突出して強い人物がいました。木曽義仲です。父は源義賢で、頼朝の父のすぐ下の弟にあたるため、義仲は頼朝のいとこになります。
義仲も頼朝と似た人生を歩んでいます。父が討ち取られ、元服前から母とともに身を隠しました。落ち延びた先が信濃国の木曽谷で、そこの勢力を持つ中原兼遠が、義仲の将来性に期待して一族を挙げて保護します。
これは北条氏が頼朝を保護した関係とそっくりで、義経が奥州藤原氏に逃れた関係にも通じます。散り散りになった源氏をそれぞれのパトロンが支え、その者たちが今いっせいに挙兵している状態です。
楊さんは、彼らが最初から源氏のワンチームだったわけではないと念を押します。それぞれが勝手に挙兵し、互いに競合する勢力として現れたのです。
中央に平家っていうのがバーンって京都にいて、vsそれ以外みたいな感じに。だからなんか与党と野党みたいな感じになって。
父の死後に身を隠し、北条氏が保護した
義仲は中原兼遠、義経は奥州藤原氏が保護し、それぞれ独立して挙兵した
野党側は全員が手を組んでいるわけではなく、時に協調し、時に離反しながらそれぞれの勢力が動いていました。その中で木曽義仲はどんどん勝ち進み、ついに7カ国を実効支配する大勢力へ急成長します。
神輿としての皇族、「安徳天皇カード」と「北陸宮カード」
義仲は、以仁王の挙兵失敗のときに逃げ延びた以仁王の子・北陸宮を迎え入れて擁していました。後白河上皇の孫にあたる人物を天皇にしようとして、義仲は進軍を続けます。
樋口さんは、これは皇族という尊い血筋を神輿として担げたことになり、大きい意味を持つと指摘します。それぞれの勢力が皇族の血筋をカードのように持っているイメージです。
皇族の血筋をそれぞれカードを持ってるみたいなイメージ。
平家は安徳天皇カードを、義仲は北陸宮カードを持っていました。一方で頼朝は手元にカードを持たず、後白河上皇と密接にやりとりをする形をとっていました。
義仲は頼朝といったん同盟を結び、自分の息子を人質として送ります。今は争っても平家を倒せないという判断で、頼朝の攻撃を受けない状態を作りながら進軍しました。
倶利伽羅峠の戦いと、義仲の入京
有名な戦いが倶利伽羅峠の戦いです。平家物語では平家方10万騎、玉葉という書物では4万騎とされ、数字が大きく食い違います。楊さんは、どちらも誇張だろうと見ています。
10万騎あったらカッケエなみたいな感じで、多分平家物語とか書いてある感じだと思うんですけど。
いずれにせよ大軍が送られてきましたが、義仲軍は数で劣りながら夜襲で大勝利を収めます。官位を持つ者160人を倒し、名だたる武者千人が失われたと伝わります。義仲の戦闘力の高さがうかがえます。
義仲はそのまま勝ち進んで京都へ入京します。平宗盛は安徳天皇を伴って京都から逃げますが、後白河上皇は延暦寺に逃げていて連れて行けませんでした。
戦闘力は高かったんだろうね。
この一点が大きな分かれ目になります。後白河上皇を連れ出せなかったことで、京都に入った義仲が官軍となり、都を落ちた宗盛が謀反人になったのです。楊さんはこれを政権交代と表現します。
天皇より上皇が強い理由と、安徳天皇カードの使い方
樋口さんは、この時代の国の実態が天皇ではなく上皇にあったことに驚きます。院政が続いていたため、上皇の発言権が非常に強かったのです。
ただし楊さんは、それは武力で作られた正式さにすぎないと説明します。もし宗盛が安徳天皇を率いて京都に攻め入り、後白河上皇を幽閉して安徳天皇の言う通りにさせれば、正当性は簡単に覆るというのです。
つまり正式に見える命令も、結局は強い者が誰に言わせるかの問題でした。だからこそ安徳天皇カードも切り札として機能し、これがなければ完全な謀反人になってしまうという構図です。
後白河上皇にとっては、義仲が宗盛を追い出したことで、望まないまま即位させられた安徳天皇を廃し、新しい天皇を立てる余地が生まれました。廃位したい相手を入れ替えられる状態になったのです。
義仲が切ってしまった「切ってはいけないカード」
そこで義仲は、擁していた北陸宮を天皇にしてはどうかと後白河上皇に持ちかけます。ところがこれは、政治力があれば切ってはいけないと分かるカードでした。
北陸宮は以仁王の息子です。この人を天皇にすると、清盛への謀反を呼びかけた以仁王の挙兵が正当化されてしまいます。後白河上皇は、あの反乱に正当性があったことにするのを嫌がったのです。
俺はおるよ、天皇つって。
樋口さんは、ここに義仲の弱点が集約されていると整理します。義仲は戦闘力が抜群でしたが、京都では皇族や貴族と政治力や交渉力でやり合う必要があり、そのスキルがなかったのです。
頼朝には、朝廷の機微を判断できる大江広元 ── 後に鎌倉幕府で頼朝を支えた文官。「鎌倉殿の13人」の一人にも数えられ、朝廷とのやりとりや政務の判断を担いましたのような側近がいました。義仲にはそうした人材がおらず、後白河上皇が何を嫌がるかを踏まえた立ち回りができませんでした。
さらに頼朝は少年時代を京都で過ごし、京都の人脈とつながっていました。京都とも話ができるという頼朝の強みが、義仲との差を広げていきます。
文通していただけの頼朝が勲功第一に選ばれた理由
頼朝は鎌倉にこもりながら、後白河上皇と密かにやりとりを続けていました。義仲はこれを知りませんでした。
ここで奇妙な現象が起こります。軍事的に活躍していたのは義仲なのに、後白河が発表した恩賞で勲功第一に選ばれたのは頼朝だったのです。
え、なんで?
楊さんによれば、頼朝が話の分かる相手として振る舞い、後白河が義仲ではなく頼朝に来てほしかったからです。「自分は分かっている、自分を側近にした方がいい」と頼朝はアピールし続けていました。
こういう根回しができるかどうかが超大事なんです。
樋口さんは、これを仕事における「感覚を共有していますアピール」にたとえます。分かっている人とはなんとなく一緒に仕事をし、分かっていない人とはなんとなく離れていく。京都の感覚を分かっているかどうかで、頼朝と義仲の運命が分岐していたというわけです。
後白河は、まだ子供の安徳天皇を早く廃位したいと考えていました。乱暴な手は使えないため、まず安徳天皇を京都に戻し、その上で新しい天皇に替えたいと動いていたのです。
三種の神器なしで即位した後鳥羽天皇のコンプレックス
義仲は、恩賞への介入で自分をトップに据えようとする挙動を見せ、やり方のまずさから他の武者や貴族の支持を失っていきます。
後白河は安徳天皇の返還を待ちましたが一向に戻らないため、しびれを切らして新しい後鳥羽天皇を即位させます。ところがこのとき、三種の神器がありませんでした。平氏が持ち出していたのです。
そんなことできるんやな。
楊さんは、三種の神器なしの即位は後鳥羽天皇にとって強いコンプレックスになったと説明します。神器があるからこそ天皇だという重みがあるのに、それなしで無理やり即位したため、自分の正当性に疑問を抱くようになったのです。
個人の力で天皇であろうとする後鳥羽の姿勢は、この先いろいろな事件を引き起こしていきますが、それはだいぶ後の話になります。
平家に大敗した義仲のクーデターと壮絶な最期
義仲は京都に入ったものの、後白河も望む平家追討に向かわざるをえませんでした。三種の神器も安徳天皇も奪われているため、取り戻す必要があったからです。義仲としては、他の勢力や頼朝が入り込むリスクを考えると京都を離れたくなかったはずです。
しかし義仲は今度は平家に大敗し、わずか2週間で京都に戻ってきます。というのも、後白河上皇が頼朝に上洛を要請しており、それに呼応して義経が送り出されていたのです。
頼朝は大軍を出したかったものの、北にいる巨大勢力・奥州藤原氏を強く警戒していました。鎌倉を空けたすきに攻められる危機を感じ、派遣したのは義経軍のわずか5、6百騎だったと言われます。
義仲は平家より頼朝の方を脅威と感じ、朝廷に「頼朝を殺そう」と持ちかけます。しかし頼朝を呼んだのは後白河側であり、ドン引きされて人心がさらに離れていきました。
後白河から「平氏を討たなければ謀反人と見なす」と強く迫られた義仲は追い詰められ、クーデターを起こして後白河を監禁し、政権を掌握します。これは清盛がやったことと全く同じで、後白河は同じことを二度されたことになります。
義仲は自らを東大将軍と称します。これは頼朝を討つ大将軍という意味であり、この命名がさらに反感を買って離反者を増やしました。
頼朝を殺す大将軍ですっていう名前をつけたって感じです。
離反者が増える中、義経のもとには伊勢や伊賀で反義仲の者たちが集まり、軍が膨らんでいきます。さらに頼朝はもう一人の弟・源範頼を援軍として派遣します。範頼軍こそが鎌倉武士団を従えた主力軍でした。
伊勢・伊賀で反義仲の兵が集まった軍で、鎌倉武士団ではない
鎌倉の武士団が従う正規の主力軍
義仲は援軍の到来を把握できず、撤退せず迎撃を選びますが、増強された軍に撃破されます。敗走中の近江・粟津でついに討ち取られました。
平家物語には、巴御前と別れた義仲が粟津にたどり着いたとき、軍勢が5騎に減っていたと描かれます。逃げるのではなく範頼本隊へ突っ込んでいったとされ、進むほど戦いは厳しくなりました。
最後に残った今井兼平は、義仲が自害する時間を稼ぐため、声高く名乗りを上げて足止めをします。義仲は兼平を気にして振り返ったところを射落とされ、首を取られました。
この自害の時間を稼ぐためっていうのが切ないね。切ない。
兼平は義仲の最期を見届けると、太刀を口にくわえたまま自ら落馬して自害しました。楊さんは、これは中学校の国語の教科書でも読んだ場面だと振り返ります。
義仲を倒したことで、頼朝の権威は他の源氏から一歩抜きん出て強くなり、源氏の頭領のような立場になっていきます。もう一人のライバルだった甲斐源氏も、この頃には頼朝に従属していきました。
和平か討伐か。後白河が押し通した平氏追討
義仲がいなくなっても、朝廷は喜んでいる暇はありませんでした。まだ平氏がおり、安徳天皇と三種の神器を握っているうえ、平氏が福原まで迫ってきていたからです。
最大の課題は、安徳天皇と三種の神器を無事に回収することでした。傷つけてはいけないため、平氏との和平交渉か、軍事力での打倒かで意見が分かれます。
朝廷の多くは和平を唱え、義経たちも和平を主張したとされます。義経軍には義仲憎しで集まった平氏出身の者も多く、平氏討伐に積極的でなかったのです。頼朝もこの段階では平氏との共存を否定していませんでした。
しかし後白河とその側近が、平家討伐を押し通します。樋口さんは、後白河にとってこれは源平の戦いというより正当性の争いだったと解釈します。安徳天皇を担ぐ平氏と、後鳥羽天皇の正当性を主張する朝廷は並び立たなかったのです。
この時、平家軍は約2万に対し、上洛した範頼・義経の源氏はあわせて2、3千騎でした。数のうえでは絶対に勝てない状況で、多くが反対する中、後白河上皇は感情で攻めると押し切ったと楊さんは見ています。
一ノ谷の戦いと、後白河のだまし討ち
絶対に勝てないはずの戦いが動いたのは、義経が戦争の天才だったことに加え、後白河上皇が平宗盛をだまし討ちしたからでした。
これはその義経が戦争の天才だから、この後なんとかなるんですけど、普通だったら多分負けてますね。
後白河は和平を持ちかけて使者を待たせ、その隙を源氏軍に襲わせます。後に平宗盛が「和平の申し出があり使者を待っていたところを襲われた」と語ったと伝わります。
源義経は兵庫県の北側をぐるっと回り、範頼軍は今の神戸市兵庫区あたりへ直接向かう二手に分かれて進みました。
有名な鵯越の坂落としは、義経が急な崖を馬で下って奇襲したとされますが、楊さんはこれは創作だと言います。鵯越は実際にはなだらかな丘で、しかもそこを越えたのは義経とは別の人物だったそうです。
崖は下ってない。鵯越っていう崖はあるんだけど、なだらかな丘だそうです。
いずれにせよ、一ノ谷の合戦で源氏が平氏に勝ちます。平氏は多くの一門を失い、特に勇猛な平重衡が捕虜になったのは大きな痛手でした。重衡は、頼朝の叔父・源行家と弟・義円を破った人物でもあります。
四カ条の申請と、義経を京都に置いた頼朝の狙い
一ノ谷の勝利を知った頼朝は、すかさず政治力を発揮します。四カ条の申請という願い事を朝廷に送り、平氏討伐を口実に朝廷の権威を借りて、畿内の武士たちを義経の傘下に入れようとしたのです。
お互いそこそこwin-winな感じがするんだけど、頼朝が勢力を伸ばすことができるみたいな策なわけですよね。
さらに頼朝は、平氏追討の最前線に土肥実平と梶原景時を配置し、義経には京都の守護を命じます。梶原景時は、石橋山の戦いで頼朝を見つけながら見逃した人物です。
戦争の天才である義経を守護に回し、追討を土肥・梶原に任せた点が重要です。義経軍は鎌倉武士団ではなく、土肥実平と梶原景時は鎌倉武士団だからです。
もし鎌倉武士団でない義経軍が功績を立てると、頼朝の傘下にまだ正式に入っていない勢力が朝廷から評価されてしまいます。それを避けるための配置だったと楊さんは説明します。ドラマでは義経の功績を恐れた話として描かれますが、実際はこのロジックだったと言われます。
鎌倉武士団に功績を立てさせ、自分の権力基盤を固めたい
鎌倉武士団でない義経軍を活躍させず、外部勢力が評価されるのを避けたい
反乱で足止めされた義経と、範頼のオールスター遠征
平氏追討の最終段階は苦戦します。朝廷は主戦派と講和派に分かれ、主戦派の後白河に従う義経の出陣も延期されました。朝廷と平氏の和平交渉も、先のだまし討ちがあったため決裂します。
お前まただまし討ちするかもしれんやんってなって。平家は和平交渉できないんですよ。
土肥実平と梶原景時が苦戦したため、頼朝は義経の投入を後白河に願い出ます。これもドラマとは異なる展開です。ところがここで、義経がまとめていた伊勢・伊賀の反義仲勢力が挙兵し、義経はその鎮圧に釘付けになります。
従来は、後白河が検非違使の役を無断で義経に与えたことに頼朝が怒って外した、と語られてきました。しかし楊さんは、それは後世の創作で、実際は反乱の鎮圧で義経が足止めされたのだと説明します。
そこで頼朝は改めて鎌倉から軍を派遣します。率いたのは再び範頼で、和田義盛、千葉常胤、北条義時 ── 頼朝の妻・政子の弟で、後に鎌倉幕府の第2代執権となる人物。大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主人公です、比企能員、三浦義澄といった顔ぶれが参加する鎌倉軍オールスターの主力遠征でした。
遠征は当初順調で、安芸国から周防、長門へと進撃します。しかし飢饉の影響や、水軍・馬・船の不足で進軍が停滞します。範頼は、士気が下がり半分ほどの兵が帰りたがっていると頼朝へ手紙で報告しました。
飢饉
この時代の日本は飢饉が続き、食料が集まりにくかった
物資不足
食料に加え、馬も船も足りず、海を渡る水軍もなかった
士気低下
半分ほどの兵が帰郷を望むほど士気が下がった
九州の豪族が味方に。長期戦の条件が整う
頼朝はこの手紙への返信で船を送ると約束し、九州の者たちに欺かれないよう注意を促します。平氏と九州勢が結託して攻めてこないようにという指示です。
頼朝が繰り返し強調したのは、ただ勝つことではなく、三種の神器と安徳天皇を傷つけずに確保することでした。それこそが遠征のミッションだったのです。
だからただ勝つとかじゃなくて、それを持って帰るのが君たちのミッションだよって話を頼朝はすごく強調してます。
戦況が好転しない中、良い事件が起こります。豊後国、今の大分県の豪族である緒方惟栄と臼杵惟隆の兄弟が味方につき、船を提供してくれることになったのです。頼朝の「九州の武士を味方にせよ」という指示が実を結びました。
食料も船も手に入り、平氏軍を包囲して長期戦に持ち込める状況がようやく整います。短期決戦は安徳天皇を追い詰める危険があるため、この態勢は大きな前進でした。
独断で攻めた義経と、頼朝との思惑のずれ
状況が整ったところで、義経が出撃できるようになります。楊さんは、このときの義経の心境を推測します。鎌倉との連絡には2、3カ月かかることもあり、反乱分子をかいくぐって手紙を届けねばならなかったのです。
義経は、九州の武士が味方になり、海軍も食料もそろって平氏を追い詰めている今こそ攻めるべきだと考えます。頼朝とやりとりすれば数カ月かかるため、比較的独断的に速攻の方針を決めていきました。
この状況の中で、義経としては良かれと思ってですね、速攻で攻めて倒すっていう方針を立てるわけです。
義経は京都の検非違使として、早く平家を倒してほしいという京都の空気も感じていました。人心を失わないよう京都の気持ちを汲んで勝てば、源氏も義経も評価される。義経はそう考えていたのです。
しかし頼朝の思惑は違いました。義経が集めた水軍は畿内の武士で、また鎌倉武士団ではありません。ここで水軍が活躍しすぎると、鎌倉武士団でない者が評価され、範頼や主力軍の顔も立たなくなります。
つまり義経の速攻は源氏のためでも、頼朝にとっては都合の悪い勝ち方でした。それでも義経は許可を得ずに動きます。屋島の戦いで平家を破り、電撃的に功績を立ててしまうのです。
かっこいいけど、頼朝的には、え?何やっとんねん。
壇ノ浦で平家滅亡と、安徳天皇の入水
義経は屋島の勝利で勢力を膨張させ、さらに水軍を増やして平氏との海戦を可能にしていきます。頼朝の指示を仰げば往復に1カ月以上かかるため、一気に畳みかけて勝つ方が源氏のためになると考えたのです。
頼朝としては、範頼や鎌倉軍の顔が立たず、鎌倉武士団でない水軍が活躍しすぎるやり方は困りものでした。それでも義経は許可を得ず、平氏最後の拠点である長門国の彦島へ向かいます。こうして関門海峡の壇ノ浦で両軍が対峙します。
源氏の船は840艘、平氏は540艘でした。勝因にはいくつか説があります。単純に兵力が勝っていた説、潮の流れが良かった説、非戦闘員である船のこぎ手を殺害したから勝てた説などです。
いずれにせよ源氏が勝ち、敗北を悟った平氏の一門は次々と入水していきます。多くが死ぬか捕らえられ、ついに平氏はここで滅亡しました。
諸行無常の響きありですよね。
このとき安徳天皇が入水し、命を落とします。しかも三種の神器のうち草薙の剣と勾玉を持って入水しました。勾玉は回収されたものの、草薙の剣は海の底に沈んでしまいます。
頼朝にとって、安徳天皇と三種の神器の確保がミッションでした。それが果たせず、しかも鎌倉武士団に功績を立てさせず範頼らの顔も潰した勝ち方だったため、手放しでは喜べない結末になります。
一方で後白河法皇の視点では、これは勝利でした。平氏を滅ぼし、自分と後鳥羽天皇の正当性が確立されたからです。この確執が、次回描かれる頼朝と義経の対立へとつながっていきます。
楊さんと深井さんは、清盛の死から壇ノ浦までの一連の戦いが、5年間続いた治承・寿永の乱 ── 1180年から1185年にかけて続いた、平氏・源氏・木曽義仲らが争った内乱の総称。この回で描かれた一連の戦いをまとめた呼び名ですと呼ばれるものだと確認して回を締めます。
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まとめ
この回は、清盛の死をきっかけに平家が急速に傾き、木曽義仲・義経・頼朝の三者が政治力の有無で明暗を分けていく過程を描きました。戦の強さだけでは京都で生き残れないという構図が、義仲の最期と義経の独断に色濃く表れています。
- 平清盛の死後、平家は和平ではなく戦い続ける路線に進み、宗盛の政権返上も効果を持たなかった
- 木曽義仲は戦闘力に優れたが、北陸宮擁立や東大将軍の名乗りなど政治的な失策で人心を失い、粟津で討たれた
- 頼朝は鎌倉から後白河と密かにやりとりし、根回しと政治力で勲功第一に選ばれ、源氏の頭領へと抜け出した
- 頼朝の最大のミッションは安徳天皇と三種の神器の確保であり、鎌倉武士団に功績を立てさせる配置にこだわっていた
- 壇ノ浦で平家は滅亡したが、安徳天皇の入水と草薙の剣の喪失、義経の独断が、頼朝と義経の決裂へつながっていく







